「いやぁ〜!!」
アスカは目を覚ました。
「畜生、またあの夢だ…。」
アスカは唇を噛む。
いつもみる夢。
けどそれはアスカにとっての永遠の悪夢…。
一生消えない罪…。
多くの人間の血によって染められたアスカの手。
アスカの心が罪の意識から開放される時は来るのだろうか?
目を覚ましたアスカはきょろきょろを周りを見回してみる。
ここはミサトのマンションでもサエコの家でもない。
委員会から割り当たられた宿舎。
シンジと二人っきりの思い出のある場所。
けどそれは楽しい思い出ではない。
アスカの心に刻まれたもう一つの悪夢…。
のろのろと起き上がったアスカは洗面所で軽く顔を洗った後、シャンプーとリンスで髪を洗い、ドライヤーで髪を乾かしはじめる。
時間も準備もないから風呂には入らない。
ここにはシンジもサエコもいない。
アスカは一人で全ての支度を整えねばならない。
すでにアスカが宿舎で一人暮らしをはじめて1ヶ月近くが立つ。
シンジ…そしてサエコ。一人で生活してアスカはいかに自分が今まで同居人に甘えた生活を送っていたか改めて思い知らされた。
アスカは昨夜コンビニで買ってきたパンと牛乳で軽めの朝食を済ませながら軽くため息をつく。
「あたしって本当に駄目な女ね…。勢い込んでママのところから飛び出してきたけど、結局一人じゃ何も出来ないんだわ…。」
サエコの元から離れて以来、再び悪夢に脅え続ける自分をアスカは自嘲する。
『あたしはいつからこんなに弱い女になってしまったんだろう。ううん、あたしははじめっから弱かった。ただ、それを認めるのが嫌だから強がっていただけ…。きっと、これが本当のあたしの姿なんだ。』
アスカは時計を見る。すでに早朝の8時を過ぎている。
「いけない! 今日から学校なのに、遅刻しちゃう!」
アスカは慌ててクローゼットを開く。そしてハンガーに掛かっている服を取り出して急いで着替えはじめる。
アスカは第三高校のセーラ服に着替え終えると、手鏡を持ち出して櫛で自慢のブロンドの髪を整えはじめる。そしてセットを終了させて
「完璧!!」
と呟いた後、机の上に立てかけられたフォットスタンドを持ち上げる。
スタンドに入っているのはシンジが14歳の時の写真だった。
今現在のシンジの写真も一応持っているが、あえてアスカは3年前のシンジにこだわった。
『あたしはシンジが好き…。』
それはアスカがシンジと再会して改めて認識した確乎たる自身の想い…。
だからもう一度取り戻すの。
3年前シンジと普通に笑っていられたあの瞬間(とき)を…。
『あたしはシンジが好き…。だから絶対に負けられない。相手がマヤだろうと霧島さんだろうと絶対に…。』
アスカの宝石のような蒼い瞳に強い意志の力が宿りはじめる…。
「アスカ、行くわよ!」
アスカはそう自分に宣言すると鞄をかかえて宿舎から出ていった。
第十六話 「学園」
「惣流・アスカ・ラングレーです。よろしく。」
そう挨拶したアスカは担任の先生に勧められてシンジのやや後方の席に腰を下ろした。
昼休みの時間、アスカは当たり前のようにクラス中の男子生徒に囲まれて質問攻めにあっている。
シンジ達はその様子を遠目から興味深そうに見ている。
「ねぇ、惣流さんは委員会の研修生なんだろ?どうしてわざわざこの学校に来たの?」
その男子生徒の質問にアスカはやや言いにくそうに
「…………一度、普通の学校生活を満喫してみたかったんだ…。あたし飛級で大学を出たから中学も高校もろくに通っていなかったから…。」
その様子を遠目から聞いていたトウジがあきれた顔をして
「ホンマに白々しいオナゴやな。そう思わんか、ケンスケ?」
「………………………………………。」
ケンスケは何も答えない。
アスカは趣味とかドイツでの生活とか色々質問され、一つ一つの質問に丁重に答え続けている。そして
「それで、惣流さんは今恋人はいるの?」
その質問に男子生徒を息を潜めてアスカの解答を待つ。
アスカはやや迷った後、チラリとシンジの方を見ると、軽く舌を出して
「今はフリーよ。ドイツにいたボーイフレンドとは別れてからこっちへ来たから…。」
そのアスカの答えに男子生徒は「おおっ…!!」とどよめきの声をあげた。
やがて、質問が一段落したアスカは人だかりの山を振り切って、シンジ達のグループに顔を出すとヒカリがクスリと笑って
「お疲れ様、アスカ。転校初日から大変だったわね…。」
「そうね。まったくやんなっちゃうわよ…。どうして日本人って転校生とか外人っていうシチュエーションに弱いのかしらね…。」
「アスカが特別なだけよ…。これから先も色々あると思うわよ…。」
「…………………………………。」
「それにしても、随分と思い切ったことをしたわね。そりゃ、アスカの気持ちは分かるけどさ。それに転校してくるにはちょっと時期が半端だったわね。後1月もしないうちに進級しちゃうのにね…。」
「まあね…。けど、あたしには時間がないんだもの…。あたしが日本にいられるのは研修期間中だけだしさ…。」
アスカは軽く舌を出してヒカリの質問に答えた後、マナの方を向き直って
「お久しぶりね、霧島さん。」
「本当にお久しぶりですね、アスカさん。」
アスカの挨拶にマナもにっこりと笑って挨拶を返す。
表面上は穏やかに笑顔を繕いながらも心の中で思案せずにはいられない…。
『アスカさん…。3年前、常にあたしとシンジの間に割り込んできたシンジのことを好きだった女性。2年前にシンジと再会した時、あたしはシンジの隣にアスカさんがいなかったことに心から安堵した。けどその時にはシンジの心の中には別の女性が住んでいたような気がする。シンジとはじめて出会った頃は己惚れでなくシンジの想いを感じることが出来た。けど、その時に比べると今ではもうシンジの心があたしの身近に感じられない…。それはやっぱりアスカさんなのだろうか…。だとしたらあたしがいなかった一年の間にこの二人に何があったのだろう…。』
