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夏の夜の夢

Written by ishia


中編



入浴を終え部屋に戻ると、そこには既に食事の用意が整っている。
三人は、旺盛な食欲を見せ、テーブルに載った料理と、かなりの量の酒を消化していく。
夫婦は、二人ともいける口なのである。
息子の嬉しそうな笑い声と、夫婦のいつも通りの会話が部屋にあふれる。
やがて、食事が終わって暫くすると、夫が宣言する。
「さあ、また風呂にはいるぞ!」
妻と息子は、そんな彼を黙って見つめる。それに気付くと、
「何だ何だ、せっかく温泉に来てるんだぞ。何度も入らなきゃもったいないじゃないか」
「でも、食べたばっかりよ。体に悪いじゃない」
「何だ、いつも家ではそうしてるじゃないか」
「それは、そうだけど」
そこへ、仲居が食器を下げに現われる。
それを合図に、
「さあ、みんな行くぞ」
そうして、それぞれ手拭を持った家族は、夫の掛け声の元、部屋を出て行く。



食事の終わった家族は、満足そうな顔をしている。娘は、余程ここの風呂が気に入った様である。仲居が食器を片付けると、
「ねえ、お風呂行こうよ、ねえ、お風呂」
両親にねだりだす。
「なんだアスカ、また入るの?」
父親が呆れる様に言う。
「そうだ、さっきはママと入ったから、今度はパパと入る!」
それを聞いて彼は、
「ようし、分かった。パパと入りに行こう」
「やったぁ!」
「ママは、どうする?」
彼は妻の方を向く。
妻は、食事の時に飲んだコップ一杯のビール−−それも一口だけしか飲んでいない−−で顔を真っ赤にさせている。心無しか苦しそうにも見える。
それに気付くと、心配そうに、
「ユキ、大丈夫か?」
「ええ。……でも、お風呂はやめとく」
「そうだな、そうだ少し横になった方がいいよ」
そういって、次の間に行くと、押入を開け布団を出す。
それを敷きながら、
「後でホテルの人が布団敷きに来ると思うけど、それまでここに横になってろよ」
そう言って、妻の元へ歩いて行き、彼女の手を取る。
「すぐ戻ってくるから、ゆっくりしてるといい」
にっこり笑って、娘の手を取り、部屋を出て行く。



娘と一緒に男が部屋を出ると、丁度廊下をこちらに歩いてくる3人の親子連れに出くわす。
男が、その夫婦の妻の方に目をやる。
妻の方も、男に気が付く。
男は、自室の前で立ち止まったまま、その親子連れを眺めやる。
やがて彼等は男の前を通りすぎる。その時、
「あ、さっきのがいじんさん」
娘が親子連れの妻を見て声を出す。
それを聞いた彼女は、これ幸いと娘に向かってする振りをして、男の方に会釈する。
つられて会釈を返す男。すれ違う家族。
言葉は、何もない。



