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終わらない夏。

それはセカンドインパクトの影響で地軸がずれてしまった為に発生した、日本特有の現象だった。

サードインパクトにより地軸が元に戻った今、日本でも夏は永遠の季節でなくなり、四季の彩りを楽しむことが出来たが、それでもほとんどの日本人にとって、夏は長年慣れ親しんだ最も感慨深い季節だった。

 

灼熱の太陽が照りつける雲一つない晴れ渡った真夏の青空に、一組のカップルの声が響き渡る。

「トウジ〜!早く!早く!間に合わなくなっちゃうわよ!」

「はぁ…。はぁ…。ま…待ちいな、ヒカリィ〜!!ワイがまだ全力疾走できないのは知ってるやろ!?」

「あっ…ごめん。」

ヒカリが慌てて立ち止まると、トウジは中腰になってゼイゼイ息咳しはじめた。

この時、ヒカリは白の清楚な雰囲気のドレスに身を包んでいる。

トウジもなぜかあまり彼には似合わない礼服を着用していた。

トウジの襟元をじっと見たヒカリは

「ほら、トウジ…。ネクタイ曲がっているわよ。それとこういう時はワイシャツはちゃんと第一ボタンまで止めるものなの…。」

ヒカリがトウジの白のネクタイをかいがいしく直す。

「ほんま、息苦しくてかなわんわ…。このカッコウは……。」

トウジは世話をやくヒカリにぼやいて、軽く天を仰いだ。

 

しばらくして、ようやく呼吸の落ち着いたトウジは

「それにしてもあいつら思い切ったコトしおったな。つい二月ほど前まで、もう一生逢わない…って揉めとったというのに…。」

「本当よね。今では、一時期あの二人が心の底から憎しみ合っていたというのが嘘みたいね。」

トウジは、わざとおちゃらけた表情をすると

「まっ…しゃぁ〜ないわな。出来てもうたんやから…。」

「それはあくまで結果よ、トウジ…。まず、お互いに心が通じ合って、その後、たまたま結果としてそうなっただけの話しなのよ。」

「ふ〜ん。ほんまかいな?」

ヒカリはやや小声で

「アスカ達に先越されちゃったわね、トウジ…」

「んっ?何か言ったか、ヒカリ?」

「な…なんでもない!!」

ヒカリは真っ赤になりながら大声で否定した。

「そうか、そんじゃそろそろ行くとするか…。」

特にヒカリの様子を気にすることなく歩き始めたトウジに

「まったく…、相変わらず鈍感なんだから…。」

ヒカリは軽く溜息を吐いた後、ハンドバッグを開いて招待状と一緒に同封されたいた、天使の絵が描かれたカードを取り出すと

『本当におめでとう、アスカ。』

ヒカリは心から自分の親友を祝福した。

 

 

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 ☆                               ☆
 ☆                               ☆
 ☆  結婚しました           
 ☆                               ☆
 ☆                               ☆
 ☆                               ☆
 ☆                碇シンジ           ☆
 ☆                               ☆
 ☆                惣流・アスカ・ラングレー   ☆
 ☆                               ☆
 ☆                               ☆
 ☆                               ☆
 ☆  これからも末永くよろしくお願いします。          ☆
 ☆                               ☆
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「二人の補完」

 

 

  最終話 「希望」

 

 

 

ベルリン国際空港。

「変ねぇ…。何時まで待ってもアスカは出てこないわね。確かにこの便で良かったはずよね?」

アスカが搭乗予定の便は二時間前に空港に着陸しており、出国手続きを済ませたほとんどの乗客が空港を後にしたが、その中にアスカの姿はなかった。

その事をサエコが不審に思っていると、突然アナウンスが響いた。

 

『サエコ・ブッフバルト様。サエコ・ブッフバルト様。日本の惣流・アスカ・ラングレー様より、国際電話が入っています。至急インフォーメーション・カウンターの方までお越しください。繰り返し…………』

 

「国際電話?アスカはまだ日本にいるの?一体どういうことかしら?」

サエコは首を傾げながらも、カウンターに出向いて受話器を受け取ると、

「はい、サエコです。」

「………………………………………………………………。」

「ねぇ、アスカ。一体、何があったの?今、あなたはまだ日本にいるの?」

「……………………………………………………。」

サエコは尋ねたが返事はない。

「ちょっと、アスカ…………………」

「………………んっ…ひく…。ううっ…………。」

突然受話器からすすり泣くような声が聞こえてきた。

「ア…アスカ。あなた泣いてるの?」

「うっ…ひくっ…ううっ……ママァ〜!!」

「ちょ…ちょっと、落ち着きなさい、アスカ。一体何があったのよ?あなたはまだ日本にいるの?」

「あたし……あたしぃ………。」

グジグジと鼻を擦る音が聞こえてくる。

「ねぇ、アスカ、何があったのか、ゆっくりと話してくれる?」

サエコはアスカを落ち着かせるように優しい声でアスカに問い掛ける。

「う…うん。」

サエコの声を聞いてアスカの声が少しずつ落ち着きを取り戻してきた。

 

「で…でね…。シ…シンジが、……あたしを……愛してるって…言って、空港まで来て……あたしを引き留めてくれたの…。あたしのことずっと必要だって……。だ…だから、あたし………うっ…ぐすっ…ううぅ……。」

再びアスカのトーンに泣き声が混じりだす。

『………………………………………。』

サエコは、アスカの単語の端々を繋ぎあわせて、何とか状況を理解すると

「おめでとう、アスカ。」

「マ…ママァ……。」

「シンジ君から告白されたんでしょう?良かったわね、アスカ。」

「う…うん。マ…ママ、あたし……」

「言わなくても分かっているわよ。私は全然かまわないから、自分の納得のいくようにやりなさい。その為にあなたを日本へ送り出したのだから…。」

「ママ…ごめんな……」

「違うでしょ、アスカ。こういう時にいう言葉は……」

「うん、ありがとう。ママ…。」

アスカは精一杯の気持ちを込めて、自分の本当の母親に感謝の言葉を述べた。

 

「ねぇ、ママ…。」

「なあに、アスカ?」

「あたし、………ってくるから…。」

「えっ!?」

「あたし、必ずママのところに帰ってくるから!」

「アスカ…。」

 

シンジと一緒に……。

 

 

 

 

 

 

「ねぇ、シンジ…。ちょっと、聞いてくれる?」

「なんだい、アスカ?」

今、アスカはシンジのマンションに戻ってきている。

学校も今日から夏休みに入ったところだ。

アスカは頬を真っ赤に染めてモジモジしはじめると

「そ…その…、出来ちゃったみたいなの………。」

「えっ、何が?」

「こども…………。」

「あっ、そう。子供ね……………………………………………………………………………………………………………………えぇっ〜!!?」

アスカは頬を染めて俯いている。

「ア…アス……アス………アス…………」

「病院で調べたら、今、ちょうど二ヶ月目だって…。」

「で…出来たって…、そ…その……さ…最初の一回で……。」

「う…うん。」

『………………………………………。』

やや放心したシンジの表情を見てアスカは慌てて

「そ…その、本当にシンジの子よ…。あ…あたし、シンジ以外とはアレはおろか…キスだってしたことないんだから…。危なくなったことはあったけど……。

アスカの声はだんだん消え入るように小さくなっていった…。

「ぼ…僕もファーストキスの相手はアスカだったよ。勿論、アスカ以外とは寝たことはないし……。」

「何か引っかかる言い方ね。」

「はははっ………。」

シンジは一瞬レイ・ミサト・マナのことを思い浮かべた後、胡散臭そうなアスカの視線を曖昧な笑顔で誤魔化した。

 

シンジはその事を突っ込まれるよりも早く

「そ…それで、アスカはどうしたいと思っているの?」

「…………………産みたいと思ってる。」

アスカは真剣な表情をすると、迷いのない口調で答えた。

「…………………………………………………。」

『まいったな…。いきなり、既成事実の方が先行してしまうなんて……。これから、ゆっくり時間を掛けてお互いの絆を深めていこうと思っていたのにな…。けど、気持ちの踏ん切りを付けるにはいい機会かも知れないな…。僕の場合、こういう背を押してくれる切っ掛けがないと、そのまま惰性に流されてしまいそうなところもあるしな。』

今回のアスカの告白はシンジにとってまったくの不意打ちと言ってよく、気持ちの整理はほとんど出来ていなかったが、自分をじっと見詰めるアスカの不安そうな表情を見て、シンジは得意の『逃げちゃ駄目だ。』を心の中で連呼して、少しずつ気持ちを落ち着かせると

「ね…ねぇ、アスカ…。」

「なあに、シンジ…。」

アスカの蒼い瞳には、不安と同時に若干の期待が入り混じっていた。

「そ……その……、僕はまだ未成年だし、アスカを支えられるような生活力もないから、今すぐとは言えないけど…………そ…その…………」

「……………………………………………。」

「けっ…結婚を前提として、つ…付き合ってもらえないかな、アスカ?」

シンジはシドロモドロになり何度も口篭もりながらも、何とかアスカから視線を逸らさずに最後まで言い切った。

 

「シ…シンジ。それって……。」

「プ…プロポーズの予約のつもりなんだけど、だ…駄目かな?」

シンジは不安そうな目でアスカを見る。

アスカは瞳を潤ませながら

「シンジィ。本当にあたしなんかでいいの?」

「アスカでないと駄目なんだ…。」

「あたし料理とか苦手だよ。」

「僕が得意だから平気だよ。」

「あたし、本当に素直じゃないよ。」

「知ってるよ。アスカのそういうところも僕は大好きなんだ。」

「シンジ、あたし……」

アスカがまた何か言いかけた時、シンジは黙ってアスカを引き寄せると

「何も言わなくていいよ。僕はアスカの総てを知った上で、アスカを求めているんだから……。」

シンジはアスカの耳元で優しく囁きながら、強くアスカを抱きしめる。

「シンジィ…。嬉しい……。」

アスカの両腕もシンジの背中にまわされる。

やがて、二人の唇が重なった。

 

 

「ねぇ、シンジ………。」

やや名残惜しそうに唇を離したアスカは、蒼い瞳に真摯な光を称えてシンジを見詰め、そのアスカの表情にシンジも若干緊張する。

「な…なんだい、アスカ?」

「一つシンジに頼みたいことがあるんだけど、聞いてくれる?」

「べ…別にいいけど、何を?」

アスカは一瞬躊躇った後

「シンジ、あたしと一緒にドイツへ来てくれない?」

「!?」

シンジはアスカの言った言葉の意味を吟味する。

『そういえば、アスカはドイツのMAGI管理責任者の候補生だったんだよな。ということは、いずれはドイツへ帰国して、委員会の支部で仕事をすることになるわけか。』

そのことに思い当たったシンジは、少し思案した後、

「そうだね。じゃあ、高校を卒業してから、真面目に考えて……」

「出来れば今すぐ来て欲しいの!」

「えっ!?」

後、半年で卒業するというのに、アスカの提案はいくらなんでも性急すぎる。そう思ったシンジは、

「な…何も子供のことがあるからって、そこまで焦らなく…………………」

シンジは悲壮なまでのアスカの真剣な表情を見て、その先の言葉を飲み込むと

「アスカ。もしかして何か特別な訳でもあるの?」

そのシンジの言葉にアスカはコクリと肯くと

「実はドイツにはあたしのママがいるの。」

「ママ?」

「うん。もちろんママと言っても、直接血が繋がっているわけじゃない。けど、あたしは今ではあの人を本当の母親だと心から思っている。」

「……………………………………………………。」

「サエコ・ブッフバルトと言って、現在のMAGIドイツタイプの管理責任者で、あたしの法的な保護者なの。一度どん底まで落ち込んだあたしがもう一度立ち直ることが出来たのは、本当にその人のおかげなんだ。」

『MAGIの管理責任者でアスカの法的な保護者?なんかマヤさんと立場が似ているな。』

そのサエコの肩書きに、何となくシンジが親近感を感じていると

「けど、ママには時間がないの…。」

アスカは瞳を潤ませると、辛そうに顔を背ける。

「時間がない?」

「ママの身体は病に犯されていて、早ければ後、半年も持たない生命なの…。だから、あたしは一日でも多くママの側にいてあげたいの…。それしか、あたしがママに出来ることは何もないから…。」

「アスカ……。」

「ねぇ、シンジ。一緒に来てよ。ママは本当にあたしのことを心配しているの。だから、あたしの隣にはシンジがいることを見せてママを安心させてあげたいんだ。」

「………………………………………………………。」

アスカはシンジの襟首を掴んで必死にシンジに取り縋ったが、さすがにシンジは即答しあぐねた。今日一日であまりにも事態が進みすぎて、気持ちの整理の方がまったく追いつかなかったからだ。

アスカは突然何か思い付いたように

「そうだ。シンジは将来カウンセラーになりたいんだったよね?」

「う…うん。そうだけど……。」

「だったら、ちょうどいいわ。あたしに心当たりがあるんだ…。」

「心当たり!?」

アスカはコクリと肯くと

「うん。実はママの亡くなった夫のリヒャルドさんも、ドイツではけっこう著名なカウンセラーだったのよ。そのリヒャルドさんが卒業したベルリン大学の心理学部は世界でも有数の心理学の権威として知られているみたいなんだ。向こうは九月から新学期が始まるから、本格的にカウンセラーの勉強をするにはちょうどいい時期だと思うんだけど。」

「それって、ドイツへ留学するってこと?」

「そうよ、シンジは成績も出席も内申も抜群に良いから、留学を前提にすれば飛び級のない日本でも半年ぐらいの前倒しは十分出来るはずよ。そうすれば本当に一石二鳥じゃない。そう思わない、シンジ!?」

アスカは天啓のような自分の思い付きに、興奮した表情でシンジの襟首を揺すりながら問い掛ける。

「ア…アスカ…。そうは言っても、そう簡単には…」

シンジはやや曖昧に言葉を濁す。

確かに、飛び級に飛び級を重ねて十四歳で大学を卒業したアスカには、義務教育の半年の前倒しなど大した問題ではないのかもしれない。

だが、シンジにはそれ以外にも、委員会の大人達、学校の級友、バイト先の仲間、そして三春学園の子供たちなど、この三年間で培ってきたシンジなりの交友関係がこの第三新東京都市に存在しており、それらを無視して自分一人の勝手な判断で、おいそれとこの町を離れることは出来なかった。

 

もともと明敏なアスカは、歯切れの悪いシンジの態度からその事に気づくと

「ごめん、シンジ…。今の理論はちょっと強引だったよね。ママのことが絡んでいたから…つい……。」

申し訳なさそうに項垂れたアスカの様子を見て、シンジは慌てて

「い…いや、別にアスカが悪いわけじゃないよ。ただ、さすがに即答しかねただけで……。」

「………………………………………………。」

「ねぇ、アスカ。本当に申し訳ないんだけど、もう少し考えさせてくれないかな?」

「うん。けど、あたしは近いうち一人でも必ずドイツのママの元へ帰らないといけないから…。」

アスカは寂しそうに笑いながら、そう応えた。

 

 

 

 

午前二時。

シンジはなぜか目が冴えて眠れない。

隣にはアスカが軽い寝息の音を立てて、シンジに縋り付くように寝込んでいる。

「僕が父親になるのか…。」

シンジの脳裏に、ゲンドウに捨てられたと思い込んで駅のホームで泣いていた、幼い頃の自分がフラッシュバックする。

その時、隣にいたアスカが僅かに身じろぎした。

「ママ……。」

アスカの形の良い唇から寝言が漏れる。

「ママか……。」

シンジは複雑な感情が入り混じった目でアスカを見る。

「確かサエコさんだっけ。一体どんな女性なんだろう…。あの誰にも心を開かなかったアスカにこれほど信頼されるなんて…。」

シンジは若干そのことに嫉妬しながらも

「逃げるわけにはいかないよな。」

シンジは三年前の自分達の姿を思い浮かべる。

ヒトはまず他者から愛されることによってはじめて自分を認めることができ、自分で自分を肯定できるようになって、はじめて他人を愛することが出来る。

その例外はほとんど有り得ない。

シンジもアスカも幼少の頃、本来なら無条件に与えられるはずだった親の愛情をまったく知らずに育ったため、人一倍他者の愛情に飢えながらも、他人の愛情に懐疑的になり、エヴァに縋らなければ生きていけないような歪んだ人格を形成せざる得なかったのだ。

