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夏の夜の夢

Written by ishia


後編



男は静かに、音を立てずにガラス戸を開けると、ベランダへ出る。
久しぶりに見上げる夜空、星空を暫しの間見つめる。
……綺麗だな。すっかり忘れていた。こんな夜空を見上げるなんてこの頃なかったものな。
彼はもう一本煙草を取り出し、火を付ける。緩やかに軌跡を描きながら立ち昇る煙を手で追い払う。彼が煙草を吸い始めたのは高校を卒業して大学に進学した、彼女と別れた年の夏。
男は自分の手の中で微かに赤く光る煙草の先の火を見つめる。
妻の体に悪いからと、何度か止めようとした悪癖。
だが、どうしても止める事が出来なかった。
……意思が弱いんだよな、やっぱり。
だから、あの時も、僕は……
そう、僕は聞きたかったんだ、アスカに。

「アスカ」
「シンジ」

二人の声が、あの時ユニゾンした。
でも、それっきりだった。
「じゃ、アタシ、もう寝るわ」
アスカはそう言って電話を切ろうとした。幾分投げやりな調子が彼に伝わって来る。
嫌われたかな、それとも、呆れられたのかな。どっちにしても、僕達はこれで終わりなんだろうな。
何を言ってる。そんな事、始めから分かってたはずだろ、シンジ。アスカに「おめでとう」って言った時に、覚悟してたはずじゃないか。自分には彼女は支え切れない。自分のそんな弱さに今気付いたばかりじゃないか。今さら、未だ未練がましくそんな事を考えるのか、僕は?
いい加減にしろ、シンジ。自分で決めた事じゃないか。
「ああ。じゃ、おやすみ、アスカ」
彼は、そう答えるしかなかった。
受話器を置き、そのままの姿勢で固まった彼の黒い瞳から、再び大粒の涙が電話機の上に落ちる。
アスカ。さようなら。
……幸せに。どうか、幸せに。
最後に、彼は彼女に聞こうと思ったのだ。
だが、どうしても聞くのが怖くて口に出す事が出来なかった。
彼は唇を噛みながら音を立てて受話器の上で弾ける涙を見つめ続けている。
暫くして電話機から離れ、元いたベッドに向かいながら、ふと彼は思い出した。
……そういえば、アスカはあの時なんて言おうとしたんだろう。

男は、最後の煙を口から吐き出すと、片手に持っていた灰皿に吸い殻を捨てる。
そのまま、ベランダの手すりにもたれながら夜空を見上げている。
さあ、もう止めろ。
彼は思う。
こんな事考えたところで何の役にも立たないんだ。過去は変えられない。今さら、アスカの事を考えたって仕様がないじゃないか。
「もしあの時こうしていたら」
そんな過去ばかり引きずる生き方は、彼女を思い切ったあの時に止めたはずじゃないか。
僕はあの時から変わろうと決心して、変わって来たはずじゃなかったのか。
そうだ、何を今さら。
今さら。そうか、僕は後悔しているのか?
あの時決めた道に、後悔しているのか?もしかして僕は今の自分に満足していないのか?
今だに彼女とやり直したいなどど思ってるのか?
馬鹿な。
さっきの彼女を見ただろう。
立派な亭主に可愛い男の子。幸せそうな家族。幸せそうな彼女。
そんな彼女の前に僕が出て行った所で、彼女の心が動くと思うか?
無駄だ。そんなの無駄に決まってる。
それに、女房は、ユキはどうなる。娘はどうなる。
僕に彼女達が捨てられるのか。そんな事、出来る訳がない。
愛してるんじゃないのか、女房を。
愛してるんじゃないのか、娘を。
……愛してる。愛してるとも。僕は彼女達を自分と同じ位愛してる。
でも。
アスカは違うんだ。
心のどこかで、そう叫んでいる何かがあるのが分かるんだ。
彼女達とも違う、自分自身とも違う、アスカは、それら僕が今愛してるものとは違う。
どこか体の奥から求め続けて止まないもの。
心の底から涌き上がってくる言葉に出来ない感情。
もしかしたら、僕はあの後も、いつでも彼女を選んでいたのかもしれない。これから先も彼女を選び続けるのかもしれない。
彼はそこに思い至ると、突然襲ってくる寒気に体を震わせる。
彼女は自分にとって何なのか。
自分は彼女にとって何なのか。
彼は息を詰めて思いを馳せる。