妻は、夫の敷いてくれた布団に横になりながら、天井を見ている。
彼女はぼんやり考える。
彼女は、知っている。自分の夫の中に、自分以外の人間の面影が存在している事を。
昔、二人が交際する直前、彼女は夫から打ち明けられた事があるのだ。
それは、当時の彼に最愛の女がいる、いや、いたという事。既に結婚していたその女性は、彼にとってかけがえのない存在であったらしい。
勿論、既に終わった恋の一つや二つ、誰でも心の中に秘めていておかしくない年齢でもあったし、それに、その話の後の夫は急速に彼女に傾いてくれた事もあり、その時は気にもしなかった。
彼女は彼の側にいたかったし、その為だったらどんな事でもする覚悟でいた。
だから彼が時折見せる彷徨う様な視線を自分に繋ぎ止めるのに精一杯で、その視線の先にあるのであろう物を、彼女は必死になって無視したのだ。
……いずれ忘れてくれるだろう。自分の存在が彼にとって大きくなれば、そのうちその女の事も笑って話してくれるだろう。そんな気持ちもどこかにあったと思う。
でも、夫はいつまでたっても、結婚が決まっても、忘れた素振りは見せなかった。
もちろん、決してその女性の具体的な事も何一つ教えてはくれない。名前すら教えてはくれなかった。当時の写真も無い、と言う。
そうなると、俄に彼女は知りたくなる。一体、それ程この人を夢中にさせた女性とは、どんな人だったんだろう。どんな容姿をして、どんな性格をして、何より、どういう時間を共有していたのだろう。
知りたい、というその想いに、どういう意味があるのか。嫉妬?好奇心?明確な答えは彼女にも分からなかった。それを知ってどうするのか、それも。ただ、知りたいだけ。
彼女は、夫の友人に聞いて見た事がある。その当時を知っていそうな友人達。結婚式前の打ち合わせで、会った人達。夫は、昔の友人達に披露宴の写真撮影や、受け付けを頼んだのだ。でも、彼等も彼女には教えてくれなかった。
「もう昔の事だから」
彼等は口を揃えてそう彼女を諭した。夫の友人達は、さすがは彼の友人だけあって、皆口が固かったのだ。
そのうち、彼女も気にしなくなった。結婚が近づき、忙しくなると共に、夫と過ごす時間が以前より増えた事により、そんな不満も幸せな気分の中に紛れて見えなくなっていたのだろう。
そうして、二人は結婚し、夫の心配、周囲の猛反対を押し切り、娘を出産した。

それは、出産後、幾日か経って、娘の名前を決める時に起こった。
夫の意見を求めた彼女に彼は、ちょっと照れた様に小声で、
「この間、好い名前を思いついたんだ。女の子だったから、「アスカ」って言うのはどうかな」
彼女は、はっとして夫の顔を見る。
何故なのかは、自分にも分からない。心なしか、いつもと違う夫の目の逸らし方?ちょっとした声の響き?もしかしたら、自分の気のせいかもしれないのに。
でも、その言葉を聞いた時、彼女には妙に納得出来た。
(ああ、その女性の名前は、「アスカ」っていうのね)
嫌だと、言えばよかった。もう少し、考えて見て、って言えばよかったのだ。
ところが、それを聞いた彼女には、それに対する嫌悪感は全く生じなかった。
おかしな話ではある。
彼女は自分が不思議だった。
昔の女の名前を、自分の娘に平気で付けようとする夫の仕打ちは、これまでの事を考えれば彼女には当然納得する事など出来なかっただろうから。
……でもその時初めて、わたしは逆に全てを、自分達の全てを理解出来た気がする。それだけで、充分な気がしたんだ。「その女」の面影を心の一部に抱いたままのこの人を、わたしは愛してる。それも又、彼の切り離せない一部なのだ。それも全部含めて、わたしはそんな彼を愛しているんだと、それに気付いただけであとはどうでもいい事なんだって分かった。
だから、次の瞬間、彼女は答えた、笑顔を浮かべて。
「アスカ。好い名前ね」
彼女は、その時の夫の笑顔をきっと一生忘れない。それ程、良い笑顔だった。
そして彼女は横のベビーベッドで寝ている娘に向かって、心の中で囁く。
「あなたは、パパの一番大切な思い出をもらったのよ。ママにもくれなかった、パパの大事な思い出を」
と。