シンジは軽くアスカの身体を自分の胸元に抱き寄せる。

暖かくてやわらかい心地よい感触がシンジを捕らえ、規則正しい心臓の鼓動が聞こえてくる。

「このアスカの身体の中に、僕とアスカの子供が宿っているのか…。」

一瞬、シンジの中に父親になることへの戸惑いと恐怖心が芽生えたが、アスカの子供のように安らかな寝顔を見て、シンジは力ずくでその感情をねじ伏せた。

シンジはまるでお腹の中にいる子供ごと包み込むように、強くアスカを抱きしめると

「守らなくっちゃ…。」

迷いのない瞳で自分自身に誓約した。

 

 

 

 

翌朝の朝食の席上。

「ねぇ、アスカ。昨日の話しなんだけど…。」

「…………………………………………………………………。」

アスカはパンにジャムを塗りながら黙ってシンジの言葉を待ち受けている。

「僕は良いよ。アスカの行くところならどこへでもついていくよ。」

そのシンジの言葉にアスカはパッと表情を輝かせると

「シンジ、本当にいいの?」

「うん。今の僕にはアスカより優先することは何もないからね。」

「シンジィ……。」

アスカは瞳をやや潤ませる。

「けど……。」

「なあに、シンジ?」

「その前に皆に事情を説明しないといけないよね……。」

「そ…そうね。」

シンジは軽く腕を組むと

「まずは僕の法的な保護者であるマヤさんに話しを通さないと…。」

マヤという単語にアスカはビクッと緊張する。

「どうしたの、アスカ?」

「…………………………………………………。」

急に顔を強張らせたアスカをシンジは不思議そう目で見たが、アスカは無言のままだった。

 

 

 

 

それから三日後。

「お久しぶりです、マヤさん。」

マヤのマンションを尋ねたシンジは丁重に頭を下げる。

「本当に久しぶりね、シンジ君。最近仕事が忙しかったからご無沙汰していたわよね。」

マヤは本当に嬉しそうな笑顔でシンジを出迎えたが、シンジの隣にアスカがいるのに気づくと

「あら、あなたまだ日本にいたの?」

まるで邪魔者でも見るような目でアスカを見る。

「…………………………………………………。」

マヤは、全てを諦めてドイツへ戻ったはずのアスカが、なぜここにいるのか疑問に思いながらも、

「まあ、とりあえず、上がってちょうだい。すぐにお茶を入れるから。」

と笑顔で二人を部屋の中へ招き入れた。

 

 

シンジとアスカは並んでリビングのソファに腰を落ち着ける。

マヤはお茶とお茶菓子をテーブルの上に並べると、向かいの席に腰を下ろした。

「それで、話しって何かしら、シンジ君?」

「…………………………………………………。」

そのマヤの言葉にシンジとアスカは顔を見合わせて、無言のままアイコンタクトを重ねる。

その二人の様子に、マヤは何となくムッとする。

やがてアスカが視線でシンジを促したので、シンジはやや躊躇った後、

「マヤさん。これからアスカと結婚を前提として、付き合いたいと思っています。」

迷いのない口調で、いきなり大上段から話しを切り出した。

「へっ!?」

そのシンジの言葉にマヤはポカンと大口を開ける。

『ちょ…ちょっと、結婚を前提って一体どうなっているの?アスカはもう二度とシンジ君には会わないはずじゃなかったの?なんでいきなりこんなところまで話しが進んでいるのよ!?』

委員会での経緯から、アスカはもう完全にシンジを諦めたとマヤはタカを括っていたので、すでにアスカを警戒しておらず、マークを外していた。

だが、それは間違いではなかったのか…。

アスカが日本を離れるまで、最後までしっかりと二人の関係に目を光らせておくべきではなかったのか…。

マヤは自分の見通しが甘かったことに気付かされ、そのコトを後悔しはじめる。

すでに完全に手遅れではあったが…。

 

それからシンジは、アスカと一緒にドイツへ行きたい旨をマヤに告げはじめる。

それを聞いたマヤは、敵意を篭めてアスカを睨んだ。

マヤの刺のある視線にアスカは一瞬顔を背けかけたが、やや怯みながらも正面からマヤの視線を受け止めた。

『ふ〜ん。』

そのアスカの態度にマヤはほんの少しだけ感心してみせた。

マヤは内心の穏やかならざる心境を抑えながら、何とか外面は笑顔を取り繕うと

「ちょ…ちょっと、シンジ君。どうしていきなりそんなことを言い出したのかな?あなた達はまだ未成年だからそういう話しは少し早いんじゃないかしら?それにあと半年で高校を卒業するというこの時期に日本を離れるというのも理解できないし。」

シンジは若干頬を赤く染めながら

「じ…実はアスカのお腹の中には僕の子供がいます。」

『!?』

そのシンジの言葉にマヤはハンマーで頭を殴られたようなショックを受けた。

アスカも頬を真っ赤に染めて俯いている。

「ぬ…ぬわんですってぇ〜!?」

『ちょ…ちょっと、こ…子供って……何なのよ!? それって………やっぱり………$#&?##$$%?………………ふっ…不潔だわあぁぁぁ!!!』

未だ潔癖症のマヤの思考は、シンジから突きつけられた二人の大人の関係を示唆した言葉にパニックを起こしかけたが、何とか四捨五入して状況を整理すると

「そう!そういうことなのね、アスカ!」

マヤはターゲットをアスカ一人に定め、黒い瞳に露骨な嫌悪を篭めてアスカを睨んだ。

「…………………………………………………。」

「本当にとんでもない娘ね!今度は子供をダシにしてシンジ君を縛ろうと………」

「マヤさん!!」

マヤがさらにアスカを罵ろうとした瞬間、シンジが大声を上げ、マヤはビクッとする。

「シ…シンジ君?」

「もう、これ以上アスカを侮辱しないで下さい!お願いします!」

「は…はい。」

シンジは黒い瞳に威圧感を込めてマヤを一睨みし、マヤは反射的にコクコクと肯いた。

 

シンジはすぐにいつもの穏やかな表情に戻ると

「……というわけで僕とアスカの仲を認めてもらえると嬉しいのですけど。」

『…………………………………………………………………………………………!?』

マヤは一瞬シンジの迫力に飲み込まれかけたが、ハッと気がつくと

「駄目だったら駄目よ!絶対に駄目!シンジ君。私はあなたの保護者としてアスカだけは絶対に認めないわ!」

「マヤさん…。」

マヤは真摯な瞳で正面からシンジを見詰めると

「ねぇ、シンジ君。私は決して意地悪して言っているわけじゃないのよ。私はあなたが誰と付き合おうと文句を付けるつもりはないわ。けど、アスカだけは絶対に止めて欲しいの。理由は言わなくても分かっているわよね?」

「……………………………………………………………。」

「シンジ君。三年前あなたとアスカの間にどんな悲劇があったかもう忘れたわけじゃないでしょう?」

「…………はい。」

「だったら分かっているでしょう?うまくいくはずがないのよ。たとえお互いに愛していると思っていても、最終的にはあなた達はお互いを傷付け合うコトしか出来なかったのだから。これから一緒になっても同じことよ。いつかきっと最悪の破局があなた達を待っているだけよ。」

「………それはちょっと乱暴な理論じゃないですか、マヤさん?」

「そんなことはないわ!どうしてうまくやっていけると思うのよ!?あなた達ほど本気で憎み合い、傷付け合い、心を壊し合い、お互いの醜い感情を余すことなく見せ合って、行き着くところまで行きついた男女の一組が他にあったと思うの?」

「………………………………………………………。」

「悪いことは言わないから他の相手を探しなさい。それがあなた達自身のためよ。あなた達は絶対に一緒になってはいけないのよ。あなた達ほど、特別に恋愛の女神から嫌われたカップルの一組は他に存在しないのだから……。」

 

シンジはここまで黙ってマヤの話しを聞いていたが、やや自嘲するような表情をすると

「そうですね。マヤさんの言っていることも一理ありますね。確かに僕たちは、お互いを無垢だと信じていた、何も知らなかったあの頃にはもう戻れない。お互いを偽って生活していくには、僕もアスカも少し相手の醜い本性を知りすぎてしまいましたから…。」

「そうでしょう。だから……」

「けど、だからってその事が必ず僕たちが一緒になることに不利に働くとは限らないと思います。気持ちの持ちよう次第では、これから一緒に生きていく上でこれ以上ない武器になると僕は思うのですけど。」

「えっ!?」

「ほら、恋人の間はうまくいっても、結婚してから今まで隠してきたお互いの欠点ばかりが目に付いて、それで駄目になってしまう夫婦の話しを良く聞きますよね?けど、僕とアスカにはそれは絶対に当てはまらないんですよ…。僕の言っている意味が分かりますか、マヤさん?」

シンジは表情を引き締め直して、正面からマヤの瞳を見つめると

「確かに三年前は僕もアスカも、お互いに相手に手前勝手な幻想を重ねて生きてきました。もしかしたら自分を肯定出来なかった弱い自分を、相手が助けてくれるんじゃないかってね。それがお互いの重荷になっていたと思いますし、何よりその勝手な幻想を粉々に壊されて、自分の相手への想いを裏切られたと錯覚したからこそ、僕とアスカは三年前あんなに歪んでしまったんだと思います。」

「……………………………………………………………。」

「けど、マヤさん。今では僕もアスカも、もうお互いに何の幻想も抱いてはいないのですよ。」

シンジはチラリと隣にいるアスカを見た後、

「アスカは、僕がアスカの目の前で自慰をしたり、逆上して首を絞めてしまうようなそんな情けない男だと知った上で、それでも僕の側にいたいと言ってくれたんです。僕もアスカという女性に対してもうこれっぽちも幻想を抱いていません。抱きたくたって抱きようがないじゃないですか。さすがにアレを見せられてしまったら…。」

そう言ってシンジは笑った。

あえて、三年前のアスカの復讐を些細なコトだとでも言いたげにシンジは笑い飛ばしたのだ。

「シ…シンジ君。」

「僕とアスカの二人は、お互いの弱さや欠点や醜い感情も含めた相手の有りのままの姿を全て認め合った上で、それでも一緒に生きていこう…と決意したんです。確かにこれからも僕たちはお互いを傷つけ合って生きていくことになるでしょうね。けど、それは傷付け合う現実の世界で分かり合えない他人と共存して生きていく以上、本当に当たり前のことじゃないですか?それでもやっぱりマヤさんは僕たちが不幸になるしかないと思いますか?」

 

『………………………………………………………………。』

マヤは心底驚愕した表情でシンジを見る。

まだ、自分の手の内にいる半人前の子供だと思っていたシンジが、何時の間にかもうマヤの手助けを必要としない一人前の大人の男性に成長していたという現実を思い知らされたからである。

なにより、今マヤの心の内を占めているのは喩ようのない敗北感だった。

マヤは三年前の経緯から、二人が一緒になれば必ず不幸になると確信していたのだが、そのマヤの理論をむしろシンジは逆手に取って、二人がこの先うまくやっていける最大の根拠としてしまったのだ。

少なくともマヤは咄嗟にシンジの斬新な理論に、正面から反論することは出来なかった。

 

マヤは心の内から湧き出てくるある種の感情を、何とか力ずくでねじ伏せると

「シ…シンジ君。あなたの気持ちは良く分かったわ。けど、私はあなたの法的な保護者よ。あなたはすでに前月で十八歳に達しているけど、この国では二十歳になるまでは、保護者の承諾なしでは結婚出来ないのよ。私が頑なにアスカとの仲を認めないと言ったらどうするつもりなの?」

その、マヤの質問にシンジは穏やかな表情で

「もちろん、二十歳になるまで待つつもりです。さすがに僕たちもまだ結婚するには少し時期が早いと考えていますから。ただ、子供のこともあるし、何よりマヤさんに僕たちの仲を祝福して欲しかったのですけど……。」

『!?』

そのシンジの言葉にマヤはダンッ!!と机を叩くと、

「ふざけたこと言わないでよ!どうして、祝福出来るのよ!?その娘は私の可愛い弟であるあなたを殺しかけたのよ!たとえシンジ君が許せても私は絶対にその娘を許せない!そう、何があっても私は絶対にアスカだけはあなたの相手として認めない!」

『祝福して欲しい』というその一言がマヤの逆鱗に触れ、マヤは心の内に隠していたアスカに対する負の感情を爆発させ、その迫力にアスカはビクッとする。

「………………………………………………。」

シンジは滅多に見られらないマヤの激昂した態度にも、なぜか冷静なスタイルを崩さなかった。

「だから私は……」

「だから、アスカをドイツへ強制送還したり、日本へ戻ってきたアスカに色々嫌がらせをしていたわけですか?」

「えっ!?」

そのシンジの一言にマヤは心臓を槍で貫かれたようなショックを受け、舌を停止させた。

『な…何!?今、シンジ君は一体何ていったの!?』

先程までマヤの中に込み上がっていた、溶岩のように熱く煮えたぎった想いが、急速に冷え切っていく。

「………つい最近まで僕とアスカはお互いの辛い過去から逃げようとしていました。過去を振り返らずに今を維持しようとしたから、あんな詰まらない子供の悪戯程度で、一度簡単に関係を壊されてしまったんです。」

「………………………………………………………………。」

「だから、あれから逃げないでアスカと腹を割ってこの三年間のお互いの情報交換をしたんです。そしたら、どうやらマヤさんが故意に僕とアスカをすれ違わせていたらしいことに、はじめて気付いたんです。」

そう呟いた時のシンジの黒い瞳には、若干ながらマヤに対する嫌悪感が宿っていた。

 

 

 

「ちょっと、シンジ。それは本当なの!?」

「う…うん。マヤさんは僕にそう言っていた。それよりアスカも……。」

「ええ。マヤからそう伝えられたわ。」

話し合ってみるとシンジとアスカが三年前に得たお互いに対する情報は完全に矛盾していた。

さらに、その情報の源は実はマヤ一人だけだったことに、はじめて二人は気がついた。

アスカはやや呆れたような面持ちで

「やっぱり、あの女が全て裏で糸を引いていたわけね。それにしてもここまで念入りにやるとは、やっぱりマヤはとんでもない策士よね。」

「………………………………………………………………。」

シンジは未だ信じられないような表情をしている。

マヤの裏の顔を知らないシンジにとって、マヤは明るくて優しい良き姉であり、理解力と包容力を兼ね揃えた理想の保護者だったからだ。

だが、それから更に情報交換を行うにつれ、次々にマヤが影でしていたことが明らかになり、シンジもマヤが裏でアスカにしていたことを首肯せざる得なくなった。

「マ…マヤさん!」

シンジは、自分の保護者のアスカに対する冷酷な仕打ちに、怒りに激しく肩を震わせた。

 

 

 

「………………………………………………………………………。」

そのシンジの告白を聞いて、マヤは半死人のように顔を青ざめはじめた。

『シンジ君に私が裏でしていたことを全て知られてしまった…。』

それしかマヤは考えることは出来なかった。

アスカとマヤ。

何時の間にか断罪する側とされる側の立場が逆転しようとしている。

マヤとしては全てシンジの為を思ってやったつもりだが、あそこまでアスカと心が通じ合えた今のシンジがそれを許容出来るとは到底思えない。

最悪の場合、自分はシンジに対する接点の全てを永遠に失うことになるだろう。

それはマヤにとって悪夢以外の何物でもなかった。

マヤは、子供の成長を期待する母親のように、シンジの成長を見守ることを何事にも換えれない密やかな楽しみにしていたからだ。

“因果応報”という言葉がマヤの頭の中をちらついた。

かつて三年前、自分がアスカからシンジを無理矢理引き離したように、今度は自分がシンジを永遠に失うことになるのだろうか。

「シ…シンジ君…。」

マヤは恐る恐るシンジを見上げながら、自分を罵るシンジの言葉を待ち受けた。

 

シンジは冷たい視線でマヤを睨んでいたが、軽く溜息を吐いて表情を落ち着けると

「もう二度とこれ以上アスカを傷つけたりしないで下さいね。お願いします、マヤさん。」

そう言ってシンジは軽くマヤに頭を下げた。

「えっ!?」

予想とまったく逆のシンジの態度に、マヤは驚いた表情をして

「シ……シンジ君。そ…その…、私を蔑まないの?あれほどアスカを傷つけた私を…。」

「確かに最初にマヤさんのアスカに対する仕打ちを聞いた時は、本気でマヤさんに怒りを感じました。けど、そんな僕の態度をアスカが窘めてくれたんです。」

「ア…アスカが!?」

マヤは今度こそ心底驚いた表情でアスカを見る。

アスカは別段勝ち誇るでもなく、無表情のままマヤの視線を受け流した。

 

