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悪魔は、人の最も弱い所、最も無防備な所、最も柔らかい所を突いて来る。
ゆめ、油断する事無きよう・・・・・・・・・・・・・・・。




「・・・・・この様に、需要が供給を上回っている状態の事をインフレ、
 その逆に供給が需要を上回っている・・・・・つまり商品が余ってしまう状態の
 事をデフレ、と言います。
 このグラフは試験に出ますから各自良く見ておくように。
 では、58ページの三行目から・・・・片桐君。読んで下さい。」
はい、と立ち上がってクラスメートの一人が立ち上がって教科書の朗読を
始める。
静かな教室の中を流れる単調な声。
社会の授業。
あまり人気の無い先生の授業であり、四限目である事も手伝って、真面目に
授業を聞いている生徒はほとんどいなかった。
惣流などは完全に机にうつ伏せて、高鼾をかいている。
雑誌をこそこそと読んでいる人も居るかと思えば、机上の端末でチャットを
楽しんでる人も居た。
真面目に聞いているのは僕と、クラス委員長である洞木さんぐらいの
ものだった。
キーボードを叩いて、黒板の文字を書き移す。
2015年の現在、授業には生徒に一人一台のコンピューターが与えられるのが
常だった。
地方によっては、未だにノートに鉛筆という風習を守っている所もあるよう
だけど、やはりこちらの方が便利に決まっている。
それにしても・・・・・・・・・・・。
キーボードを見ていると、ついあの人を連想してしまう。
言うまでも無い事だけど、リツコさんだ。
僕は先日、彼女に自分の正体を見破られ、あわや身の破滅かとさえ思った
のだけど、結果としては彼女に正体がばれてしまった事はいい事だった。
あの後、僕は彼女に全てを打ち明けた。
旧東京の事。
自分の魔力の事。
信じ難い話ではあったろうが、常識外れの僕の魔力を見せつけられた
彼女には、信じる他には無かっただろう。
そして、僕はこれ以上は無いというほどの協力者を手に入れた。
さすがに即答はしかねるようだったけど、感触から言ってまず承諾したも
同然だった。
とりあえずは、彼女の返事を待とう。
八方塞がりの状況に、希望の光が見え始めていた。
・・・・・・・・・・・・・ん?
ぴっ。
突然、僕の端末にメッセージが入った。
誰からかと思えば、後ろの方に居るケンスケからだった。
そのメッセージを開き、そして読み進めるにしたがって・・・・・・・・。
僕の顔は、加速度的に真っ赤になっていった。
それは、一言で言うなら、小説だった。
けっこうな長文で、どうやら恋愛ものらしかった。
ストーリーの内容と言えば、恋人同士の男女の、
半分同居のような生活を赤裸々に描いているものだった。
べたべたで、読んでて恥ずかしくなるような内容。
そして問題なのは、その男女の名前が、シンジ、とアスカ、だった事だ。
振り返り、ニヤニヤしながら僕を見ているケンスケを睨むが、授業中のために
それ以上の事は出来ず、僕は再び前を向く。
僕は怒りの表情を浮かべつつ、その小説をしっかりと保存していた。
・・・・・・・・・・・・・・んん?
ふと気付けば、周りの他のクラスメートがくすくすと必死に笑いをこらえながら
自分の端末を見ている。
ケ、ケンスケ!
