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コンフォート18マンション。

第3新東京都市にある12階建の高層マンションである。

かつてその前衛であったコンフォート17マンションに住んでいた世帯主は葛城ミサト唯一人だけであった。

さらに西暦2015年に起きたサードインパクトにより第3新東京都市の表層のほとんどの施設は壊滅した。

コンフォート17マンションもその例外ではなく、住居のほとんどが半壊していた。 だが、MAGIによる日本全土の復興計画を政府が了承した事によって、第3新東京都市は急速な勢いで復興し、サードインパクトから3年たった西暦2018年には、使徒撃退用の要塞都市として発足した時以上の繁栄ぶりを見せていた。

それにともなって廃虚化していたコンフォート17マンションにも手が加えられる事になった。

この町を仕切っている人類支援委員会が中心となって、この町に再び帰ってきた旧ネルフの関係者そして委員会のメンバーの仮住居として割り当てる事を目的とし、半壊した住居のほとんどが建て直される事になった。そして3ヶ月後には工事は終了し、その名称を「コンフォート18マンション」と改める事になった。

そのコンフォート18マンションの11階の一部屋に一人の青年が住んでいた。その部屋はかつて葛城ミサトが彼女の保護すべき少年少女達と住んでいた所である。

表札は「碇 シンジ」と書かれていた。

 

朝、六時三十分頃に目覚し時計のベルがけたましい音をたてて、その存在を自己主張した。

布団の中でまるまっていた青年は面倒くさそうに目覚しのベルを止めた。

寝起きはいい方らしい。一つ大きなあくびをすると青年は緩慢な動作であったが、躊躇うことなく布団から起き上がった。

そして青年は眠い目をこすりながら、机の上に置かれているスタンドに目をあてた。

スタンドの中には一枚の写真が飾ってあった。写真の中ではロングヘアの栗色の髪をした蒼い瞳の14歳くらいの美少女が微笑んでいた。

青年のねぼけていたまなこが、みるみる鮮明になってくる。

彼はスタンドを無造作につかむと、無表情のまま

「おはよう、アスカ」

と呟いた。

青年の名は碇シンジといった。かつて3年前、精神崩壊を起こして生死の境をさまよった少年が17歳になった時の姿だった。

 

 

 

「二人の補完」

 

 

  後章「まごころを君に」編

 

  第十一話 「補完に近づきし少年」

 

 

 

シンジは洗面所で顔を洗い、寝癖のついた髪を簡単にとかしていた。

背は3年前に比べてかなり高くなっている。かつては同年代の男子の平均身長より若干低いくらいだったが、今では贔屓目にみても180cmに届いていた。

顔を洗い終わり、タオルで自分の顔を拭き終わると、正面の鏡には精悍そうな凛々しい男の顔が写っていた。

かつての14歳の頃のシンジも線の細い繊細そうなイメージがありハンサムと言えないこともなかったが、あえて希少価値を主張する程でもなくどちらかといえば平凡な冴えない容姿と見られがちであった。

だが、3年たった今では母親ゆずりの線の細い繊細なイメージはそのままに、昔にはなかった精悍さと逞しさが加わった。何より鏡の中の自分を見つめるシンジの目には、かつての少年のころの彼の属性であった他者と世界に対する恐怖を具現化した臆病そうな色は微塵も存在しなかった。今の彼の黒い瞳の中には、他者に対するやさしさと、強さ、そして何より自分自身に対する静かな自信に満ち溢れていた。

三年前とは見違えるほど凛々しくなったシンジの顔を見れば、絶世とまではいかないにしても、同性であれ異性であれ十人が十人とも、シンジが中性的な雰囲気を持った美青年であることを嫉妬混じりに認めないわけにはいかないだろう。

 

シンジは洗面所から出ると、そのままリビングをパスしてキッチンへと向かった。

そして、昨日の内から仕込んでおいた材料を使って、弁当と朝食の準備を始めた。

シンジは味噌汁を暖め、ネギを包丁で刻みながら、三年前の光景を思い浮かべた。

かつてここに一緒に住んでいた彼の保護者と仕事上の同僚であった蒼い瞳の少女は、共に女性であるにもかかわらず家事の全てを男性であるシンジに押し付け、シンジの作った料理や弁当を当たり前のように食していた。

かつてのシンジはその様を辟易として眺めていたが、今となっては懐かしい思い出だった。

何よりも何かと文句を言いながらであったが、自分の作った料理をおいしそうに食べてくれる人がいるのといないのとでは、作ろうとする意欲に差があった。

そう思いながらもシンジがわざわざ早起きして自分の弁当をつくっているのは昼食の食費を節減する為ではなく別の理由からであった。それは後に学校に着いた時に語られる事になるだろう。

味噌汁が暖まってきたらシンジはガスを止めた。

そしてシンジはフライパンに油をひいて卵を2個落とすと、青海苔、砂糖、だし、醤油、塩、お酒、サラダ油などの各種調味料を織り混ぜて手慣れた手つきで卵をひっくり返した。

ほどなくきれいな形で卵焼きが焼きあがると、今度は一晩特製のタレに漬け込んでおいた野菜ロールを取り出して焼き上げた。昨日の内から牛肉を細切りし、軽く小麦粉でまぶして、しそ、アスパラ、ピーマンを巻き込んだものである。

シンジの料理の腕前は、十分な技量を誇っていた三年前と比べてさらに進歩しており、このまま精進すれば、いつかは一流のシェフになれる可能性を秘めていたが、さしあたりシンジは将来その道へ進む気はなかった。彼の将来の展望は別種のものであった。

卵焼きと野菜ロールに続いて次々とシンジの弁当箱にシンジの作り上げた料理が整然と並べられていき30分後には昼食には豪華な弁当が完成していた。

シンジはそっと弁当の箱をとじて自分のリュックの中に放り込むとリビングのテーブルに料理を並べて朝食を食べはじめた。

料理そのものは朝食とは思えない豪奢なものだったが、一人で食べる朝食にシンジは何となく味気無さを感じていた。

だが、これも自ら望んだ事だと思い直し、朝食を食べ終えるとそのまま食器を流しに放り込んでお湯につけておいた。

 

それからシンジは自分の部屋へ戻って着替えて学校へ行く支度を整えた。

制服に着替え終えるとシンジは机の上に置かれていた十字架のペンダントを取り上げてそれを自分の首へかけた。今は亡き姉ともいうべき、かつての保護者の形見であるペンダントを、シンジはいつも肌身離さずに愛用していた。

 

やがて時計が8時を回ったころようやくシンジは学校へ行く準備が完了し、鍵をしめて自分の部屋を飛び出した。エレベータで一階まで降りて、駐輪場へ向かう途中に誰かが声を掛けた。

「おはよう、シンジ君。」

シンジが振り返るとそこにはショートカットの私服姿の女性がにっこりと微笑んでいた。

年は30よりやや前で、清潔な顔立ちで十分美人の範疇に入るだろう。

シンジもその女性に、にっこりと微笑み返すと

「おはようございます、マヤさん。」

と挨拶した。

その邪気のない凛々しい笑顔にマヤは一瞬頬を赤らめたが、すぐに気を取り直して

「これから学校へ行くんでしょう? いつも言っている事だけど車には気をつけてね」

と子供に注意する母親のような口調でいたずらっぽくシンジに注意を促した。

シンジも苦笑して

「ええ、気をつけますよ、マヤさん。それじゃ急いでいるんでお先に…」

というとシンジは小脇に抱えていたヘルメットをかぶって、リュックを自分の背中にかけると、そのままバイクにまたがった。

そのバイクはホンダが出しているVTRの250ccのモデルで、マヤの同僚である日向が自分の単車を新しくNSRに買い替えた際に、廃車にするのももったいないという理由で中古として譲り受けたものである。

シンジがキーを差し込むとバイクのエンジンの音が低い唸り声を上げた。

一つスロットルをまわしてバイクを発進させると、シンジは右手を上げてマヤに挨拶してそのままマンションから出ていった。

「本当に立派になったわね、シンジ君。」

シンジを見送るマヤの目は、成長した息子を暖かい目で見守るような深い慈愛に満ちていた。

そしてマヤはふと三年前のシンジの姿を思い浮かべた。

 

 

14歳の時シンジは一度精神崩壊を引き起こし、第3中央病院の303号病室で眠り続けることになった。

シンジに深く肩入れしている人類支援委員会の議長であった冬月の計らいで、心理学の著名医が数人ほどシンジの看護に当てられたが、数週間後には皆一様にため息をついてさじを投げる始末だった。医師の見解では「どんな言葉や外界の刺激にも、まったく脳波が反応しないのでは手の打ちようがない」とのことだった。

マヤ自身も忙しい仕事を調節して可能な限りシンジの病室を訪れたが、まったくシンジに変化は現れなかった。

そしてシンジが入院してから2ヶ月がたち、マヤがアスカを呼び戻そうか本気で悩み始めた頃、ようやくシンジに変化が現れた。

わずかだが一定のリズムで流れていたシンジの脳波に今までにない変化が見られたのだ。

マヤは医師に説明を求めると、シンジの脳波の変化は外界の刺激に反応したモノではないということだ。

「それはいったいどういうことなんですか?」

マヤの問いかけに医師は

「つまり、彼は戦っているんですよ。自分の中で自分自身とね…。」

その言葉にマヤの涙腺が緩んだ。

「全てに絶望して…、そしてこんな姿になって…、それでももう一度現実へ還る為に戦っているのね、シンジ君…。」

それからマヤは冬月に頼みこんで可能な限りシンジの側にいられるように手配してもらった。

冬月も委員会の要であるマヤに抜けられるの痛かったが、シンジが目覚めるまでの期間限定であり、そして近い将来シンジが目覚める事に強い根拠が出てきたため、仕事を定時で切り上げてシンジを見舞うことを許可するようになった。

それから定時後にはマヤは毎日のようにシンジの病室へ顔を出したが、それでもシンジは外界の刺激にはまるで反応がなかったので、マヤがシンジに出来る事は何もなかった…。

だがそれでもよかったのだ。マヤはただシンジが目を覚ました時に、もう二度と自分の中へ逃げてしまわないように暖かく迎えてあげよう…とそれだけを決意していた。

そしてさらに一月後、シンジの脳波の流れ方がほとんど常人と変わらなくなり、医師は目覚めが近いことをマヤに喚起した。

そして突然、何の前触れもなくシンジは目覚めた。

その時マヤは仕事の疲れから半分眠っていたが、シンジから低いうめき声が聞こえた時、一気に眠気は消滅し、慌ててシンジの顔を覗き込んだ。

シンジの空洞のような何も写っていない瞳がみるみる鮮明になり、少しづつ淡い光が黒い瞳の中央に集約されていった。

そしてシンジの瞳の中にマヤの顔が写った時、マヤはシンジが目覚めた事を確信した。

マヤは子供のように泣きじゃくって、強く強くシンジを抱きしめた。

シンジはマヤの姿を確認すると目だけをきょろきょろ動かして何かを探していた。

マヤはその様に、恐らくアスカの姿を探しているのだろう…と、そう確信した。

やがて目当てのものを見つけられなかったシンジは、一瞬落胆の色をその瞳に浮かべたが、すぐに気を取り直して、恐らくあの時のシンジに出来たであろう精いっぱいの笑顔で微笑んで「ただいま。」と挨拶した。