 

 

「ちょっと、シンジ。こんな時間にどこへ行くのよ!?」

「決まってるだろう!マヤさんのところだよ!」

シンジは完全に逆上した表情で

「いくらマヤさんだからってアスカにあんな酷いことをするなんて絶対に許せない!事と次第によっては縁を切ってくる!」

「………………………………………………………。」

アスカは蒼い瞳に思慮深い光を称えてシンジを見詰めていたが、突然シンジの肩を掴むと

「待ちなさいよ、シンジ。あんたがマヤに対して文句を言うのは筋違いよ。」

「えっ!?」

シンジは自分を引き留めたアスカを意外そうな顔で見る。

「シンジ。あんたはあたしと違ってマヤに大切に可愛がられていたはずよ。だからあんたがマヤに対して文句を言う筋合いはないわ。マヤを責める資格があるのはあたしだけよ。」

「じゃ…じゃあ、アスカはマヤさんを許せるの!?あれほどアスカに酷いことをしたマヤさんを!?」

「そうね、確かにマヤのしたことは許せない。けど、それを言うならあたしも人のことは全然言えないからね。」

アスカはやや自嘲するような表情をすると

「シンジは三年前あたしがシンジにしたコトを感謝してる…って言ってくれたけど、あたしはアレが人から誉められるような行為だったとは絶対に思えない。あの時のあたしは、ただ自分より弱い存在に当たり散らして鬱憤を晴らしていただけだったから。そういう意味ではマヤの行為は偏執的だったけど、少なくともマヤ自身はシンジの為を思ってやっていたつもりだったと思うから。」

「……………………………………………………。」

「なにより憎しみは本当に何も生み出さないんだ。あたしは三年前にそのコトを嫌というほど思い知らされたの。三年前、シンジを壊して復讐を果たしたあたしに、結局何も残らなかった。虚しさが身体全体を覆って心が空っぽになっちゃっただけ…。」

「アスカ……。」

「だからシンジ。もうこんなことは終わりにしようよ…。憎しみ合っても、良いコトは何一つなかったんだから。三年前から続いているあの忌まわしい事件の楔を、今度こそあたし達の手で断ち切ろうよ…。」

アスカはシンジの手を強く握ると、真摯な表情で今の自分の想いをシンジに訴える。

『……………………………………………………………。』

そのアスカの気持ちに感化されるように、シンジの中に燻っていたマヤに対する怒りが少しずつ薄らいできた。

 

 

 

『う…嘘でしょう!?アスカが私を許してくれるというの!?あの自分一人のことしか考えられなかった我が侭な子供だった、あのアスカが……。』

マヤは口元を抑えながら信じられないモノでも見るような目でアスカを見詰める。

マヤの視線に気付いたアスカは

「勘違いしないでよ、マヤ。あたしは別にあんたを許したわけじゃないわ。けど、それでもたった一つだけあんたに感謝していることがあるんだ。それはあんたがあたしをドイツへ送還したから、あたしはママに出会えたこと。」

『ママ?もしかして、MAGIドイツタイプの管理責任者であるアスカの法的な保護者の女性のこと?』

「トータルで見れば、その一点だけでも、他にあんたがしたコトにお釣がくるくらい、ママとの出会いはあたしの人生にとって本当に重要なコトだったんだ。だから、あたしはもうあんたに何も言わない。」

『もっとも、それはあくまで結果論であって、マヤにそんなつもりはなかったでしょうけどね。』

アスカは心の内だけに、最後の一言を付け加えた。

「ア…アスカ…。」

 

マヤは再びシンジの方に向き直ると

「シンジ君。本当に私を許してくれるの?」

「はい、今では僕もアスカと同じ考えです。確かにマヤさんが僕の為にしたことは、ハッキリ言えば大きなお世話です。けど、どんな形でも自分達以外の外的な悪意で駄目になってしまうとしたら、それはやっぱり僕とアスカの関係は最初からその程度のモノでしかなかったんだと思います。それに……」

シンジは中性的な笑顔でマヤに向かって微笑むと

「マヤさん。僕は決して自分自身を過大評価していません。最近になってやっと気付いたんです。僕が躓きそうな時はいつも近くに必ずマヤさんがいてくれたことに。マヤさんはいつも僕のことを暖かく見守っていてくれたんですよね。少し前までは、そんなマヤさんの無言の好意に気がつかなくて、自分一人の力で僕は強くなれたんだ…なんて思い上がっていましたけど…。」

「シ…シンジ君。」

「この三年の間、本当に色々ありましたけど、僕がここまで強く成長出来たのは、本当にあなたのおかげです。ありがとうございます、姉さん。」

シンジは最高の笑顔でマヤに感謝の言葉を述べた。

 

「あ…ありがとう、シンジ君。」

シンジの想いに不覚にもマヤの涙腺が緩んだ。

次にマヤはアスカの方に向き直ると

「ごめんなさい、アスカ…。」

「えっ!?」

マヤの瞳からポタポタと涙が零れ落ちた。

今までアスカのことで抑え込んできたあらゆる感情が溢れ出てくる。

「本当にごめんなさい。分かっていたの。本当はアスカ一人が悪いわけじゃないって…アスカこそ三年前のあの忌まわしい戦いでズタズタに心を壊されてしまった一番の被害者だって分かっていたの。そう、本当に私が許せなかったのは自分なの。シンジ君が壊れるまで結局何も出来なかった自分自身なのよ…。」

「…………………………………………………………。」

「私はアスカが恐かったの。心を壊した頃の狂ったアスカは、まさしく子供を戦いの道具として利用した私たち大人が犯した罪そのものに思えてならなかった…。なのに私はそのコトを認めるのが恐かったから、あなた達の関係を手遅れになるまでずっと見て見ぬ振りをしてきたの。だから本当は私はアスカを憎むことで…シンジ君を救えなかった罪悪感をアスカに転嫁する事で、補償しようとしていただけだったのよ…。」

「マヤ……。」

「それにいくらかはアスカに対する嫉妬も混じっていたと思う…。最初はシンジ君のことは本当に見守り甲斐のある可愛い弟だと思っていた。けど、シンジ君の成長を追っているうちに、どんどん魅力的に成長していくシンジ君に惹き込まれていったの。なのにシンジ君は私を姉としか見てくれなくて、アスカのことしか見ていなかったから、それが悔しくてあんなことを……本当にごめんなさい。本当に悪かったのは私なのよ。私さえしっかりしていれば、三年前のあの悲劇は防げたはずだったのよ〜!うっ…ひくっ…ううっ……。」

マヤはアスカのことで抱え込んでいた葛藤の全てを曝け出して、幼児のように激しく泣きじゃくった。

『………………………………………………………………。』

シンジとアスカの二人は複雑な感情の入り混じった目で、黙って泣きじゃくるマヤを見下ろしている。

シンジを挟んで、長い間、拗れまくったマヤとアスカの二人も、今ようやくお互いに分かり合おうとしていた。

空港でのシンジとアスカがそうだったように、今回はじめてマヤとアスカも正面から本音で語り合うことに成功したからだ。

 

 

 





 

 

  

それから十数分後、

感情を落ち着け涙を拭ったマヤは、ようやく二人の仲を認めた。

だが、それは決して無条件のものではなく、この時はじめてマヤは年長者らしい意見を提出した。

「……………………というわけで、もうあなた達二人の仲を認めるのに異存はないわ。けど、どう考えても今から人生を決めてしまうのにはあなた達はまだ若すぎると思うのよ。」

「け…けど、マヤさん……。」

「子供のことが問題なの?だったら堕胎するという手もあるのよ。」

マヤの怜悧な科学者としての一面であろうか…。潔癖症の割には意外に無慈悲なことをマヤは言う。

そのマヤの言葉にアスカは顔を青ざめはじめる。

「冷酷に思えるかもしれないけど、まだ今のあなた達にとっては子供は早すぎると思うの。世の中、奇麗事だけでは済まないのよ。その歳で出産するとなると色々厳しいものがあるのよ。子供を作るのは、もっと精神的にも経済的にも、お互いに成熟した関係を築き上げてからでも決して遅くは…………」

「ダメェ〜!!」

アスカが大声で悲鳴を上げて、マヤのその先の言葉を打ち消した。

「ア…アスカ!?」

アスカは険しい表情で、自分自身を強く抱きしめる。まるで、自分のお腹の中にいる赤ん坊を守ろうとする意志表示のように…。

「イヤ…。絶対にイヤ…。」

アスカの蒼い瞳からポロポロと涙が零れ落ちる。

『アスカ、どうしてそこまで……。』

シンジも、自分自身のトラウマから、子供を捨てようというマヤの提案に反発を感じていたが、それでもアスカのこの過剰な反応はやや異常に思えた。

「出来ないよ…。赤ん坊を殺すなんて絶対に出来ないよぅ〜!」

「アスカ。確かに一見非情に思えるかも知れないけど、堕胎は世間一般の常識から見れば決して人道に外れる行為ではないのよ。それはそれで勇気のいる決断…………」

マヤはアスカを窘めるように声をかけたが、アスカは堕抱っこのように首をブンブン横に振ると

「あたし、そんなことしたら二度とママに顔を会わせられない!」

「ママ!?」

シンジはまたサエコの名前が出てきたことを訝しる。

アスカはグスグスと鼻を擦りながら、今まで誰にも語らなかったドイツでのサエコとの交流についてシンジとマヤに話しはじめた。

 

 

「…………でね、ママは子供を産めるのは女にとって本当に大切な権利だって、あたしに身体を張って教えてくれたの。ママは子供を産みたくたって産めないの…。だから…あたしは…絶対にこの子を胎ろすなんて出来ないの…。」

アスカはぐしぐし泣きながらも、最後までサエコとアスカが本当の母娘になるまでの絆を語り切った。

今、アスカが語ったコトは決して嘘ではないが、この時、実はアスカには心に秘めているもう一つの想いがあった。

アスカはサエコに残りの短い余生を充実して過ごしてもらうことを切に願っており、その為には自分のお腹にいる赤ん坊が絶対に必要だったからだ。

それは、今のアスカになら出来る…いや、今のアスカにしか出来ない、たった一つの冴えたやり方のはずだった。

 

「………………………………………………。」

シンジは無言のままアスカの話しに圧倒されたいた。

今なら、これほど子供に拘ったアスカの想いも、どん底に落ち込んでいたアスカを立ち直らせたサエコという女性のスケールの大きさも理解できる。

実は先程のマヤの提案に、シンジはほんの少しだが決意がぐらつきかけていたのだ。

恐らく心のどこかで未だに自分が父親になることに恐怖を感じていたのだろう。

だが、アスカのサエコに対する想い聞いて、迷いは全て消えた。

生涯アスカとお腹の中にいる子供に添い遂げよう。

たとえこの先どれほどの苦労が待っていたとしても…。

 

シンジは迷いのない瞳でマヤに向き直ると

「マヤさん。僕からもお願いします。アスカの出産を認めてあげてください。マヤさ………………………」

シンジは途中で言葉を飲み込んだ。

「うっ…ひっく…ひっく…ひっく……ううっう…………。」

マヤの黒い瞳からポタポタと涙が零れ落ちる。

「う…ひくっ…ううぅ…か……感動だわ…。ほ…本当に泣ける素晴らしいお話しだわ……。」

マヤは目頭を抑えながら何度も鳴咽を漏らした。

「マ…マヤ!?」

アスカはやや拍子抜けした表情で、ハンカチでチーンと鼻を噛むマヤの様子を見る。

マヤは完全に感動に泣き崩れていた。

元々マヤは、悲哀小説を読んだだけで涙を流してしまうような、乙女チックな感性の所有者である。

サエコの逸話はかなりマヤの壷にきたみたいだった。

 

突然マヤはアスカの両手を掴むと、濡れ細った顔でじっとアスカを見る。

「マ…マヤ!?」

「ねぇ、アスカ…。」

「な…なにかしら、マヤ?」

恐る恐るアスカはマヤに尋ねる。

マヤはにっこりと微笑むと

「是非一度あなたのお母さんに会わせていただけないかしら?」

「ええっ〜!?」

アスカとシンジは突然のマヤの提案に、お互いに戸惑った顔を見合わせる。

マヤは瞳に強い好奇心を称えてじっとアスカの顔を見詰めている。

どうやらマヤはサエコという女性に対して、かなり強い興味を抱き始めたみたいだった。

 

 

 

 

三日後、マヤはドイツへ出張した。

表向きは、ドイツで行われるMAGIの技術会議に参加するという委員会の仕事だが、目的は、シンジの法的な保護者として、アスカの法的な保護者であるサエコと、子供が出来てしまった今後の二人の身の振り方について、話し合う為だった。

 

それから、さらに一週間後。

日本へ帰国したマヤは真っ先にシンジのマンションを尋ねると

「シンジ君。アスカ。結婚式の準備を始めるわよ!」

「「へっ!?」」

シンジとアスカの二人はユニゾンして素っ頓狂な声を上げる。

「式は八月の下旬を予定しているから、あと一月もないわね。シンジ君の留学の準備も平行してやらないといけないから、二人ともこれから忙しくなるわよ。」

マヤは一人で張り切って、勝手に話しを進め始めた。

二人は一瞬マヤの勢いに飲み込まれかけたが、

「ちょ…ちょっと、マヤ。シンジの留学はともかく、結婚するのはまだ早すぎるって……」

「何言ってるのよ、アスカ!サエコさんには時間がないのよ。下手したら後数ヶ月でお亡くなりになるかもしれないのよ。サエコさんが生きているうちに、あなたの晴れ姿を見せてあげるのが娘であるあなたの責任でしょう!?」

すごい剣幕でマヤはアスカの言葉を封じ込めた。

マヤはアスカの両手を強く握ると、

「あなたのお母さんって本当に素晴らしい女性(ヒト)ね。科学者として、何より女として心から尊敬出来る大変素敵なお方だわ。あなたもそう思うでしょう、アスカ!?」

「マ…マヤ……。」

マヤの真摯な問いかけに、アスカはやや引き攣った笑顔でコクコクと肯いた。

そのアスカの態度にマヤは頬を上気させて満足そうに微笑んだ。

ドイツで何があったかは分からないが、どうやらマヤは完全なサエコのシンパになって戻ってきたみたいだ。

マヤはアスカから手を放すと

「勿論、事情を全て話した上で、サエコさんの了解は取ってあるから何の問題もないわ。式場の手配と留学の手続きは私も協力するから、サエコさんが来日するまでに全ての準備を整えておくのよ。いいわね、二人とも?」

「あ…あの、僕たちの意志は…」

「いいわね、二人とも!?」

「は…はい。」

有無を言わさないマヤの迫力に飲み込まれて二人は反射的に首肯した。

 

マヤは窓を開けてドイツの方角の空を見上げると

「サエコさん。(はぁと)」

切なそうな声でサエコの名前を囁いた。

 

「……………………………………………………………………………。」

シンジとアスカはお互いに、何とも言えないような表情を見合わせる。

なにはともあれ、マヤの尋常でない守備範囲の広さを改めて確認した思いだった。

 

 

 

 

 

それから、マヤの精力的な活動により、シンジとアスカの結婚式の準備(二人の意志をやや無視して)が急ぎ足で始められる。

と同時に平行して、シンジのドイツへの留学の準備も進められた。

委員会からの働き掛けもあり、シンジは第3新東京市立第壱高等学校の半年早い卒業を認定され、一足早く卒業証書が手渡されることになった。

ドイツのベルリン大学への留学手続きは現地のサエコも協力し、シンジの内申なら入学には特に問題はないという回答が送られてきた。

シンジがミサトから受け継いだマンションは売りに出されることになり、結婚式の費用と、シンジの大学の入学費と授業料に当てられることになる。

最初、シンジはミサトやアスカとの想い出の詰まったマンションを手放すことに未練を感じていたが、マヤから『シンジ君の将来の役に立つのなら、きっとミサトさんも喜んでくれるわよ。』と言われて、一つの時代が終わったということで踏ん切りを付けることにした。