アスカはアスカで表面上のマナの笑顔を見詰めながら
『本当に邪気の感じられない娘よね。内心はきっと穏やかじゃないはずなのに…。それにしても霧島さんはシンジとどこまでいっているのかしら…。手を繋いでる…。キス…。それとも………………うぅ…そ…そんなのイヤァ〜!!』
「あの、アスカさん。」
「あ…はい、なあに、霧島さん?」
妄想から覚めたアスカが慌てて返事を返すと、マナは軽く微笑んで
「これから、よろしくお願いしますね、アスカさん。」
マナは軽く微笑んでアスカの前に手を出した。
「こ…こちらこそよろしくね、霧島さん。」
アスカがやや拍子抜けした顔で握手を返す。
三馬鹿トリオの三人はそれぞれの瞳にそれぞれの思惑を称えて二人の表面上は穏やかなやり取りをじっと見ている。
アスカは次にシンジの方に向き直ると
「ねぇ、シンジ。あたしもシンジ達のグループに入れてくれないかな?」
「えっ!?」
アスカは自分を遠巻きに見ている男子生徒の人だかりをチラリと見ながら
「一人でいると色々面倒そうだからさ…。だから、ねっ…。」
アスカが片目をつぶって軽く手を合わせると
「ぼ…僕は別にいいけど…」
シンジがチラリと全体を見回すと
「もちろん、あたしはいいわよ…。」
「ワイも別にかまわんで…。」
「…………………俺もいいぜ。」
「あたしも……」
メンバー全員の承諾が出たのでアスカは『とりあえず何とか第一関門は突破ね…。』と心の中で安堵のため息をもらすと、再びシンジに向き直って明るく微笑みながら
「というわけで、これからよろしくね。バカシンジ。」
「う…うん。よろしくね、アスカ。」
こうしてこれ以後、アスカはシンジ達のグループに加わることになった。
その様子を遠巻きに見ていた男子生徒がヤッカミの声を漏らす。
「おい、聞いたか?、なんかあの二人お互いを名前で呼び合っているみたいだぜ。」
「チッ!また碇の奴かよ。さっきの質問でドイツのボーイフレンドとは別れてきた…とかいっていたから期待していたのにな…。」
多数の男子生徒の嫉妬の視線がシンジに突き刺さったが、相変わらずその手のことににぶいシンジは気がつかなかった。
アスカは転校してきて瞬く間に、その話題性とルックスから学校中の注目の的になった。
「なあ、見たか?2年A組に転校してきた転校生を?」
「ああ見た見た。すげえ、金髪美少女なんだろう?」
「聞くところによるとすでに14の時に大学を卒業していて博士号まで取得しているらしいぜ」
「ふ〜ん。天は二物を与える物なんだな。」
「それに委員会の次世代MAGI管理者候補の研修生らしいぜ」
「それって、エリートってことか?」
「それにしても、なんでそんな娘が今更うちの高校に転校してきたんだろう?」
「さあな。お嬢様の気まぐれじゃないの。けど、学校中の男子生徒が目の色変えているみたいだぜ。」
「おっ、噂をすれば……。」
自分の話に盛り上がる生徒の間を平然と通り過ぎて登校する金髪の少女。
少女の豪奢なブロンドの髪が揺れるつどキラキラ光輝く粒子があたりに振りまかれるような錯覚を周りの者は覚えた。
少女が通り過ぎた後、思わず生徒達の間からため息が漏れる。
「やっぱり、グーだよな」
アスカが下駄箱を開けるとラブレターが山のように零れ落ちた。
アスカは軽くため息をついてやや思案した後、ラブレターの山を全て鞄の中に放りこんだ。
その様子を遠くから見ていたトウジがケンスケに
「惣流の奴ホンマにかわりよったな…。以前はラブレターの山を踏みつけとったからな…。惣流の奴も少しは大人になったのか、それともただ単に猫を被ってるだけなのか、どっちやろな?なあ、ケンスケ?」
「………………………………………………。」
トウジはケンスケに話題を振ったが、ケンスケは何も答えない。
「……………まあええわ。それより、ケンスケ。何で以前のように惣流の写真を売らへんのや?この様子ならまた飛ぶように売れると思うけどな…。」
ケンスケはそのトウジの問いに
「勿体無くて売れるかよ…。」
とやや頬を上気させて答えると、そのままトウジから離れていった。
その様子を興味深そうに見ていたトウジが
「ふ〜ん。どうやらこいつはマジみたいやな…。とはいえ、ケンスケみたいに女に免疫のない奴が一人の女に夢中になるとどうなるものやら…。けど、相手が惣流とはつくづくケンスケも女運のないやっちゃで…。」
トウジはシンジの事を思い浮かべながら、心の中で級友の失恋を確信して手を合わせた。
ケンスケは廊下を歩きながら、昨日撮ったアスカの写真を見比べて軽くため息をつく。
『奇麗だ…。笑っている写真も何枚かある。けど、どれも意識的に笑っているだけで、無意識に微笑んでいる写真は一枚もない…。見てみたい。惣流の心からの本当の笑顔を見てみたい。』
アスカは研修のある水・土以外の曜日は一般生徒と同じように学校へ通いはじめている。
アスカが学校へ来た目的は一つだけである。
シンジ…。
シンジのことを想うだけでアスカの胸が痛くなる。
あたしは本当にシンジのことが好き…。
けど、あたしは今のシンジをよく知らない…。
3年の間、シンジがどう生きてきたかを知らない…。
だから少しでもシンジのことを知りたい…。
シンジを見ていたい…。
そしてその想いを適えられる場所は学園しかなかった…。
だから、アスカは授業もそっちのけでいつもシンジを見ていた…。
彼女の想い人の姿を…。
そして学園に顔を出す都度、アスカはシンジの変化に驚かされる。
3年前に比べてシンジが変わったのは外面よりもむしろ内面の方かもしれなかった。
授業中いつもシンジはクラスの中心になって積極的に手を挙げて質問している。