風呂から上がって部屋に戻ると、時計は9時を回っていた。
既に布団の用意はホテル側でなされている。
夫婦は、息子を寝かしつける。興奮して疲れていたのだろう、すぐに寝息が聞こえて来る。
それを聞くと、夫婦は場所を移動する。次の間に避けられているテーブル。夫が冷蔵庫からビールを出して妻の方を向き、
「飲むだろ?」
と小声で聞く。
夫はビールをテーブルに置き、2個のグラスと栓抜き、自分の煙草を持ってくる。
二人はビールをグラスに注ぎ、暫くは飲みながら一日の出来事を確認し合う。
しばらくして、
「子供、もう一人欲しかったな」
「あなたは、大家族に憧れてたもんね」
「今からでも……」
「無理よ。今まで出来なかったのに。それに、アタシももう34だもの」
「年齢は今は余り関係ないじゃないか」
「……ん。それに、アタシも仕事抜けたくないもの」
「そうか、そうだよな」
夫はそこで、煙草を一本取り出すと、火をつける。
彼には分かっているのだ。彼女にとって今の仕事はとても遣りがいのある仕事なのだと。
出会った時からそうだった。彼の部署に配属になったあの頃から、彼女にはビジョンがあったと思う。
「環境に優しくない技術力は、結局は人間の首を絞めるのよ。つけはアタシ達の子供達が払う事になるじゃない。そんな物を使って作る製品に何の意味があるの?」
ある製品プロジェクトで始めて一緒に仕事をした時の台詞。どうしても製造に必要な物質−−今はともかく、10年前にはまだ危険であるという認識が極めて薄かった−−の是非を議論した最後の彼女の言葉。周りのスタッフは彼女の迫力に圧倒されて気が付く者は余りいなかったようだが、彼には分かった。彼女の技術論は、多分に理想論的な色彩を帯びていたが、しかしその背景には確固たる基礎があるのだ。それが、彼女の論理に説得力を持たせているのだと。
それが何なのかを知りたくなったその時、彼は彼女に恋をしていたのかもしれない。
仕事でつながり、仕事だけで接点を持つ、ただそれだけの関係。それでも気が付くと、二人はパートナーとして製品開発のプロジェクトを組む事が多くなった。2年間の間に3つのプロジェクト。知る者が見れば決して数は多くない。だが、周りの誰もが、彼女と「組む」という事の意味を知っている者達が、それを「奇蹟」と呼んだ。それはとりも直さず、彼女の仕事への取組が半端ではないことを示しているし、決して妥協を許さない彼女の姿勢を表わしていた。
「そう、アスカはいつもそうだったもんな」
そう言って、夫は静かに笑う。
「なによ、それ」
「うん?アスカはいつだって真剣だって事さ」
その言葉は、何度か夫の口から出た事がある。今も、きっといつもと同じ、言葉通りの意味なんだろう、彼女はそう思う。でも、今日は彼女の何かがその言葉を心の中で否定する。
「アタシには、後がないもの」
はっ。知らず知らずの内に、言葉にまでして言ってしまった。
当然、夫は訝しげに彼女を見返す。
「どういう事だい、それ?」
聞かれたって、困る。彼女にだって、その言葉の裏に何があるのか理解していない。思えばいつもの彼女らしくない物言いだった。
「前から思っていたけど、何がアスカをそうさせるんだい。結婚して8年になる。でも、俺は余りにも君の過去を知らな過ぎる気がする。君の経歴を聞けば聞くほど、そう思えてくる。13歳にしてドイツの大学を卒業しながら、何故日本で中学校からやり直したんだ?そんな必要が何処にあったんだ?」
「……それは、聞かないで。お願いだから」
「そうか、やはり言えないのか」
「ゴメン……」
夫は、彼女から視線を逸らす。
そのまま虚空を眺め、考えに耽る。
暫くそうして何か考えをまとめているようだ。
彼女は、知っている。アイデアをひねり出す時の夫は、いつもそうやって目を細めて視線をさまよわす。一見ぼうっとしている様な印象を他人に与えるその物腰が、彼女は好きだった。だが、それが誰かの姿を彷彿とさせる事には、彼女は全く気が付いていない。
夫の態度には構わず、彼女は口を開く。
「でも、これだけは間違いないわ。アタシは、……少なくともあなたに会えて幸せだわ。あなたと一緒になって、シンジが産まれて、アタシはやっと「幸せ」っていうのが分かった気がする。ずっと探していた物が、これだったんだって思える気がする。それは、あなたがくれたのよ。あなたには感謝しているのよ、本当に」
夫は、そんな妻の言葉を黙って聞いている。
「アタシはアタシ。他の何者でもないわ。それだけじゃ、駄目?」
彼女の真剣な瞳が、夫の眼を射る。そこに何を感じたのか、彼は、
「いいさ、別に。そう、アスカの言う通りだよ。過去がなんだろうと、俺にとっての君は、今の君さ。それでいいんだ。……悪かった、変な事言って」
「あなた」
夫が静かに妻の側ににじり寄る。そのまま彼は、妻の肩を抱く。彼女は夫の広い胸に顔を埋める。
二人の影が一つに重なり、やがて床に倒れて行く。