マヤも涙をふきながら

「おかえりなさい。」

と現実へ還ってきたシンジを暖かく迎えた。

 

 

それからシンジは自分の心の弱さから多くの人に迷惑をかけた事を謝罪すると、衰えた体力を取り戻す為に積極的にリハビリに取り組み始めた。

そして本来1月はかかると思われたリハビリスケジュールを2週間でクリアして退院した。

退院したシンジにマヤは一緒に住まないか…、と提案した。

マヤはシンジが精神崩壊を引き起こした事に誰よりも責任を感じており、もう二度とシンジにつらい思いをさせないよう自分に出来る限りの愛情をもってシンジを包んであげようと考えていた。この時のマヤは恐らくシンジがマヤの体を求めたとしても決して拒みはしなかっただろう。

シンジはマヤの気持ちを嬉しく思いながらもそれを丁重に断った。マヤが決してシンジを傷つけないであろうこと…そして可能な限りの愛情で自分に接してくれるであろうことはシンジにも分かっていた。

だが、ここでマヤの好意に甘えれば、それは以前と同じことを繰り返すだけだということをシンジはすでに悟っていた。かつてミサトやアスカとの共同生活が破綻したのは、シンジに自分自身を肯定する強さがなかった為だとシンジは思っていた。

シンジが現実へ還ってから、まずすべき事は自分で自分を支えられる強さを身につけることだった。それが自分自身と、かつてシンジを守るために死んでいった人達に約束したシンジにとっての神聖なる誓いなのだから…。

だから冬月がパイロット年金という形でシンジの生活費を出そうとした時も、それもシンジは断った。

マヤは自立しようと決意したシンジの変化を嬉しく思ったが、現実問題として14歳の少年がたった一人で生きていくのは困難な事だと分かっていたので、何とかシンジを諭そうと懸命に努力したが、この時のシンジは癌として受け入れなかった。

冬月はシンジの気持ちを尊重しながらも、年配者らしい気配りでシンジとマヤに折半案を持ち掛けた。

まず、何の身分保証もなしに14歳の少年がたった一人で現実の世の中を生きていく事は不可能に等しいので、マヤがシンジの法的な保護者となることであり、その事はシンジ自身も了承した。

次に冬月が提案したのは、自立したいというシンジの意志を尊重する為、毎月の生活費を出すという案を取りやめる替わりに、シンジ自身の住居を提供することであった。 その案をシンジは断ろうとしたが、マヤは現実として生活費の他にも居住費まで自分で稼ぐとなると生活のほとんどの時間をバイトに費やすことになると言ってシンジを諭そうとした。

だが、この時のシンジは明らかに理想を現実に優先させていたので、中々聞き入れようとしなかった。

そこで冬月はシンジが受け入れやすい形としてミサトの名を挙げる事にした。

かつてミサトの財産をシンジとアスカに相続させるという話があったが、その日暮らしをしていたミサトの預金残高はゼロに近かったため、財産と呼べるものはコンフォート17マンションの権利証ぐらいだった。

冬月はそれを遺産相続という形でシンジに相続させようと考えた。

シンジは最初は渋ったが、日向に「シンジ君にとってミサトさんは家族じゃなかったのかい?」と言われると、シンジは押し黙るしかなかった。

そしてシンジはそのマンションの名義を自分とアスカの連名にすることを条件に大人達の好意を受け入れる事にした。

シンジとアスカのかつての関係を知らなかった日向と青葉の二人は、いつかはアスカは戻ってくるだろと思っていたのでその条件を疑問に思わなかったが、マヤと冬月は顔を見合わせて渋い顔をした。だが、これ以上の譲歩は無理だろうと悟るとその条件を受け入れる事にした。

それからシンジは新装されたコンフォート18マンションに一人で住まうことになった。

マヤ自身の新しい住居は比較的シンジの住むマンションの近くにあったので、機会がある事にシンジの様子を見にちょくちょくシンジの部屋を訪れるようになった。

それからのシンジは生活費を稼ぐ為にバイトを続けながらも、コツコツ勉強を重ねて復学した第3新東京市立第壱中学をまずまず優秀な成績で卒業した。

そして中学の担任の推薦を受けて、地元の第3新東京市立第壱高等学校に奨学生コースで願書を提出した。奨学生となれは奨学金がもらえ、入学金・授業料の負担が減るからであるが、サードインパクトの影響で生活に苦しむ子女は多かったのでこの年は意外に競争率が高かった。

たがシンジは、幸い中学時代の内申もよく、保護者との関連が不透明であったが、一人暮らしで生活に苦しんでいると認められたので何とか奨学生の一人として合格する事に成功した。

 

 

こうして、さらに2年近くが経過して12月となり今現在へと時は流れてきた。

マヤはしばらくボーとしてシンジの成長の姿を邂逅していたが、ようやく現実へ復帰した。そして再び3年前とは見違えるほど凛々しくなった今のシンジの顔を思い浮かべた。

かつてマヤがシンジと一緒に住まないかと提案した時、日向達は「人類補完計画ならぬ、ショタコンマヤちゃんの逆光源氏計画がついに発動したか」と冗談めかしてマヤをからかっていたが、その時はマヤは相手にしなかった。だが今のマヤよりも頭一つ高くなったシンジの成長した姿と、女心をくすぐる透明感のある繊細な笑顔を思い浮かべて「ちょっと惜しいことをしたかな…」と少し本気で悔しがっていた…。

 

 

シンジは朝のラッシュアワーで渋滞する車の列を巧みにかわしながら、快調なペースでバイクを走らせて、学校へ向かっている。

自宅のマンションと通学先の学校とバイト先のレストラン、そしてシンジがよく世話になる委員会の本部ビルは直線距離にしてかなり離れていたので、シンジは高校へ入学すると同時にバイクの免許を取得し、交通の手段はほとんどバイクに頼るようになっていた。

幸いバイト先のレストランから通勤手当てとしてガソリン代は支給されているのでシンジは通学などのそれ以外の用事にもちゃっかり利用するようになっていた。

もっともシンジにはバイクに対して足として以上の認識はなかったので、休日に趣味でバイクを乗り回すというような事はなかったが…。

 

やがて学校の校舎が見えてきたので、シンジは朝の登校ラッシュの邪魔にならないようにバイクから降りてエンジンを切ると、そのまま駐輪場までバイクを押していった。

駐輪場の指定の位置に自分のバイクを置き、ヘルメットをイスの下のボックスに放り込んで鍵をかけると後ろから複数の男女が声を掛けてきた。

「おはよう、碇君」

「おはよう、シンジ」

「シンジ、おはようさん!」

シンジが振り替えると、シンジと同年代の三人の男女が立っていた。

少女はセーラ服を着たこの学校の生徒で、身長は155cmほどとやや小さめだろう。髪の毛を二つに分けて後ろに束ねており、ソバカスがチャーミングポイトで清純そうなイメージをもっていた。

少年の一人はメガネをかけた冴えない容姿の少年で、身長は160cm前後と男子としてはやや低めだろう。シンジと同じ学生服をだらしなく着崩していた。

もう一人の少年はいかにも硬派そうなイメージをしており、なぜか制服ではなく黒いジャージと運動靴を着に付けていた。背はシンジほどではないが高いほうで170cmには達していると思われる。

シンジはにっこり笑って

「おはよう、トウジ、ケンスケ、洞木さん。」

と挨拶した。

四人は連れ添うように横一列となって歩いていた。

ケンスケが

「そういや、今日は期末試験の結果が張り出される日だったよな。俺は今回はあんまり期待できないけど、みんなはどうだった?」

と全員に尋ねると

「あたしはまあまあだったかな」

とヒカリはやや謙遜して答え、トウジは

「ワイはまるっきりあかんかった。」

と言ってため息をついた。

ケンスケはいたずらっぽく笑って

「まあ、トウジの場合は赤点を取って追試になっても委員長が面倒見てくれるからな」

とトウジをからかうと

「な…なんで、ここでヒカリが出てくるんや?」

とやや赤くなってトウジは答えた。

「そ…そうよ、相田君。あたしとトウジは別に…」

ヒカリも真っ赤になってトウジに追従した。

「そうやって、名前で呼び合う所がだよ、なあシンジ?」

とケンスケがシンジに振ると、シンジもクスクスと笑って

「そうだね、本当にお似合いの二人だよね」

とケンスケの問いを肯定した。

トウジとヒカリの二人はさらに赤くなった。

シンジはそんな初々しい二人の姿を暖かい目でまぶしそうに見つめていた。

トウジは何とかごまかそうと

「そ…そんな事よりシンジの方はどないなんや? 今回のテストの結果は?」

強引にシンジに尋ねると、シンジは苦笑して

「まあ、いつも通りだと思うよ。試験前は普通に勉強しただけだから…」

 

4人は談笑に花を咲かせて、ゆっくりとしたペースで歩いていた。その間、すれ違う女生徒の多くが意味ありげな目つきで4人の中の一人を見つめている。その標的となっているのはシンジだが、それに気付いたのはシンジではなくケンスケだった。当のシンジはまったく気にも止めないが、シンジとすれ違う女生徒の熱い視線が何を意味するのかケンスケは痛いほどよく知っていた。

『まったく、シンジのやつ学校の資源を一人占めしやがって…。少しはこっちにもわけてくれればいいのにな…。そうでなくてもあいつにはとびっきりのガールフレンドがいるというのに…。』

ケンスケはシンジに嫉妬して心の中で愚痴をこぼした。

四人が正面玄関口までたどり着いた時、誰かが後ろからシンジに声をかけた。

「おはよう、シンジ」

シンジが振り返ると、そこにはセーラ服を着たヒカルと同年代の少女が太陽のように明るい笑顔で、にっこりとシンジにむかって微笑んでいた。背は160cmぐらいで、鳶色のショートカットの髪をした明るい笑顔が良く似合うとびっきりの美少女だった。

シンジもまた透明感のある笑顔で

「おはよう、マナ」

と挨拶を返した。

こうしてシンジを中心とした2年A組の仲良し五人組みが勢揃いした。

 

 

正面玄関の死角になる位置から三人の女生徒が、シンジとマナを見つめて会話を交わしていた。

「あ〜あ、悔しけど碇先輩と霧島先輩って本当にお似合いよね。まさに美男美女のカップルって感じ…。やっぱりあの二人出来ているのかしら?」

左にいた少女がため息混じりに話題を提供すると

「そうね…、何といっても去年の文化祭での校内ベストカップルに一年生で碇先輩と霧島先輩は選ばれたみたいだしね…」

右手にいる少女も不本意そうに相づちを打つと

「ふん! あの茶髪オンナが碇先輩にぞっこんなのは確かね。けど、碇先輩の方はまだ完全にその気になってはいないみたいだわ。だから、まだまだあたし達にもチャンスはあるのよ!」

中央にいるポニーテールの少女が鼻息を荒くして、敵意のこもった視線でマナを睨み付けながらそう二人の疑問を打ち消した。

彼女達は一年の女子を中心に活動している「I.S.U.F.C」(Ikari Shinji Unofficial Fan Club(碇シンジ非公認ファンクラブ))の中心メンバーだった。中央にいるポニーテールの気の強そうな少女がその会長を努める岩瀬サユリといった。サユリは中学生の時からアイドルの追っかけやストーカーまがいの事をやっていた筋金入りのミーハーで、高校に入学して人目見てシンジにはまり込んで、精力的な活動でファンクラブを運営し今では会員数は50人に達しているという話だった。