クシュン。
ふと彼の耳に、誰かのくしゃみの声が聞こえる。
誰かがまだ起きてるんだな。
彼は今までの考えを振り払うと、そう思い、何気なく声の方へ視線を向ける。
確か、右の方から聞こえてきた。
そこには、このホテルの棟が見える。
直角に折れ曲がった棟の右から3つ目のベランダに白い人影が立っている。
……女性だ。何やってるんだ、こんな時間に。
彼はそこまで考えて、自分の目を疑う。
肩先でそろえられた赤い髪。夜目にもはっきり分かる燃える様な髪の色。あんな色、日本人にはそういない。
くしゃみをした口を押さえた女性がこちらを見ている。暗くてわからないが、多分その目は青いんだろう。
目と目があった。彼はそう確信する。
彼は痺れた頭の中で結論を出す。
アスカだ。あれは、アスカだ。間違いない。



彼女は星空を見上げながら、自分の思いに耽っていた。
結婚してから夫は、早く子供を欲しがっていた。
彼の両親は、彼がまだ幼い時分に離婚している。以来、彼は母親の元で育てられたと聞いている。離れ離れに別れて行く家族のはかなさ。彼もそんな物を味わって来たのだ。だからだろうか、彼は「家族」というものに、「家庭」というものに、非常に執着心を抱いている。
彼女には、それが分かる。
出来れば彼の望む様に何人もの子供を産み、育てる、そんな家庭を築いて行きたい。それはむろん彼女自身の願望でもあったのである。
でも、怖いんだ。アタシは、自分が子供を産むのが怖い。その子供が、怖い。
だから、仕事だ何だと理由をつけては先伸ばしにしていた。
……いつ頃だろう、子供が欲しいと思ったのは。
アタシはいつ、自分の子供をつくろうと思える様になったんだっけ。
彼女は自分の記憶を辿る。
昔はあんなに嫌だったのに。子供なんて、絶対にいらないと思ってたのに。
いつ頃だろう。
そっか。
やっぱり、シンジの所為だ。
アイツが結婚するって、あれは誰からだったか、そうヒカリだったかな、連絡をもらった時だ。
嫌だな、アタシ。あの時は何でもなく聞き流せたつもりだったんだけど、何も感じなかったはずなんだけど、今なら分かる気がする。
アタシ怖かったんだ。
アイツに置いていかれるのが怖かったんだ。シンジだけがアタシを置いてどんどん先に行ってしまう様な気がして。アイツに負けずにアタシも幸せにならなくちゃって、アイツだけが幸せになってアタシだけが昔の事を引きずって生きて行くのが悔しくって……
そうだ。……アタシ、自分の結婚生活をアイツと張り合う道具として使ってたんだ。それをだしに使って、何らかのアイツとの絆を繋ぎ続けたかったんだ。
嫌な、女。アタシ。
しかも自分の息子に、昔の男の名前なんか付けちゃって、最低。
こんな事夫が、高柳が知ったら、なんて言うだろう。
……怒るよね、きっと。
離婚されちゃうかな。
でも、アタシ愛してる。
夫を、息子を、愛してる。
彼等をアタシは愛してる。
それは、本当に。心から。
それなのに……それなのに。
アイツは、違うんだ。彼等とは、何かが違うんだ。
アタシの中で溶け合って一つになってるんだ。
−−どうしてこんな所で出会っちゃうのよ、バカ。ずっとあのまま会わずに忘れていっちゃえばよかったのに。見たら、会ったら苦しくなっちゃうじゃない。どうしてアタシにこんな事気付かせるのよ、今になって。
……あの、奥さん。幸せそうな笑顔。
アイツの顔。娘を見る時の、奥さんに笑いかける時のアイツの瞳。
そんなもの見ちゃったら、もうお終いじゃないの。
もう、今さらあの中には入っていけないもの。
あの人達の間に割り込んでなんかいけないじゃない。
それに、無駄よ。アイツもアタシになんか振り向く訳がない。
彼女は自分の体を抱きしめる様に両手をまわし、溢れ出るかの様に襲って来る煩悶に耐えている。かろうじて自身を支える両足は、幾分頼りなげに、膝を震わせている。