電話の呼び出し音が鳴る。
彼は、深い睡眠に入っていた。
しつこく鳴る電話に薄目を開け、辺りを見回す。時計を認めると、
「……1時か」
そして、次第に現実感が戻ってくる。
電話が。誰だ、こんな時間に。
彼には、こんな時間に電話を掛けてくる相手に心当たりがなかった。
暫く考えて、根負けした様に頭を振りながら電話機に向かう。
受話器を上げ、
「もしもし」
電話の向こうは返事が無い。
……いたずら電話か?それとも間違い電話かな?
彼はもう一度、
「もしもし」
すると、その声に引きずり出される様に、
「あ、……シンジ?」
その声は、とても小さくて聞き取りにくかったが、彼には聞き覚えがある。
それどころか、ずっと聞きたかった声。いつまでも忘れられなかった声だったのだ。
「ア、アスカ?」
声が上ずっていたかもしれない。彼は思う。構うものか、気取られたって。
「アスカ、久しぶりだね」
「シンジ、元気だった」
「ああ、何とかね。ぼちぼちやってるよ」
「……良かった」
何だか、変だ。違和感がある。何だろう、彼は考える。
「アスカは元気だった?」
「うん。まあまあ」
「どうしたの、こんな時間に」
「……迷惑、だった?」
「いや、ちっとも」
「寝てたんでしょ?」
「うん、まあ。でも、もう起きたから」
「ふふ、相変わらずね」
「そういうアスカこそ……」
そう言おうとして、彼はふと気付く。感じていた違和感は、彼女の態度だ。
何だか歯切れが悪くて、弱々しい。
自分が知っている彼女は、別れた時までの彼女は、記憶の中の彼女は、決してそんな物言いをしなかった。
でも。あれから8年が経っている。自分には、色々な事があった。
もちろん、アスカにだって、様々な変化があっただろう。
アスカが、どの様な想いでこの8年間を過ごして来たかは、彼には分かる筈もない。だから、
「どうしたの、何かあった?」
質問を繰り返す。
「別に、何となく、シンジの声が聞きたくなってね」
「それは光栄だな」
「あら、シンジもそんな事言う様になったんだ」
「あれから8年だからね。人も変わるよ」
「そうね、そんなに経つんだね、あれから」
そうして、二人は暫く沈黙する。
色々な想いが身体の中にあふれ、それが胸を圧迫する。なんだか息が苦しい。
……いつも考えてた。今度会ったら、何て言おう。聞きたい事は山ほどある。話したい事も、沢山。そう。いつも準備していたんだ。毎日。いつか又会えたら、聞いてもらいたい。自分が、あんな事をしたんだと、こんな事をしているんだと。それを話して、アスカの反応を見て見たい。アスカの呆れたり感心したり怒ったり……そんなアスカを見てみたい。自分はその為だけにこれまでやってきていた様な気がするんだ。アスカに報告する内容を蓄える為だけに。
色々、話したい事はたくさんあるんだ。これまでの自分達、今の環境。仕事の話。互いの恋の話。そして、思い出話。
でも、いざ電話線で繋がってみると、何も出て来ない。何から話していいのか、分からない。
膝が、微かに震えているのを感じる。緊張しているのか、興奮しているのか。
「シンジ」
アスカが沈黙を破る。
「何?」
「……何でもない」
そして、また沈黙。
彼は、限界だった。もう駄目だ。もう我慢できない。こんなの、耐えられないよ。きっと、アスカもそうに違いない。アスカも何から話していいのか迷ってるんだ。だから、僕が、
「ねえ、アスカ、そういえば……」
そうして、彼は話し出す。
それは、二人の共通の友人達の消息。おそらく、アスカだって知っているであろう情報。
でも、彼の気遣いがアスカにも伝わったのだろう、
彼女も幾分饒舌になる。
「それでさ、………」
「そうそう、そういえば………」
話している内に、内容は友人達との思い出話に移って行く。
中学校の頃の友人達との思い出は数限りない。彼等の淡い恋の話。弾けて笑い転げていた時。このままずっと「今」が続くものだと本気で信じていたあの頃。
でも、決して二人共自分達の思い出話には触れない。
高校生時代の話にも触れない。そこには二人の思い出が多すぎるから。
数々の戦闘により刻み付けられた傷口と、出来れば忘れてしまいたい程の自己嫌悪感の中、互いの心に自分と共通する部分を見い出してしまった二人。
どちらからともなく、ぎこちなく、寄り添う様に過ごした中学生時代。
確認し合った互いの想いだけにすがりつく様に、貪る様にして求め合った高校生時代。
意識している訳ではないのだろうが、知らず知らずの内に、それらを話題から避けている。恐らく、それに触れると、今の自分達が色褪せてしまいそうだからか。「二人」から「一人一人」になった自分達のこれまでの時間が空しくなってしまいそうだからだろうか。
そうして二人は1時間近く話続ける。
言葉が途切れた時に、彼は、
「何か、久し振りだな。こんなに人としゃべったの」
「そうなの?」
「うん。仕事の時はもっと違うけど、プライベートではね」
「なんか哀しい生活送ってるのね、アンタ」
……哀しい生活か。そりゃ、昔3人で暮らしていた頃とは違うよ。
彼は心の中で反論するが、不思議と腹は立たない。