今、シンジのマンションにはダンボールの山が大量に積まれて、引っ越しの準備はほとんど整っている。

 

シンジとアスカの二人は、当初は結婚は自分達の力で結婚式を挙げられるようになってからしたいと考えていたので、最初はマヤの強引な提案を快く思っていなかったが、子供やサエコの寿命のことを考えると、悠長なことを言っていられないのは確かなので、今回だけは委員会の力を借りることにした。

もともと今回の結婚式は、日本をしばらく離れることになるシンジの送別パーティーという意味合いも兼ねていたので、社交的な部分を一切省いて、規模そのものは比較的小さく纏められ、参加者もマヤ・冬月・日向・青葉ら委員会の人間や、ヒカリ・トウジ・ケンスケら特に付き合いの深いクラスメート達、サキ・マナブら三春学園の子供たちなど、シンジとアスカの結婚を心から祝福してくれる極親しい一部の人間だけに限られた。

かくして加速度的に話しは進み始め、結婚式の期日は刻一刻と近づいてきた。

 

 

 

 

委員会本部にある冬月の執務室。

「いよいよ、明日が挙式か…。そして、三日後にはシンジ君はアスカ君と一緒にドイツへ旅立つわけか…。」

「はい、これから少し寂しくなりますね…。」

冬月はやや意外そうな顔でマヤを見ると

「しかし、よくシンジ君を手放す気になったものだな。君はシンジ君の成長を見守ることを、何よりも楽しみにしていたと思っていたのだが…。」

「シンジ君の人生はシンジ君のモノです。シンジ君が自分の意志で決めた事に、私が口を差し挟める資格はありませんから。何より、残念だけどもう私がシンジ君にしてあげられることは何もありません。後は気持ち良く、シンジ君を送り出してあげるだけですわ。」

そう呟いた時のマヤの表情には、純粋に息子の成長を喜ぶ母親としての情の中に、もう自分を必要としない巣立った息子に対する悔しさが微妙にブレンドされていた。

「それに…」

マヤはややモジモジし始めると

「サエコさんの為でもありますから。」

頬を赤く染めながらマヤは俯きだした。

「…………………………………………………………………………。」

冬月は、窓の方を見上げて、今の一言は聞かなかったことにした。

 

マヤはハッと気がついてコホンと軽く咳をした後、急に表情を引き締めて

「何より、これから先のことを考えると、シンジ君が日本を離れるのはちょうど良いタイミングだと思います。」

マヤはそう小声で囁くと、キョロキョロと辺りを見廻しはじめる。

冬月も厳しい表情で

「この部屋は盗聴の心配はいらんよ。諜報部より提出された例の件のことだね。」

「はい、青葉君の方から報告が入りました。いつでも始められるそうです。」

マヤは完全に怜悧な科学者の顔になってそう答えた。

「うむ。いくらサードインパクトを防ぐ為とはいえ、事実の裏付けもなしに一般職員に対する無条件殺戮を簡単に許可するような奴等に政権を維持されていては、危険で堪らないからな。…で、勝算はあるのかね?」

「政府も一枚岩ではありません。むしろ、サードインパクト後の失策続きで、現在の鷹派の第一政党は議会で相当煙たがられているみたいです。“無実のネルフ職員の無差別殺戮”という第一政党が抱えている暗部と、現在MAGIを所有している我々委員会の全面的なバックアップを取り引き材料に、第二政党以下を唆せば……。」

「政権交代(クーデター)は十分有り得るというわけか……。」

「無論、第二政党以下も、鳩派と言っても、権力志向に溢れた油断ならない連中ではありますが…。」

「今の奴等に政権を維持されているよりは、はるかにましか……。」

「その通りです。MAGIでシミュレートした結果では、今の第一政党が倒れた場合、政界は第二・第三政党を中心とした群雄割拠状態になると予測しています。そうなれば、委員会にとっても、まずまず理想的といっていい状態を築き上げられるかと思います。」

「その状態に持っていくのに、どのくらい時間がかかりそうかね?」

「最低でも三・四年は掛かると推測されます。何より、その間……。」

「第一政党も黙って倒されるはずがない。場合によっては委員会に対して力技で出てくるかもしれんし、第三新東京都市で、今まで以上の政府との暗闘が繰り広げられることになりそうだな。」

「はい、そうなったら当然その余波がシンジ君に及ぶ可能性も高いわけで、今回の留学の件は本当にタイミングがよかったわけです。ドイツにいれば、まずシンジ君の身の上は安全ですから。」

冬月は軽く溜息を吐くと

「確かに今のシンジ君の護身術の力量では、複数のプロに一斉に襲われたら一たまりもないからな…。」

「けど、それでいいんだと思います。シンジ君の力は、物理的に他人を傷付ける為ではなく、むしろ他人の心を癒してあげることにこそ使うべきだと私は思いますから。」

「そうだな。人それぞれ役割は全て異なるものだ。私のように政治の世界で知恵で戦う者もいれば、諜報部のように、裏の世界で暴力で戦う者もいる。日本から離れるといってもシンジ君は決して逃げるわけではない。ただ、シンジ君が自分で選んだ戦場は、我々とは形が異なっているというだけの話しなのだしな。」

マヤは今までにない真剣な表情をすると

「シンジ君はシンジ君なりの考えで、三年前の事件から逃げないで、正面から戦おうとしています。だから、私たち大人のつまらないしがらみに、これ以上シンジ君を巻き込みたくありません。シンジ君には、自分の人生の可能性を最大限に追求して欲しいと私は思っていますから。」

「確かに、この町に残って政府と戦うのも、三年前の忌まわしい事件の後始末をつけるのも、積極的にあの件に関わった我々大人の責任だからな。本来事態に巻き込まれただけの子供たちには何の責任もないことだ…。だが…」

「はい、シンジ君はカウンセラーになったら、サードインパクトで心を壊した人間と積極的に関わっていきたいと言っていました…。それが三年前の事件に対して自分に出来る償いだと言って……。」

「生涯、シンジ君は自身の罪と向き合って生きていくことになるわけか…。やろうと思えばいくらでも贖罪とは無縁の楽な人生を選べるというのに……。」

マヤはやや嬉しそうな顔をすると

「はい、けどシンジ君は決して自分の幸福まで放棄したわけではないのですよ。そこが三年前のシンジ君と一番変わったところだと思います。」

冬月も釣られるように軽く微笑むと

「そうだな。明日は最高の晴れ舞台が見られそうだしな。三年前のあの壊れかかった子供達の姿を思い浮かべると、こんな日がくるのが未だに信じられないぐらいだよ。それにしても……。」

「な…なんでしょうか!?」

「よく、君はアスカ君をシンジ君の相手として認める気になったな…。それもまた信じられないことの一つなのだが…。」

その冬月の言葉にマヤは苦笑すると

「ええ、今のアスカにならシンジ君をまかせても大丈夫ですから。」

「ふむ、そういえば、シンジ君はこれからもまだしばらくは学生の身分が続くわけだが…」

「はい。アスカが委員会のドイツ支部で働いて、二人の生活を支えることになるはずです。アスカは張り切っていましたよ。三年前にシンジ君にしたことを償える良い機会だといって。実はそのことで一悶着あったんですよ。」

「一悶着?」

「はい、最初、子供が出来るということで、シンジ君は『アスカにだけ苦労させるわけにはいかないから、進学せずに自分も働く』と言い出したのですよ。」

「確かに、シンジ君ならそう考えそうだな…。それで…」

マヤは可笑しそうにクスクスと笑いながら、

「そしたら、アスカが、シンジ君がぶっ倒れるぐらい思いっきりシンジ君の頬を張り倒してこう言ったんです。『シンジ!あんたがあの事件の償いとして自分で決めた道は、その程度のことで諦めてしまうほどちっぽけなものだったの!?あんたが一人前になるまであたしが支えてあげるから、心配せずにあんたは自分が今出来ることを精一杯やりなさい!それが今のあたし達のお互いの役割よ!』と言ってね…。」

「…………………………………………………………。」

「あの二人はもう三年前とは違います。今ならお互いに支え合って、生きていくことが十分可能です。だから、私の目の届かない場所にいても二人が一緒なら安心していられますわ。」

「そうだな。我々がシンジ君達を庇護出来るのは、二人がこの町にいる間だけだ。この町を離れたら、二人の力だけで社会を生きていかねばならないわけだが、子供のこともあるし、これから先もきっと苦労が絶えないだろうな。」

「はい。でもあの二人なら大丈夫ですわ。シンジ君とアスカは、残酷な天使のような運命の楔を自らの意志の力で跳ね除けて、再び一緒になったのですから。これから先どんな困難が待ち構えていたとしても、二人が一緒ならきっと……。」

冬月は暖かい目でマヤを見下ろしていたが、やや表情を変えると

「………………ところで、伊吹君?」

「なんでしょうか?」

「シンジ君はカウンセラーとして見込みはあるのかね?実のところ私はどうもあまりシンジ君には向いていない職業だと思うのだが…。」

マヤはクスリと笑うと

「以前の内罰的だったシンジ君を考えれば確かにそう感じらて当然ですよね。けど、あれでシンジ君には意外に適性があるみたいなのですよ…。」

「ほ〜う。そうなのかね?」

「ええ、三春学園という孤児院の子供達の心を開かせた一件でもその片鱗は伺えます。保母である大友さんの見たところではシンジ君には『病めるモノの心に共感出来る才能』があるらしいのですよ。」

「病めるモノの心に共感する才能かね?」

「はい、マナブ君の時がそうだったのですが、シンジ君自身が一度どん底に落ち込んで、そこから自力で這い上がった得難い体験を持つ人間だからこそ、同じように病める者の気持ちが手に取るように分かるらしいのです。そのシンジ君の中にあるダイヤの原石をうまく磨き上げれば、患者の病める心を自分自身のように共感してあげられる、今までにないまったく新しいタイプのカウンセラーが生まれるかと私は思うのですが…。」

「そうか。それではシンジ君の十年後の未来に期待するとするかな…。」

「ええ、再びシンジ君がこの町へ帰ってきた時の姿を見るのが今からとても楽しみですわ。」

「では、それまでに、我々も我々にしか出来ない役割を果たすとしようか。」

冬月は表情を引き締めてそう呟いた後、この会話を打ち切った。

 

シンジとアスカの二人の本当の苦労がこれから始まるように、大人達にとってもこれから政府との本当の戦いが始まるからだ。

だが、その前に明日一日だけは、大人達にとっても楽しい夢が見られるはずだった。

 

 

 

 

 

 

そして翌日。

本日は結婚式日和の快晴だ。

シンジとアスカの結婚式が行われる聖プレスト教会に、二人の知り合いが続々集まりつつあった。

「ぜぇ…、ぜぇ…、どうやら間に合ったみたいやな…。」

「もう、トウジのせいよ。」

「なんでワイの所為なんや?ヒカリがドレスを選ぶのに時間かけたから悪いん……。」

ヒカリとトウジの二人が夫婦漫才をしていると

「あの〜、洞木さんと、鈴原さんですよね?」

二人が振り返ると、ヒカリと同じ白の清楚なドレスに身を包んだ、黒髪の眼鏡をかけた少女がペコリと頭を下げた。

「あら、山岸さん、お久しぶり。」

「おう、山岸も、来とったんか!?」

その二人の挨拶にマユミは控えめに微笑んだ。笑った時に口元の小さな黒子が揺れたのが印象的だった。

三人は連れ添って教会の入り口の方へ歩いていきながら

「ねぇ、洞木さん。碇君と惣流さんは出来ちゃった結婚というのは本当なんですか?」

ヒカリが何か言い出す前にトウジがしゃしゃり出て

「そりゃ、そうに決まってるやろ。でなきゃ、普通17・18歳で結婚しようと思うか!?」

「そうですよね、やっぱり……。」

マユミは軽く溜息を吐いて

「あ〜あ。それにしても碇君が結婚すると聞いてすごいショックだったな…。私も少し碇君に憧れていたのにな…。」

本気とも冗談ともつかない口調でそうボヤいた後、突然何か思い出したように

「そういえば、霧島さんは……。」

そのマユミの言葉にヒカリは若干表情を曇らせると

「……………霧島さんはお父さんの転勤の都合で、夏休み前に一緒に松代へ転校していったわ…。」

それがマナの転校の表向きの事情だが、本当は多分シンジのことが絡んでいるのだろうとヒカリは推測している。

「じゃあ、この式に霧島さんは……。」

「来てないわ…。」

「そりゃ、来れるはずないやろ…。霧島は本当にシンジのことが好きやったんやからな。ましてや、気持ちの整理をつけるにはちょっと日が浅すぎるで。数年後ならまだしも、あれからまだ数ヶ月も経っとらんのや。おいそれとかつての恋敵を祝福出来るものやないで…。」

「………………………………………………………………。」

しみじみとそう語るトウジに、ヒカリとマユミは何とも言えない表情を見合わせた。

 

「遅かったな、お前ら…。もう関係者は大部分集まってるぜ。」

トウジは教会の扉から姿を現した眼鏡を掛けた少年を見て

「よう、ケンスケ。来とったんか…。惣流のことがあるからひょっとしたらケンスケは来えへんかと思とったで。男は女と違って割り切りが早いみたいやな。」

「まあな。けど、俺だって本当は今日はパスしたかったんだぜ。まだシンジの奴を素直に祝福出来るような心境じゃないからな…。」

「ほならどうして…。」

ケンスケは懐からハンディカムを取り出すと

「休むわけにはいかないだろう。今日は俺がずっと求め続けてきたものが見られるのにさ。」

「求めてきたもの!?なんやそれは!?」

「惣流の最高の笑顔だよ。多分今日しか見られないだろうからな。惣流達はこの後ドイツへ行っちまうという話しだし…。」

『本当はその笑顔がシンジの為だけに向けられるのが、悔しい限りなんだけどな。』

 

 

 

 

駅から聖プレスト教会への道程を三人の少女が歩いている。

左隣にいる少女が中央のポニーテールの少女に声を掛ける。

「ねぇ、サユリ。本当にいくつもりなの?あたし達、絶対に歓迎されないわよ。」

「そうそう。あたし達が惣流先輩にしたことを考えればねえ。大体、惣流先輩の晴れ姿なんか見に行って何が楽しいのよ?腐ってもあたし達は碇先輩のファンクラブの会員だったのにさ。」

「うっさいわね。そんなことは分かってるわよ!あたしだって金髪女の幸せそうな姿なんて見たくないわよ。」

「じゃあ、どうして…」

サユリは憂いを帯びた表情で俯くと

「もう、遠くから見ているだけで終わってしまう恋は止めるの。碇先輩への想いにケジメをつけられたら、今度こそ絶対に憧れで終わらない恋愛をするんだ。」

「サユリ……。」

「けど、碇先輩はもうすぐ日本を離れてしまう。だから、その前にあたしの初恋にちゃんとケジメをつけておきたいんだ。今度こそ勇気を出して、碇先輩に心から『おめでとう』って言うの。それをしないとあたし、この先ずっと同じことを繰り返してしまいそうな気がするから。」

トモヨとヒロコは、サユリの部屋からシンジの写真が完全に片付けらていたことを思い出して、サユリの決心の固さを感じ取ったが

「そうね。サユリの想いは分かったわ。けど、果たして洞木先輩あたりがあたし達を受け入れてくれるかしらね。」

「………………………………………………。」

そのヒロコの言葉にサユリは無言のまま俯いた。

 

 

 

 

「こうして見ると意外に人が集まっているわね。」

教会の中に入ったヒカリは軽い驚きの声を上げる。

社交的な部分を一切省いて人数を絞ったという話しだが、それでも教会の中には百人近い人間がガヤガヤと集まっている。

旧ネルフの人類支援委員会の関係者の大人や、シンジと特に仲が良かった学校のクラスメート、さらに三春学園の子供たちや、その他シンジのバイト先の仲間など、主にシンジ側の人脈が勢揃いしていた。