会員の半数以上は一年の女子だが、2・3年生の女子にもシンジのファンは多く存在した。

当のシンジ自身は実は「I.S.U.F.C」と呼ばれる自分のファンクラブの存在をまったく知らなかったが、ケンスケだけは知っていた。というよりも、あいかわらずケンスケはシンジやマナの写真を売り捌いて儲けるという中学の時と同じ事を繰り返していた。つまりケンスケにとってシンジの生写真を無条件に欲しがるファンクラブのメンバーは貴重なお得意様だったのだ。

だが、最近ケンスケは何か不満だった。シンジやマナは被写体としては申し分なかったが、何か自分がレンズのフィルター越しに求めているものとは違う…そう感じていた。それが何なのかはケンスケ自身にも分からなかったが…。

 

シンジが下駄箱を開けるとラブラターの山がパラパラとこぼれ落ちた。

同じようにマナの下駄箱からもラブレターの山がこぼれ落ちた。

ヒカリはマナほどではないが清純そうなイメージに隠れた人気があったが、すでにトウジという決まった相手がいたためにあえて手をだそうとする者はいなかった。

シンジとマナはお互いに困ったような顔を見合わせながらも、とりあえずラブレターの山を鞄の中に放り込んだ。

ケンスケは自分の上履きしか入っていない下駄箱の中を覗き込んで深くため息をついた。

 

シンジ達にとっての朝の恒例行事が終了し教室へ向かう途中で、掲示板に期末試験の順位が張り出されていた。

2年生の主なメンバーの成績は、270人中
ヒカリ :9位
シンジ :16位
マナ :45位
ケンスケ:97位(赤点科目1)
トウジ :244位(赤点科目5)

となっていた。

自分の成績を見てがっくりと膝をつくトウジ。

「これで冬休みは補習漬け確定や…」

と情けない唸り声を上げた。

ヒカリはトウジを暖かい目でみつめて

「大丈夫よ、トウジ。まだ追試があるじゃない。あたしが面倒見てあげるから、もう一度頑張りましょうよ」

と微笑みながらトウジを慰めた。

シンジは自分の順位を確認するとそのまま2年A組の教室へ入っていき、トボトボとした足取りでトウジもシンジと同じ教室へ入っていき、ヒカリ、ケンスケ、マナもそれに続いた。

 

 

やがて始業のチャイムが鳴り全員が席へ着くと、ようやく担任が姿を現した。そしてヒカリが号令をかけてHRが始まった。ヒカリは相変わらず高校でも委員長を続けていた。

 

そしてそのまま一時間目の数学の授業が始まった。

授業がある程度進み始めると誰かが手を挙げた。シンジである。

シンジは中学の頃に比べれば分からない事は積極的に質問するようになっていた。

というのもシンジは決してアスカのように言われた事を瞬時に理解出来る天才タイプではなく、どちらかといえばシンジの脳細胞はスロースターター体質だったので、物事を理解するまで若干時間がかかる方だったからだ。

ただ、一度理解した事は決して忘れなかったし、そこからの応用も十分効く方だったので、授業妨害にならない程度に回数をわきまえた上で、いつもクラスの中心となって積極的に教師に説明を求めていた。

というのも今のシンジは、家ではどうしても他に自主的に勉強したい事があったので、なるだけ学校の勉強は授業内で消化したいと考えていたからだ。だから試験前を例外にすれば、普段家へ帰ってからシンジは宿題以外の勉強をした事はほとんどなかったが、それでもそこそこ優秀な成績を残せるのは、こうして授業中に重要なポイントを消化すべく積極的に努力したからである。

トウジは一番後ろの席であくびをかいた。彼は授業などほとんど聞いていなかったが、以前の内向的なシンジからは考えられない積極的なシンジの態度に「ほんまに、シンジも変わりよったな…。」と遠い目でシンジの変化を懐かしんだ。

 

 

やがて、4時間目の授業まで終了して昼休みになった。シンジ達五人は机を並べて昼飯に取り組むことになった。

シンジとマナは自分の弁当箱を鞄から取り出した。ヒカリはトウジの分の弁当を取り出してトウジに差し出した。

「いつもすまへんな、ヒカリ」

「うん、いいのよ、トウジ。あたし、お弁当作るの本当に好きだから。」

トウジとヒカリは実に嬉しそうにお互いを見つめて微笑みあった。

ケンスケは何時の間にかパンを買いに席をはずしている。

マナは、トウジとヒカリの微笑ましい様子を羨ましそうに見ていたが、チラリとシンジの弁当箱を見てやや躊躇った後、シンジに

「ねえ、シンジ。一人で生活していて毎朝お弁当作るのって大変じゃない? よかったら、あたしが毎日シンジの分もお弁当をつくってきてもいいんだけど…」

と、やや頬を赤らめて期待と不安の入り混じった目でシンジを正面から見つめた。

シンジはマナの気持ちをそれなりに嬉しく思ったが、

「ありがとう、マナ。でも、気にしなくていいよ。僕も洞木さんと同じで料理をつくるのは好きな方だから…。」

と申し訳なさそうにマナの好意を断った。

「そ…そう。」

マナの瞳がやや暗く沈んだ。

その様子を見て

「シンジ、もうちっと融通きかせたらどうや? シンジの料理がうまいのはワイも十分承知してるで! けど、せっかく霧島が、シンジのために作ってくれる言うとんのや! 男やったら少しは惚れた男に弁当つくりたいいう女心を汲んでやったらどうや!?」

トウジがやや声を高めてそうシンジに説教した。

トウジ自身は自分とヒカリの関係から、マナの気持ちを考えてシンジに説教しているつもりだった。

シンジはやや困った顔をして

「トウジの言っていることも分かるんだけどね…。他にも事情があるんだよ…」

と言って教室の扉の方を軽く指差した。

シンジが指差した前側の扉の外に、数人の女生徒が弁当箱を持って、みな一様に失望した様子でシンジ達の方を見つめていた。

「やっぱり、今日も碇先輩は自分でお弁当を持ってきているみたいだわ。」

「それじゃとてもあたしたちのお弁当を食べてなんていえないよね。」

「本当に、何で碇先輩て男なのにあんなにおいしくお弁当を作れるのかしら?」

「そうよね、まさか碇先輩の作ったお弁当より、まずいお弁当を食べてください…なんていえないしね」

女生徒達はお互いに顔を見合わせてため息をついた。

そしてやがてあきらめたように2年A組の教室から離れていった。

ようやくパンを購入して帰ってきたケンスケがその様子を見て

「チッ、何でシンジばっかりモテるんだよ。あいつには女も弁当も必要ないっていうのにさ…。一人ぐらいこっちに回してくれればいいものを…」

と一人で毒づいていた。

「なるほど、シンジも災難やな…、モテすぎるゆうのも考えもんやな。ま、確かに霧島に弁当作ってもらったら他の女子の弁当も食べへんわけにはいかんやろな…」

ようやく事情を理解したトウジは心からシンジに同情した。

 

こうして一悶着あったものの五人は昼飯に取り掛かった…。

 

 

五時間目が終わると次は体育の為、女子は体操袋をかかえて、教室から出ていった。 男子は教室へ残って体操服に着替え始めた。

シンジはミサトの形見のペンダントをはずして、机の下にしまうとボタンをはずしてYシャツを脱いだ。そして肌着を脱いで上半身を裸にすると若者らしいみずみずしい筋肉があらわれた。シンジは細身だが、その体には一遍も贅肉がついておらず、均整が取れていた。

「初めて会ったときは、えらくひょろひょろした貧弱なガキやと思うたけど、三年たって少しはましなった感じやな…。そういや、シンジはいつも土曜日にはバイト以外の用事がある言うてるけど、もしかして何かスポーツジムにでも通ってるんか?」

と、トウジが尋ねると、シンジは苦笑して

「いや、委員会で青葉さんから簡単な護身術を習っているだけだよ…」

とシンジは答えた。

 

シンジは土曜日は午前中で授業が終わると、いつも委員会の本部に顔を出していた。

そして地下にあるトレーニング施設で青葉から護身術の指導をを受けていた。

青葉は委員会では諜報部を仕切っていた。

政府に対する諜報や工作など、おおよそ委員会の暗部の仕事を青葉は一手に引き受け、委員会に対して影の支援を続けていたのだ。

あいかわらず委員会と政府は仲が悪く、その余波がいつシンジにもおよぶか分からないという理由で冬月は半強制的にシンジに有事の際に自分で自分の身を守れるようにと、シンジに護身術を習わせていたのである。

シンジは本質的に暴力は嫌いだったが、かつてのミサトの命懸けの行動から、時には大事なモノを守るためには自らの手を血で染める覚悟も必要だという事をすでに悟っていたので、積極的に訓練を受けることにした。

 

3年前から訓練はスタートしたが、最初は徹底した基礎体力向上の為のトレーニングだけでもシンジにはまったくついていくことができず、日曜日には筋肉痛で一歩も動けないという日々が続くようになった。

だが高校に入学した頃からシンジの肉体は成長期へと差し掛かり、背は1年で16cmも伸び、筋肉の方もハードトレーニングの効果も加わって持久力と瞬発力をバランス良く兼ね備えるようになった。

それ以来護身術の習得も順調に進んだが、もともと性格的にも体質的にもシンジは格闘には向いておらず、将来シンジをプロのエージェントにするつもりもなかったので、講師の青葉も一通りの防御手段をマスターさせただけで、それ以上の事をシンジに教えはしなかった。青葉の見立てでは今のシンジはさすがに格闘のプロが相手だときついが、素人相手の一対一の喧嘩ならまず楽勝だと見ていた。

 

シンジが着替えている間、ケンスケは自分の小型カメラで、シンジに気付かれないように、巧みにシンジの着替えを撮り続けていた。

シンジのセミヌード写真はファンクラブの連中に最も高く売れるからである…。

 

 

6時間目のチャイムが鳴り終える時には男子も女子も着替えてグランドに集合していた。

陸上部の顧問の体育教師が現れて、出席を取った後、体育の授業が始まった。

今日の体育の課題は陸上で、男子は100mの測定を行う予定になっていた。

シンジは中学の時に比べて身体能力がかなり向上したわりには、もともと運動センスに欠けているせいか球技全般を苦手としていた。ただ、陸上だけは陸上部の部員に比べてもさほど遜色のないタイムを持っていた。

二人一組で次々と測定し、次はシンジとトウジの番だった。

「シンジ、今日こそは負けへんで!」

トウジのライバル意識むき出しのガッツにシンジはクスリと嬉しそうに笑った。

トウジの意気込みは別にして、実際には今のシンジとトウジでは勝負にならない事をシンジはよく分かったいた。

だが、もう一度トウジと競い合うことができるのが何よりもシンジには嬉しかった。 シンジとトウジの二人はクラッチングスタイルでかまえる。

女子の方からシンジに対して黄色い声援が飛び交う。

そして、ヒカリも「トウジ、頑張ってね!」と応援する。

係りの者が手を挙げる。

「位置について、よ〜い〜」

ピィー!!!