「シンジは」
「アスカは」

二人の声が同時に発せられる。
「あ、いや、アスカ、先にどうぞ」
「ううん。シンジこそ、先に」
「い、いや、僕の方は何でもないんだ」
「何それ?」
「で、アスカは?」
「アタシも、なんでも無い」
「何だ……」
「でも……」
「何?」
電話の向こうで、彼女が言い澱んでいる。
あの彼女が迷っている。
何を迷っているの?やっぱり、何か言いたい事があるの?アスカ。
彼は、ゆっくりと待とう、そう思う。
やがて、彼女が電話口に戻って来る。
「アタシ、アタシね、あの……アタシ、プロポーズされたんだ」
その言葉が、彼の心を鷲掴みにする。突然、こめかみに頭痛を感じる。声が、出ない。
……何?何言ってるの、アスカ?
「今の職場の上司なんだけど、アタシ達と同じ歳でね、それで……」
彼女の言葉は、彼の耳にはもう届いていない。
……何?それ何?それ、どういう事?何を言ってるのか、分かんないよ、アスカ。
……そんな事を言う為に僕に電話してきたの?そんな話をする為に電話してきたの?こんな事を聞かせる為に?
……何を言ってるのか、聞こえないよ。あれ、僕、耳がおかしいのかな。アスカが何か言ってる。でも、聞こえないよ、全然。
……そうさ、僕は今でもアスカが好きなんだ。そうだよ、大学に通ってても、今の会社に就職しても、僕はいつでもアスカの事ばっかり考えてたんだ。僕にとっての8年間は、そうやって過ぎた8年だったんだ……
……でも、そうか、これが、アスカの8年間だったんだね、アスカにとっての8年の月日。
……やっぱりアスカは、変わっていない。いつも前向きに自分の人生を自分で切り開ける眩しい存在。僕とは大違いだ。今だに過去を吹っ切れないでいる自分。「あの頃」に拘泥して先へ進めない自分……
「それでね……聞いてるの、シンジ?」
訝しげに、彼女が大声を出す。
「き、聞いてるよ。それで、式はいつ?」
ちょっと声の調子がおかしい。気付かれたかな、動揺してるの。
「何よ、全然聞いてないじゃない。まだ、そんなんじゃないのよ。いきなりプロポーズされただけなんだから」
「でも、付き合ってるんだろ?」
よし。今度は大丈夫だ。
「違うわよ。だから、職場の上司だって言ったじゃない、今」
「そ、そうだっけ。で、どうするの」
そして、今度はアスカが沈黙する。
どうしたの、アスカ?迷ってるの?
「……どうしようか、シンジ」
「どうしようかって、決めるのはアスカじゃないか」
「そうだけど……でも」
「でも?」
「ねえ……シンジ」
そのまま、彼女は言葉を発しない。
彼にも、彼女が迷っているのが分かる。もう、あの頃の彼ではないのだ。彼女が自分に何を求めているのか、薄々感じ取れるだけの経験は重ねて来ている。
受話器を通して、彼女の心の声が聞き取れる様な気がする。
自分の願望だけだったのかもしれない。
本当は自分がそう思いたかっただけなのかもしれない。
でもその言葉は自分が、彼女に本当に言いたい事なんだと、彼には分かっている。