「やあ、みんな来てくれたんだね。」

この結婚式の新郎が姿を現した。

「碇君…。」

シンジの姿を見てマユミはポッと頬を赤く染める。

シンジは白のタキシードを華麗に着こなした清潔感溢れる身だしなみで、バイトしている時見かけるように髪はオールバックに纏めている。

長身でハンサムなシンジがこのスタイルで、いつもの女心を擽る中性的な笑顔で微笑んだら、大抵の女子ならクラッときてしまうだろう。

ヒカリもやや頬を染めながらシンジに見惚れていたが、ハッと気がついてブンブン首を振った後、チラリとトウジの礼服姿とシンジを見比べて

『やっぱり、人それぞれ似合う似合わないはあるわよね。あたし達がやる時は和式にしようかしら。トウジには礼服より袴姿の方が絶対似合いそうだし…あたしもウェディングドレスは捨て難いけど、大和撫子な着物姿というのも悪くないし…って、ヤダッ、あたしったら今から何考えているのかしら…。』

ヒカリは自分の妄想に顔を真っ赤にする。

 

トウジはやや揶揄するような瞳でシンジを見詰めると

「シンジ。それにしてもホンマに思い切ったことしおったな。まあ、出来てしもうたんやから、しゃないといえばしゃーないわな。」

シンジは軽く苦笑した後、真剣な表情をすると

「それは言いっこなしだよ、トウジ。けど、僕は本当にアスカを心から愛しているよ。世界中の誰よりもね…。」

「シンジも言うようになったな…。」

シンジのお惚気にトウジは軽く肩をすくめた。

シンジはチラリとケンスケの方を見ると

「ケンスケ…。」

「……………………………………………………。」

だが、ケンスケはそっぽを向いたまま何も応えない。

その様子を見てシンジが軽く溜息を吐き出すと

「よう、久しぶりだな、碇。」

「あっ、お久しぶりです、中沢先輩。来てくれたんですね。」

シンジは礼服を着た長身の男性に軽く頭を下げる。

「とりあえず、おめでとう…と言っておこうか。相手はあの金髪美少女なんだろ?正直羨ましいぜ。」

「ありがとうございます、先輩。」

「けど、徳永支配人は嘆いていたぜ。碇に抜けられたら収入が半減だってな。まあ、碇を目当てに店に通っていた常連客はけっこういたから、当然といえば当然だよな。徳永さんも持病の胃潰瘍を悪化させなければいいがな。」

「本当に済いません、先輩。」

「気にするな。シンジはあの店では只のバイトなんだから、そこまで責任を感じる必要はないさ。何より今の碇の事情を考えれば仕方がないことだしな。今回は出来ちゃった結婚なんだろう!?それにしても、同僚のウエイトレスにも、常連客にも手を出さないから、女に興味がないのかと思っていたが、ちゃんとやることはやっていたみたいだな。やっぱり碇も男だったわけだ。」

「やっぱりそれを言われちゃうんですね。」

シンジは再び苦笑する。

 

「「シンジ、お兄ちゃん〜!!」」

その時、中学生ぐらいの黒髪の男の子と赤毛の女の子が遠くからユニゾンでシンジを手招きする。

「サキちゃん。マナブ君。どうしたの?」

シンジは「ちょっと、ごめんね。」と言ってトウジ達から離れると、三春学園の子供たちの方へ歩いていった。

二十人以上の子供たちに囲まれて、揉みくちゃにされるシンジを見て

「シンジもホンマに忙しいやっちゃな。そう思わんか、ヒカリ?」

「………………………………………………。」

ヒカリは頬を赤くしてボーとしたまま何も応えない。

「おい、どないしたんや。ヒカリ?」

ヒカリはハッと気がついて妄想の世界から脱出すると

「な……何でもないわよ、トウジ…。」

「ほんまにか?」

「あははははっ……………!?」

ヒカリは曖昧な笑顔で誤魔化そうとしていたが、教会の入り口に三人の少女の姿を見掛けた途端、突然表情を険しくした。

「お…おい、どないしたんや、ヒカリ!?」

「…………………………………………。」

ヒカリはトウジを無視して真っ直ぐに入り口の方へ向かっていった。

 

「サ…サユリ、洞木先輩がこっちへ来たわよ。」

「やっぱり、まずかったんじゃないの!?」

トモヨとヒロコは、すごい剣幕でこちらへ近づいてくるヒカリに慌てふためきだす。

ヒカリは三人の前まで来ると挨拶も無しに

「あなた達一体どの面下げてここへ来たのよ!今度は一体何をするつもりなの!?」

「な…なによ!?別に式を邪魔しにきたわけじゃないわよ。あたしはただ、碇先輩に『おめでとう…』って言いにきただけよ。本当にそれだけなんだから。」

そのサユリの言葉に、ヒカリは瞳に嫌悪を称えると、左手を振り上げて

「あ…あなたね、今更よくも抜け抜けと…」

「待ちいな、ヒカリ!」

後ろからトウジが現われて、慌ててヒカリの左手を掴んだ。

「ト…トウジ!?」

「目出度い式に暴力沙汰はちとまずいんやないか、ヒカリ…。」

「け…けど、トウジ……。この娘たちは……。」

「罪を憎んで人を憎まず…なんて偉そうな説教をかますつもりはないで。けど、考えてみいや。あれだけのことがあった後で、ここに来るにはそれなりに勇気のいることやないのか?きっと、こいつらにもこいつらなりの葛藤があるんやろうな…。」

「…………………………………………。」

トウジはサユリの方を見た後

「確か岩瀬だったな。ホンマに己らは、シンジを祝福しにきただけか?」

「そ…そうよ。」

「なら、問題ないわ。シンジに挨拶してこいや。」

「ちょ…ちょっとトウジ!」

ヒカリが何か言いたげにトウジを睨むが、トウジはそれを無視して

「ただし、式の最中に惣流の過去をあげつらって、惣流を貶めるようなことをしたら、女だろうと容赦せんからな。分かっとるな!?」

「わ…分かっているわよ。」

サユリはトウジの迫力に気圧されたように肯いた。

 

 

「ほら、サユリ……。」

「……………………………………………………………。」

ヒロコとトモヨが軽くサユリの肩を押したが、踏ん切りがつかないのか、サユリはやや脅えた表情で遠目からマナブと会話するシンジを見詰めている。

「ここで、うじうじしていても埒があかないわよ。勇気を出すんじゃなかったの?」

「うるさいわね。分かっているわよ!」

二人の言葉にサユリは一瞬躊躇った後、意を決してシンジの前に飛び出すと

「あ…あの……」

サユリの姿に気がついたシンジは軽く微笑むと

「やあ、確か音楽部の後輩の岩瀬さんだよね?来てくれたんだ。」

サユリはしどろもどろしながら

「は……は…い。い…碇……せ…先輩。こ……この度はまことに、お……おめでとう…ご…ござ…います。」

「ありがとう。」

そう囁いた時のシンジの奇麗な笑顔を見て、サユリは頬を赤く染めて俯いてしまった。

「……………………………………………………。」

そのサユリの様子を見てシンジは少し考え込んだ後、

「ねえ、岩瀬さん。」

「は…はい。何でしょうか!?」

「………………違ってたら申し訳ないけど、もしかして岩瀬さんも僕に憧れていた…なんてことはないよね?」

そのシンジの言葉にサユリは耳たぶまで真っ赤にすると、心臓を破裂しそうなぐらい高鳴らせながら

「は…はい。ず…っと、ずっと碇先輩のことを見ていました。気付いてもらえただけで嬉しいです。ほ…本当にありがとうございました。」

サユリはそれだけ言うと逃げるようにシンジから離れていった。

 

「サユリ、ちょっとどうしたのよ?顔が茹で蛸みたいに真っ赤よ。」

「碇先輩と何かあったの?」

「……………………………………………………………………。」

トモヨとヒロコの二人が心配してサユリに声を掛けたが、サユリはポーッとしたまま何も応えなかった。

 

マナブはサユリ達の様子を見た後、

「ねぇ、お兄ちゃん。今のは少しまずかったんじゃないかな?」

「そ…そうかな?女の子が僕の前で頬を赤く染めたら要注意だってマナブ君が言ったから、直接聞いてみたんだけど。」

「いきなり、アレは良くないと思う。」

「難かしいんだね、色々と……。」

頭を掻いたシンジを見てマナブは軽く溜息を吐くと

「本当にお兄ちゃんって、女の子には不器用なんだね。」

「………………………………………………。」

そのマナブの言葉を聞いて、シンジは二週間前に三春学園を訪ねた時のことを思い浮かべた。

 

 

 

 

「……というわけで、今度アスカと結婚式を挙げることになったんです。」

夜の八時、三春学園の園長室を訪ねたシンジは、やや赤くなりながらそのことをカスミに告げた。

カスミの隣にはサキとマナブの二人が佇んでいる。

カスミは、高校生でいきなり結婚すると言いだしたシンジを驚いた表情で見ていたが

「そ…そう、おめでとう、シンジ君。けど、随分と急な話しなのね。」

「はい、色々と事情がありまして………。」

それからシンジは、式を挙げた後、ドイツへ留学する旨を伝えると

「それじゃ、夏休みが終わったらこの町から離れることになるわけですね?」

「本当にスイマセン。ここの子供達とは長い付き合いがあるのに僕個人の勝手な事情で……。」

未だサードインパクトのトラウマを抱えているシンジは、ここにいる子供たちを最後まで見守る責任があるような気がしてならず、そのコトに負い目を感じていたシンジは、留学の件は子供たちから逃げるような気がしてならなかった。

申し訳なさそうに頭を下げたシンジを見て、カスミは慌てて

「いえいえ、こちらの方がシンジ君にお世話になっていたのですから。園長の私からもう一度礼を申し上げます。今まで子供達の面倒を見ていただき、本当にありがとうございました。日本を離れても頑張ってくださいね。」

「カスミさん。」

「そうよ、お兄ちゃん!」

「サキちゃん。」

サキは気丈にも笑顔で振る舞いながら

「良かったね。カウンセラーになるのはお兄ちゃんの長い間の夢だったんだもんね。それと、ようやくアスカさんとも分かりあえたんでしょ?本当におめでとう、シンジお兄ちゃん。」

「ありがとう、サキちゃん。」

シンジはサキの内心の葛藤に気付かずに、素直に心から礼を述べた。

「サキちゃん…。」

サキの気持ちを知っているカスミは、何か言いたげな瞳でシンジを見たが結局何も言えなかった。

「…………………………………………。」

マナブは黙って、テーブル越しにシンジと会話するサキの様子を見詰めている。

サキは表情は笑顔を取り繕っていたが、正座した膝が震えているのがマナブの目に入った。

シンジはまったくサキの様子に気付いていないみたいだ。

それから五分ほどして

「それじゃ、ちょっとあたし、子供たちの様子が気になるから……。」

そう言ってサキは園長室から駆け出していった。

 

それを見てマナブも席を立つと、サキの後を追うように部屋から飛び出していく。

「ちょっと、どうしたの、マナブ君!?」

カスミがマナブを呼びかけたが、マナブは振りかえらなかった。

 

マナブは『女の子の部屋』とプレートの掲げられた部屋の扉をそっと押し開ける。

すると、サキのすすり泣く鳴咽の声が聞こえてきた。

「ひっく…。ひっく……。シンジお兄ちゃん…。ううっぅう…………。」

サキはベッドにうつ伏したまま、顔を枕に押しつけて、声を外へ漏らさないように、必死に鳴咽を押し殺していた。

「………………………………………………………。」

マナブは無言のまま、すすり泣くサキの様子を見詰めていたが、先のシンジの態度を心に思い浮かべて、何かを決意するように強く拳を握り締めた。

「……………………………!?」

人の気配を感じたサキは慌てて跳ね起きる。

「ちょ…ちょと、誰かいるの!?」

サキはゴシゴシと涙を拭くと、扉が開いているのに気付いた。

慌てて扉の外へ出たサキは、マナブが廊下の角を曲がっていくのを見て

「マナブなの!?」

だが、マナブは後ろから自分を呼びかけるサキに気付かずに玄関の方へ向かっていった。

 

 

「シンジお兄ちゃん…。」

三春学園を後にして帰宅しようとしたシンジは、自分を呼び止める声に振り返ると、後ろにはマナブが佇んでいる。

「やあ、マナブ君。どうしたの?」

「……………………………………………。」

シンジはマナブに軽く微笑んだが、マナブは無言のままだった。

マナブの思いつめた表情を見て、シンジも表情を引き締めると

「どうかしたの、マナブ君?何か僕に言いたいことでもあるの?」

「………………………ねぇ、お兄ちゃん。」

「なんだい、マナブ君?」

シンジはやや前かがみになってマナブに顔を近づける。

「……………………っていい?」

「今、何て言ったの、マナブ君?」

「一発殴ってもいい、お兄ちゃん?」

「えっ!?」

バキッ!!

次の瞬間、マナブは拳を堅く握り締めると、思いっきりシンジの頬を叩いた。

「マナブ君!?」

シンジは軽く頬を抑えると、怒りより驚きをこめてマナブを見詰める。

「うっうう…ううっ…………。」

何時の間にかマナブの瞳には涙が溜まっている。

「マナブ君。どうして……。」

「ご…ごめんなさい、お兄ちゃん。」

マナブはぐじぐじと鼻を啜りながら

「いきなり、こんなことしてごめんなさい。けど、どうしてもお兄ちゃんを許せなかったんだ。」

「許せない…?」

マナブは訴えるような目でシンジを見上げると

「サキちゃん泣いていたよ。」

「えっ!?」

「ひどいよ、お兄ちゃん。いきなりサキちゃんの前であんなことを言うなんて。サキちゃんは本当はお兄ちゃんのことが好きなんだよ。なのに……。」

「サキちゃんが!?」

シンジは心底驚いた表情でマナブを見る。

シンジ自身はサキの自分に対する想いは、妹が兄を慕うような憧憬だとずっと思い込んでいたからだ。

マナブはぼろぼろと涙を流しながらシンジに縋り付くと

「本当にごめんなさい。お兄ちゃんがいたから、僕は立ち直ることが出来たのに…なのに、お兄ちゃんを殴ったりして…。本当に恩知らずだよね。けど、それでも、お兄ちゃんを許せなかったんだ!サキちゃんを傷つけて、そのコトに気付いていないお兄ちゃんを…。うっ…ううぅ…うう……。」

「………マナブ君。」

シンジは何とも言えない表情で、自分の中で鳴咽を漏らすマナブを軽く抱き留める。

マナブは涙で濡れ細った目でシンジを見上げると

「ねぇ、お兄ちゃん。サキちゃんの気持ちに応えてあげられないのは仕方ないと思う。けど、気付いてあげられないのは、これはもう罪だと思う。」

「…………………………………………………。」

「お兄ちゃんの前で頬を赤く染めた女の子がいたら、その娘はお兄ちゃんに憧れていると思った方がいいよ。それぐらい今のお兄ちゃんは魅力的なんだよ。」

「ははっ…。いくらなんでも、そんなことは……」

「僕は本気で言ってるんだよ!」

「……………ごめん。」

マナブの真剣な表情を見て、シンジは軽く頭を下げる。

「ねぇ、お兄ちゃん。お兄ちゃんには、言葉で言えない魔術めいた魅力があるから、きっと将来すごいカウンセラーになれると思う。けど、心が弱っている患者さんが女の人だったら、きっとその女性(ヒト)はお兄ちゃんに惚れちゃうと思う。その時、お兄ちゃんがそのコトに気付いてあげられなかったら、それは絶対に罪だと思うんだ。」

「マナブ君…。」

マナブは急に申し訳なさそうな表情をすると

「ごねんね、お兄ちゃん。こんな生意気なことばかり言って…。僕なんかお兄ちゃんが助けてくれなかったら今でもカスミ先生やサキちゃんに迷惑ばかりかけていたと思う。なのにお兄ちゃんのことを……。」

「……………………………………………………。」

「ね…ねぇ、シンジお兄ちゃん…。」

マナブは脅えた目でシンジを見上げると

「ぼ…僕のこと嫌いになった…?」

自分に縋る不安そうなマナブの顔を見て、シンジはマナブを慰めるように暖かく微笑むと、軽くマナブの頭を撫でながら

「そんなことあるはずないだろう。僕はいつだってマナブ君のことが大好きだよ。」

そのシンジの言葉にマナブはホッとして表情を輝かせる。

「正直、マナブ君のお陰で目が覚めたよ。本当に他人に言われないと気付かないことってあるんだよね。ありがとうマナブ君。僕に大切なことを教えてくれて…。」

『それにしても最近僕は人から殴られてばかりだな…。それだけ僕は他人の好意に気付かずに、知らないうちに他人を傷付け続けてきたということなんだろうな。』

そう思い、そのことをシンジは自嘲しながらも

「けど、マナブ君は一つ勘違いしているよ。僕は決してマナブ君を助けたわけじゃないよ。」

「えっ!?」

シンジは真剣な表情でマナブを見ると

「マナブ君は自力で立ち直ったんだよ。僕はただマナブ君に切っ掛けを与えただけにすぎない。ヒトは決して他人を助けることなんて出来ないんだ。自分を救えるのは他の誰でもない自分自身だけなんだ。」

「お兄ちゃん。」

「そういう意味では、カウンセラーというのはそんなに対した代物でもないんだ。ただ、患者が立ち直る手助けをするだけなんだからね。どんなに優れたカウンセラーだって、患者がもう一度現実と戦う意志を持っていなかったらどうしようもないんだ。あの時のマナブ君の中にはそれがあったからこそ、たまたま僕の言葉を切っ掛けにして、マナブ君は自力で立ち直っただけなんだよ。だからマナブ君はもっと自分を誉めていいんだよ。」

「………………………………………………。」

シンジは軽くマナブの両肩を掴むと、真摯な表情でマナブを見詰めながら

「マナブ君。サキちゃんをよろしくね。気丈に見えてもサキちゃんはアスカに似て弱いところがあるからね。」

そのシンジの言葉にマナブは黙ってコクリと肯いた。

「それじゃね、マナブ君。」

シンジは別れの挨拶をして、三春学園から離れていった。

 

 

マナブはシンジの後ろ姿を見送った後、軽く溜息を吐いて、三春学園の門を潜ろうとした。

その瞬間、

バチィ〜ン!!