アスカはシンジの後ろの席から、じっとシンジを見つめている。
『あの目立つことを嫌がってひっそりと自分の殻の中に閉じこもっていたいくじなしがね…。』
そしてそれ以上に驚きなのが、あのシンジが積極的に他人とかかわろうとしていることだろうか…。
休み時間や放課後、シンジはグループ以外の級友に話し掛けて、悩みの相談を受け積極的にアドバイスしたりしている。
3年前の内罰的な臆病な少年のイメージでしかシンジを見ることができなかったアスカにはそんな今のシンジの姿にどうしても違和感を感じるのだ。
勿論、アスカはシンジの将来の志望がカウンセラーだということは知らなかった。
シンジにしてみれば級友間の悩み相談は、いわば軽い予行演習のようなものである。
将来的にはシンジは、かつての自分やアスカのような生きるか死ぬかまで心が追いつめられた人間を相手に仕事をするつもりなのに、青春レベルの悩み相談ぐらい軽くこなせられなければ、心を壊した人間の役に立てるとは到底思えなかったので、シンジは自分から積極的に他人と関わっていくことにしていたのである。
シンジの変化は以前に比べて極めて前向きなもので不快感を感じるものではない…むしろアスカにとって心地よくさえあったが、それでもアスカは戸惑わざるえない…。
『どうしてシンジはこんなに自分を変えることが出来たのだろう?』
3年前シンジは自分さえ支えられない…そしてアスカに縋らなければ生きていけない…本当に心の弱い人間だった。
けど、今ではアスカの目から見ても、見違えるほど逞しく成長している。
『一体この3年間の間にシンジに何があったのだろう?何が今のシンジをここまで支えているのだろう?』
アスカには解けない謎だった。
知りたい…。少しでもシンジのことを知りたい…。
そして、近づきたい…。シンジの心に近づきたい…。
今は遠くから見ているだけでいい…。けど、いつかきっと…。
アスカは蒼い瞳にせつない想いを浮かべてじっとシンジのことだけを見続けていた。
「なんですってぇ〜!?アスカが高校に入学したですってぇ!?」
「ま…まあ、そうだけど……。」
職場で大声を上げるマヤに青葉は言いにくそうに答える。
アスカからマヤにだけは黙っていて欲しいと頼まれていたが、到底いつまでもごまかしきれるものではなかった。
マヤは青葉を恐い目で睨むと
「ちょっと、青葉君。何でそういう事は事前に一言私に相談しないのよ!?アスカは私の生徒なのよ。それを勝手に…。」
「い…いや。ア…アスカちゃんが研修の方は順調だから、普通の学校生活を体験してみたいって頼まれちゃって、ついね…。」
マヤの剣幕に飲まれて青葉はしどろもどろに返事を返す。
「…………………………………………。」
「ま…まあ、それは建前で本音の方は見え透いてたけどね、ハハ…。」
青葉としてはアスカがシンジとくっついてくれれば前よりはマヤを落とし易くなるかな…と安直に考えていたが今になって何かとんでもない過ちを犯したような気がしてならなかった…。
「青葉君…。」
「な…なんですか、マヤちゃん。」
「見損なったわ。」
マヤは冷たい視線で青葉にそう告げるとそのまま部屋から出ていった。
「へっ!?」
そのマヤの言葉に青葉は呆然とする。
そしてどうやら自分の行動が思いっきりマヤの株を下げてしまったらしい事に気がついてがっくりと肩を落とした。
その様子を黙ってみていた日向が、表面上は同情する振りをして、軽く青葉の肩を叩く。
無論、内心ではマヤを巡るライバルが勝手に自滅したことを喜んでいた。
とはいえマヤの二人に対する評価は極めてプラマイゼロに近かったので、青葉の評価が一時的にマイナスになっただけで、別に日向自身の評価が上がったわけではなかったのだが…。
『まさか、そういう手があったとはね…。本当にやってくれるわね、あの娘は。まったく油断も隙もありゃしないわ…。』
マヤは廊下を歩きながら、忌々しそうにアスカの事を思い浮かべる。
『こんなことなら水・土以外の平日も拘束しておくべきだったわ…。まさに研修規則の網の目を掻い潜られた気分ね。それにアスカだけじゃない…。調べたところ成績上位の研修生達は拘束されていないのをいいことに平日遊びまわっているみたいだし…。MAGIの管理責任者も随分と舐められたものよね…。』
今になってマヤは、研修生の自主性に任せたカリキュラムを作ったことを後悔しはじめた。
「いずれにしても放置してはおけないわね。」
マヤは厳しい表情でそう呟くと腕を組んだまま何かを思案しはじめた。
『アスカは何しに学校へ来たのだろう?』
それがシンジが今抱えている最大の疑問だった。
今日は水曜日。アスカは委員会の研修の方に顔を出していて、ここにはいない。
3年前に比べて変わったのは何もシンジだけではない。
アスカの場合も、ルックスや髪の色の変化に目を奪われがちだが、シンジと同じく最も変わったのはむしろ外面より内面の方かもしれなかった。
3年前のアスカの印象は赤い薔薇そのものであり
『美しい薔薇には棘がある。』
その言葉通り、素材としての美しさは誰もが認める所だが、手を伸ばして触れると全身の棘で傷つけられてしまう、どうしてもそんな危ういイメージが付きまとうのだ。
だが、今のアスカからはそんな雰囲気は微塵も感じられない。
以前の明るさはそのままに、一部の人間の鼻についていたであろう、他人を見下すような勝ち気な色や、険のある表情は完全に消えていた…。
今のアスカの表情や仕種は明るさとやわらかさに満ちていた。
かつてのアスカを知る者も知らない者も今のアスカが絶世の美少女と賞していいほどの、極めて魅力的な女性であることは認めざるえないところだった。
ただ、アスカがシンジの内面・外面の変化を楽しめたほどには、シンジにはアスカの変化を楽しむことは出来なかった。