(止めろって言って。結婚するなって言って。もう一度、やり直してみようって言って)

聞こえる。そう聞こえる。電話の向こうで、息を潜めて彼女がこちらを伺っているのが分かる。

(早く。お願い、早く言って。結婚なんかするなって言って)

彼は固く目を閉じ、右手を握り締めて、口を開く。

「アスカ」



そこで、男は目を覚ました。
辺りを見回す。横で自分の胸に身体を預けた妻が静かな寝息を立てている。ぼんやりと、その寝顔を見つめる。安らかな、安心しきった寝顔。その向こうには、自分の娘が寝ている。
夢か。彼は一人ごちる。そう思うと同時にふとそんな自分が可笑しくなる。
馬鹿だな、何で今頃こんな夢みるんだ。いい歳してみっともない。たかが昔の女の姿を見た位で。
妻の頭を改めて優しく抱きしめる。細く長い黒髪が彼の指に絡まる。そっと鋤くと気持ちよく指先から流れ落ちる。
「う……ん」
妻が少し声を漏らす。そっと顔をのぞくと、口元が笑っている。
(楽しい夢でも見てるのかな)
男は、そんな妻の顔を見るのが大好きなのだ。自然と彼も口元がゆるむ。
枕元の腕時計に手を伸ばして、時間を見る。
1時を少しまわった所。
彼は、妻の身体を静かに布団に横たえ、起き上がる。テーブルに歩いて行き、煙草を手に取ると、火を付ける。
……そうだ。あの時の事は、決して忘れない。そう、僕はあの時本当は言おうとしたんだ。彼女の迷いが電話越しに伝わって来て、僕の気持ちはあの瞬間、自分でも信じられない位のスピードで固められてたんだ。そう、あの瞬間までは。