再び振り返り、今度は悪魔の如き微笑みを見せるケンスケを見た。
ケンスケの奴、僕だけにこの小説を送って来たのかと思えば、クラス全員に
一斉配布を行ったらしい。
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
ケンスケめ。
恐らく、惣流が寝ているのを見計らってやったんだろう。
こういった悪戯では彼は異常に頭が回る。
しかし、彼の計画には致命的なミスがあった。
それは。
「ちょっと相田君!」
忍び笑いと、マイペースに授業を進める教師の声が流れる教室に、突如声が
響いた。
可愛らしいが、しかし怒りに燃えた女の子の声。
洞木さんだ。
洞木さんは、席を猛然と立ち上がると、突如ケンスケの名を怒鳴りつけたのだ。
クラス全員がびくりとして、教師も思わず言葉を止める。
「相田君!今は授業中よ!こういう事をするのは他の皆の迷惑になるから
 止めなさい!」
よく言ってくれました、委員長。
ケンスケの犯したミスは、潔癖で、生真面目な彼女にも小説を配布してしまった
事だろう。
「は・・・・・・はい・・・・・・・・・。」
気圧されて素直に肯いてしまうケンスケ。
全員、彼女の雰囲気に呑まれていた。
洞木さんは、満足したように肯くと、
「失礼しました。先生。授業を続けて下さい。」
「あ、ああ・・・・・・。」
再び授業を再開させた。
・・・・・・・・しかし、洞木さんも、ちょっと真面目過ぎる所があるよな。
そりゃ僕だって、不真面目な人よりは真面目な人の方がいいけど、
彼女の場合はちょっと度が過ぎてるような気がする。
両親が共に高校だか、中学だかの教師という話だから、きっと厳しく躾を
されたんだろう。
惣流はと言えば、これだけの騒ぎにも関わらず、相変わらず高鼾を
かいていた。









僕のために、泣いてくれますか(第拾弐話)

   洞木ヒカリ・その1


 

第三新東京市第壱中学校の校舎の屋上。 生徒達に終始解放されている場所なので、お昼になると弁当やパンを手にした 何人もの生徒があちこちに陣取っている。 そんな中、とりわけ仲の良さそうな二人の女子が居た。 日当たりのいい割に、影になって他の生徒からは見えにくい位置。 そこで彼女達は、いかにも楽しそうに話しながら弁当を食べていた。 片方は赤毛の少女。 中学生とは思えぬほどに発育した体つきであり、また美貌だった。 学校の中に、彼女に本気で恋をしている男がどれだけいるか想像もつかぬ程。 片方はおさげの少女。 こちらはもう一人の彼女と比べれば地味目の少女だった。 いや、赤毛の少女と比べてこそ、地味に見える、という話であり、彼女もまた 十分に魅力的な容姿ではあった。 多少そばかすの目立つ顔ではあったが、後三年もすれば、周りがけっして 放ってはおかぬようになる事は、まさしく明らか。 しかし彼女自身は、あまり自分の容姿について気付いてはおらぬようだった。 自覚を持ちさえすれば、彼女はすぐにでも周りの男を虜にし得る様に なるだろう。 けして華やか、とは言えぬが、家庭的な、という言葉がぴたりと合う。 そして事実、彼女は非常に家庭的で、そして古い意味で女らしい女性だった。 彼女が今食べている弁当は、彼女自身が毎日作っている物。 両親は二人共健在であったが、仕事の忙しい二人に替わって、 彼女は家族全員の分の食事や、その他様々な家事を自ら引き受けていた。 また折り目正しく、優しく、しっかりした性格である事から、彼女は将来必ず 良い花嫁になるだろう事を、彼女の家族も、親戚達も疑う事は無かった。 そしてそう言われる度に、赤い顔をして否定するのがまた彼女の常。 そんな彼女を見て、周囲の人々はさらに好感を持つのであった。 学校の中でも、彼女の人気はまた高い。 成績は優秀であり、また誰にでも優しく、そして間違った事に対しては毅然と 立ち向かって行く勇ましさも彼女は持っていた。 