と笛が吹かれた瞬間、シンジは獲物を狙う黒豹のような瞬発力で一気に飛び出した。

そしてそれからかなり遅れてトウジも飛び出した。

シンジはあっという間にトップスピードに達して、瞬く間に100mのゴールラインを通過した。そしてそれから10秒近くかかってようやくトウジも到着した。

「碇…、12秒18。鈴原、20秒71。」

ストップウオッッチでタイムを図っていた体育教師がそう大声で叫んだ。

シンジはさして呼吸を乱さずに、じっとトウジを見下ろしている。

トウジはわずか100mを走っただけで汗だくになり、大の字で寝転んでゼイゼイ息を乱しながら

「ま……まだまだ………さすがに……、シンジには……届かんみたいやな……。けど、見とれや……、いつか、必ずシンジを追い抜いたるで……」

そうシンジに宣言した。

その時のトウジの顔はとても誇らしかった。

シンジも「うん、待ってるよ」と本当に嬉しいそうな目でトウジの想いに答えた。

シンジはトウジの左足を見る。

『本当に夢みたいだな…。一度左足を失ったトウジがこうして再び自分の力で走る事ができるなんてな……。やっぱりこれも綾波のおかげなのかな…』

ふとシンジは再びトウジと病院で再会した時のことを思い出した。

 

 

精神崩壊から立ち直ったシンジは一日も早く第3中央病院から退院するために、リハビリに精を出していた。今日のリハビリメニューを終了し、自分の病室へ帰る途中誰かが後ろから声を掛けた。

「シンジ、ひさしぶりやな…」

シンジが後ろを振り返ると、そこにはトウジとヒカリの二人がいた。

トウジは自分の意志では歩けないので車椅子に乗っている。そしてヒカリがトウジの車椅子を押していた。

「トウジ…、洞木さん。」

驚いた表情のシンジを見てトウジは

「シンジ、そんな驚くこともないで…。サードインパクトで疎開先がメチャクチャになったから、わてらは家族ぐるみで戻ってきただけや。この町が日本で一番復興が進んでいるみたいだしな…。今ここにはおらんけど、ケンスケの奴も戻ってきてるで…。これでまた三馬鹿トリオの復活やな、シンジ!」

といってトウジはシンジに手を差し出した。

シンジもトウジの差し出されて手を握り返して

「そ…そうだね…」とやや嬉しそうな顔をしたが、付け根から失われたトウジの左足が目に入った途端シンジの表情が暗く沈んだ。

そのシンジの様子に気が付いたトウジは

「シンジ、気にすることはあらへんで!これはワイが自分の意志でエヴァに乗ったその結果なんやからな!それより、シンジ。ミサトさんや綾波や惣流はどないしたんや?」

と尋ねるとシンジはさらに俯いて

「ミサトさんは亡くなった…。綾波ももういない…。」

その言葉にトウジは声を失った。そしてヒカリはあわててシンジの前へくると

「い…碇くん、ア…アスカは…アスカはどうなったの? まさか…?」

と青ざめた顔でシンジに尋ねた。

「アスカは生きているよ。」

その言葉にヒカリは安堵の色を浮かべたが

「けど、ドイツに帰っちゃった…。たぶん、もう二度と日本へ戻ってくることはないと思う…。」

と、つらそうな顔をしてシンジは付け加えた。

「そ……そう。」

ヒカリの瞳が寂しそうに揺れた。

トウジも神妙な顔をして

「ワイらがおらん間に本当につらい事があったんやな、シンジ」

と言って、トウジはシンジの肩に手を置いた。

「………………………………。」

シンジは何も答えない。

「元気だせや、シンジ。これからはワイらもついていることやしな。もう、シンジ一人につらい思いをさせる事はせいへんから…」

とトウジは努めて明るく笑ってシンジを慰めた。

「う……うん、ありがとう。」

シンジもトウジの気持ちを嬉しく思いぎこちなく笑ったが、まだトウジの左足の事を引きずっているみたいだった。

その事を感じ取ったトウジは

「それとな、シンジ。一ついいニュースがあるんや。実はこの左足が直るかもしれへんのや。」

「えっ……!?」

そのトウジの言葉にシンジは再び驚きの声を上げた。

「ほんまや。ワイも詳しい事はよう知らんのやが、なにやら委員会がわいに左足を作ってくれる言うとった…。何でも普通の義足やなく、パイオなんたらいう技術を利用した本物らしいんや。」

「バイオテクノロジーよ。鈴原」

ヒカリがクスリと笑って、トウジの言葉を訂正した。

「委員会が?」

シンジは怪訝な表情をする。

「そうや、リハビリ次第では、もう一度走れるようにもなれるらしいんや。それじゃ、シンジ。これからその検査があるんでワイらはいくで…。委員長すまんが、よろしく頼むわ」

とトウジがすまなそうにヒカリに頼むと、ヒカリは笑って

「うん、分かってるわよ、鈴原。それじゃ、碇君。また後でね…」

とヒカリはシンジに挨拶すると、トウジの車椅子を押してシンジの前から消えていった。

 

 

シンジは自分の病室に戻ると、ちょうど見舞いに来ていたマヤからトウジの事を聞いてみた。

「鈴原君のことね…。ええ、確かに委員会の下部組織である遺伝子工学研究所で鈴原君の左足をモニターに研究する話は出ているわよ。冬月さんはね…、かつて戦いに利用した子供達の事を本当に申し訳なく思っていて、出来る限りの償いをしようと考えているのよ…。」

「けど、義足じゃないって話ですけど、どうやってトウジの左足を作るんですか?」

「シンジ君は新陳代謝という言葉を知ってる?」

「はい、理科の時間で習いました。確か古い細胞から新しい細胞に生まれ変わる事を言うんでしょう?」

「そうね…、人間は個人差もあるんだけど、新陳代謝を繰り返して、だいたい2週間ぐらいで全ての細胞を古いものから新しいものに入れ替えているのよ…。だから新陳代謝を完了させた人間はまったく別人に生まれ変わったともいえるのだけど、その時姿がまったく変わらないのはDNAと呼ばれる遺伝子の情報を記した設計図がにらみを効かしているからなの…。ここまでは分かる?、シンジ君?」

「は……はい、まあ、何とか…」

「つまりね…、鈴原君にやろうとしている事は、まったく別人の左足を手術で鈴原君の体につけた後、その左足に鈴原君のDNA情報を注入して何度も新陳代謝を繰り替えさせて、少しづつその左足の遺伝子を鈴原君のものに変化させていこうというモノなのよ。」

「けど、他人の左足って誰が提供するんですか?まさか死体から?」

「いいえ、今、遺伝子工学研究所にちょうどいい肉体のサンプルが保存されているからそれを使うつもりなのよ…。シンジ君も知っていると思うけど、かつてダミープラグの元であった、綾波レイの生体パーツの一部を使ってね。」

「あ……綾波の?」

シンジは驚きの声を上げた。

「そう…、レイちゃんの予備の体はほとんど赤木博士に壊されてしまったけど、まだ使えそうな部分だけを将来の研究のためにLCLに漬けて保管してあったのよ。そして今回たまたま鈴原君の左足に条件が適合する左足のパーツが残っていたので、冬月さんの強い紹介もあって鈴原君が今回の実験のモニターとして選ばれたのよ。」

シンジは綾波の名前を聞いて複雑そうな表情をした。だが。すぐに

「実験ですか…」

と聞いて瞳に嫌悪感を募らせた。

マヤもやや瞳を曇らせて

「そう、実験よ、シンジ君。ハッキリ言ってサードインパクトの発生して世界中が混乱している今の御時勢で善意だけで無償で子供の片足を作ってあげられる余裕はどこにもないのよ。だから、鈴原君の左足はあくまで、治療ではなく遺伝子工学の一分野の研究の為のモニターとして作られるのよ…。その事は鈴原君自身も了承しているわ。」

「けど、それって危険を伴うという意味じゃないんですか?」

「ええ、そうよ。正直、今の遺伝子工学のレベルはエヴァがあった頃に比べたら資金・資材・人材どの面でも大きく立ち遅れてしまっているわ…。だから左足を取り付けた後に、どんな後遺症が起きるかはまったく予測できないの…。たぶん、最低でも肉体同士の拒否反応ぐらいは起きると思うけど…」

シンジはあわててベッドから跳ね起きるとそのまま病室から出て行こうとした。

「シ…シンジ君!?」

「止めなきゃ! そんな危険な事をトウジにやらせるわけにはいかない!」

そう叫ぶとシンジはマヤの制止の声も聞かずに病室から飛び出していった。

 

シンジはトウジの病室の前まできた。扉の前にはヒカリが手を後ろに組んで立っていた。

「碇君?」

「洞木さん、トウジはこの中にいるの?」

「そうよ。鈴原は今、投薬で眠っているわ。それより碇君。そんなに慌てて鈴原に何の用なの?」

「トウジを止めにきたんだよ!あんな危険な実験をトウジにやらせるわけにはいかないから…」

そう言って、シンジが病室へ入ろうとしたが、それを聞くとヒカリは両手を広げてシンジの前に立ちはだかった。

「ほ…洞木さん?」

「帰って…」

「えっ…?」

「碇君。鈴原を迷わせるようなことを言うつもりなら帰ってちょうだい!」

ヒカリは大声で叫んだ。

「…………………………………。」

「碇君、その実験が本当に危険な事だというのは鈴原だって十分承知しているわよ。けど、他に方法はないのよ。この機会を逃したらもう二度と鈴原は自分の足で歩く事はできなくなるのよ。」

ヒカリは唇を噛んだ。

「そんな事は分かってるよ。けど、洞木さんは恐くないの?トウジが……」

言いかけてシンジは言葉を飲み込んだ。ヒカリの目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。

「あ…あたしだって本当は恐いわよ。最初はあたしも鈴原を止めようとしたのよ!けど、鈴原が危険を覚悟で実験を引き受けたのは、もちろん自分の為もあるけど、本当はあたしや碇君の為なのよ…。鈴原は言っていてたわ。もう一度自分が普通に歩けるようになれたら、シンジの奴にも負い目を感じさせないですむようになるだろうな…って。それにあたしにもこれ以上迷惑かけないですむようになるって…。あいつ、馬鹿よ…。本当に馬鹿よ。あんな状態になってそれでも自分の事より、他人の事を心配するんだから…。それなのに、どうして止められるよ!?あたしの為に頑張るっていってくれた鈴原をどうしてあたしが止められるのよ、う…ひぃっく…うううぅ……!!」

ヒカリは鳴咽を漏らした。

「…………………………………。」

シンジは何も言えなかった。

ヒカリは涙で濡れ細った目でシンジを見つめて

「だからお願いよ、碇君。鈴原を迷わせるような事を言うのは止めて…。強がっているけど、本当は鈴原だって恐いのよ。だからあたしは決意したの。いたずらに泣き喚いて鈴原を不安がらせるようなことをするより、あたしに出来る限りの事をして、もう一度鈴原が自分の足で普通に歩けるように、精一杯鈴原を支えてあげようって…」

そう誓言したヒカリの目はトウジを守ろうとする強い意志がこもっていた。

シンジは二人の覚悟の深さを感じとって自分自身の卑小さを恥じた。

「分かったよ、洞木さん。僕もトウジがもう一度自分の力で歩けるようになれるように応援する事にするよ。それにしても本当に強いんだね、トウジも洞木さんも…。僕たち二人とは大違いだ…。」