頬にものすごい衝撃を受けてマナブはその場に尻餅をついた。

「痛たた…。」

「誰によろしくだってぇ〜!?マナブゥ〜!?」

ドスの効いた声にマナブはビクッとして、頬を抑えながら恐る恐る頭上を見上げると、門の正面にサキが腕を組んで仁王立ちしていた。

「サ…サキちゃん。」

サキはマナブの襟首を掴んで、マナブを引き上げると

「あんた、あたしの下僕の分際でシンジお兄ちゃんに手を上げるとは良い度胸してるじゃない!?あんた何時からそんなに偉くなったのよ!?」

「も…もしかして、今の話し聞いていたの?」

「ええ、全部聞かせてもらったわよ。あたしの気持ちを勝手にお兄ちゃんに伝えるなんて、デリカシーの欠片もない奴ね!もう、恥ずかしくってお兄ちゃんと顔を合わせられないじゃない。マナブ、あんた覚悟は出来ているんでしょうね!?」

「ご…ごめんなさい。」

『なんでそこで謝るのよ!?』

「ふん!とりあえず、お仕置きが必要みたいね。歯を食いしばりなさい、マナブ!」

マナブはビクッとして言われた通り歯を食いしばる。

「目を瞑りなさい。」

マナブは馬鹿正直に目を瞑る。やっぱり似た者同士というべきか、ここまでのマナブの行動パターンはマナと対した時のシンジとまったく同じだ。

頬を叩かれる衝撃を覚悟していたマナブは、唇に柔らかい感触を受けて、慌てて目を開ける。

すると目の前に目を瞑ったサキの顔がある。

それはサキとマナブのファーストキスだった。

「サ…サキちゃん。」

マナブは慌ててサキから離れると、唇を抑えながら驚いた顔でサキを見詰める。

サキはやや頬を赤らめながら

「マナブ。さっきは本当は少しだけ嬉しかった。正直、見直したわよ。まさか、あんたにシンジお兄ちゃんに手を上げる勇気があるなんて思ってもみなかった。」

「…………………………………………………………………………。」

放心した表情で自分を見詰めるマナブの顔を見て、サキは顔を真っ赤にすると、慌てて

「か…勘違いするんじゃないわよ。このキスはただのお礼なのよ。べ…別にあんたなんか好きでもなんでもないんだからね。」

サキは照れ隠しのように語調を強めると、クルリと踵を返して、逃げるように建物の中に飛び込んでいった。

「サキちゃん。」

マナブは初々しく頬を染めたまま、しばらく呆然とその場に立ち尽くしていた。

 

かつてのアスカがそうだったように、サキがもう少しマナブに対する自分の気持ちに素直になれるのには、まだまだ時間がかかりそうだった。

 

 

 

 

 

「さて、それじゃ花嫁の姿を拝見しにいくとするかいな。」

トウジがシンジを促したので、シンジは「こっちだよ。」と言ってトウジ達を控え室の方へ連れていった。

「アスカ。シンジだけど入るよ。」

控え室の前でシンジは軽くドアをノックした後、扉を開ける。

トウジ達が部屋の中へ飛び込むと

「ほ…ほんまに惣流なんか!?」

トウジは放心した表情でアスカの姿を見詰める。

輝く宝石のような蒼い瞳。染み一つない白皙の肌。豪奢なブロンドの髪が揺れるつどキラキラ光輝く粒子があたりに振りまかれるような錯覚さえ覚える。

なにより純白のウェディングドレスに身を包んだアスカの姿は、言葉ではとても表現出来ない神秘的な美しさを放っており、美の女神(ヴィーナス)の寵愛を一身に受けた至高の芸術品といっても差し支えがないほどだった。

「奇麗だ…。」

すでに一度見ているはずだったが、思わずシンジの口から再び賛辞の言葉が漏れる。

シンジは柄にもなく頬を染めてアスカに見惚れてしまった。

「ありがとう、シンジ。」

アスカもやや俯きながらも、嬉しそうに頬を赤らめる。

そのアスカの可愛らしい仕種に、男性陣は一瞬クラッとする。

ケンスケは完全にアスカのウェディングドレス姿に圧倒され、無言のままカメラをまわし続ける。

マナブは真っ赤になってアスカの姿に見惚れていたが、隣にいるサキに腕を抓られて軽く悲鳴を上げる。

トウジは「ま…馬子にも衣装やな〜。」と何とか皮肉を口走ったが、負け惜しみ以上には聞こえなかった。

女性陣の反応も、男性陣と似たようなもので、ヒカリはアスカの姿を見て『あたし達はやっぱり和式でやろう。』と密かに心に秘め、マユミは「アスカさん。奇麗…。」と呟き、サキも「ま…負けた。」と対抗心を顕わにする。

 

それからアスカは皆から『おめでとう』の祝辞の言葉を受けて、『ありがとう』と丁重に笑顔で挨拶を返していたが、チラリと時計を見た後、不安そうな顔で隣にいるマヤを見て

「ねぇ、マヤ。まだママは着かないの?もうすぐ式が始まるのに。」

「ベルリン空港が嵐に見舞われていて、普通の便のダイヤが乱れちゃっているのよ。だから委員会の特別機を急遽チャーターして、サエコさんにこちらに向かってもらったんだけど、ぎりぎりかしらね。二時間前に空港に到着したという電話が入ったから、そろそろこちらに着く頃だと思うのだけど。」

その時、ドアの前に礼服を着た日向が現れると

「アスカちゃん。サエコさんが今タクシーで教会の前にたどり着いたみたいだよ。」

「本当ですか!?」

その日向の報告にアスカはパッと表情を輝かせる。

それを聞いて、シンジを残してヒカリやトウジ達は部屋から出ていった。

 

今、部屋の中にはシンジとアスカとマヤしかいない。

マヤはもう一度アスカに向き直ると

「とりあえず、おめでとう…と言っておきましょうかしら、アスカ。」

「ありがとう、マヤ。」

アスカはやや澄ました顔でマヤの祝辞に応える。

「あなたとは本当に色々あったけど、もう私はこれ以上謝ったりはしないわよ。というより謝罪の必要はないわよね。だって、今のあなたは世界で一番幸福な女なんだから。その自覚はあるでしょう?」

「ええ、もちろんよ。だから謝ってもらう必要なんて全然ないわよ。(あんたへの仕返しはちゃんと用意してあるからね。)」

アスカはぼそっ…と最後に何か呟いた。

「今、何か言った、アスカ?」

「な…なんでもないわよ。マヤ…。」

アスカはにっこりと微笑んで、不審そうなマヤの視線を受け流した。

 

「ひさしぶりね、アスカ。」

その時、懐かしい声と同時に、灰色の瞳をした母性的な女性が扉の前に姿を現した。

「マ…ママァ…!!」

サエコの姿を見つけたアスカは、子供のような明るい笑顔で微笑んで、ウェディングドレスの裾を掴んでサエコに駆け寄ろうとしたが、

「サエコさぁ〜ん!!」

後ろからマヤに突き飛ばされて、よろめいたところを慌ててシンジに抱き留められる。

 

マヤはサエコの前で頬を上気させると

「お久しぶりです、サエコさん。」

「お久しぶりですね、伊吹さん。」

「やだぁ〜。サエコさんたら…。マヤって呼んでください。」

「そうでしたね、マヤさん。」

「きゃあ〜!サエコさんにマヤって呼ばれちゃったぁ〜♪」

 

「ア…アスカ、大丈夫?」

シンジは自分の腕の中にいるアスカに心配そうに声を掛ける。

「あたたたた…、マヤの奴、思いっきり突き飛ばしてくれたわね。それより、あたしのママにベタベタしちゃってからにぃ〜!」

アスカは頭を擦った後、忌々しそうにサエコと楽しそうに会話するマヤを睨んだ。

 

サエコはマヤとの会話を打ち切ってシンジの方に近づくと

「はじめまして、あなたがシンジ君ね。娘からいつも話しは伺っています。私はアスカの法的な保護者であるサエコ・ブッフバルトです。短い間ですが、これからよろしくお願いしますね。」

「は…はじめまして、碇シンジです。こちらこそ、よろしくお願いします。」

丁重に挨拶するサエコにシンジも慌てて頭を下げる。

『この人がサエコさんか。確かに優しそうな女性(ヒト)だよな。なんか不思議な包容力を感じさせるというか…。』

「それにしても……。」

サエコは灰色の瞳でシンジの顔をマジマジと見詰めた後、

「なかなか良い男じゃない。今ならアスカが三年間、シンジ君に拘り続けた理由が分かるような気がするわね。」

「は…はぁ…。」

シンジが何とも言えないような表情をしていると、サエコはクスリと微笑んで

「実は娘から、あなたの悪口ばかり聞いていたので、どうしてアスカがあなたに拘っていたのかさっぱり分からなかったのですよ。けど、きっとアスカは照れていただけだったのでしょうね。」

「マ…ママァ〜!」

泣きそうな顔をするアスカに

「冗談よ、アスカ。」

サエコは悪戯っぽく微笑んで軽くアスカの頭を撫で始める。

「もう、ママったら、酷いんだからぁ。」

アスカはブスッとした表情でブチブチ文句を言い始める。

心身ともに大人の女性に成長した今のアスカも、サエコの前では完全に甘えたがりやの子供に戻ってしまうみたいだ。

 

サエコはマヤの方を見ると、

「すいません、マヤさん。少しアスカと二人っきりで話しがしたいのですが…。」

「分かりました。それじゃシンジ君。席をはずすわよ。」

「あ…はい。」

マヤは軽くシンジの腕を取ると部屋の外へ出て

「けど、もう時間がないから手短にお願いしますね。」

そう告げた後、バタンと扉が閉じられる音がした。

 

 

「ママ…。」

サエコと二人きりになったアスカは潤んだ瞳でサエコを見上げる。

サエコは軽くアスカを抱きしめると、

「おめでとう、アスカ。」

灰色の瞳に慈愛を込めてアスカを祝福する。

「ありがとう…、ママ…。」

サエコの温もりの中で、アスカは本当に嬉しそうに微笑んだ。

今日来ている来客はほとんどがシンジの知り合いだが、サエコ一人がいてくれるだけでアスカには十分だった。

この母娘の間に陳腐な言い回しの言葉は不要であり、二人はそれからしばらくの間、お互いの半年間の不在を補い合うように無言のまま抱き合っていたが、

「そうそう。約束のモノを渡しておかないとね。」

サエコはハンドバッグの中を探ると、宝石箱を取り出して、開いてみせる。

すると中から、六月の誕生石である乳白色のムーンストーンの指輪が現れた。

その指輪は、今は亡きサエコの夫であるリヒャルドが、サエコにエンゲージリングとして病室でプレゼントした指輪をシンジのサイズに手直ししたモノである。

やや古めの宝石であるが、手入れがいいのか、未だ昔と変わらない輝きを誇っている。

「私の誕生石がシンジ君と同じだったのが幸いしたわね。アスカ、お古で申し訳ないけど、電話で話した通りこの指輪を使ってもらえるかしら?」

「……………ママ、本当にいいの?その指輪はリヒャルドさんの大切な形見なんでしょう?」

蒼い瞳に微かな躊躇いを込めて、そう尋ねるアスカに、サエコはにっこりと微笑むと

「ええ、アスカの一世一代の晴れ舞台で使ってもらえたら、これほど嬉しいことはないわ。それにあなた達の力で浄化して欲しいのよ。」

「浄化!?」

「アスカ、あなたは本当にシンジ君を愛しているんでしょう?」

「うん、愛している。」

アスカはこれ以上ない真剣な表情で肯いた。

サエコは灰色の瞳に憂いを帯びて俯くと

「あなたも知っている通り、私とリヒャルドが結婚した当初は、私たちの間にはまるで愛は存在しなかったの。私はリヒャルドに指輪なんて贈らなかったし、リヒャルドからもらったこのムーンストーンの指輪を見る度に、『この宝石を赤い血で染めてあなたに送り返してあげる。』なんて物騒なコトを考えていたの。」

「ママ…。」

「だから、リヒャルドが死んで以来、私は決してこの指輪を身につけることなく、宝石箱の奥にしまっていた。なんかこの指輪に私のリヒャルドへの怨念が篭っているみたいで恐かったから…。」

サエコは自嘲するように、そう呟いた。

「……………………………………………。」

「だから勝手なお願いなんだけど、あなた達の結婚式で、もう一度この指輪を使って、私のこの指輪に篭められた想いを浄化して欲しいのよ。この指輪は愛の証として使われたことが一度もなかったから…。駄目かしら、アスカ?」

アスカは満面の笑顔で肯くと

「使わせてもらう、ママ…。」

「ありがとう、アスカ。」

アスカはそっとサエコから指輪を受け取ると、白い手袋を外して、自分の右手の薬指にはめようとしてので、サエコは慌てて

「ちょっと、アスカ。その指輪はシンジ君に交換で渡す指輪でしょう!」

「てへへ…、そうでした。」

アスカは頭を掻いて、軽く舌を出した。

 

その時、扉がノックされる音がする。

「アスカ。それそろ式が始まる時間よ。サエコさん、もうお話しの方はよろしいですか?」

そのマヤの声を聞いて、アスカはサエコの方に向き直ると

「ママ…。」

真剣なそれでいてやや不安そうな表情でアスカはサエコを見る。

サエコはアスカを落ち着かせるように、強くアスカを抱きしめると

「行ってらっしゃい、アスカ。」

聖母マリアのような慈愛に満ちた表情でサエコはアスカを元気付けた後、軽くアスカのおでこに口づけをした。

「うん。」

アスカは一瞬で吹っ切った笑顔をサエコに見せた後、

「行ってくるね、ママ!」

アスカはグッと拳を握り締めた後、扉を開ける。

その時のアスカの蒼い瞳に迷いは存在しなかった。

 

 

 

 

 

「新郎新婦入場!」

いよいよ、結婚式が開始される。

サエコは「お久しぶりです、冬月さん。」と冬月に挨拶した後、委員会の来賓の席に腰を下ろし、マヤもサエコの隣の席に並んだ。

トウジ、ケンスケ、ヒカリ、マユミらのクラスメートや、カスミ、サキ、マナブ達、シンジの関係者もすでに指定の席に腰を落ち着けている。

パイプオルガンがゆっくりと音を紡ぎ、扉が開いて仲睦ましく腕を組んだシンジとアスカが入場した。

白のタキシードに身を包んで、中性的な雰囲気を醸し出すハンサムなシンジと、純白のウエディングドレスに身を包んで、大輪の白い薔薇が花開いているかのような華やかな美貌を誇る絶せの美女のアスカの組み合わせに、会場中から思わず溜息が漏れる。