ある意味堅苦しい、とさえ言えるその性格から、だらしない性格である事が 常である同年代の男子達からは煙たがられている所はあったが、 女子達からは非常に頼りにされ、また信頼されていた。 彼女がクラス委員長である事も、むべなるかな。 「あー。美味しかった。」 アスカが心底満足した、という表情で自分の赤い弁当箱を閉じた。 ヒカリのそれとは異なり、まるで男の子のもののように、大きな弁当箱。 あれだけ食べていて、何故あの体型を維持出来るのかしら。 ヒカリは毎度の事ではあるが、そう思わずにはいられなかった。 くすくす、と笑いながらヒカリは言う。 「ねえアスカ。その台詞、ちゃんと碇君の前で言わなきゃ駄目よ。 アスカったら、御弁当受け取る時も、返す時も、いっつも感謝の言葉を 言ってあげないんだもん。」 「何言ってるのよ。主人が下僕に感謝の言葉をやる必要なんてないでしょ。 それにあんまり美味しい美味しいなんて毎回言ってたら、あいつの事だから きっと調子に乗って手抜きし始めるわ。」 「碇君はそんな事しないと思うけどな。 アスカだって分かってるでしょ?彼の性格ぐらい。 こんなに美味しい御弁当は、命令されて作ったんじゃ絶対出来ないわ。 よっぽどアスカの事が好きなのよ。」 その途端、クオーターの少女の白い肌は、みるみる内に夕日の色に変わる。 「ま、まあ、当然よね。このあたしの美貌に惹かれない男なんて、 居るわけないんだから。特にバカシンジなんか、女に対して免疫がないから、 もういちころよ。」 喜びを無理矢理押し殺すように、わざと無関心そうに言うアスカ。 ほんとに、碇君も幸せよね。こんな可愛い娘と相思相愛で。 ヒカリは、アスカの心の動きを簡単に感じ取って、そう考えながら心の中で 微笑む。 「ね、ねえ、ヒカリ?」 「なあに?アスカ?」 「そ、その・・・・・・・・・や、やっぱり、バカシンジの奴、あたしの事が、 好きなのかな? 」 思わず心の中の笑みを表情に出してしまうヒカリ。 それを見たアスカは、慌てたように言葉を続ける。 「い、いや、あたし自身は別に、どうでもいい事なのよ?ほんとに。 でも、もしそうだとしたら、やっぱり、あんまり本気になられない内に、釘刺して おかなきゃならないなあって思ってね。」 「どう言って、釘刺すの?」 「そ、そりゃ決まってんじゃない。あんたはあたしの下僕に過ぎないんだから、 分不相応な感情をあたしに持つのは止めなさいってね。」 「へえー。そんな事言っちゃうんだ。」 「そ、そうよ。」 「あーあ。碇君、悲しむだろうなあ。結局、一生報われない恋なのかなあ。 あたしとしては、早くアスカと碇君がくっついて欲しいんだけどな。」 「な、何、ヒカリまで言ってんのよ!ヒカリまであたしとシンジの変な噂、 真に受けてんじゃ無いでしょうね!」 「どんな噂よ?」 「だ、だから、その・・・・・あたしと、シンジが、好き合ってるとか、そういう事よ。」 「ふふっ。アスカに、あの小説、読ませてあげたいなあ。 どんな表情するか、ちょっと楽しみな感じがするな。」 「小説?何の話よ?」 「碇君が多分持ってると思うわよ。頼んで読ませてもらったら? タイトルはねえ・・・・・・・・・・。」 ヒカリは、笑いをこらえながら、先程のケンスケの小説の題名を彼女に教えた。 「何、それ?聞いた事のない小説ねえ。作者は誰なの?」 「さあ、それは忘れちゃった。」 「ふうん。それにしても・・・・・・・・ねえ、ヒカリはどうなのよ?」 「・・・・・・・・え?」 アスカの口調から、ヒカリは風向きが変った事を知った。 「だ・か・ら。鈴原の事よ。なんか全然進展してないみたいじゃない?」 先程のアスカの肌の色が、そのままヒカリに伝染する。 「な、何でここで鈴原の名前が出て来るのよ!アスカ!」 「何でって決まってるじゃない。