シンジは自嘲するような口振りでそう独白した。

「ねぇ、碇君。どうしてアスカはドイツに帰ってしまったの?あたしは碇君がいる限りアスカは日本に留まると思っていたのだけど…」

その言葉にシンジはつらそうな顔をして

「たぶん、僕に愛想をつかしたからだと思う…。」

そう答えて、とぼとぼとした足取りで自分の病室へ帰ろうとした。

その様子を見てヒカリはやや躊躇った後

「ねぇ、碇君。こんな事言ったらアスカは絶対に怒ると思うけど、アスカは本当に碇君の事が好きだったと思うわ…。だから……」

そう言って慰めようとしたが、シンジは振り返らずにそのまま自分の病室へ帰っていった。

 

 

それからトウジは手術を受けて左足を移植される事になった。

手術そのものは意外にうまく成功した。

だが、トウジの左足は木偶と同じでまったく動かなかった。

それどころか肉体の拒否反応が出て数時間に一度はトウジは左足を押さえてうなされる日々が続いた。

だが、トウジは決してあきらめずに精力的なリハビリに取り組んだ。

そして、その日からトウジとヒカリの二人三脚が始まった。

中学へ通う時も、ヒカリは松葉杖をつくトウジに肩を貸して、つきっきりでトウジの面倒を見ていた。級友にひやかされて顔を赤らめながらも決してやめようとはしなかった。

トウジもヒカリの気持ちに答えるために、一日のリハビリ時間を常人の3倍以上こなして一日も早く自力で歩けるように精一杯努力した。

2週間に一度は遺伝子工学研究所に顔を出して、コンピュータで解析したトウジの左足の遺伝子情報をDNAとして、トウジの左足に注入してもらった。

そして新陳代謝が起きる度にトウジは左足に激痛を感じて身を悶えさせるようになった。

だがその成果が出てきたのか、リハビリから1年してようやくトウジは自分の意志で左足の指先を動かせるようになった。

そしてさらに一年が過ぎようやくトウジは松葉杖なしで歩けるようになり、今ではとうとう体育の授業に参加出来るようになるまで回復したのだ。

そして、トウジとヒカリの二人の間には強い連帯感が生まれていた。何時の間にかお互いを名前で呼び合うようになり、今では誰もが認める本当にお似合いのカップルだった。

 

 

シンジは、息切れするトウジにタオルを差し出すヒカリを微笑ましく見ていたが、ふと憂いを帯びた表情をして

『どうしてこの二人と違って、僕とアスカはあんなにも歪んでしまったのだろう?』

と自問した。

今ではシンジにはその答えは分かっていた。

同じリハビリを通じた絆でも、トウジとヒカリの場合とシンジとアスカの場合とではその意味が根本的に違っていたからだ…。

シンジがアスカを求めたのは、自分で自分を肯定できない心の弱かったシンジが、つらい現実から逃避する為の逃げ場としてアスカの存在を欲っしていたにすぎず、アスカの場合も、狂気に陥ったアスカがかかえていた破壊衝動が、自分自身を壊さない為の身代わり…というよりは生け贄としてシンジの存在を欲っしていたにすぎなかった。シンジもアスカも極端な事をいえば相手を自分の為に利用していただけで、相手の事など少しも考えてはいなかったのだ。

だが、トウジとヒカリは違った。シンジとアスカと違い、二人ともお互いの事を考えて、助け合い、支え合い、そしてここまで辿り着いたのだ。二人でお互いを高めあったその当然の成果として今の二人の姿があるのだ。

『かなわないわけだよな…。』

シンジはため息混じりに、心から二人の関係を祝福した。

 

 

そして、放課後になりシンジは吹奏楽部の教室に顔を出した。

シンジは高校では、吹奏楽部に入っていた。もちろん、チェロを弾くためである。

教室にはすでに十人以上の部員が顔を出していた。そのほとんどが一年の女子である。

その中にはシンジのファンクラブの会員であるサユリ達三人も混ざっていた。

サユリは一応ビオラを手にしていたが、彼女がまともに弾いているのを見た部員は誰もいなかった。

「こんにちは、桂部長」

シンジが三年女子の吹奏楽部の部長に挨拶すると

「こんにちは、碇君。」

と彼女も挨拶を交わした。

シンジは自分のロッカーからチェロの大きなケースを取り出した。

シンジがケースの蓋を開けてチェロを取り出した頃には、教室の中の部員達は自分の演奏を中止してシンジの演奏を拝聴する体勢に入っていた。

桂恵子部長は明らかにシンジ目当てで、まともに音楽に取り組む気のないミーハーな部員を快く思っていなかったが、去年までの廃部の話しが出ていた台所事情を考えてじっと耐えることにした。

やがて、シンジは右手に弓をかまえて演奏を開始した。

今日シンジが弾いたのは、多発性硬化症で若くして亡くなった天才女流チェリスト、デュプレの得意曲であった、“エルガー チェロコンチェルト emoll”である。

シンジが弓を動かすつど、悲しく、それでいて聞く者の心を潤すような美しい曲が教室内に響き渡る。部員のほとんどはシンと静まってシンジの演奏に聞き惚れている。桂部長でさえ、自分のバイオリンの演奏を中止してシンジの演奏にじっと耳を傾けている。

シンジは病院を退院してから1日もかかす事なくチェロを弾き続けてきた。もともと、チョロに深い思い入れを持っていなかったシンジが、それでも毎日のようにチェロを弾くようになったのは、それが今、日本にいない彼女と自分を結び付けているたった一つの絆だと思い込んでいたからだ。

つまりシンジがチェロを弾き続ける動機は極端な事を言えば、たった一人の少女にいつかもう一度自分の演奏を聞かせてあげたいと思っているだけだったからだ。

『チェロは僕の事を貶してばかりいた彼女がたった一つ心から誉めてくれた唯一のことだから…今の僕と彼女を結び付けているたった一つの絆だから…』シンジは本気でそう信じ込んでいた。

その継続の成果が出て、シンジのチェロの腕は以前よりかなり進歩した。おおよそ音楽の事などまるで分からない素人が聞いても、シンジの曲は深く心に響くモノがあった。

シンジは目を閉じて周りの雑音を一切排除して、並外れた集中力で一心不乱にチェロを弾き続けた。そして、それからしばらくの間、静まり返った教室でシンジの明快なチェロのリズムだけが響き渡った。

15分近く経過してようやくシンジの弓の動きがピタリと止まった。一瞬の静寂の後、部員たちの間からため息がもれる。

桂部長もややトリップしていたが、すぐに周りを見回して

「ほら、あなた達、ちゃんと自分の練習もしなくちゃ駄目よ。もうすぐ大会が近いのだから…」 と怒鳴ると、部員たちもようやく自分の演奏を開始した。

それからシンジは軽く何曲か弾き流していたがバイトの時間が近いので帰る準備をした。

そしてシンジはチェロをケースにしまうと

「それじゃ、僕はこれからバイトがあるので、お先に失礼します。」

と頭を下げて皆に挨拶してシンジは部室から出ていった。

そしてそれを見て、目的を失ったサユリ達3人組も演奏する振りを中止して一言挨拶して部室から出ていった。

 

 

シンジは部室から出るとそのまま駐輪所へ向かっていった。その後ろ姿を見つめるサユリ達ががため息をついた。

「碇先輩って、やっぱり中性的で素敵よねぇ?」

「そうね。特にチェロを弾いている姿なんてすごく絵になると思わない?」

「ホント、まさにサユリの王子様だわ。(はぁと)」

サユリ達ファンクラブのメンバーはそれぞれに自分の理想をシンジに重ねてうっとりとしていた。彼女達には、シンジが3年前は自分自身さえ肯定する事が出来なかった本当に心の弱い人間であったこと…そしてその心の弱さゆえに自我崩壊を起こして生死の境をさまよっていた事など到底想像もつかなかった事だろう。

 

 

シンジはバイクに乗って学校の校舎を飛び出すと、そのまままっすぐにバイト先のレストランに向かった。そして第3新東京都市でも有名な高級イタリア料理店「GEORGE & RAY」の駐輪場にバイクを置いて裏口からレストランの中へ入っていた。

「こんばんわ、徳永支配人」

シンジは頭を下げて、徳永と呼ばれた口髭を生やした中年の男に挨拶するとそのまま更衣室へ入っていった。

そして、髪をポマードでオールバックに固めた後、ウエータースーツに着替えると、学校にいた時とは違った大人びた雰囲気がでてきた。

シンジは中学生の時には比較的自宅の近くにあった定食屋でバイトをしていたが、すでに日本食にはかなり精通していたシンジは一年もしたら覚える事がなくなってしまったので、高校に入学したのをきっかけに、その料理の腕を惜しまれながらも定食屋を辞める事にした。

そして、シンジは今度は少し外国の料理を学んでみたいと思い、高級料理店でバイトがしたいと考えたが、そのツテを探すのに苦労した。

シンジは少し迷った後、冬月の力を頼ることにした。少しでも自立したいと考えていたシンジは、自分のバックにいる委員会の力を借りるのをあまり好ましく思っていなかったが『まあ、バイト先の斡旋ぐらいなら問題ないかな…』と思い直したのである。

こうしてシンジは冬月からの紹介で高級イタリア料理店「 GEORGE & RAY」でバイトする事になった。 高校に入学した当初のシンジはまだ成長期に入る前の貧弱そうなイメージしか持っていなかったので、支配人の徳永は最初は「これまた使えそうにない子供が放りこまれてきたものだ」とため息をついたが、この町を牛耳っている委員会の議長の直接の推薦を断るわけにもいかなかったので、内心ブチブチ文句をいいながらもシンジを雇うことにした。

また、そういう事情がなければシンジは競争率の高いこの店でバイトをする事は到底出来なかっただろう。

最初シンジは皿洗いや清掃全般など客の目につかない所だけで働かされていた。

だが、半年もしてシンジが成長期に差し掛かり、長身のハンサムボーイに成長したのを見て、徳永は「これは女性客に受けるかもしれないな」と思い直しシンジをウエーターに昇格させ、髪をオールバックにまとめさせ、清潔な身だしなみをさせて客前に出すことにした。

その徳永の思惑は成功して明らかにシンジを目当てとした中年の金持ちの女性客がちらほらと増える事になった。

そして今日もシンジは、ご婦人かたの談笑の相手をさせられていた。シンジ自身はこれも給料の内と完全に割り切っていた。

「というわけで、シンジ君。今日はチェロは弾かないの?」

化粧深い貴婦人が猫なで声でシンジに尋ねると

「チェロの方は水曜日だけと決めているので、その日にまたいらして下さいね。」

営業スマイルでシンジはワイングラスに赤ワインを注ぎながら、そう答えた。

今ではシンジはウエーターの他にも水曜日だけだが演奏者も兼ねていた。

半年ほど前にシンジがチェロのコンクールの入賞者と知った常連客の一人がしきりにシンジのチェロを聞きたがったので、渋々ながらシンジが料理店内でチェロを演奏した事がきっかけである。

その時弾いたシンジのチェロの腕前は十分鑑賞に耐えうるレベルだった。

それ以来支配人の徳永はシンジは顧客の受けもよかったので、いい宣伝になると思い、別手当てを払うと約束して、シンジに演奏も担当させる事にしたのである。

そういうわけで、シンジは今では正社員並みの給料をもらっていた。さすがに他のバイト仲間にはその事をやっかむ者も多かったが、一人暮らしをして生活に苦しんでいたシンジには実にありがたい話だった。

 

 