二人とも緊張しているのか若干頬を赤く染めていたが、むしろ十代の若い夫婦の初々しさをかえって際立たせていた。

二人はしずしずとバージン・ロードの赤い絨毯の上を歩いて、年老いた神父の前に到着した。

 

それから、参列者一同による賛美歌の斉唱、聖書朗読、祈祷、式はお約束通りに進行していく。

そして、愛の誓約。

二人は祭壇の前で永遠の愛を誓い合う。

「碇シンジ。あなたは病める時も健やかなな時も惣流・アスカ・ラングレーを妻として、生涯愛し続けることを誓いますか?」

「誓います。」

シンジは黒い瞳でアスカを見詰めて、真剣な表情で誓約する。

「惣流・アスカ・ラングレー。あなたは病める時も健やかな時も碇シンジを夫として、生涯愛し続けることを誓いますか?」

「……誓います。」

アスカはやや蒼い瞳を潤ませてシンジを見詰めながら誓約した。

 

「それでは指輪の交換を……。」

アスカはムーンストーンの指輪を、そっとシンジの左手の薬指にはめる。

『ママから渡されたママの想いの篭った大切な指輪。』

かつてのサエコとリヒャルドの想いが宿っているのであろうか。

乳白色のムーンストーンは、まるで月の光に照らされているような青白い不思議な輝きを放っている。

 

今度はシンジはトルコ石の指輪を取り出した。

そのトルコ石は、アスカの誕生石(成功・繁栄を意味する)に合わせて、シンジが二年間バイトして溜めたお金で購買した指輪だった。

せめてエンゲージリングだけは、自分が働いて得たお金で用意したいとシンジが強く主張したので、シンジはなけなしの預金を全て注ぎ込んで、ジュエリーショップの店員から薦められるままに、天然のイラン産の最上のトルコ石をアスカの為に手に入れたのだ。

シンジはやさしく白い手袋をはずしたアスカの右手を取る。

『シンジィ…。』

トルコ石の指輪をアスカの白皙の肌に近づけて、優しく微笑んだシンジの笑顔を見て、アスカの蒼い瞳が潤みはじめる。

アスカは、さほど宝石に対する造詣は深くなかったので、この指輪の価値はほとんど分からなかったが、何よりシンジが自分の為に必死になって背伸びしてくれている…、その想いがアスカには嬉しくて堪らなかった。

鮮やかで深みのある青空の色のトルコ石の指輪が今、ゆっくりと、白皙の肌を露にしている、アスカの白く細い右手の薬指にはめられた。

結婚指輪の上に婚約指輪を重ねて……お互いの指と指を絡め合う。

この瞬間、二人はまた一歩夫婦に近づいた。

 

「では、誓いの口づけを……。」

神父に促されシンジとアスカは正面から向かい合った。

シンジはチラリと周りを見回して、皆の視線が完全に自分達に集中していることを感じ取って、やや頬を赤らめると

「さ…さすがにこの衆人環視の中でキスをするのはちょっと恥ずかしいモノがあるよね、アスカ?」

そう小声で尋ねるシンジに、アスカはやや呆れたような顔をすると

「あんたバカぁ〜?今更何言ってるのよ…。空港のど真ん中でいきなりあたしの唇を奪った癖にさ……。」

「あ…あの時は咄嗟の判断だったから…。」

やや、モジモジしはじめるシンジにアスカは軽く溜息を吐くと

『まったく、この土壇場でビビるなんて、やっぱりどこまでいってもバカシンジはバカシンジよね。けど、まあいいか…。あたしはこういう初なところを残したシンジも嫌いじゃないし。』

アスカはそう考えた後、シンジの前で、軽くつま先立ちになると、アスカの方から軽く自分の唇をシンジの唇に合わせ、シンジに照れる間も与えずに、そのまますぐに唇を離した。

「アスカ…。」

頬を赤く染めながらもやや物足りなそうなシンジの顔を見て、アスカは悪戯っぽく微笑むと、

「何時もの激しいキスは初夜までお預けよ、シンジ。あたしは露出癖はないから、そこまで皆にサービスしてあげる気にはなれないからね。」

そのアスカの言葉を聞いてシンジはますます真っ赤になって俯いてしまった。

 

 

 

 

ここまで式はつつがなく進行していた。

来客は皆教会の外に出て、新郎新婦が出てくるのを今か遅しと待ち構えている。

トウジは欠伸をしながら軽く伸びをした後

「ようやく、これで式も御終いやな〜。んっ!?」

ここまでハンディカムで一心に式の模様を撮り続けてきたケンスケの、やや冴えない顔を見て

「どないしたんや、ケンスケ?なんや浮かん顔しおってからに…。」

「なんか違うんだよな……。」

「違って何がや?」

「惣流だよ。」

トウジは不思議そうな顔をすると

「どこが違うんや?惣流の最高の笑顔が見れているのとちゃうか?」

「確かに頬を染めたしおらしい惣流の笑顔も魅力的だけど、俺が求めてきた美とはちょっと違うんだよな。今の険のない惣流が大輪が花開くような明るい笑顔で微笑んだら、それこそ俺が求め続けてきた究極の造形美だと思うんだけど…。」

トウジはやや呆れたような顔をすると

「芸術の道というのは奥深いモノなんやな。わしのような凡人にはちょっと理解でけへんわ。」

「…………………………………………。」

肩を竦めてそう語ったトウジにケンスケは無言だった。

 

「あっ、シンジお兄ちゃんが出てきた!」

三春学園の子供たちが大声で騒ぎはじめ、その声に釣られるようにトウジ達は教会の入り口を見詰めると、シンジと彼にエスコートされたアスカが姿を現した。

アスカの左手には白いブーケが握られている。

 

シンジは晴天の青空を見上げ、今は亡きかつてのシンジの親しい人達のことを思い浮かべながら

『父さん、母さん、ミサトさん、加持さん、リツコさん、カヲル君、綾波。今まで本当に色々あったけど、僕とアスカはとうとうここまで来ましたよ。勿論、これで終わりではなく、これからが僕たちの人生にとっての本当の始まりだと思う。アスカと一緒に皆に会いにいくまで、僕たちのことを見守っていてくださいね。』

シンジがそっとポケットに忍ばせたミサトの形見の十字架を無意識に握り締めながら、感慨に耽っていると

「ねぇ、シンジィ〜。」

甘ったるい声で自分を呼ぶアスカの声にシンジは意識を現実へ引き戻される。

「ど…どうしたの、アスカ?」

「それにしても……」

アスカはチラリとサエコの方を見る。

サエコの隣で嬉しそうにベタベタしているマヤの姿を、忌々しそうに睨みながら

「マヤの奴、あたしにあれだけネチネチと嫌がらせしておいて『あの人も最後は善人になりました。』で何もなかったように終わらせるつもりじゃないでしょうね?ましてや、あたしのママに手を出すなんて、思い知らせてやる必要があるわね。」

「ア…アスカ。マヤさんとはもう完全に分かり合えたはずじゃなかったの!?」

アスカはニヤリと笑うと

「シンジィ〜。あたしが本当にそんなに物分かりの良い女だと思ってたぁ〜?」

「………………………………………………。」

「シンジが言ったんじゃない。過去はなかったことにしちゃいけないんだって。傷つけられたプライドは十倍にして返すのがあたしのやり方なのよ…。シンジも知ってるでしょう?」

「ア…アスカァ〜。」

シンジはやや引き攣った表情でアスカを見る。

空港での一件でようやくアスカも辛い過去を吹っ切れたのだろうか。

あれ以来、アスカはシンジの良く知るかつてのアスカらしさを、みるみる回復しはじめている。

それはシンジにとって嬉しいことであったが、この様子だとまた昔のようにアスカに主導権を握られ尻に敷かれるのは時間の問題だなと思い、自分がイニシアチブを取ることが出来た、少し前までのしおらしかったアスカをシンジは密かに懐かしむのだった。

「ア…アスカ、結婚式の準備とかお膳立てをしてくれたのは、マヤさんなんだから、ここは穏便に………」

シンジは微かな望みを込めて恐る恐るアスカに尋ねると

「シンジィ、心配しないでも、約束通りマヤにはもう何も言わないわよ。勿論、指一本手出しをするつもりもないしね。けど、マヤにとって一番堪えるやり方で、今までの借りを返してあげるわよ。ふっふっふっ…。」

「…………………………………。」

『アスカは一体マヤさんに何をするつもりなんだろう…?』

シンジは何事もなく式が平穏に終わることを心から祈っていた。

 

 

シンジとアスカの二人は仲睦まじく腕を組んだまま花道を歩いていき、ちょうどサエコ達の前を二人が通り過ぎようとした瞬間、

『ヒカリには悪いけど、今回はあたしの私情を優先させてもらうわよ。さてと、それじゃ特訓の成果をご披露するとしますか。』

アスカはサエコ達に背を向けると、右手を大きく天に伸ばすように振り上げる。

その瞬間、若い女性陣が嬌声を上げる。

アスカの手に合った、白いブーケが空高く放り投げられたからだ。

ヒカリやサキが手を伸ばすが届かない。

ブーケは空中でクルクルと回転しながら、あらかじめアスカが計算し尽くした場所へ自然落下をはじめる。

「へっ!?」

吸い込まれるように自分の手元に落ちたブーケを、マヤは呆然と見詰める。

その途端、周りにいる女性から落胆の溜息が漏れる。

その声を聞いたアスカはクルリとマヤに向き直った。

そして、

 

 

  結婚式のアスカの最高の笑顔のVサイン

 

 

 

アスカはマヤの前で、険も嫌味もない、大輪の薔薇が花開くような明るい笑顔で、Vサインを決める。

それは一点の曇りもない、明るさと柔らかさを兼ね揃えた、アスカの最高の笑顔だった。

 

「………………………………………………………………。」

突然の花嫁の行動に、一瞬会場は静まり返る。

それから、花嫁は何もなかったように再び新郎の腕を取ると

「ああ、スッキリした。やっぱりこれくらいはやっても罰は当たらないわよね。」

アスカは悪戯を成功させた幼い子供のような無邪気な笑顔で微笑んで、軽く舌を出した。

「はははっ………。」

シンジは引き攣った笑顔で、渇いた笑いを浮かべる。

結婚式を挙げることが決まって以来、夜中にアスカがブーケを狙い通りの位置へ落とす練習をしていたのをシンジは思い出した。

『アスカってやっぱり執念深い性格しているんだなぁ。』

マナブの忠告を思い出したシンジは、『これは何があっても絶対に浮気は出来ないぞ…。』と密かに心に誓うのだった。

 

 

「そう…、それがあなたの復讐というわけね、アスカ?」

マヤは頬をひくひくと引き攣らせながら、無意識のうちに捻じ切れるぐらいの強い力でブーケを握り締める。

十七歳にしてシンジという生涯の最高の伴侶を手に入れたアスカ。

二十八歳にして未だ一人身、もうじき30‘s(サーティーズ)の仲間入りのマヤ。

手渡されたブーケとVサインは何を意味するのか…。

 

マヤはブーケを掻き毟りながら

「きぃぃぃ……!!今に見ていなさいよ、アスカァ〜!!何時かシンジ君より素敵な男性を見つけてギャフンと言わせてやるんだからぁ〜!!!」

日向と青葉の二人は衆人の中でいきなりヒステリーを起こしたマヤの様子を見て、

「なあ、マヤちゃんって…。」

「ああ、最後まで俺達のことは眼中にないみたいだな。」

青葉と日向はお互いに情けない顔を見合わせて、大きく溜息を吐き出した。

 

「すいません、マヤさん。娘がとんだ失礼なことをしでかして…。後できつく叱っておきますので。」

サエコは申し訳なさそうな表情でマヤに頭を下げる。

マヤはハッと気がつくとサエコの前で取り乱していた自分に気がついて、

「い…いやですわ、サエコさん。怒ってなんかいませんよ。あんな茶目っ気たっぷりの子供の悪戯に本気で腹を立てるほど、私は大人げなくないですよ。」

「そ…そうですか?」

「そうに決まってるじゃないですか、オホホホホッ……。」

マヤは笑顔でサエコに微笑んでいたが、おでこの辺りに青筋が二本浮かんでいた。

『とりあえず、サエコさんがいる間は大人しくしていてあげるわよ、アスカ。けど、サエコさんがお亡くなりになった後は覚えておきなさいよ…。私は今でもシンジ君の姉なんだからね。』

シンジを挟んでのマヤとアスカの嫁姑戦争は、むしろ、これからが本番なのかもしれなかった。

 

最後にちょっとしたハプニングが発生したが、こうして式は何とか無事収束し、楽しい夢の時間は終わり、参加者は皆それぞれの現実の世界へと還っていくことになった。

 

 

 

 

 

結婚式から三日後の第三新東京都市国際空港。

今日でシンジとアスカの二人は日本を離れることになるので、午前中に二人は旧ネルフ職員の墓参りをして、ミサト達に別れの挨拶を済ませてきた。

空港には二人の他にヒカリ・トウジ・ケンスケとサキとマナブの五人が二人を見送りにきていた。

サエコは結婚式の後、とんぼ返りでドイツへ帰国し、マヤも仕事の関係で今日の見送りには来ていなかった。

 

「これで本当にお別れね、アスカ。」

名残惜しそうなヒカリに

「そうね。機会があったら、ドイツへ遊びに来てね。」

「うん、きっといくから…。」

「待ってるね。」

アスカとヒカリは控えめな笑顔で軽く握手を交した。

 

「まあ、元気でやれや、シンジ。」

「うん、トウジもね。」

シンジもトウジと軽く握手を交す。

「「お兄ちゃん、ドイツへ行っても頑張ってね。」」

「うん、ありがとう、サキちゃん。マナブ君。」

ユニゾンでシンジに挨拶するサキとマナブの頭を、シンジは軽く撫であげる。

 

「相田…。」

アスカはヒカリから離れるとケンスケに声を掛ける。

「…………………………………………………。」

ケンスケは俯いたまま何も応えない。

アスカは蒼い瞳に憂いを帯びてケンスケを見下ろすと

「気付かない間に色々世話になっていたみたいね。けど、あたしはあんたに何もしてあげられない。ごめんね、相田。」

ケンスケは申し訳なさそうなアスカの表情を見て、

「そんなことはないぜ…。惣流にはあの結婚式で俺がずっと求め続けてきたモノを見せてもらったからな。」

「えっ!?」

「惣流の最高の笑顔だよ。」

ケンスケはゴソゴソとバッグの中を漁ると一枚の写真を取り出した。

それは、アスカが結婚式で教会をバックにマヤにVサインを決めた時の写真だった。

「やだなぁ…。あの時の姿を撮られていたの?」

アスカはその写真を見て、恥ずかしそうに頬を赤らめる。

「そうかな?俺は今まで見てきた中で惣流の一番良い顔だと思うけどな。」

不思議そうにケンスケは尋ねる。

「まっ、何にしても今回の件は俺にとっても本当に良い経験になったよ。」

結局、自分はアスカに対する想いを軸に、一時的な瞬発力でシンジに絡んだだけの話しであって、シンジのように目標に向かって継続的な努力を重ねてきたわけではない。

だから何も手に入らずに終わるのは、本当に当たり前の結末だったのだ。

ケンスケはチラリと愛用のカメラを見た後、

『俺も少しはシンジを見習って本気で何かに打ち込んでみるかな。』

少年は、自分が憧れた少女と別れの握手を交わしながら、そう心の中で誓いを立てた。

 

 

それから一時間後、

シンジとアスカの二人を乗せた飛行機は第三新東京都市から飛び立っていった。

「行っちゃったわね。」

「ああ…。」

トウジとヒカリはお互いにしんみりとした顔を見合わせる。

「……………………………………………。」

ケンスケは無言のまま何も応えない。

 

サキはどんどん小さくなっていく飛行機をじっと潤んだ瞳で眺めていたが、突然マナブの胸倉を掴むと

「マナブ、ちょっと、胸を借りるわよ!」

「えっ!?」

驚いた表情のマナブに、

「シンジお兄ちゃんは泣きたい時は泣いてもいいって言ってた。だから、あたしはもう無理しないことに決めたんだ…。お兄ちゃんと違ってあんたなんかじゃ全然役不足だけど、この際仕方ないから…我慢して…あ…げ…うっううっ…ひくっ…ううぅ……………。」