ふと彼女の視線の左側で、何かが光った。
静かな屋外に、ライターを着火する音が続く。
誰かが外で煙草を吸ってるのか。
何気なくそちらに目を向けた彼女の動きが止まる。
一人の男がベランダの手すりにもたれて煙草の煙を吐いているのが遠目にも分かる。彼女に注意を向けさせたのは煙草をくわえた男の右手。
昔見慣れた懐かしい癖。
握ったり放したりを繰り返すその右手が、彼女に語りかける。
彼女は凍り付いたままその仕草を眺め続けている。
やがて、再び動き始めた頭が、その名前で埋められる。
あれは、シンジだ。間違いない。

彼女は息を潜めて彼の様子を伺う。
煙草を吸い終わった彼は、しかしまだ部屋の中へは入らずにそのままベランダから夜景を見ている。
何を考えてるんだろう、シンジ。
アンタ馬鹿ね。考え込む時の癖、直ってないじゃない。
そんなに真剣な顔して、どうしたんだろう。
ふふっ。奥さんと喧嘩でもした?
……まさかね。
そんな都合のいいことあるわけないか。
でも……でも、もしそうだったら?
もし本当に二人が喧嘩してて、危機的状況にあったとしたら、アタシはどうする?
今度こそ、アイツに自分から飛び込んで行く?
アイツの腕に今、すがりついたら、アイツ、どうするかな?
アイツ、アタシを連れて逃げてくれるかな。
アタシを選んで連れてってくれるかな。
馬鹿馬鹿しい。そんな事出来る訳ないじゃない。このアタシに夫と息子を捨てられる訳がない。仕事も捨てて、繋がりを全て絶って、そんな事出来る訳がないのよ。
……どうかしてるわ、今夜のアタシ。
彼女は急に寒気がして、体を震わせる。
冷えてきたわね。鼻がむずむずする。風邪でもひいたかな、くしゃみが出そう。
彼女は慌てて自分の口を押さえる。今くしゃみをしたらまずい。彼に気付かれてしまうかもしれない。彼女はこらえようとするが、こういった物は止めようとすればするほど出て行こうとする。

クシュン。
しまった。彼女は口を押さえたまま、固まってしまう。
彼方のベランダの男がくしゃみを聞きつけ、こちらを向くのが見えた。
目と目があった。彼女には分かる。
シンジ。



二人は、深夜の闇をはさんで向かい合い、互いに見つめ合う。
星の明りの下で過ごす時間が彼等の意識を幾分軽い催眠状態にしたかもしれない。
それまで各々の胸の中に秘めていた互いへの想いが、彼等が今味わっていた煩悶が、二人のぶつかり合った視線を通して伝わったかもしれない。
男の目が優しく微笑むのが彼女には分かった。
口を押さえていた手を下ろした女性がうっすらと笑顔を作るのが彼には分かった。
声をかけようか。
二人は同じ事を考えている。
声を、かけようか。
でも、出来ない。声をかければ、届くのに。
二人で逢いたい。
でも、動けない。このまま部屋を出れば逢えるのに。
男が、真剣な顔になる。
女も、真剣な顔になる。
一緒に、生きたい。二人で、一緒に。
男の眼が、女の瞳が、そう訴える。
開きかけた口元が、互いの名前の形に動いた様な気がする。
しかし、本当は、それらは凍り付いてそれ以上は動いていない。

これから、

二人だけで、

手を取って、

抱き合って、

欠けていた互いを補い合って、

同じ時間を分け合って……

どれほどの時間が、二人の間に流れただろうか。
夜風の冷たさにか、抱いた想いの深さ故にか、二人はほぼ同時に身震いする。
それと共に二人の意識が我に帰り、気持ちが次第に静まって行く。
二人の表情に笑顔が戻る。このままが、いいんだ。二人の瞳が重なった時、二人の間の闇がそう囁く。
そう。このまま。元気そうだね、アスカ。
男が心の中で囁く。
そうね。このまま。元気そうね、シンジ。
女性が、言葉を飲み込む。
……それは、夏の夜が見せた一幕の夢。彼等にはそれが分かっている。それだけで充分。それ以上は望んではいけない、自分達が定めた禁忌。
女が手を振った。ぎこちなく。
男も、それに答える。ためらいがちに。
そして、それを合図に、同時に二人とも部屋の中へ帰って行く。
おやすみ。
二人とも、最後に相手がそう言った気がしていた。
彼女は静かに布団に戻り、亭主の横に潜り込むと、深く息を吐く。
朝、目が覚めれば、いつものアタシ。あれは、夢だったのよ。夢は、そのまま、夢のままで……
彼女はすぐに静かな寝息を立てる。
男は部屋に戻るともう一本煙草に火を付ける。
夢、か。そう。それでいいんだ。これで明日からまたいつもの自分に戻れる。……そうだ、せっかくだから明日は少し足を延ばそうか。
彼は、部屋の中から聞こえる二人の寝息に暫く耳を傾ける。