好きなんでしょう?あいつの事が。」 「べ、別にそんな事・・・・・・・・・・無いわよ・・・・・・・・・。」 「あれえ?そうなんだ?あたしはずっとヒカリは鈴原の事が好きなもんだと ばっかり思ってたんだけどなあ。よくあいつの事気にしてたし。」 「そ、それは、鈴原がいつも週番さぼったりして、しっかりしないから、 クラス委員長として・・・・・・・・・・・・。」 「はいはい、分かりました。まあ、考えてみれば当然よね。 ヒカリがあんな単純バカの事を好きに鳴る筈ないか。 下品な事ばっかり言うし、スポーツ以外に取り柄ないし、馬車馬みたいに 飯だけは食べるし、乱暴だし、顔は悪いし、いつもジャージだし・・・・・・・。」 「で、でも、鈴原にだって、良い所はあるのよ?」 「そおお?例えば?」 アスカがわざと聞く。 ヒカリはすでにアスカの術中にはまっている事に気が付かない。 「た、例えば、確かに乱暴だけど、弱い者いじめなんかはしないし、むしろ そういったのを見るともの凄く怒るし・・・・・・・・・。」 「ふんふん。」 「それに、アスカだって知ってるでしょ?鈴原が、妹さん思いな事。 この間妹さんが入院した時だって、ほんとに心配して、御飯も喉を通らない 様だったし・・・・・・・・・・。」 「それでもしっかり人並みには食べてたけどね。」 「確かにデリカシーには欠けてるかもしれないけど、それはただ不器用なだけ だと思うの。ほんとは、とっても優しいのよ。皆、知らないだけ。」 「ほほお。」 「それにね、この間は、鈴原ったら、あたしに・・・・・・・・・・って・・・・・・・・・・・。」 ここまで言って、ヒカリはニヤニヤしている親友に気が付いた。 自分が何を言って、何を言おうとしていたのか気付き、顔が火を吹く。 「ア、アスカ!」 恥ずかしさを誤魔化すように大声をあげるヒカリ。 アスカはけらけらと笑った。 「別にいいじゃない。素直になれば。 あたしはまあ、なんだかんだ言って、鈴原は確かに悪い奴じゃないと思うし。 ・・・・・・良い奴とも思えないけどね。 ヒカリさえその気になれば、いくらでも手伝ってあげるわよ。」 「・・・・・・・・・・・アスカも、ね。」 「はん?あたしが、どうしたって?」 「アスカも、碇君に対してその気になったら、あたし手伝ってあげるから。」 「だ、だからどうしてバカシンジの名前が出てくんのよ!」 乙女らしい恋心をそれぞれその内に秘めた二人の少女は、いつまでも じゃれ合っていた。 きっと、永遠に続くに違いないと信じている美しい時間。 しかし、彼女達はまだ知らなかった。 この世に永遠に続く幸福など存在しない事を。 そしてそれはやがて、最も残酷な形で彼女達の目の前に表される事になる。 「あれ、もうこんな時間なんだ。」 赤いベルトの、いかにも少女らしい腕時計を確認し、すでに六時近い事を知る。 洞木ヒカリは、読んでいた本を閉じると、整然と並べられた本棚に、それを 戻した。 学校の、図書室。 放課後、残って読書していたのだが、いつの間にか窓の外は夕暮れの時。 両親や姉妹のために夕飯を作ってあげなければいけない。 彼女は鞄を手に、下足場へ向かった。 そこで。 「おう委員長。委員長も今帰りか?」 「!す、鈴原・・・・・・・・・・・・・。」 下足箱を開け、上履きを入れて靴を取り出そうとしていた彼女に、男の声が かけられる。 突然の想い人との邂逅に、少女の心は動転した。 「な、何で、鈴原がこんな時間まで学校に居るのよ。 碇君も相田君もとっくに帰っちゃったでしょ?」 咄嗟に言うと、ジャージの少年は呆れた顔をする。 「何言うとんのや。今週はわいが週番やから、さぼらずせい言うたんは、 委員長やないか。」 「あ・・・・・・・・・・・・。」 気付いて、真っ赤になる。 「ご、ごめん。鈴原。この時間まで、ちゃんとやってくれたのね。ありがとう。」 