「アスカ」
彼はそう言うと、ゆっくり閉じていた目を開く。
その後に続ける言葉はもう決まっている。考えるまでもなく、ずっと言いたかった台詞。
(アスカ、僕はやっぱり君を愛している。この8年間ずっと、寝ても覚めても君の事ばかり考えていた。もう一度、もう一度だけ、もしチャンスがあるのなら、昔の様に二人で暮らしたい)
その時、口を開こうとした彼の顔が、鏡に映る。ふと彼はその顔に気が付く。26年見慣れた自分の顔。しかしその夜鏡に映った自分の顔は、10代の頃の彼の顔。気弱そうに、伏し目がちに自分を見返すあの頃の顔。彼には、そう見えた。
先程の狼狽が再び蘇ってくる。
……これは、僕か?これは、僕は、僕は、あの頃と何ら変わっていないじゃないか。あの時二人で別れる事を選んだあの時から、僕は何をやってきたんだ?何も、していない。ただ未練がましくアスカの事ばかり考えて、僕自身は何も変わってなんかいないじゃないか。あの頃と同じ、弱くて、ずるくて、優柔不断で。
……アスカは違う。彼女は僕と別れてからも着実に時間を有効に使って来たんだろう。昔からアスカはそうだった。いつも前向きで一瞬たりとも停滞しない強さを持つアスカ。輝くばかりの知性とどんな時も鈍る事のない判断力を持つアスカ。そのいずれも僕にはない、溢れんばかりの魅力を持つアスカ。
……そんなアスカに僕は何が出来るんだ?例えやり直したとしても、また同じ結末が待っている事は分かりきってるじゃないか。考えるまでもなく……
……だって、僕は、あの頃のままなんだ。あの時別れた時そのまま、何も変わっていないんだ。彼女を見捨てて、置き去りにして、一番必要な時に手を差し伸べる事が出来なかったあの頃と、僕は何一つ変わっていない。
……だからまたやり直してもきっと同じ事の繰り返しになる。また、彼女を傷つけてしまう。だから……



彼女は、ふと目を覚ます。
横では夫が静かな寝息を立てている。反対側では息子が寝ている。
手元に腕時計を引き寄せ、じっと目を凝らす。
一時を少しまわった所。
何気なく、彼女は起き出す。そっと布団を抜け出し、窓を静かに開け、ベランダへ出る。
少し、涼しくて、夜の風が気持ちいい。
夜空を見上げると、満天の星が瞬いている。
そう言えば、あの時も……
彼女は夢見る様に目を細める。
今の夫にプロポーズされたのは自分が26歳の時だった。
職場の上司。製品開発プロジェクトのパートナーでしかなかった彼が突然突きつけた一言。
「俺と結婚してくれないか」
言葉の平凡さとは裏腹に、彼が真剣である事が伝わってくる内容。
この男はいつもそうだった。必要な事は、大事な事はいつも一切の修飾を取り去った誤解のない言葉で語られる。仕事でも、雑談でも。
特別な感情を彼に持っていた訳ではないし、特別な関係にある男性が当時いた訳でもない。申し分ない相手である事は分かるし、パートナーとして仕事をした2年間で、相手の事は良く理解出来ている。自分との相性も。
……でも、アタシは彼のその言葉を聞いて、はっきり分かったのよ。
アタシは、アタシには、アイツとの事が清算出来ていないって事が、あの時分かった。
だから、あの夜アタシはシンジに電話を掛けた。
アイツがそれを聞いてどうするか。アイツがそれを聞いて何て言うか。試してみたかった。
アイツにはあの頃と同じ、何も変わらないシンジでいて欲しかった。
きっとアンタはうろたえて、動揺して、何も言えなくなってしまうだろう。おろおろと取り乱し、言葉を失って、狼狽する様が目に浮かぶ。あの頃のシンジはそうだった、いつでも。
アタシは、それを見たかった。
そうすれば、アタシには言い訳が出来る。
自分の気持ちを悟られず、アタシのペースで事が運べる。
−−何よ、相変わらず頼りないのね、アンタは−−
−−やっぱり情けないアンタにはアタシがついてないと駄目なのね−−
−−感謝しなさいよ。仕様が無いからアタシが側にいてあげるわ−−
……思い上がってたのね、アタシ。
8年間の月日が、シンジに何の影響も与えないと、本気で考えていたなんて。
違う、それは、アタシが何一つ変われなかったから。
8年、別々に暮らして、アタシは何一つ変わる事が出来なかったから。
あの時、心の何処かでシンジへの想いにすがって生きていた事に気付いたから。
情けないのは、アタシ。シンジが側にいないと駄目なのは、アタシ。
だから、アタシがそうなんだからシンジだって変わっていないだろう、と、浅はかな結論を出したんだ。
失礼な話だよね、シンジ。
いや、それも違う。本当は、ただ、
……シンジ。あの時アタシ、言って欲しかったんだ。
アンタは、きっと言ってくれると思ってた。
アタシはアンタに、「結婚なんかするな」って止めて欲しかったんだ。