翌朝。
夫婦は朝食を済ますと荷造りを始める。
今朝チェックアウトするのである。
息子は今日の予定をしきりに確認しながら夫婦の間を行ったり来たりする。
「ねえ、今日白鳥乗ろうよ、パパ」
「何だ、その白鳥って」
「湖に浮いてたやつ。白鳥の船だよ。パパ、いいでしょ?」
息子が夫の背におぶさってくる。
「湖って、芦ノ湖の事か?」
夫が妻に向かって聞く。
「そうよ、あなた。昨日からシンジうるさくって」
「そうか、シンジ。じゃ後で芦ノ湖に昼飯を食べに行こう」
「やったーパパ、ありがとう」
大喜びで部屋を転げ回る息子の姿に、夫婦は目を見合わせて笑う。
やがて部屋を出る準備が済むと、家族はエレベーターに乗り一階へ降りる。
「ねえ、あなた」
エレベーターの中で妻が言う。
「アタシ、ちょっとこの後寄りたい所があるんだけど……」



男は、ロビーのソファーで携帯電話をかけている。
隣に座っている妻が娘の口を塞いで抱き上げている。夫の話の邪魔をさせまいとして娘に小声で「静かにしなさい。パパがお話し中でしょ」と繰り返す。
「……それじゃ、明日の朝には出社しますから、会社からかけ直しますよ。……ええ。それも、調べて連絡します。それじゃ、お疲れ様でした」
彼は携帯電話をしまいながら、妻に振り返る。
「まいったな。マレーシアの工場に発注していた品物に不備があるってシンガポールの店で大騒ぎしてるんだ。まったく、来週中には船積みしてくれないと間に合わないっていうのに」
「シンガポールまで飛ぶの?」
顔をしかめながら妻が言う。
「いや。そこまでは必要ないよ。僕が行ったって仕様がないし」
「でも、来週中に間に合わなかったら納期はどうなるの?」
「まだ間に合わないって決まった訳じゃないしね」
「L/Cの期限はあるの?」
「ああ、それは大丈夫。……でも最悪は航空貨物に切り替えないと駄目かもな」
夫婦は、そんな話をしながらホテルを後にする。既にチェックアウトは済ませている。
荷物を積み込み、家族は自動車に乗り込む。
「ねえねえ、今日はどこ行くの?」
後部座席にしつらえたチャイルドシートに括られた娘が、目を輝かせて聞く。
夫は車の運転を始めながら、妻に振り向き、
「ちょっと寄りたい所があるんだ、いいかな」
「いいけど、何処?」
「……うん。これが最後だと思うから、行っておきたい場所があるんだ」
「そう」
夫の物言いに何かを感じた妻は、ただそれだけ答える。
車は静かにホテルを後にして走り去って行く。