シンジのアスカに対する思考には常に雑音(ノイズ)が混じっていたからだ。
『もしかするとアスカはシンジ君に復讐するために、日本へ戻ってきたのかもしれないわね…。』
その、マヤから与えられた疑惑は今でもシンジの心の中に根強くこびりついていたからだ。
むろん、今のシンジにはアスカに対する憎悪や反感は欠片も存在しないのだが、一度アスカに騙され裏切られた体験が、強いトラウマとなって今でもシンジの心にこびりついているためである。
だから、以前の勝ち気なそして内省とは無縁だったアスカしか知らなかったシンジには、どうしても今の妙にしおらしいアスカに作為的なものを感じてしまうようだった。
『今日は委員会の方に顔を出しているからアスカは休みか…。それにしても本当にアスカはなんで今更わざわざ高校に来たんだろう。まさか本当に学生生活を満喫するためだとも思えないし…。』
シンジにはアスカの真意が分からなかった。
ヒカリやトウジから見ればアスカの転校の動機は見え透いていたが、マヤから与えられた疑惑から今のシンジは素直なアスカを信じることが出来なかったので、まさか転校してきた動機が自分だとは思いもつかなかった…。
『まさか、本当にマヤさんが言う通り僕に復讐するため…てわけじゃないよな…。』
一瞬、暗い考えがシンジの頭の中をよぎる。
『アスカの真意が分かれば…。』
だが、そのことをアスカに問いただすのは不可能だった。
もし本気でアスカが再びシンジに対する復讐を目ろんでいるのなら、問いただしたところでアスカが正直に答えるはずもないし、もしそのシンジの疑惑が完全な誤解だとしたら、その行為はアスカを深く傷つけるだけだからである。
考えても答えは出てこない。やがて、シンジはあれほど自分が求めていたはずの少女を未だに疑っている自分自身に気づいて自己嫌悪した。
『これ以上よけいなことを考えるのはよそう。とにかく僕は今まで通り精一杯頑張るだけだ。アスカの真意だっていつかきっと分かるだろうし、必要以上に気を遣うのはよそう。』
シンジはそう決意すると、一時限目の英語の授業に備えて、教科書を準備する。
そのシンジの様子をやや暗めの表情でマナが見つめていたのにシンジは気がつかなかった。
「………というわけで、本日の講習を終了します。皆様お疲れ様でした。」
本部ビルの研修ルームでマヤが挨拶すると研修生達はそれぞれ帰り支度をはじめる。
アスカが教本をバッグに詰めていると、マヤがアスカの目の前まで現れて、無表情にアスカを見下ろして声をかける。
「アスカ…、ちょっと話があるから私の部屋まで来てくれるかな?」
『やっぱり、来たわね…。』
アスカは心の中でそう呟くと「はい…。」と返事をしてマヤの後についていった。
「さてと、それじゃ何故、いきなり高校に通いはじめたのか説明してもらいましょうか?」
感情を抑制した声でマヤがアスカに尋ねる。
「………………………………………………。」
アスカは無言のまま何も答えない…。
無論アスカもマヤが大人しくアスカの転校を黙って見ているとは思わなかった。
「なぜすでに大学を卒業しているあなたが、今更高校へ通う必要があるのかしら?」
アスカの本心は見え透いていたがそれでもマヤは尋ねてみる。
「もう一度、学校生活を味わってみたかったから…。それだけよ…。」
『まったく嫌みな女ね…。どうせあたしの本音も建前も分かりきっているのに、わざわざこんなことを尋ねるなんて…。』
アスカはマヤの態度に憤りを感じざるえない…。
「アスカ…。あなたは次世代MAGI管理責任者の候補生として日本に来て研修に参加しているのよ。自分の立場を分かっているの?」
再びマヤが尋ねる。心なしか声の語調が荒くなる。
「な…なによ。別に水曜と土曜の講習にはちゃんと顔を出してるでしょう。研修にはちゃんとついていけてるのだから、他の曜日に何をしようとあたしの勝手でしょう。」
そのアスカの開き直った態度にマヤは瞳に嫌悪感を募らせてアスカを睨むと
「アスカ…。前々から思っていたけど、あなたMAGIの管理責任者という地位を随分軽く考えているみたいね。前にも説明したと思うけど、あなた達はサードインパクトで混乱した世界を復興させるための重要な職務をいずれ担うことになるのよ。本当にそれが分かっていて発言しているのかしら?」
「わ…分かっているわよ…。」
アスカの語調が若干弱々しくなる…。
「研修生の中には日曜日にも委員会に顔を出している子もいるのよ。今度新しくMAGIが導入されることになった、南アジア・アフリカの地域から来た候補生は自分の祖国を立て直そうと夜も寝ないで必死に頑張っているのよ…。それに比べるとあなたをはじめとした一部の候補生は随分今回の研修に対して不真面目な印象を受けるのは気のせいかしらね…。」
マヤが厳しい表情でアスカを見つめる。
この時のマヤの顔は完全に怜悧な科学者の顔になっていた。
「…………………………………………………。」
アスカはやや青ざめた顔で俯いている。
「まぁ、けどあなたの言う通りビジネスの世界は結果が全てよ。どれほど努力しても、結果が出せなければ何の意味もないし、ちゃんと結果が残せるのなら、確かに拘束時間以外は何をしようとあなたの自由よ。私が何を言いたいのか分かるわよね、アスカ?」
「……………………………………。」
「これからはあなた達、研修生の実力を試すために、2週間に1回、MAGIの疑似シミュレーションを使ったテストを行う予定になっているわ。その時、所定の成績を残せなかったらわかっているわよね?学校の方はやめて研修一本に絞ってもらうわよ。異議はないわね、アスカ?」
マヤは反論を許さない強い口調でアスカに問い掛けると