「ん・・・・・・ま、まあ、礼言われても困るんやけど。 ほんまは言われんでもやらなあかんのに。」 ヒカリの表情に、何とは無しにどぎまぎするトウジ。 「ど・・・・・・・どや?一緒に、帰らへんか?」 「え・・・・・・・・・・・・。」 呆然と少年を見る少女。 驚きの表情は、やがて心からの喜びに満ち溢れた。 「うん!帰りましょう、鈴原!」 その喜びの表情は、ほんの一瞬ではあったが、あのアスカの美貌すら かすませてしまう程の美しさがあった。 照れから、ヒカリからそっぽを向いていたトウジには、残念ながらそれを 見る事は出来なかった。 ヒカリは上機嫌だった。 途中から帰り道は違ってしまうため、すでにトウジの姿は彼女の傍らには無い。 しかし、つい先程まで彼と一緒に歩いていたという事実が、彼女の心を ときめかせていた。 無論、少年の方から彼女を誘ってくれた事も、彼女の機嫌の良さに一役 買っている事は言うまでも無い。 目に映るもの全てが自分を祝福してくれているようだった。 あら? そんな中、帰り道を急ぐ彼女の視界に、ある物が入った。 ・・・・・・・こんな所に、古本屋なんて、あったかしら。 そう。 それは、一軒の古本屋であった。 随分古臭いたたずまいで、何十年も前からそこに存在していたように見える。 数え切れぬ程通ってきた道ではあったが、今の今迄この店の存在には 気が付かなかった。 小さな店。 ペンキは剥げ、入り口のガラスは埃に煤けていた。 どう見ても、流行っているとは言い難い。 ・・・・・・・入って、みようかな。 まるで、何かの小説にでも出てきそうな、そんな雰囲気の古本屋。 この年頃の少女の例に漏れず、ヒカリもまたロマンチストな面を持っていた。 そしてまた、この世界において、神秘の世界とは、想像の中においてのみ 存在するものではなく、間違い無く現実のものであるのだ。 科学による物質文明に覆い隠されてはいるものの、魔法、精霊、その他様々な 奇跡の存在は、誰も疑うものでは無い。 故に、彼女がある種の期待を秘めてその店をくぐったのも、無理からぬ事。 カララ・・・・・・・・・・・・・。 静かに、ヒカリは入り口を開ける。 この時代に、自動ドアでないなんて。 ヒカリは驚く。 「いらっしゃい。」 しわがれた声がかけられた。 外見こそ小さく見えたが、店の中は意外な広さを持っていた。 蛍光燈が天井で光を放つ。 金属製の物ではなく、古臭い木製の本棚が、整然と並ぶ。 その本棚に並ぶ本は、最近の流行小説やコミック等は一切無い。 どれもこれもその本棚にふさわしく、何やら歴史を感じさせる昔の物ばかり。 店の奥には、優しげな微笑みを見せる老婆が座って、店の雰囲気を 完成させていた。 ・・・・・・素敵。 ヒカリは、店の正体が自分の期待通りのものである事に感動した。 神秘的な何かを期待しないでも無かったが、彼女はこの雰囲気だけで、 すっかりこの店を気に入っていた。 最近は−−−ことに、このような都会では−−−こんな店など、滅多に 見られるものでは無いだろう。 彼女は老婆にぺこりと会釈をすると、ゆっくりと本棚の間を周った。 ハードカバーの本が多い。 どれだけ古い物であるのか、ヒカリには想像もつかなかったが、保存状態は 文句のつけようが無さそうだった。 装丁もしっかりしており、多少埃を被っている物もありはしたが、目立った 汚れを見せる本は無かった。 日本語で書かれた本ばかりではなく、むしろ外国のそれが多い。 英語の物はタイトルもなんとか読み取る事は可能だったが、一体どこの国の 言葉なのかすら判別出来ぬ物も多かった。 うーん。 ヒカリは迷う。 確かに素敵な店ではあったが、肝心の商品は、彼女の手に負えるものでは 無さそうだった。 日本語で書かれた物も幾つか手に取って見てはみたものの、予想通り かなり古い文体であり、読むには骨が折れそうだった。 