やがて9時を超えて閉店となり、皆で清掃をした後、支配人をはじめ皆帰宅して後にはシンジと同じアルバイトの中沢だけが残った。

人間の能力には発信性のものと受信性のものがあり、発信性のものは創造力に該当し、受信性は記憶、理解、処理能力それに批評・鑑賞能力を現すといわれている。14歳で大学を卒業したアスカが受信性の人だとすればシンジは明らかに発信性の能力に優れていた。そして料理・音楽・芸術はその発信性に属する分野だった。

その為、料理に関する限り探求心旺盛なシンジは、いつも進んで後片づけを担当し、シェフが作った料理を忠実に再現しようと努力していた。

「GEORGE & RAY」では、その日につくった物をその日のうちに食べるというフレッシュさをモットーとしていたので、あまった材料は全て捨てられるのでそれらは自由に使えるようになっていたからだ。

シンジは二人分の料理をつくるとそれを調理台の上へ置いた。

そして二人は少し遅めの夕食に取り掛かった。

中沢自身はモニターという名目で堂々とシンジに夕食をたかっていた。

「今日の出来はどうですか、先輩?」

シンジが中沢が声を掛ける。

「もちろん、美味いぜ。たぶん、誰が食べても美味いと言ってくれると思う。お前本当に料理の才能あるよ…。けど、シェフの阿部さんがつくったのと比較すると何か一つ足りないモノがあるんだよな…。」

「…………………………………………………。」

それはシンジ自身も感じていた。

「まあ、そんなにあせるなよ。阿部さんだって本場イタリアに五年ほど留学してようやくシェフの地位を手にしたんだからな…。一・二年バイトしただけの碇が、いきなりそこまで辿りついたんじゃ、阿部さんの立場がないだろう?」

「そうですよね、それじゃ今度は味付けを少し工夫してみますので次もよろしくお願いしますね。」

中沢自身はさすがにイタリア料理はあきたから、今度はシンジの得意な和食でも作ってくれないかな…と思ったがそれを言うと夕食にたかれなくなりそうなので、別の事を考えて

「しかしお前って本当に不思議な奴だよな。天涯孤独の身だっていいながら、委員会みたいな所に強いコネがあるみたいだしな…。俺だってここに入るのは本当に苦労したんだぜ…。」

「………………………………。」

「それとこの間お客できたお前の保護者は何て言ったっけ? そうそう、マヤさんだ。いいよな、あんな美人の保護者がいてさ…。碇は何で一緒に暮らさなかったんだよ?そうすればこんな所でバイトする必要もなかっただろうしさ…」

「まあ、色々とあるんですよ。深い事情が…」

シンジは言葉を濁した。

「そうか、まあ言いたくなかったら別に言わなくてもいいさ。俺も随分と碇にはいい思いをさせてもらってるしさ。さすがに他のバイト仲間の中には碇の事をやっかんでる奴が多いけど、俺はお前の事が好きだからな…」

シンジは曖昧に笑みを返すと、鍵をしめて料理店から出ていった。

そして中沢に挨拶するとバイクにまたがってそのまま帰宅した。

 

 

シンジがマンションへたどり着いた時には10時を過ぎていた。

ドアを鍵で開けて「ただいま。」と挨拶するが、無論、返事はない。

シンジはやや寂しさを覚えて、『こんな事なら、無理を言ってでもペンペンを返してもらえばよかったかな。』

と考えていた。

病院でヒカリにあった時、かつてミサトが洞木家へ預けていた温泉ペンギンのペンペンの処遇について聞かれたのだ。

「碇君、ペンペンの事なんだけど…、家の末の妹がペンペンの事すごく気に入っちゃっているの。それはもう寝る時やお風呂へ入る時も一緒で離さないくらい…。今日返すかもしれないって妹に告げたら「やだ!、やだ!」てワンワン泣かれちゃったの。だから、もしよければ……」

ヒカリが申し訳なさそうに口篭もると、シンジは笑って

「別にいいですよ、洞木さん。もう本来の飼い主のミサトさんはいないわけですし…。それにこれからの僕はたぶんペットを飼う余裕はないと思うから…。」

「ごめんね、碇君。」

ヒカリはシンジに向かって頭を下げた。

 

シンジは制服を脱いで私服に着替えたら、朝お湯につけといた食器を洗って片づけた。

その後バスルームに顔を出して、風呂釜を簡単に掃除してからお湯を満たしはじめた。

シンジは自分の部屋へ戻ると、昨日、図書館から借りて来た本を読みはじめた。本の題名は「カウンセリングの理論と技法」と書かれていた。

良く見るとシンジの本棚は半分が学校関係の参考書で、残りは全て心理学に関連した書物で埋め尽くされていた。

いつの頃からだろう…。自分が将来この道へ進みたいと思いはじめたのは…。

今のシンジには将来の明確な展望があった。

それは臨床心理士(カウンセラー)になる事だった。

サードインパクトが発生したせいで、家や家族や恋人等、大事なモノを失い、かつての僕やアスカのように心を壊してしまった人は世界中に大勢いるはずだ…。

将来、その人達の役に立つ事が出来れば……、シンジは本気でそう思っていた。

シンジは自分自身の体験からヒトは他人の心を救うことは出来ない事…、そして最終的には自分を救えるのを自分自身しかいない事を身に染みて良く理解していた。

かつて心を壊した時のシンジもアスカも、手法は異なったが、現実へ還るべき理由をそれぞれ自分自身で見つけたのだ。

最終的に生きるべき理由は、自分で答えを見つけるしかないんだ。周りの人間には、その人を助ける事は出来ないんだ。

けど、周りの人間がその人をサポートする事によって、その人が答えを導くまでの過程を効率よく手助けすることは出来るかも知れない。

そして、そのサポートを手助けする職種が臨床心理士(カウンセラー)なんだ。

シンジは再び自身の罪に思いを馳せた。

かつて、心の弱さゆえに人類の半数を失ったというシンジの心に刻まれた決して消えることのない十字架。

だが、その罪の意識がシンジを未だに苦しめていたとしても、シンジは今更自分を責め、罰っしようとは思わなかった。

『そうだ、僕が自分の罪を嘆き、責め苦しめ、自分自身を罰っした所で誰一人救われるわけじゃないんだ。そんなモノはただの自己満足に過ぎないんだ。それどころか、僕が内罰的に自分で自分を傷つけ続ければ、マヤさんやトウジ達のような僕に好意を抱いてくれている人達まで苦しめる事になるんだ。だったら自分を罰するよりも償いをするべきだ。』

体の傷は時間がたてば治癒するが、心の傷はそういうわけにはいかない。

誰かが誠意を以って対応しなければ心の傷はいつまでも消えることはない。

 

『将来、心理学を専攻してカウンセラーになって、心の病める多くの人間の手助けが出来れば、少しは自分の犯した罪に対する償いになるかもしれない…。無論、それだって自己満足には違いないのだろう。結局死んだ人間が生き返るわけではないし、僕一人で世界中の心を壊した人間全てを救えるわけはない。けど、同じ自己満足でも、ただ自分を苛めて何もしないでいるのに比べれば、はるかに前向きで有益な生き方ではあるはずだ。』

 

シンジは3年前とは見違える程、物事を前向きに考えるようになっていた。

これも3年間、自分で自分を支えながら精一杯力強く生き抜いてきたその成果だった。

 

無論、シンジの3年間は決して順風万帆なわけではなかった。

カウンセラーとは他人の心の奥底に最も踏み込まねばならない職業である。

それは本来、他人を傷つける事を怖がって、他人の心に直に触れる事を何よりも嫌っていたシンジにとっては最もつらい事だった。

だが、だからといってそこで立ち止まっていたのでは、カウンセラーになる事など到底不可能だった。

だからシンジは歯を食いしばって、自らの心を曝け出し、他人の中へ積極的に踏み込んでいった。

そして、皮肉にもそれを助けたのはアスカとの二度目の共同生活だった。

あの時のアスカはおおよそ考えうる最大限の悪意を以ってシンジに接していた。

それこそシンジの心が壊れるくらいに…。

だがそれ故に、意外にもシンジは前ほど他人を恐れなくなった。

『どれほどの悪意の人でも、見も知らぬ他人があの時のアスカ程の害意を僕に抱くことはないだろう。』

そう考えれば、気が楽になった。

無論これはシンジの精神崩壊が極めて良い方向に働いた希な例であり、本来ならこういう体験をした後は今まで以上の極度の対人恐怖症に陥る可能性の方が高かっただろう。

だが、シンジは自分で自分を支えられるよう強くなろうという並々ならぬ決意を以って現実へ復帰したからこそ、アスカとの地獄のような共同生活を自分の糧とする事が出来たのだ。

そうしてシンジは中学の時、表面的な付き合いでなく、本音で語り合うような積極的な交際を求めて、多くの級生と交わってきた。その時はまだ、心と心の触れ合いのさじ加減を知らなかったシンジは相手の心に踏み込みすぎる失敗を何度も繰り返した。時には本気で殴り合いの喧嘩に発展した事もあった。女の子を本気で泣かせて一時的な登校拒否に陥らせた事さえもあった。仲良くなった友人を何度も失う羽目にもなった。

だが、悩みながらもシンジは決して立ち止まろうとしなかった。何が悪かったのか考え、反省し、着実にヒトとヒトとの心の距離の取り方を学んでいくようになった。

 

高校へ入学してからもしばらくはつらい日々が続いた。

学校では苦学生の割には何かと目立つシンジの事をやっかんで上級生の不良連中がからんでくる事が日常茶飯事で、バイト先のレストランでも委員会のコネで入ってきたシンジを中沢以外のバイト仲間は快く思っておらず、しばらくはいじめに似た扱いを受けていた。

だが、もうその程度の事ではシンジはへこたれなかった。

かつてのアスカの心の底からシンジを憎み切った破壊的な悪意の波動に比べれば、表面的な不快感が根源となっている彼らの薄っぺらな悪意などでは、今更シンジの心を傷つけるには質量ともに不足していた。

シンジは超然として彼らの悪意を受け流して、さらに自らの心を強く磨き上げていった。

やがて、シンジに対する周りのささやかな悪意も次第におさまっていった。

バイト先ではシンジが明らかに給料分の働きを示すようになると誰もシンジに文句を言わなくなった。

そして学校でもシンジに手を出す人間は次第に減っていった。

かつてのシンジと違い今のシンジは無条件な非暴力の無抵抗平和主義者ではなかったからだ。

結局集団で一人を苛めるタイプの人間は、得てして一人では何も出来ないいくじなしである事が多い。ましてやそういうタイプの人間にとって「相手が絶対に抵抗しないコト」「そして自分が絶対に傷つかないコト」は絶対必須条件なのである。

そして今のシンジがその条件から大きくはずれていた事に気がついたからである。

 

シンジが本を読み終えると、カレンダーの日付はすでに翌日になっていた。

シンジは風呂に入り一日の疲れをじっくりと癒そうとした。

『風呂は命の洗濯』というかつての保護者の言葉を思い出した時、シンジは今、彼が抱えているたった一つの疑問を呟いてみた。

「僕は本当にアスカの事が好きなのだろうか?」

 

別れてから3年たった今、シンジはアスカに対する自分の想いを疑っていた。

そしてその原因を作ったのは実はマヤだった。

 

 