電話の向こうで、シンジが黙り込んでいる。
(止めろって言って。結婚するなって言って。もう一度、やり直してみようって言って)
心の声が、溢れる様にこぼれる。これを言葉に出来れば、素直に言えればいいのに……
自分の鼓動だけが響き渡る。シンジに聞こえてしまうかもしれない。
(早く。お願い、早く言って。結婚なんかするなって言って)
アタシは、シンジが口を開くのを待つ。
怖い。
シンジの返事を聞くのが怖い。
アンタ、何考えてるの?
ねえ、どんな言葉を聞かせてくれるの?
耳に当て続けた受話器が熱い。
「アスカ」
シンジが、沈黙を破る。
アタシの胸の鼓動が跳ねる。
そして、また暫く黙った後、
「……良かったじゃないか。大丈夫。アスカなら、きっと幸せになれるよ」
……何?何言ってるの、シンジ?
「いつも、言ってたじゃないか、アスカ。僕等にだって、幸せになる権利はあるって。」
……何?それ何?それ、どういう事?何を言ってるのか、分からないよ、シンジ。
……声が聞こえる。シンジが何か言ってる。でも何言ってるのか分からないよ、分からない。
そう。これが、アンタの8年間なのね。シンジが過ごした8年の月日。
……シンジがアタシを諦めようとしてる。好きな人でもいるの?大事な人でも出来た?ううん。違う。そうであればあんなに迷う事はない。シンジはアタシを必死に諦めようとしてる。アタシには、分かる。アタシの為に身を引くつもりなんだ、アイツ。
……アンタ、やっぱり変わってない。ううん。違う。変わったわ。前より……前よりずっと優しくなった。
だって。
何、その変な声。馬鹿ね、鼻をすするのやめなさいよ。それじゃすぐ分かっちゃうじゃない。昔っから、嘘をつく時と泣く時は下手くそなんだから、アンタ。
もういいわよ。もう分かったわよ。もういいから泣かないで。そんな、泣きながら、無理してかっこつけるのはやめてよ。分かったから、お願いだから、もうやめて……

あの夜の事は、結局アタシの一人相撲だった。
それでもアタシは、何となく安心したんだ。アイツは、やっぱりシンジだった。アタシの大事なシンジだったって。……それも、アタシの欲目だったのかな。
アイツの気持ちが分かった様な気がしたのも、ただの願望だったのかな。
確か、その後暫くシンジの嗚咽が続いてた様な記憶がある。
でも、多分それもそんなに長くはなかったんだろうな。
ただ、最後にもう一度訪れた沈黙を破って、

「アスカ」
「シンジ」

二人の声がユニゾンしたのを覚えてる。
でも、アタシも、シンジも、その後に言葉を続ける事が出来なかった。
アタシは、そう。聞きたい事があったのよ。アンタに。
聞こうと思って、聞けなかった、結局。
ねえ、シンジはあの時、何を言おうとしたの?




後編へ続く
ver.-1.00 1997-10/08公開
ご意見・感想・誤字情報などは ishia@hk.nttdata.net まで。


 ishiaさんの『夏の夜の夢』中編、公開です。
 

 18から24。

 客観的に見れば、それなりに大人になっているはずなんですが、
 本人にすれば、自分だけ置いて行かれているように感じることも・・

 言いたい言葉が、
 言って欲しい言葉が、
 同じなのに・・・

 辛いですね。

 同じ建物にいる二人に
 あの時の言葉を交わす機会は?
 

 さあ、訪問者の皆さん。
 貴方の思いをishiaさんに伝えましょう!


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