どうしよう。 また、この店の商品には、どれ一つとして値札が付けられていなかった。 それもまた彼女に抵抗を感じさせる。 ものがものだけに、実際どれだけの値段がするか想像もつかない。 あたしには、場違いな店なのかもしれないわね。 仕方なく、出口へ向かう彼女。 あまり長居もしていられない。 そこへ、ふと彼女の目を引く一冊の本。 それは、その周辺にあるものと同様に、彼女には理解出来ぬ言葉でタイトルが 記されている。 にも関わらず、彼女は吸い寄せられる様にそれを手に取り、そしてぺらぺらと ページをめくった。 その中に書かれている文字も、タイトルと変わらず読む事は出来なかったが、 一目で彼女はそれを気に入ってしまった。 欲しい。 唐突にそう思うが、やはり値札はついていない。 彼女は恐る恐る、その本を手に奥の老婆へと向かった。 老婆は相変わらずにこにこと笑っている。 「どうだい?気に入った本が、あったかね?」 「あの・・・・・・・これ・・・・・・・なんですけど・・・・・・・・・・。」 「ほほお。これが、気に入ったんだね?」 「え、ええ・・・・・・・。なんとなく、引き寄せられるような・・・・・・・・。 でも、読めないんです。これって、どういう本なんですか?」 「それは、わたしにも分からんねえ。」 老婆は、あっけらかんと笑った。 「こんな店を開いて、こんな本ばっかり置いてはいるけど、実際わたしは 魔法使いでも何でも無いし、学も無いからね。置いてある本の大半は、 自分でもさっぱり分からないもんばかりさね。」 「そうなんですか。」 くすり、と笑ってしまう。 「あの・・・・・・・じゃあ、これって、おいくらなんでしょうか・・・・・・・?」 「そうだねえ。まあ・・・・・・・・・・・・。」 老婆が口にした値段は、驚くほど安いものだった。 最近の文庫本と比べてさえ低い値段だった。 「あの・・・・・・いいんですか?そんなお安くて・・・・・・・・。」 「別に構わんさ。わたしも道楽でやってるようなもんだからね。 気に入ってくれた人に買ってもらえれば、それで満足さ。 本にとってもそれが一番だろう。」 「あ・・・・・・ありがとうございます。」 ヒカリは嬉しさと共に本の代金を支払うと、何度も振り返りつつ、その店を 後にした。 アスカにも、教えてあげよう。 ひょっとしたら、魔法使いにとっては宝の山なのかもしれない。 今日は、何だかとても素敵な日ね。 老婆の微笑みは、最後まで変わる事は無かった。 ここは、洞木家。 築十年、二階建てのごくごく一般的な家屋。 狭いながらも家庭菜園を行うぐらいには十分な庭もあり、立地条件も考えれば ヒカリの両親はそれなりの無理をしていたようだ。 その白い壁と、窓から漏れる暖かい光は、幸せな家庭の象徴とも見える。 かちゃ、かちゃ。 食器の触れ合う音。 ヒカリは、台所で夕食の後片付けをしていた。 両親と、姉妹二人と、自分。 五人分の皿や茶碗を彼女は洗っていた。 鼻歌を歌いながらスポンジを手に取っている彼女の傍に、すっと女性が立つ。 四十歳前後で、どちらかと言えば痩せ型。 言うまでもなく、それはヒカリの母親だった。 「ヒカリ。後は私がやるから、あなたはもう休みなさい。宿題も、あるでしょ?」 「うん。でも、もう、すぐだから。終わらせちゃうね。」 「いいから。母親の言う事は、聞くものよ。」 ヒカリの手から奪われる泡立ったスポンジ。 「ありがとう。お母さん。じゃあ、あたし部屋に行ってるね。 あんまり無理しないでよ。」 「まだまだあなたに心配されるほど歳はとってないつもりよ。」 親子らしく、良く似た顔立ちの二人は優しく微笑み合う。 ヒカリは二階の自分の部屋へと階段を登る。 以前アスカに、毎日毎日家事をやっていて、面倒臭くはないかと聞かれた事が あった。 確かに大変ではあるが、けして面倒臭いと思った事は無い。 