3年前、シンジが精神崩壊から目覚めた時、シンジは彼を暖かく出迎えてくれたマヤと最初の会話を交わすことになった。

「………………………というわけで、ミサトさんや綾波達が僕を叱ってくれたんです。わざわざ死者の国から僕の事を心配して尋ねてきてくれたんです…。」

シンジは嬉しそうに話した。シンジ自身は心からそう信じているようだった。

思考がロジカルなマヤは死者の霊魂など到底信じられなかったので『それはもう一度現実と戦おうとしたシンジの心がつくりだした、シンジ君の心の中に住む葛城さん達のイメージなのよ。だからシンジ君。あなたは本当に自分自身の力で立ち直ったのよ。もっと自分を誉めていいのよ。』

そう言いたかったが、やめることにした。

そう言われてもきっとシンジは嬉しくないだろうと思い直したからである。

「と………ところでマヤさん………。」

シンジは口篭もりながら、オドオドとして何かをマヤに尋ねようとした。

『たぶん、アスカの事ね。』

マヤはピンときた。

「あ…………あの………ア……アスカは…どこにいるんですか?………で…出来れば会いたいんですけど………」

シンジは期待と不安の入り混じった目でマヤを見つめた。

マヤはしばらく迷ったが、どうやらシンジはアスカを道標にして現実へ還ってきたわけではなさそうなので、この際シンジの中からアスカを完全に切り離してしまおうと考えて

「アスカはドイツへ帰ったわよ、シンジ君。」

とそう告げた。

その言葉を聞いた途端、シンジの瞳に絶望が宿った。

マヤはシンジの表情に多少罪悪感を感じながらも、意を決して

「シンジ君が壊れたら、アスカは急にシンジ君に対して興味を失っちゃったみたいなのよ。「壊れたオモチャに用はないわ。」といい残して、私達の制止の言葉も聞かずにシンジ君を見捨てて一人ドイツへ帰ってしまったわ。今ではあの狂気じみた状態からも解放されてドイツで新しいボーイフレンドを見つけて楽しく暮らしているみたい…。たぶん、もうシンジ君の事なんかすっかり忘れちゃっているんじゃないのかな…。だから、もう日本へ戻ってくる事は二度とないと思う………」

マヤは八割の嘘と二割の真実を散りばめて、話を捏造していたが、途中でその舌を停止させた。

シンジの瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちたのが目に入ったからだ…。

「シ……シンジ君……。」

シンジは鳴咽を漏らした。

「う……ひっくっ………うううぅ…ひっく…、馬鹿だ…。僕は本当に馬鹿だ……。現実へ帰ればきっとうまくいくと思っていた…。アスカが僕の事を許してくれて、明るい笑顔で僕を迎えてくれるんじゃないかと信じていた…。ミサトさんが忠告してくれたのに…。「現実へ帰っても全て解決するとは思わないほうがいい」ってわざわざ教えてくれたのに…。馬鹿だ……。僕は本当に大馬鹿だ…。」

「………………………………。」

「そうだよな…。考えてみれば、こうなって当然なんだよな…。僕はアスカに見捨てられて当然なんだよな。僕は本当にアスカの事を何度も傷つけたんだ。そしてアスカが必死に助けを求めていたのに最期まで救いの手を差し伸べようとしなかったんだ。それなのに今更僕の事を受け入れて欲しいなんて虫が良すぎたんだ…。僕は本当に逃げてはいけない時に逃げ出したのだから、大事なモノを失って当然だったんだ。けど、今更気付いたって、もう遅い…。僕は本当に大事なモノを失ってしまったんだ。う……ひっくっ………うううぅ…ひっく…。」

シンジは何度も鳴咽を漏らしたが、わずかに涙にぬれ細った瞳を輝かせて

「けど、よかった…。ようやくアスカはあの狂気から解放されたんですね…。今は普通の精神状態に戻って本当に幸せに暮らしているんですね?マヤさん。」

マヤはその質問には答えられなかった。アスカをドイツへ送還して以来、アスカとは一度もコンタクトを取っていないからだ。だからマヤは質問に答えるかわりに

「シンジ君。あなたはアスカの事を怨んでいないの?あなたの事を逆恨みして、あんな酷いことをしてあなたを自殺未遂にまで追い込んだアスカを?」

「どうして、怨めるんですか!?アスカは本来とっても優しい女の子なんですよ。それをあんな状態まで追いつめてしまったのは僕なんですよ。それに逆恨みなんかじゃありませんよ。アスカの憎しみは極めて正当なモノですよ。客観的に他人が見たらどうかは分かりませんけど、少なくとも…僕とアスカの二人にとってはね…」

マヤはシンジのアスカに対する想いが想像よりはるかに強かったのを思い知り、自分の言った事を後悔しはじめた。そしてシンジが再び自分の中へ逃げてしまうのではないかと恐怖した。

事実、もしシンジがアスカに依存するつもりで現実へ還ってきたのだったら、復帰早々シンジは挫折を余儀なくされただろう。だが、シンジが現実へ戻ってきた時の決意はマヤの危惧よりも数段深いものだった。

シンジはマヤの不安そうな顔を見て、涙をごしごしと拭きながら無理してマヤを気遣うような笑顔を浮かべて

「大丈夫ですよ、マヤさん。もう、僕は絶対に逃げたりしませんよ。ミサトさん達に約束したんです。一人で自分を支えられるくらい強くなってみせるって…。僕はまだ何もしていない…。こんなところで挫けたらミサトさん達に会わせる顔がない…。」

「シンジ君…。」

「それに今はこれでよかったのかも知れない…。今の僕にはアスカにしてあげられる事は何もない…。自分さえ支えられない弱い僕には、アスカを支えることなんて出来はしない…。だから強くなるんだ…。自分自身をしっかりと支えられる、そしてアスカの全てを受け止めてあげられるような強い男になるんだ。そして、その時こそ必ず…。」

それがその時のシンジが自分自身に約束した神聖な誓いだった。

 

 

それから一年の間はシンジはアスカへの想いを胸に秘め自分自身を高めるように精一杯努力していった。その時のシンジは自分の想いを疑ったことなどなかった。 だが高校に進学してから再び出会った少女がシンジのアスカに対する想いを大きくぐらつかせる事になった。

 

 

第壱高等学校の入学式の時、一応奨学生だったシンジはガラにもなく新入生代表として挨拶する事になった。

「…………………………というわけで、精一杯頑張りたいと思います。新入生代表、1年A組 碇シンジ。」

満場の拍手の中、シンジは照れながら自分の席へ戻っていった。

その時、シンジを見つめる熱い視線にシンジは気付かなかった。

入学式が終わった後、校庭でシンジがトウジ、ケンスケ、ヒカリ達に代表の挨拶の事をからかわれていると、誰かが

「さっきはずいぶんカッコ良かったわね、シンジ。」

と声を掛けた。

シンジはドキリとした。シンジの事を名前で呼び捨てにする同年代の異性はシンジの知る限りアスカしかいなかった。

もしかしてアスカが戻ってきたのか…という期待と不安を胸にシンジは後ろを振り向いた。

だが、そこにいたのはある意味アスカ以上に驚かされた人物だった。

「ひさしぶりね、シンジ。」

セーラ服を着た鳶色の髪をしたショートカットの美少女がシンジに向かって微笑んでいた。

「マ……マナ!?」

シンジの瞳孔が極限まで見開かれた。

マナの瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。そしてそのままシンジに抱き着いて

「会いたかった…シンジ。」

と呟いて鳴咽を漏らした。

シンジもマナをそっと抱きしめて

「生きていたんだね、マナ」

その言葉にマナはコクッと肯いた。

トウジ達は驚いて成り行きを見守っている。

それからマナは自分の事情を話した。

「あの爆発の時、ムサシがあたしを救命カプセルに乗せてくれたから、あたしは奇跡的に助かることが出来たの。そして加持さんの計らいで遠くの町で名前を変えて生活する事になったの…。本当はシンジにもう一度会いたかったんだけど、シンジに迷惑がかかると思ったから黙ってこの町を出て行くことにしたんだ…。ごめんね、シンジ。あたしが生きている事を伝えられなくて…」

「ううん、マナが生きていてくれて本当に嬉しかったよ…」

シンジは明るい笑顔でそう答えた。

「サードインパクトが発生して、戦自も壊滅に近い状態に陥ったので、もうあたしの事にかまっている余裕はなくなったのよ…。だからあたしは晴れて自由の身になって本当の両親の元に帰る事が出来たの。」

「そう、よかったね…。マナ」

シンジは嬉しそうに答えた。

するとマナは急に顔を赤らめて、もじもじして

「サードインパクトが起こった日、シンジの夢を見たの…。それは、まるで自分自身が溶けていくような気持ちのいい夢だった…。そしてその日以来もう一度シンジに会いたくて夜も眠れなかった…。だから両親に無理言って第3新東京都市に引っ越してもらったの…。シンジ。もう一度逢えて嬉しかった。」

そういってマナはシンジの胸に顔を埋めた。

シンジにはそのマナの言葉が何を意味するか知っていた。

『そうか…、マナは今でも本当に好きなんだ…。僕の事が……』

 

 

それから2年近くが経過して今に至るようになった。

シンジは風呂にゆったり浸かりながら再び自問する。

「アスカでなければいけない理由って何なんだろう?

どうしてマナじゃいけないのだろう?

アスカはもう僕の事を必要としていない。

そしてアスカは結局僕を好きだとは一度も言ってくれなかった…。

けど、マナは僕の事を好きだといってくれた…。

そして僕はアスカよりマナの方が好きなのだろうか?

分からない。確かに一時期アスカよりマナの方が僕の心に近づいた時もあった。

けど、マナが死んだと思い込んでから、ずっとマナの事は忘れていた。

使徒を全て倒した後、僕は本当に強くアスカの事を求めたけど、それはその時にはもう僕の周りにはアスカしかいなかったからなのではないか…。

もしその時、マナが生きていると知っていたらアスカではなくマナを求めたのではないだろうか…。

だとしたらそれは本当にアスカにとって、最大の侮辱だよな。

アスカが本気で僕を憎むのも当然の事のように思えるよ…。

僕には分からない。

アスカでなければいけない理由が分からない…

マナではいけない理由が分からない…」

シンジは今になって自分の気持ちをもてあましていた。

現実へ復帰した時のスタート地点でマヤの言葉を信じて「自分はアスカにとっていらない人間」だという認識を植え付けられた事は、マナの再出現と伴い今のアスカに対するシンジの想いを大きくぐらつかせていた。

「ははっ…、ミサトさんのいう通りだ…。僕は今になってアスカに対する想いを疑っている。今度会う時はアスカも連れて行くってミサトさんや父さんと約束したのにな…。けど、アスカが僕の事を嫌っているんじゃどうしようもないよな…。」

シンジは今、アスカは自分の事を必要としていないと完全に思い込んでいた。

けど、だからといってすぐにマナに乗り換えられる程シンジは女性に対して器用な男ではなかった。

あれから一応学校内ではお似合いのカップルという事で通っているが、マナにせがまれて3回ほどデートしただけで、それ以上の関係には進んでいなかった。

そしてそれすらシンジはアスカとマナに二股をかけているような気がして自分自身に嫌悪感を感じていた。

 

 