「わ…わかったわよ。話はそれだけなら失礼するわよ。いいわね、マヤ!?」
マヤが黙ってコクリと肯いたので、アスカはそのままマヤの研究室を出ていこうとした。
そしてアスカが扉のノブに手を掛けた時、マヤがアスカに嫌みな声を掛ける。
「今更何をしても無駄だと思うけどね…。」
そのマヤの声にアスカの動きが止った。
そしてアスカは軽く唇を噛むと無言で部屋から出ていった。
「とことん私の触角を刺激してくれるわね、あの娘は…。」
アスカが出ていく様を無表情に見詰めていたマヤは忌々しそうにそう呟いた。
何もマヤだけが一方的にアスカに不快感を与えていたわけではない。
今この二人の女性は第三新東京都市で最も分かり合うことが困難な一組だった。
マヤは自分がMAGIの管理責任者であり、世界復興の重職に携わっていることを誇りにしていた。
マヤのMAGIに対する思い入れは半端ではない。
なぜならMAGIはマヤの尊敬してやまない今は亡き彼女の先輩が残した最後の忘れ形見なのだから…。
すでに分かってはいたが、今回の研修を軽視する一連のアスカの態度にマヤは自分の仕事とプライドを侮辱された気分だった。
「いずれにしても、もうこれはシンジ君だけの問題ではないわね…。仕事に私情を持ち込むのはやめようと思っていたけど、そっちがその気ならこちらもとことんいかせてもらうわよ。とにかくMAGIの管理責任者が学園生活の片手間になれる程度のものだと思われちゃ困るのよ。今回の研修を舐めている他の候補生も含めて思い知らせてあげるわよ、アスカ…。」
そう呟くとマヤは自分の端末を立ち上げて、何かを作成しはじめた。
「研修スケジュールの変更?」
冬月が自分の執務室で声を上げると、マヤは
「えぇ、研修生の自主性と計画能力を促すために、研修生自身にスケジュールを立てさせたのですが、あまりうまくいっていなかったみたいです。」
「ふ〜む。アイデアは悪くなかったと思うがな…。」
「はい、確かに私もそう思ったのですが、このデータを見てください。正直、研修生の間に実力の開きがあるので、成績下位者をベースにしてカリキュラムを作成したのですが、その為に余裕のある成績上位の研修生達は拘束日以外ほとんど顔を出さないで、遊びまわっているみたいです…。」
「…………………………………………………。」
「なかには学校へ通い始めたとんでもない娘も一人いますしね…。」
マヤは冬月に聞こえないように軽く呟いた。
「何かいったかね?」
「い…いいえ…。とにかくこのままだとまずいと思うので、カリキュラムの方を少し変更したいのですが、よろしいでしょうか?」
そう言ってマヤは昨日作成した新しいカリキャラムを冬月に見せると
「ふ〜む。ペースが前の倍近くになっているなぁ…。確かにこれなら成績上位者も気は抜けないだろうが、今回MAGIを導入することになった国から来た研修生はこのペースに着いていけるのかね?」
「はい。それは大丈夫です。成績下位者は日曜日にも本部へ顔を出すほど勉強熱心な子達ですから…。それに万が一着いていけなくなったとしても私が責任をもって面倒みますから…。」
「分かった。そこまで言うのなら認めよう…。もともと研修に関しては君に一任してあることだしな…。」
「はい、では来月からこのカリキャラムに沿って研修を進めさせていただきます。」
マヤは軽く頭を下げるとそのまま執務室から出ていった。
マヤはうまく冬月を丸め込めたのに内心満足しながら
『これで研修を舐めていた一部の候補生も必死で取り組まざるえなくなるわよね…。さ〜てと、いつまでのんきに学校に通っていられるか楽しみにみさせてもらうわよ、アスカ。』
アスカは、マヤの陰謀が秘密裏に進行していることを知らずに、今の学園生活を心から満喫していた。
学園にはアスカが3年前に失った全てが存在していたからだ。
アスカは学校中の注目を集めていたが、ささやかながらアスカの存在を喜ばない存在も確実に学園内に存在していた。
「ねぇ、どう思う?惣流先輩について?」
正面玄関の死角になる位置から下駄箱から零れ落ちたラブレターの山を拾いあげているアスカの姿を見詰めながら、シンジのファンクラブのメンバーである3人組みがアスカを吟味している。
「なんか気に入らないのよねぇ…。転校してきて瞬く間に学校中の男達を虜にしちゃってさぁ。」
「そうそう、聞いた話だとすでに二桁を超える男性が惣流先輩に告白して振られたみたいよ。サッカー部のキャプテンとか、プレイボーイで鳴らしている東郷先輩とか有名所も含めてね…。」
「断る時のセリフが『ごめんなさい。』の一言だって…。なんか、お高くとまちゃってやな感じよね。」
「ねぇ、サユリ…。あんたはどう思うの?」
その言葉にポニーテールの少女は興味なさそうに
「別に…。あたしはあの金髪女が、学園内で幅をきかせようと関係ないわ。あたしが興味あるのは碇先輩だけだもの…。」
「そう言うと思った…。けど、惣流先輩って碇先輩と知り合いみたいだよ。」
「何よ。それ?」
「あくまで、噂なんだけどね。惣流先輩って碇先輩が目当てでわざわざ転校してきたって話しだよ。なんかお互いを名前で呼び合っているみたいだしね。」
「…………………………………………………………。」
「ところでさぁ…。さっきから気になっていたんだけど…。」
「な…何よ?」
サユリの左手にいる少女は自分達とは反対側の物陰を指差すと
「あそこで、こそこそ隠れている奴、誰なんだろう?制服からして、うちの学校の生徒よね?なんか惣流先輩の写真撮っているみたいだけど…。」
サユリは物陰にいる臆病そうな少年を見て
「なんだ。山本じゃない…。ふ〜ん。あいつうちの学校の生徒だったんだ。」
「知ってるの、サユリ?」