家族は小高い丘の上に立っている。
辺り一面に色取り取りの花が咲いている。娘が大喜びで走り回る。
夫婦は、それを見た後、視線を丘の下方へと向け直す。
小さく湖がそこにある。
妻は、何故夫がここへ自分達を連れて来たのか理由が分からない。観光のルートからは大分外れている。でも、湖を見つめる夫の雰囲気に問いかける事が出来ず、ただその彼の表情を見つめている。
暫く黙って見つめた後、
「久し振りだね、やっと帰ってこれたよ」
夫は、誰にともなく口を開く。
振り返り、
「ここはね、僕の仲間が、大事な仲間が作った湖なんだ」
彼は語り始める。最初は、妻に。そしてすぐ、見えない何かに伝える様に。
「僕の仲間が、自分の命と引き替えにして僕を救ってくれた時に出来た湖なんだ。あの時彼女がそうしてくれなかったら、僕は今こうして生きてる事が出来なかったかもしれない」
妻は黙って、語り続ける夫の顔を緊張した面持ちで見つめる。
「20年。あれから20年たったよ、綾波。ずっと、君にお礼を言いたかった。ありがとうって、ずっと言いたかった。あの後しばらくは何度かここに来たんだよ、でも、あの頃は自分が生きている事に、生き残った事に、そんな自分に押し潰されて君の事にまで気が回らなかった。ありがとう、綾波。この歳になって、僕はやっと生きてて良かったって思える様になったんだ。僕、少しは大人になれたかな」
彼の語る内容は彼女には理解出来ない。しかし、夫の目に微かに光る涙を見つめながら、妻は一人で考える。
この場所に眠っている人が、「あの女」なの?
あやなみ。
それが、「あの女」なの?
この人は、死んでしまった女をいつまでも抱いて生きているの?
何があったのかは分からないけど、これがそうなのかしら?
いつしか、彼女は声に出して聞いている。
「この人があの時言ってた女なの、あなた」
弾かれた様に振り返ると、夫は、
「何、あの時……あ、それは、違うよ」
「まだ、その人を愛してるの?」
「ち、違うよ。綾波は……綾波は、そんなんじゃないよ」
真直ぐに妻を見つめる。
「あの時って、付き合う前に言った事だね?あの時言ったのは、彼女の事じゃないんだ」
それきり、彼は黙り込む。
二人は、丘の上に吹く風を感じながら、黙って湖を見つめる。
娘がそんな二人の様子に気が付き、走り寄って来る。
ためらわずに母親に声をかける。
「ねえママ、どうしたの?」
妻はしゃがみ込んで目の高さを娘と同じにして、
「何でもないわよ」
と微笑んで見せる。
安心した娘は、
「ねえねえ、ママ。このお花で何か作って、ねえ」
母親の手を引っぱり、連れ出して行く。
そんな二人を笑顔で見つめながら、夫は思う。
……これで、もうお終いにしよう。
妻は、幾つかの花を摘み、器用に編んで輪を作っている。そんな母親の手先を目を輝かせて娘が見ている。
何の不満があろう?
僕は幸せじゃないか。
今まで、何度も後ろを振り返って生きて来た。
もう終わりにしてもいいだろう?
なあ、綾波、どう思う?
彼はもう一度湖に振り返り、心の中だけでそう声をかけた。



親子は、丘のゆるやかな斜面を3人で登っている。
妻が、どうしてもここに寄りたい、そう言い出したのだ。
もちろん、予定など決まってはいなかったし、妻の申出を断わる理由もない。息子だけは早く芦ノ湖へと行きたがったが。
その息子は走って二人の先を登って行く。
その後に従いながら、夫婦は歩いている。言葉はない。
「ねえねえ!」
息子が振り返り二人に声をかけ、下方を指差す。
「見て、みずうみ」
夫婦はその場で後ろに振り返り、息子の指差す方に視線を向ける。
「これが見たかったのか、アスカ?」
夫が始めて口を開く。
「……そう。ここが、あの湖の底にある街がアタシの始まりの場所だから」
妻が静かに答える。
「ここは、あの使徒戦があった所だろ?……そうか、アスカは関係者ってやつか」
「ふふ。よく知ってるわね、あなた。全ての情報は部外秘だっていうのに」
「まあ、色々とね。なるほどな。昔の事を口外出来ない理由はこれだったのか」
「そういう事。聞けばあなたが面倒な事になるから」
「でも、今日はどうして?」
「今日で、終わりにしたいのよ。昔の事は、全部今日で終わりにしたいの。終わった事だもの、全部。それに、ここに来たのは、ここがぴったりだから」
「ぴったり?」
「そう。ここはね、アタシ達の戦友が自爆して作った湖なの。だから」
それきり、妻は言葉を切った。
……そう。ファーストがシンジの身代わりになって作った場所。
アタシの始まりの場所。それはシンジと一緒に過ごした時間。アイツと出会ったのがアタシの始まり。
ねえ、ファースト。アタシ、もう振り向かないよ。いろんな事があったけど、アンタの事はお世辞にも好きじゃなかったけど、でもねえファースト。アタシ今ならアンタと友達になれそうな気がする。今ならもっと素直にアンタと打ち解ける事が出来そうな気がするの。だから、どうしてもここに来たかったのよ。もっと早くこうなってたら良かったのにね、アタシ達。そしたらアタシもアンタの為に涙くらい流せたかもしれないのに。
綾波レイ。アタシももうそろそろアンタの事名前で呼ばなくっちゃ。いいでしょ?レイ。
ねえ、レイ。あれから20年経ったわ。
もう終わりにしても、いいよね。
ここでの事も、アンタの事も、それからシンジの事も。
アンタには悪いけど、アタシもう未来だけを見て生きてもいいよね。
アタシ、このままこの人と生きていってもいいよね。ねえ、優等生、答えてよ。
暫く湖面を見つめた後。
彼女は顔を上げると、夫と息子を促して先を急ぐ。