サキはマナブの胸に取り縋ると、鳴咽を漏らし始める。

「サ…サキちゃん……。」

突然、意中の女の子に抱き着かれ、さらに周りの好奇の視線を感じたマナブは、羞恥に顔を真っ赤にするが、自分に縋る弱々しいサキの姿を見て、シンジから譲り受けた『逃げちゃ駄目だ。』を心の中で連呼すると、マナブは震えた手を伸ばして、そっとサキを抱きしめる。

サキは一瞬、ビクッと反応したが抵抗しなかった。

 

ヒカリ達はサキとマナブの微笑ましい姿を、くすぐったそうな表情で見詰めながら

「確かサキちゃんとマナブ君だったわよね。あの二人って、どことなく三年前のアスカと碇君にそっくりよね。」

「確かに雰囲気とかそんな感じやな…。しかしシンジと惣流の二人も、エヴァなんぞと関わらなかったら、お互いに憎しみ合ったりしないで、あの二人のようにもっと素直に一緒になれたかもしれんのにな。」

「俺もそう思う。けど、エヴァがなかったら多分シンジと惣流は一生出会うことはなかったんだぜ。本当に皮肉な話しだよな。」

「……………………………………………………………。」

「そういう意味ではあの二人は、一緒になったシンジと惣流の別の可能性なのかも知れないな。」

そのケンスケの意見にトウジとヒカリは心から首肯した。

 

 

 

 

 

 

それからシンジとアスカはベルリンにあるサエコの自宅で、サエコと一緒に三人で生活することになる。

シンジは九月からベルリン大学の心理学部に通い始め勉学に勤しむことになり、サエコもアスカの出産が終わるまで職を離れることが出来なかったが、アスカが可能な限りサエコの仕事を手伝っていたので、以前に比べてサエコの仕事の負担は大幅に軽減されることになる。

あれからの医者の見立てでは、サエコの健康状態は不思議なほど良好で、うまくいけば一年以上生きられるという話しで、アスカはほっと胸を撫で下ろしている。

ただ、早めに仕事から退くように医者から強く勧められていたので、アスカは出産を終えたら、可能な限り早くサエコの仕事を引き継いで、サエコを仕事から引退させて余生を過ごさせようと心に強く誓っていた。

 

そのような事情で必然的に家事のほとんどは学生のシンジが担当することになったが、元々シンジは三年間の一人暮らしで似たような生活を送っていたので、特に問題なく学業と家事を両立させていた。

とにかく、このまるで血の繋がらない三人の共同生活は極めて円満であった。

 

 

 

 

それからさらに月日が流れ、十二月二十四日のクリスマスイブの夜。

雪が降り始めホワイトクリスマスとなったベルリンの夜は活気に溢れ、イブを祝う恋人達が町中に溢れかえっている。

そんな中、碇シンジはなぜか総合病院のソファーに腰を下ろして、祈るように両手を組み会わせている。

「こんな時、男ってのは無力なんだよな。」

シンジは分娩室の前で自嘲するように、自分の無力を嘆いた。

先程から部屋の中から途切れ途切れにアスカの苦しそうな唸り声が聞こえてくる。

その度にシンジは胃がキリキリと締め付けられるような苦い思いを味わった。

『出産にはサエコさんが立ち会ってくれてるからきっと大丈夫なはずだ。』

シンジは何度も何度もそう自分自身に言い聞かせた。

 

「オギャァ!!オギャァ!!オギャァ!!」

「産まれた!?」

部屋の中から聞こえてきた力強い生命の謳歌にシンジは慌ててソファーから立ち上がった。

分娩室の扉が開き、医師が現れてシンジを手招きする。

 

「アスカ、よく頑張ったね。」

シンジは黒い瞳に涙を溜めながら、ベッドにぐったりと横たわったアスカの手を取ると必死に声を掛ける。

アスカの蒼い瞳にも涙が溜まっている。

「シンジィ…。」

アスカは汗だくのやつれた顔で、無理してシンジに微笑んでみせる。

髪はぼろぼろで、頬も痩せこけていたので、今のアスカのやつれた笑顔は、結婚式の時に見せた最高の笑顔とは比べるべくもないはずだったが、なぜかシンジには今のアスカの姿がとっても奇麗に思えた。

シンジの笑顔を見て安心したのだろうか…。

アスカは安心しきった笑顔でそのまま気を失ってしまった。

「そうだ、赤ちゃんは!?僕とアスカの子供は!?」

「こちらよ、シンジ君。」

サエコに導かれて、シンジは分娩ケースの中にいる赤ん坊を覗き込んで

「こ…これは!?」

シンジは驚きの声を上げて、サエコの方を見る。

サエコは暖かく微笑んで

「元気な女のでしょう、シンジ君?確かに珍しい現象だけど、この娘の人生になんら影響を与えることはないわよ。」

「そ…そうですよね。」

シンジは一瞬取り乱してしまった自分に赤面した。

 

 

 

翌日、花束を抱えてアスカの病室を訪ねたシンジは、

「アスカ、体調の方はどう?」

アスカはにっこりと微笑んで

「ええ、もう大丈夫よ。それより、シンジ。あたしの…あたしとシンジの赤ちゃんは…?」

次の瞬間、腕に赤ん坊を抱いたサエコが病室に姿を現し、アスカは一瞬、円形の光がサエコの後ろに輝いたような錯覚を覚えた。

サエコは暖かい笑顔で微笑んで、そっとアスカの両腕に赤ん坊を手渡すと

「おめでとう、アスカ。本当によく頑張ったわね。この娘があなた達の赤ちゃんよ。」

アスカは、自分の手の中にある赤ん坊の寝顔を覗き込んで

「こ…これは!?」

この赤ん坊は身体的に何の障害もなく、完全な健康体であるはずなのに、最初にこの娘の顔を見た時のシンジと同じくアスカも驚きの声を上げる。

 

なぜなら、その娘の左目はシンジと同じ黒色で、右目はアスカと同じ蒼色だったからだ。

そう、それはまさしくシンジとアスカの遺伝子を受け継ぐ証。

金銀妖瞳(ヘテロクロミア)と呼ばれる遺伝子の悪戯だった。

 

しばらくしてサエコが退出したので、アスカは真摯な表情でシンジを見詰めながら

「ねえ、シンジ? この娘の名前は何にしようかしら?」

「うん、それはすでに決めてあるんだ。僕がつけてもいいかな、アスカ?」

「ええ、いいわよ。シンジが決めることならあたしに異存はないわ。」

「ありがとう、アスカ。僕たちは本当に辛いことだらけだったよね。何度も死にそうな思いをして、お互いに憎しみ合って、傷つけ合って、つらい絶望を何度も乗り越えて、それでもようやくここまできたんだよね。」

「シンジ……。」

「……………ねえ、アスカはギリシャ神話のパンドラの箱の逸話を知っているかい?」

「知ってるわよ。世界で最初の人間のパンドラが開けてはいけない禁断の箱を開けたら、その中から百を超える数多の災厄が飛び出してきたんでしょう?まさしくあたし達が歩んできた道そのものよね…。」

「うん、けどすべての災厄が飛び去った後、箱の中に何が残されていたか知っているだろう?」

「シンジ、それって、もしかして…」

 

「そう、希望(ノゾミ)だよ…」

 

二人の補完 後章「まごころを君に」編 完

 

 

 

 

 

エピローグ 

「ねえ、シンジ…。」

「何、アスカ?」

「結局、人類補完計画って何だったのかしら?」

「実はそのことでずっと考えていたことがあるんだ。多分、群体であるヒトの不完全さに…、何より一人で生きることの寂しさと、分かり合えない他人に対する恐怖心に耐えられずに、みんなの心を一つに纏めることでそれを補おうとした、心の弱い人間の最後の悪あがきだったと僕は思う。」

「そうだよね。シンジは補完を拒否したんだもんね。」

「いや…。僕は一度は融合を肯定してしまった。あの時の僕の心は弱かったから。
けどやっぱりそれは間違いだと思う。他人がいるからはじめて自分を認識出来るんだ。確かにヒトは不完全な生き物だと思う。けど、だからこそ少しでも完全に近づこうとして努力していくんだよ。
そして、それを補えるのはあくまで他人だけなんだ。自分とはまったく別のモノだけなんだ。昼と夜があるように…、光と闇があるように…、男と女がいるように。
そう、総ては単体ではありえない。自分と対極のモノが…、その対極のモノ同士で自分にないモノを補い合うコトが重要なんだ…。」

「男と女ね…。神は自分に似せてアダム(男)をつくり、アダムの骨からエヴァ(女)をつくるか…。」

「そうだよ。男と女がいるから、ヒトは単体ではない不完全な群体の存在だからこそ、お互いに求め合って、新しい生命を生み出して、そして次の世代へと一代で果たせなかった想いを引継いでいくんだ。」

「それが希望(ノゾミ)なのね。」

「うん、ヒトは不老不死ではないけれど、そういう意味では、この星に人類の歴史が続く限り、人々の希望もいつまでも引き継がれていくんだ、きっとね…。」

「あたしはシンジ(男)に出会えてよかった…。」

「僕もアスカ(女)に出会えてよかったよ…。」

「ねぇ、シンジ。あたしたち本当に不完全な出来損ないの群体の生き物だけど、二人でならこれからもやっていけるよね?」

「もちろんだよ、アスカ。僕の足りない所はアスカが…、そして、アスカの足りない所は僕が補っていけば、これからも色々問題が起きるだろうけど、どんな困難だってきっと二人の力で乗り越えられるさ…。」

「愛してる、シンジ。」

「僕も愛してるよ、アスカ。」

 

これがシンジとアスカが、辛い苦労と長い時を経てようやく辿り着いた二人の物語の結末…。

そう、二人の心の補完。

 

 

 

 

 

 


THE END
ver.-1.00 1998+12/24公開
ご意見・ご感想・誤字情報などは itirokai@gol.com まで!!

 

けびんです(^^;

足掛け一年。(すでに自分がめぞんEVAに入居してから一年が過ぎました)長かった本編もようやく完結しました。

途中書いていて本当に辛い時期もありましたが、今では最後まで書き切ってよかったと心から思います。

少なくとも『EOEから幸福になったシンジとアスカ』の可能性の一つを示すことは出来たと、自分では信じています。

それにしても、前章「AIR」編が一ヶ月チョイで終了したのに対して、後章「まごころを君に」編が、ここまで時間がかかってしまったのは、やっぱりモノを壊すのはとても簡単なことですが、一度壊れたモノを再び元の形に戻すのは、本当に大変なコトだという証明なんでしょうね。
(例えていうと“湯飲み”を壊すのは一瞬で済みますが、(地面に思いっきり叩き付ければいい。)その粉々に壊された“湯飲み”をそのまま再び元の形に戻すには、一体どれだけの時間と労力を必要とするか見当もつきません。(というよりほとんど不可能な気がする。)きっと、人間関係にも同じことがいえるのでしょうね。)

 

最後ですので特に本編の補足は致しません。

今回の最終話または本編全体を通じて感じたことなど、自作から正直に感じられたことを否定的な意見でも一向に構いませんので、幅広く聞かせてもらえたら嬉しいです。

メールでのご感想をお待ちしております。\(^o^)/

 

さて、今後のことですが、ここまで本編の完結に自分の持っているモノの総てを注ぎ込んできたので、さすがに今回で力尽きました。(本当に真っ白な灰に燃え尽きてしまいました。(爆))

何より「二人の補完」という作品を書いてきて、いささか自分自身に思うところもありますので、これを機に執筆から離れて、もう一度自分自身を見詰め直してみたいと思っています。

また僕にとっては「二人の補完」は恐らく最初で最後のエヴァ小説になると思うので、(というよりEOEから無理なく幸福になれたシンジとアスカの姿さえ見られたら、僕には他に書きたいテーマは何もないです。)次回作を書くことは、たぶんないと思います。

ですから、やや名残惜しいですが、これでめぞんからお別れになります。m(_ _)m

 

とはいえ、それでも僕は「二人の補完」の世界にまだほんの少し未練があります。

というのも、僕はこれから(結婚後)がシンジとアスカの二人の人生にとっての、本当の始まりではないかと思っているからです。

おおよその恋愛ドラマは、大抵の場合“結婚”という人生の一つのタームを以って、作品を完結させますが、僕は本当に男女が苦労するのは、結婚する前ではなく、結婚した後ではないか…と常々思っていました。
(独身の僕が、こんな偉そうなことを言っても全然説得力はないですが、きっと既婚者の方々は心から首肯されると思います。(笑))

だから、優れた恋愛ドラマを見る度に、結婚後の二人の人生を見てみたいものだと、いつも考えていたものです。
(恋愛漫画の名作「めぞん一刻」などは、一番結婚後の二人を見てみたかった作品でした。)

「二人の補完」も構成上、本編は“結婚”というタームで作品を完結させましたが、もし再び執筆する機会があれば「続編」という形で二人のその後の人生の軌跡を追いかけてみたいと思っています。
(人によっては蛇足と感じられたり、本編を完結させたのに往生際が悪いと思われるかもしれませんが…。)

 

何より、やっぱり人生には究極の悟りも補完もないというのが、僕の本当の持論です。

自作のシンジとアスカの二人も、最後エピローグで何やら悟ったようなことを言ってましたが、人生そんなに単純ではありません。

だから、その後の二人もこれからも何度も、悩んだり、すれ違ったり、夫婦喧嘩をしたりと、色んな問題や葛藤を抱えながら生きていくことになると思います。

けど、それでも本編のラストで二人が気づいたように、二人でならどんな困難も乗り越えられるのではないか…。

悩み苦しみながらも、それでも何とか最後まで二人でやっていけるのではないか…。

僕は心からそう信じています。

 

そんなわけで、もし再び執筆する機会があったら、いつかシンジとアスカのその後の二人の生き様を「続編」という形で描いてみたいと思っています。
(その時のテーマは二人の夫婦生活と、シンジがサードインパクトの償いとして自らの意志で選択したカウンセラーとしての半生ということになりますかね。)

私的には本編の完結で十二分に満足しているのですが、(約99.89%ぐらい(笑))『あれだけ苦労してようやく二人は一緒になれたんだから、もっと幸福な二人のその後の姿を見てみたい』という想いも確かにありますから。
(最もご承知のように作者の属性からして、書くとしても甘々・ほのぼのより、どちらかというとシリアスに傾くとは思いますが。(苦笑))

何はともあれ、結婚という人生の一つのタームをクリアしたシンジとアスカの、『その後の未来』を感じ取ってもらえたら、作者として本当に嬉しい限りです。

 

それでは、予告を入れといて何ですが、これでめぞんからお別れになります。

いつか再び「二人の補完」の「続編」を執筆することがあったら、その時にまたもう一度お会いしましょう。
(けど、本当にいつになるか…。半年か…一年先か……それとも………。う〜ん。そんなに間を空けたらきっとみんな「二人の補完」のことはすっかり忘れているだろうな(笑))

 

最後に、自分のエヴァに対する自己表現をする機会と場所を提供してくれた大家さん。
素晴らしい数々のイラストを描いていただいて作品の完結に華を添えていただけた撃墜王さん。
そしてここまで応援してくれた読者の方に等しくお礼を申し上げます。

本当にありがとうございました。

 

それでは、また会う日までさようなら〜。

 

ではであ(^^;

 


 


 けびんさんの『二人の補完』最終話、公開です。





 大団円(^^)


 あんなに、あんなにだった
 マヤさんと和解できて−−よかったっす。

 和解?

 フフフのフだけど、
 嫁舅の争いがヒヒヒのヒって(^^;


 アスカに昔の生き生きとした感じが戻ってきて、
 ・・・・シンジ、つかの間のイニシアチブだったなぁ(笑)

 いや、でも。
 サエコの前では子供になっちゃうアスカのことですから、
 シンジの前、シンジだけといる状態では、きっと、結構。な事になりそうだね♪





 サユリたちもどうにかで、前を向いたようだし、
 サキちゃんとマナブ君たちもいい感じだし
 みんなみんな、いいノリですね。


 けびんさんの後書きからもあるとおり、
 「人生そんなに単純ではありません」なので
 このまますべてが上手く行くとは言えんでしょうが、

 きっと、ね(^^)



 力作のエピローグでしたっっ



 本編シリアスできちんと簡潔・・・素晴らしいことですぅぅ






 さあ、訪問者のみなさん。
 書き上げたっっ、けびんさんに感想・感想・もっと書いて・お疲れさまetcメールしましょう!




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