「中学の時、クラスが同じだっただけよ。すごいカメラオタクでさぁ…。奇麗な女を見かけるとすぐにのめり込んで写真を取りまくるみたいよ。ストーカーまがいのこともしているみたいだし。本当は面と向かって女と喋ることも出来ない臆病者なんだけどね。」
そのサユリの言葉に右手にいた少女はクスリと笑うと
「なんだ、サユリと同類じゃん。」
「同類とは何よ!?同類とは!?」
「山本君だっけ。ひょっとしたらストーカー同士サユリと気が合うんじゃない?」
その言葉にサユリは顔を真っ赤にして
「ふざけたこと言わないでよ。あたしの理想は高いのよ!」
「はいはい、今も昔も碇先輩がサユリの白馬の王子様なのよね?」
右側の少女が興奮したサユリを宥めていると
「それにしても、この学園って本当に危ない奴が多いわよね。ストーカーだかカメラオタクだとか………そう言えばカメラオタクといえば2年の相田の奴はどうしたのかしら?いつも碇先輩や霧島先輩の写真を売りさばいているのに、惣流先輩の写真は売っていないみたいじゃない。」
「あんなメガネオタクのことなんかどうでもいいわよ。とにかくあたしをあんな変態男達と一緒にしないでよね。」
サユリはそれだけ宣言すると靴を上履きに履き替えて校舎の中へ消えていった。
残された二人は顔を見合わせて軽くため息をつくと慌ててサユリの後を追いかけていった。
そして昼休み。
シンジ達のグループは机を並べて昼食の準備に取り掛かった。
シンジとマナは鞄から自分の弁当を取り出した。ヒカリは自分の弁当とそしてトウジの分の弁当を取り出してトウジに手渡す。
「いつもすまへんな、ヒカリ。」
「うん、いいのよ。トウジ。」
微笑ましいヒカリとトウジを尻目にケンスケは何時ものように、パンを買いに教室から出ていった。
アスカはシンジの弁当をやや物欲しそうな目で見ていたが、すぐにケンスケの後を追うように教室から出て行くと
「待ってよ、相田〜!!」
「惣流……?」
「あたしも昼食はパンだから購買部まで連れっててよ。」
「あ……ああ…。」
ケンスケがやや赤くなって曖昧に肯いたので、アスカはケンスケの半歩後ろを歩きながらケンスケの後をついていった。
ケンスケは並んで歩くアスカの顔をチラチラと見る。
アスカの方はケンスケをまったく意識していないようだ。
ケンスケはアスカの顔を真近で見るだけで、どんどん自分の胸の鼓動が高まっていくのを感じた。
『こうして真近で見ると本当に奇麗だ…。それにこの感じは……。』
これが恋というものなのだろうか?
今まで少年にとって女性はただの被写体でしかなかった…。
ただ、思春期相応に漠然と女性に持てたいという願望を持っていたにすぎなかった…。
だが、今の少年にとって隣にいる少女は特別だった。
そしてその想いは本当に少年を戸惑わせた。
正直、自分の中にこれほど純粋(ピュア)な想いが存在しているとは少年は思っていなかったからだ。
少年は完全に自分の想いを確信することが出来たが、その真実はなかなか少年を心楽しませなかった。
なぜなら少女にとって自分はまったく眼中にないことを理解していたから…。
そして少女の蒼い瞳の見ている先が誰なのかを嫌というほど知っていたからだ。
シンジ……。
少年の友人であり、かつては憧れの対象だった男。むろん、その想いは決して消えたわけではないが、今では嫉妬と反感という若干の負の感情も混入している。
その反感の根源は、かつては女性に持てたいという自身の願望をその男が独占していたからであり、今では少年が憧れている蒼い瞳の少女の視線さえもその男が独占しているからである。
ケンスケは再びアスカの顔を見上げる。
この見上げるという行為が…女性であるアスカが男性である自分よりも背が高い…、という事実がまた少年の劣等感を刺激する。
『やっぱりどう見ても高嶺の花だよなぁ…。』
少年は少女と自分を見比べてどうしてもコンプレックスを感じてしまう…。
何より相手は誰もが認める絶世の美少女であり、14歳で大学を卒業した才女でもある。
そして自分は容姿も学歴にも何の取り柄もない一学生である。
釣り合わない……。
その想いはますます少年を惨めにする…。
「ねぇ、相田…」
その時アスカがケンスケに声を掛けた。
「な…なんだよ、惣流?」
ケンスケは内心の動揺を悟られないように素っ気無く答える。
「…………シンジと霧島さんってどこまで進んでいるのか知ってる?」
ヒカリはあの一件以来完全にアスカとマナから等距離を保っていたので、アスカはこの件に関する中立派と信じているケンスケにシンジとマナの関係について軽い気持ちで尋ねただけだった。
だから、アスカのその質問がどれほど目の前にいる少年の心を揺さぶっていたのかアスカは気がつかなかった。
「………………まぁ、着かず離れずといった感じじゃないか。俺が見たところじゃ友達以上恋人未満ってところだと思うぜ。あの二人は…。」
「ふ〜ん。そうなんだ………。」
「そ……それより惣流さぁ…。」
「何よ?」
「またシンジに弁当とか作ってもらったりしないのか?」
そのケンスケの質問にアスカは大きくため息を吐き出した後
「そうしてもらえたら嬉しいんだけどね、多分無理よ…。」
「どうしてだよ?シンジは今でも律義に弁当作ってきてるみたいだし、頼めば惣流の分ぐらい作ってくれると思うけどな。」
「そ……そんなことあたしから頼めるわけないじゃん。あたしだって一応女なのにさ…。それに今更………。」
アスカの蒼い瞳はやや暗く沈んでいる。
少年は少女の弱気な態度に戸惑わざるえない…。
料理が苦手ということに対するアスカの女性としての矜持は理解できるが、どうもそれだけではないような気がする…。
もともと観察眼に長けている少年は目の前の少女がシンジという少年に対して何か負い目のようなものを持っていることを看破した。