彼等が丘の上にたどり着いた時、既にそこに居たもう一組の家族がそれに気付いた。
男−−シンジ−−が振り返る。その顔に驚きの表情が浮かぶ。
女性−−アスカ−−は彼に気が付く。やはり、同じ表情をしている。
まさか、ここまで来るなんて、互いに思い付きもしなかった。
でも、シンジは思った。
そうか、アスカも同じだったんだね。もうお互いに潮時だっていう事だよね。ちょうど20年だし、僕等にも未来が必要だよね、アスカ。
アスカも、考える。
ふふ。シンジ。アンタも終わりにするつもりだったんだ。もう20年経ったからね、いい頃よね。どう、シンジ、レイには逢えた?
二人は、しばし見つめ合い、どちらからともなく笑顔になる。
……幸せそうだね、よかった。
ふと思いついた様にシンジは、かたわらの娘の耳に何事か囁く。
花で作った冠と首飾りを身にまとった娘は、
「分かった」
父親にウインクして見せると走り出す。
シンジは、黙って横にいる妻の肩を抱き、その娘を目で追う。
アスカは、こちらに走ってくるシンジの娘に目を丸くしている。
彼女の夫が、息子が、アスカに訝しげな目を向ける。
彼女は彼等に笑顔を向けると、夫の腕に自分の腕をからめる。
やがて、シンジの娘は彼等に走り寄ると、彼等の息子に、
「はい。どうぞ」
自分がかけていた花の首飾りを外し、彼の首にかけて微笑む。
次の瞬間、夫婦は笑いながら顔を見合わせ、
「シンジ、お礼はどうした?」
息子の頭をなでる。
「ど、どうもありがとう」
息子は顔を赤くしながら礼を言う。あの頃の彼の様に。
「どういたしまして」
娘は胸を張り、顔を輝かせてそう答える。あの頃の彼女の様に。
向かい合った二組の夫婦は、どちらからともなく笑顔で会釈する。
アスカは首飾りをかけた息子の肩に片手を置き、笑いかける。
……幸せなのね、アンタ。それが分かっただけでも、会えた甲斐があったってもんね。
シンジは走って帰って来る娘をしゃがんで待ち受け、笑いかける。
……幸せそうだね、アスカ。よかった。それだけは気に懸かってたからね。
そして、二人そろって湖に視線を向ける。
その時、湖の水面に立ち昇る陽炎が、彼等の目にありし日の二人の姿を見せる。

赤い髪を翻して少女が走る。黒髪の気弱そうな少年がその後を追いかける。
(ちょっと待ってよ、アスカ)
少し振り返ると、少女は笑いながら叫ぶ。
(何やってんの、早く来なさいよ、バカシンジ)

かつての自分達。かけがえの無い自分達の思い出の日々。
いずれの瞬間も懐かしい、何に対しても真剣だった日々。

色んな事があったわね、あの頃……
そう、色んな事があった、僕達……
二度と思い出したくない事ばっかりだったような気がしてたけど……
苦しい事ばかり思い出す様な気がしてたけど……
でも見て、アンタ笑ってるわ……
見てごらん、アスカ笑ってるじゃないか……
あんなに、笑ってたんだね、アタシ達……
楽しい事も、沢山あったんだね……
アタシ、シンジに会えて幸せだった……
僕、アスカに会えて良かったよ、本当に……

もう、大丈夫だよね、アスカ……
もう、大丈夫よ、シンジ……
アスカが支えてくれなくても、僕は大丈夫だよね、きっと……
ちゃんと生きて行けるわよ、アタシ、アンタがいなくなっても……

だって。

彼等は言葉も無く、湖面を見つめ続けている。
それらも、二人の胸中にくすぶる昨夜の夢が見せた幻の続きであったかもしれない。
でも、それを見つめているシンジにも、アスカにも、それはどうでもいい事でしかない。

あの頃自分達が過ごした時間は、二人で積み重ねて来た想いは、きっと無駄にはなっていないから。

アスカは、どう思う?
シンジは、どう思う?