シンジは風呂から出ると再び自分の部屋へ戻ってノートパソコンを立ち上げた。

そのノートパソコンはマヤの使っていたモノを中古で譲ってもらったものである。会計ソフトを起動させて今日の支出をまとめる。

シンジはミサトを反面教師にしたせいかお金の支出にはけっこう細かかった。そして計算してみて、今の苦しい台所事情の中で住宅費がかかっていない事がどれほどありがたい事なのかを痛感した。かつて、シンジは大人たちの好意を全て断って一人で自立して生きていこうとしたが、それは現実を無視した子供の幻想にすぎなかった事を今になって痛感している。

もし、あの時頑迷に大人たちの好意を断ってミサトのマンションを引継いでいなければ、到底カウンセラーの勉強をする事など出来はしなかったし、日曜日にもバイトを入れなきゃいけなかっただろう。

さらに、シンジは心配症なので、将来の事を考えて苦しい台所事情にもかかわらず毎月一定額づつ預金していた。

当初はいつかお金を溜めてドイツに渡り、もう一度アスカと再会しようと考えていたが、今ではその想いが正しいのか自信が持てなかった。

 

 

シンジはリビングに戻ると、かつてアスカが住んでいた部屋の扉を開けた。

今のアスカの部屋はオーディオルームとなっていた。

部屋の端にチェロのケースが立て掛けてあり、部屋の中にはアンプ、MDデッキ、複数のスピーカー等がセッティングしてあり、電気のコードが網の目のように地面を這っていた。

このオーディオセットは、音楽好きの青葉が自室のオーディオ環境をベースアップした際の不要となった古いセットを中古価格で譲り受けたモノである。

シンジは一人暮らしをし、自立を掲げながらも、委員会の人間との個人的な交流を断ってはいなかった。

シンジは自立する事と孤立する事の違いを知っていたからである。

一人で生きようと無理するあまり徹底的に他人を拒絶すれば、それはかつてのアスカの失敗を繰り返すだけだと分かっていたからだ。

だからシンジは一人で生きていく事を指標としながらも他者との間に程よいネットワークの輪を保っていた。

シンジはアンプに電源を入れてMDを再生する。

このマンションは全戸数の4割近くが空き部屋の為と、意外に防音環境が整っているため、さほど騒音には気を遣わなくていい方だが、それでも深夜という時間帯を考えてシンジはほどよいボリュームで音楽を再生した。

スピーカーから流れてきたのは、今日学校でシンジが演奏した“エルガー チェロコンチェルト emoll”だった。

シンジはいつもチェロを弾く時、ポケットに忍ばせてあるMDウォークマンで自分の曲を録音し、それを自宅へ帰ってからこの部屋で立体的な音響にして、自身の弾いた曲を聞いていた。

こうして第3者的に聞いてみると、弾いている時には気がつかなかったような、わずかなミスやもっと工夫すべき点が浮き彫りになってくる。

シンジはノートに手早く留意点をまとめると、ケースからチェロを取り出して、すぐに改善すべきポイントだけを絞って弾き直してみる。

そして再びMDを再生し、聞いた後、また同じようにチェロを弾いてみる。

シンジはそれを3回ほど繰り返した。

そして今日の出来に満足するとようやくチェロをケースに仕舞い込んだ。

とにかく今のシンジはチェロを弾き続ける事にこだわった。

アスカに対する自分の想いに確乎たる自信の持てない今、それさえ止めてしまったら、今の自分とアスカをつなげているたった一つの絆が消滅してしまうと思い込んでいたからだ。

 

 

シンジは自分自身を思い浮かべる。

忙しい毎日だが一日の全てが充実している。自分の将来に対する明確な展望をもっている。 そして、もう一人じゃ何も出来なかった無力な子供ではないのだ。今のシンジは自分を支え、そして自分以外の他人の存在さえも肯定してあげられる、しっかりとした芯の強さを持っている。

3年間前向きに努力して、一生懸命生きてきたその成果が今のシンジの生活の全てに宿っている。

かつてのシンジは自分自身を嫌っていた。それこそ世界中の誰よりも…

だが今なら言える。

「僕は今の自分が好きだ。」

かつて自分自身さえ肯定できなかったシンジが、自分で自分を肯定できるようになった一番の証だった。

だがその代償というわけでもないだろうが、シンジは「自分を好きだ」と言えるかわりに「アスカを好きだ」と言えなくなってしまった。

シンジは机の上に立て掛けたあったアスカの写真の入っているスタンドを持ち上げた。その写真はケンスケに頼んでアスカのもっとも良い顔の写真を譲ってもらったモノである。

ニッコリと微笑んでいる写真の中のアスカを見てシンジは心の中で呟いた。

『わからない…。本当に分からない…。どんなに考えても、アスカでなければいけない理由が僕には本当にわからない。』

 

 

シンジは布団をひくと、すでに時計は1時30分を過ぎていた。

寝間着に着替えて横になると、すぐに心地よい睡魔が襲ってきて、シンジは瞬く間に眠りの世界へと誘われた…。

ようやく長かった…そして、彼のいつもの日常を終わらせて、シンジは子供のような無邪気な寝顔で熟睡した。

 

 

将来の目標を見つけ、充実した毎日を過ごし、3年前とは見違えるほど前向きな生き方を自らに課し続けている今のシンジが、たった一つ前向きに考えられないのはアスカに対する想いだけだった…。

 

 

つづく…

 

 

 

 

 

 


NEXT
ver.-2.00 1997-3/13公開
ver.-1.00 1997-3/6公開
ご意見・ご感想・誤字情報などは itirokai@gol.com まで!!

 

後書きVER2.0

どうも、けびんです。

謝罪文で述べた通り今回少しヴァージョンを違えることになりました。

以下はだいたい同じですので前の後書き内容でいかせてもらいます。

 

「これって本当にあの暗黒破壊小説だった「二人の補完」の直接の続きなのですか?」と首をかしげている方もいらっしゃるかと思いますが、これこそ本来僕が書きたかったエヴァの世界観そのものです。(いよいよ学園エヴァ、解禁か!?)

「強いシンジ」(と素直なアスカ)というのは僕にとって理想でしたが、EOEの二人を正当に準拠する限り、それを無条件に信じる事は出来なかったので、そこへたどり着くまでの過程として前章の「AIR」編があったのです。(ただちょっと修正前はやりすぎました。反省しています。)

とはいえ、あのような自己啓発セミナー(第十話)一つで完全に生まれ変わられて、僕自身これは嘘だと思ってしまうので、一つぐらいはあの時の決意がうまくいかないものがなくては不自然かなと思ったので、シンジの能力をアップさせた分、あの時悟りきったはずのアスカに対する想いを曖昧にする事でバランスを取る事にしました。

そしてこれは前々から僕がエヴァで感じていた疑問を解決する為に絶対に必要な設定でもありました。

その僕が感じていた疑問とは

「シンジは本当にアスカの事が好きだったのか?」

という、おおよそLAS人にあるまじき大変不敬な疑問です。(^^;
(たぶん、深層心理でその事を感じていたLAS人は決して僕一人ではないと思いますが…)

これはあくまで僕の主観ではありますが、エヴァ本編を正当に準拠する限りアスカがシンジに対して強いライバル意識と同時に若干ながら淡い恋心を抱いていたのはほぼ間違いないと自分は思っています。
(特に新LD11巻でそれが明確になりましたね(^^;
例の「何もしてくれない」「あたしを助けてくれない」「抱きしめてもくれないくせに」のくだりです。(^^;)

「鋼鉄のガールフレンド」まで範囲を伸ばせばこれはもう若干どころかベタ惚れですが、まあこちらの方は参考程度にとどめておきましょう…。

ただ、シンジの方はどうにも怪しかった。(生意気にも…)

LAS人である僕の目から見ても、どう贔屓目に見ても本編のシンジの気持ちは綾波寄りだったような気がするし…、マナやカヲルに対する態度を見ても「ようするにシンジは自分に好意を抱いてくれる人なら誰でもいいのでは…」と考えてしまいました…。

映画では、今までの展開が嘘のようにアスカを求めていましたが、これは極めて消去法による結果であって、シンジにとっては別にアスカでなくてもよかったような気がしました。

メールを戴いた方によく「二人の補完」の隠れたテーマは前章が「破壊」で後章が「修復」だと宣言しましたが、実は後章「まごころを君に」編にはもう一つ隠れたテーマがあります。

それは「アスカでなければいけない理由」です。

シンジは本当にアスカが好きなのか、そしてシンジにとってアスカは本当に何者にも変えられない特別な存在なのか…これから僕は本編のシンジと一緒に捜してみたいと思います。

そして、その事をハッキリさせるのには「アスカ以外で明確にシンジを好きだと言ってくれる女の子のキャラクター」を出演させるのが一番分かり易い方法だと思いました。

その為だけにオリキャラを作るのも面倒だったので、鋼鉄の世界から霧島マナちゃんにご登場してもらった次第です。(設定はもちろんLASエンディングからです。これだけはLAS人として譲れない所でしょう。(^^;)

とはいえ、マナちゃんが単なる当て馬で終わるかどうかは分かりません。 もし、後章が終了するまでに「アスカでなければいけない理由」をシンジが見つけられなかったら、シンジはマナとくっつき「アスカとシンジはくっつかない事が二人にとっての心の補完なのだ」という、とんでもないエンディングにたどり着いてしまうかもしれません。(う〜ん、もし、そんな事になったら、LAS補完のラストを信じてつらい「AIR」編の展開に黙ってついてきたLAS読者が今度こそ黙っていないだろうな…。)

まあ、冗談はこのぐらいにして(本当に冗談なのだろうか…)、「二人の補完」の後章「まごころを君に」編…、前章「AIR」編とはかなり雰囲気が違いますが、最後まで付き合って戴ければ嬉しいです。

次回は今度はドイツにいるアスカ側のお話を書くつもりです。そして3年間アスカの事を精神的に支えていたオリキャラを出すつもりです。(どんなオリキャラかは秘密(^^;
次回まで楽しみにお待ち下さい\(^o^)/)

 

それと今一つお詫びさせて戴きます。前々から自分の部屋の1万HIT記念に何かやると予告していたのですが、今回お流れになってしまいました。
本当は短編で今より少しだけまともなLASを書くつもりだったのですが、まだまだEOEの毒が完全に抜けきっていないらしくラブラブからスタートしたお話しがいつのまにかダークな展開にハマッテしまい、とても皆様の前にお出しできるものではなくなってしまいました。そんなわけで悩みましたが、不完全なモノを書き上げて皆様のお目を汚すよりも、その分の余力を本編へつぎ込んだ方がいいだろう…という結論に達し今回の記念イベントを取りやめる結果になってしまいました。わざわざメールでアイデアを出してくれたり、楽しみにしてくれた方には本当に申し訳ありませんでした。その分本編の方を頑張るつもりですので、どうかご容赦下さい。

 

では次は「二人の補完」第十二話でお会いしましょう。

「強いシンジ」に続いて「素直なアスカ」を皆様にお届けできるかと思います。

 

ではであ(^^;

 

 

 


 

 けびんさんの『二人の補完』第十一話、公開です。

 

 いよいよ補完に向かって一歩前進…かな

 数年の時の流れは彼と彼を包む環境を大きく変化させたようです。

 

 大きく変わって−−

 変わらず抱えている物、
 変わったゆえに新たに抱えた物、

 あるんでしょうね・・

 

 さあ、訪問者の皆さん。
 新章に突入したけびんさんに感想メールを送りましょう!

 


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