もろん、それが何かはさっぱり見当がつかないが…。
『一体3年前、惣流とシンジの間に何があったのだろう?』
それは少年だけでなくヒカリやマナも感じていた疑問だった。
それっきりアスカは喋らなくなったので、ケンスケはその話題に触れるのを止めることにした。
いずれにしても、これからもこうして少女と二人っきりの時間を持てることは少年にとっては歓迎すべき状況だったからだ…。
それ以来ケンスケは昼休みのパンを買いにいくまでのわずかな時間だが、アスカと二人っきりで並んで歩きながら会話をする機会を得られるようになる。
それは少年にとっての本当にささやかな至福の時間だった。
アスカも、今のケンスケから不快感を感じなかったし、何よりケンスケからシンジの情報を聞き出したがっていたので、積極的にケンスケに話し掛け、若干ながらケンスケとの会話を楽しむようになっていた。むろん、あくまで中立の友達としてではあったが…。
そしてアスカと話すたびに、少年は少女に対する想いを加速度的に募らせていくことになった…。
放課後、授業が終了したら、アスカはすぐに下校してその足で委員会の本部に顔を出す。
クラブ活動に興味がないこともなかったが、それに時間を割ける程の余裕は今のアスカにはない。
あくまでアスカの表向きの在日理由は委員会の研修生であり、ましてやテストで所定の成績を残せなかったら学校を辞めるというマヤとの約束もあったので、研修を疎かにすることは出来なかったからである。
アスカは疑似シミュレーションで8時まで今のカリキュラムに沿った学習をした後、そのまま委員会の食堂で夕食を食べる。
その時、たまに同じ研修生が話し掛けてきたりしたが、アスカはほとんど相手にしない。
その後、本部から宿舎の方へ帰宅する。
その帰り道、コンビニで生活必需品や明日の朝食を買い込んでおく。
宿舎へ着いて明かりを点けたアスカは、部屋の様子に思わずため息をもらす。
辺りにはコンビニの袋と脱ぎ捨てられた衣服が燦爛しており、台所はほとんど使われた形跡がないまま放置されている。
むろん、はじめっからそうだったわけではない。
アスカも宿舎で一人暮らしをはじめた当初は料理も洗濯も掃除も一人でこなそうと並々ならぬ決意をしたものである。
だが、結局それは三日坊主で終わってしまった。
突発的に決意することは誰にでも出来るが、長い間、継続してやり続けることがいかに困難なことなのか改めてアスカは現実を思い知らされた気分だった。
「一人できちんとした生活を送るのがこれほど大変だとは思わなかった。こうして考えてみると本当にシンジって偉大だったのね。あいつは恩着せがましいことを言ったことは一度もなかったけど、毎日あたしやミサトの分も含めて家事をこなしていたんだから…。それなのにあたしは一度もあいつに感謝したことはなかった…。」
アスカは再びため息をついた。
その後、アスカは瞬間的な気力を掘り起こして簡単に部屋を掃除した後、風呂へ入ってシャワーを浴びる。
そして寝間着に着替えて寝る準備をはじめた時、ふと言いようのない感情がアスカの胸を過ぎった。
アスカの顔が少しづつ不安に覆い尽くされていく。
寂しさ。
孤独感。
未だ自身に対する決定的な肯定力を欠いているアスカは、突如一人でいることに耐えられなくなる時がしばしあった。
そんな時はアスカはたまらずにサエコにコレクトコールで電話を掛けるのだ。
「はい、ブッフバルトです。」
「ママ…。あたし……。」
サエコの声にアスカは心から安堵する。
一時期暗くなりかけたアスカの顔からどんどん不安の影が消えていく。
サエコと話している時のアスカの顔は無邪気な幼子のような明るさに満ちていた。
アスカは時が経つのも忘れて夢中で普段溜まっている愚痴や不安を、包み隠さずにサエコに話し続ける。
サエコも分かったもので、アスカの言葉を一つ一つ鄭重に受け止めてあげる。
「でさぁ、マヤっていうシンジの保護者面した女がいるんだけど、それがすごい嫌な奴なのよ。ネチネチとしつこくあたしに嫌みばっかり言ってさぁ…。」
サエコはクスリと笑いながら
「はいはい。けど、シンジ君と付き合いたいのなら、そのマヤさんって人ともうまく付き合えるようにならないとね…。その人はシンジ君の法的な保護者なわけでしょう?、アスカ。」
「………………………………………………………。」
その後もアスカは延々とマヤに対する悪口を語っていたが、ふと時計を見てすでにおしゃべりが一時間を超えているのを確認して
「ごめんね、ママ…。またつまらない話に長々と付き合わせちゃって…。やっぱり国際電話で長電話はよくないわよね。」
アスカの申し訳なさそうな声にサエコは暖かい声で
「そんな事に気を遣わないでいいのよ、アスカ。だって私たちは本当の母娘でしょう?娘のことを気遣うのは母親として当然のことなんだから…。」
「ママ………。」
アスカの胸が暖かい想いで満たされていく。
「だからね、アスカ。私のことは気にしないで精一杯頑張りなさいね。私は何時でもアスカのことを見守っているからね。」
「うん!ありがとう、ママ。それじゃ、そろそろ切るね。」
「ええ、おやすみなさい、アスカ。」
アスカは再びサエコの自身に対する想いを確信してから電話を切った。
『あたしにはママがいるんだ。』
そう想うと、先ほどまで感じていた自分が消えてしまいそうな不安感が完全に消失しているのをアスカは確信した。
とはいえ、アスカの自己肯定の源は、あくまでサエコという他人から与えられたものであり、アスカ自身の内にはなかったので、決してそれは長続きすることはかったが…。
それでもサエコと電話で話した夜だけはアスカは悪夢に脅えずにすんでいた。
「おやすみ、ママ。」
アスカはそう呟くと深い眠りに落ちていった。