……自分達の「あの頃」は、無駄じゃ無かったよね。

それがあれば、僕等はやって行けるさ。
そうであれば、アタシ達やって行けるわ。
あの時は聞けなかったけど、もう尋く必要は無いよね。
そうね、もう尋く必要は無くなっちゃったわね。

……だって、答えは分かったから。

湖面に昼の光りが映え、丘を渡る涼風が足元の花弁を揺らす。
いつしか二人は、初めて出会った頃の姿で寄り添う様に湖面を見つめている。

あの日見せた眩しそうな笑顔で。





「夏の夜の夢」 了




ver.-1.00 1997-10/10公開
ご意見・感想・誤字情報などは ishia@hk.nttdata.net まで。



どうもこんにちは。
ishiaです。
「夏の夜の夢」お読みいただき、ありがとうございます。

私、たまに一人でぼーっとしている時、よく自分の中学生時代の事を思い出す事があります。
まあ、たいした思い出でもありませんし、その上そんなに輝いていた訳でもなく、どっちかというと嫌な事も結構あるんですが、最近は「あの頃」の自分が好きになってきました。
20代の頃は嫌な思い出なんかはどうしても思い出したくなかったし、何より、まあそれ程当時の事なんか振り返りもしてなかった様な気がします。
先ばっかり見てて忙しかったんでしょうか。
この作中の彼等と同じ年頃になった今は、割と平気に懐かしく感じられる様になったというか、そんな風に感じられる歳になったんだなぁ、と「おじさん」に一歩近づいてしまった自分に気が付いて愕然としたり。気持ちは若いつもりなんですがねぇ……
とにかく。私は自分の「あの頃」が好きです。それがどんな瞬間であれ、いい時間を過ごしたんだな、と思える様になりました。
だから、彼等にも、彼等の「あの頃」を好きになってほしい、また私の娘にも、そんな時代を過ごしてもらえたらいいな、と思って書き始めました。
残念ながら既に作の中間で力尽きてしまってますが(泣)。
彼等にとってのあの頃を象徴するのに「綾波レイの湖」を使いました。
アスカがレイを受け入れられる様になれば、
シンジが(二人目の)レイに感謝する事が出来れば、
二人は14歳の頃の自分達が好きになれるのでは……そんなつもりでした。
これも、表現しきれませんでしたが(爆)。
もっとも、最初は「マディソン郡の橋」と「源氏物語」の「空蝉」を掛け合わせた様なものにするつもりだったんですが、プロットをまとめているうちに変更しました。よかった、あのまま書き出してたらきっともっと出来の悪さに落ち込むところでした(笑)。
まあ、今の私に書けるのはここまでだな、と、満足出来ないながらもとりあえずは納得してます。
反省点は数多くて、とても書き切れませんが、アスカ夫婦の設定が作り込まれてませんでしたので、そこが変だなぁ、と思ってます。
シンジ達については、それだけで長編が書ける位気合いをいれて作った(つもり)だったんですが、なんだかアスカが別の男と築く家庭なんか考える力が湧きません(爆笑)でした。
あと、一応、シンジの娘の「アスカ」は、私の愛娘がモデルです(笑)。
アスカの息子の「シンジ」は、自分の子供の頃がモデルです(泣)。

よろしければご感想、聞かせて下さい。
それでは、またお会いしましょう。



 ishiaさんの『夏の夜の夢』後編、公開です。

 
 「アスカとシンジが手に手を取って」
 なんて事になったとしたら
 アスカの旦那はともかく、ユキさんが可哀想すぎる〜〜

 と、思っていたけどそうはならなかったですね(^^;
 

 アスカのような輝く太陽もいいですが、
 ユキさんのような儚げな女性もステキ(爆)

 

 10年近く引きずってきた物。

 偶然の出会いによって、
 揺れて、そして、やっと、固まって・・・

 

 

 さあ、訪問者の皆さん。
 アスカの家庭でチョッチ苦しんだ(^^;ishiaさんに感想メールを送りましょう!


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