こうしてアスカは研修生と学生の二足の草鞋を履いた生活をかろうじてこなしていた。
この日、委員会でMAGIの疑似シミュレーションを使用した最初のテストが行われた。
テストは七項目で3時過ぎには、全てのテストが終了した。
その後、研修生達は研修ルームでMAGIによる採点結果が出るのを待つだけである。
一時間後には採点が終了して、マヤが研修生達の前に姿を現すと一人一人の名前を読み上げて、採点結果を記載したデータを手渡していく。
最後にアスカの名前が呼ばれたので、アスカはマヤの前まで来てデータを手渡される。
「大変良く出来ました。」
マヤは無表情にアスカの成績を褒め上げた。
実際に今回のアスカの成績は研修生全体の中でも3番目に位置していたからだ…。
「これで文句はないわよね、マヤ?」
アスカが、どんなもんだ…と言いたげな表情でマヤに尋ねると
「ええ、これからも今のような成績が維持出来たらね…。」
マヤは感情を抑制した声でそう言った後、解散を告げて研修ルームから出ていった。
「なによ、すましちゃって…。」
アスカは予想していたよりも悔しそうな表情を見せなかったマヤの後ろ姿をやや拍子抜けした顔で見つめていた。
それから2学年が終了するまで特に揉め事もなく、アスカは今学期の学園生活を満喫することが出来た。
その間アスカは本当に幸福だった。
アスカが3年前に失ってしまったシンジとの交流をわずかながら取り戻すことが出来たからだ。
こうしてシンジとアスカは、お互いの不在を…そして三年間の空白を埋め合ったのかもしれなかった。
とはいえ、アスカはそれ以上シンジに近づくことはできなかった。
友達以上…恋人未満…。
それが、ようやくアスカがかろうじて取り戻した今の二人の関係…。
それは本当に微妙な距離だった。
そしてその距離は、相手の気持ちが分からないゆえの、思春期の少年少女によくある恐怖に繋がった。
自分の本当の気持ちを相手に伝えることで、今のささやかな関係さえ維持できなくなる…。
だからアスカには自分の本当の気持ちをシンジに伝えることは出来なかった。
アスカにはシンジに対する強い負い目があったから…。
シンジに拒絶されるかもしれないという恐怖があったから…。
そして今のささやかな幸福を失いたくなかったから…。
それから何事もなく春休みは終了して、新学期に入り、シンジやアスカ達は3学年に進級した。
もちろん、皆同じクラスである。
「これからもよろしくね、シンジ。」
「う…うん。」
明るい顔で雑談するアスカの姿を見てヒカリは表情を笑顔で取り繕いながらも内心で一抹の不安を感じていた。
シンジ・アスカ・マナ・ヒカリ・トウジ・ケンスケ…。グループのメンバーの関係は概ね良好である。
だが、アスカがグループに加わってから皆の気持ちの方向性が若干変化したような気がする。
シンジを見ているアスカとマナ…。
そしてアスカを見ているケンスケ…。
その想いは今のところ表面には現れてこないが、水面下ではかなり激しい葛藤が繰り返されているに違いないはずである。
特にヒカリはトウジと安定した関係にあり、自分自身を省みる心配がなかっただけに、よけいに不安定なアスカ達四人の関係が気になるのだ。
『アスカも霧島さんも今は表面上は穏やかな友人でいられるけど、ふとした切っ掛けで崩壊してしまうかもしれない…。』
ヒカリは、いつまでこのグループの友好関係が続くのか正直不安でならなかった。
無論、アスカの方は親友の内心の葛藤には気づかずに今のささやかな友好関係がいつまでも続くものだと信じていた。
だが、アスカにとってのささやかな至福の時間は長くは続かなかった。
「えぇ〜!?スケジュールの変更!?何よ、それ〜!?」
委員会の本部の研修ルームでアスカが大声を上げる。他の研修候補生達もざわめきはじめる。
「……というわけで、研修のカリキュラムが以下のように変更になりました。今までより若干学習ペースがあがることになると思いまので、皆さんのスケジュールの管理能力に期待しています。」
マヤは事務的な口調で、研修のカリキュラムが大幅に変更されたことを通達した。
転校して一月が経過して、新学年に進級した早々、早くもアスカの学園生活に黄信号が灯りはじめた。
つづく…。
けびんです。(^^;
最近、外伝にはまっていたもので、実に三ヶ月近くも本編に間が開いてしまいました。(すでに15話のストーリーを忘れてしまた人もいるかもしれない(笑)作者自身も少し当初の構想を忘れかけていましたし(爆))
外伝の間ずっとアスカちゃんにはお休みしていたので今回はアスカ視点メインのお話になりました。(その為に外伝で頑張ったシンちゃんには少しお休みしてもらいました(^^;)
そして外伝では良い人モードだったマヤちゃんですが、本編に戻ると…………(涙)
さて、どうも僕はいくつか設定で勘違いしていたところがあるので訂正します。
まず、後書きでずっと主張していた学園エヴァですが、あれは取りやめます。
僕は、シンジやアスカが学校へ通えばそれで「学園エヴァ」と呼ぶのかなと信じていましたが、ある人から「学園エヴァとはゴロゴロ出来るコメディのことを指す」という指摘を頂いて、ふ〜む。だとしたら僕のはさしずめ「暗黒学園エヴァ」(爆)かな…と考えてしまいました。
次にシンジが吹奏楽部に入部しているという設定を音楽部に変更します。
これもまたある人から「吹奏楽部は管楽器の団体です。チェロは弦楽器ですので、吹奏楽部には無い、と思うんですが。」という指摘を頂きました。
その方は学生時代、吹奏楽部にいたそうなので確かな情報です。
というわけで近いうち、11話と14話の名称を変更しておきますので…。
では次は17話でお会いしましょう。(その合間にもし、また別な外伝が入ったら怒ります?(笑))
ではであ。(^^;