両親も、姉も、毎日仕事で頑張っている。 妹も、自分なりに家の中で出来る手伝いは一所懸命やっている。 お互いに、助け合い、支え合って行く。 それでこそ、家族だろう。 この家族を大切に守って行くための努力は、けして彼女にとって 苦痛では無かった。 バタン。 彼女は部屋に入り、ドアを閉めた。 年頃の女の子らしい、温かい雰囲気の部屋。 ベッドと、勉強机と、本棚にオーディオ機器。 可愛らしい小物類がアクセントを添えていた。 小物の中には、彼女の手作りの物もある。 ヒカリは窓のカーテンを閉めると、学校の予習、復習のために机に着いた。 教科書を取り出すべく、鞄の中を探る彼女の手が、ふと違和感を感じる。 違和感の源を取り出し、彼女はああ、と声をあげた。 ・・・・・・・そうか、すっかり忘れてたわね。 それは今日、帰りがけに寄ったあの不思議な感じの古本屋で購入した本。 百科事典くらいの分厚い物で、茶色い表紙に金色でタイトルと筆者の名前 らしき文字が輝く。 「読めたら、いいんだけどなあ・・・・・・・・・・。」 彼女はポツリと呟く。 読めない事を知っていて買った本ではあったものの、やはり読めないと いうのは気になって仕方が無い。 そもそも、どこの国の文字かという事すら分からないのだ。 ひょっとしたら、これは魔法語というやつなのかもしれない。 それなら、明日にでもアスカに見せてみれば、分かるのではないだろうか。 そう思い、ぺらぺらとめくっていたそれを、彼女は閉じた。 その・・・・・・・時。 「ねえ、君。」 突如部屋の中に響き渡った声に、彼女は驚いた。 聞いた事の無い、多分男の声。 多分、という表現を用いたのは、まだ声変わりも経験してないらしい、少年の声 だったからだ。 どこからともなく聞こえたそれに、ヒカリは戸惑う。 部屋の中に、声の主らしき者は見当たらなかった。 幻聴かしら。 そう納得して、再び例の本に目を落とした時。 彼女は今度こそ驚愕した。 そこには。 その、本の上。 その、表紙の上。 そこに、一人の少年が、立っていたからだ。 本の上に立っている、という表現から分かる通り、その少年は、人間では 有り得なかった。 その身長はせいぜい十センチ程度しかなく、体型は七、八才の子供のもの。 その髪は金色であり、美しいカールを描く。 少年らしい、大きな、つぶらな瞳。 青い半ズボンにシャツ、そしてジャケットに身を包んでいた。 ヒカリは、突如現れ、そしてニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべるこの小人に 目を奪われた。 口をぱくぱくと開け閉めするが、声は形にならない。 今迄の人生でこれほど驚いた事があったろうか。 そんな彼女におかまいなしに、小人が口を開く。 「ねえ、君・・・・・・・・・。 耳も、口も、ついてるんなら、返事してくれてもいいんじゃない?」 幼い声に、ヒカリは僅かに正気を取り戻す。 「な、なに・・・・・・・・・?あなた・・・・・・・・・?」 「なに、とは失敬だなあ。」 台詞は怒っている風ではあるが、その表情と口調は、演技めき、おどけた ものであった。 「でもまあ、君が驚くのも無理は無いから、とりあえず自己紹介でもして みようかな。このままだといつまでも話が出来そうに無いから。 ええとね。君、僕の事警戒してるみたいだけど、別に怖がらなくても平気だよ。 僕は別に君に危害を加えるようなつもりは無いし、そもそもそんな力も 無いんだ。 ・・・・・・・・・僕はね。精霊なんだよ。」 「・・・・・・・・せ、精霊さん・・・・・・・・・・?」 魔法使いならぬヒカリも、精霊の存在は当然知っていた。 僅かに、警戒を解く。 精霊は、おおむね温和な性格であり、人間に対しても友好的な生物なのだ。 恐る恐る、ヒカリは質問する。 「せ、精霊って、何の・・・・・・・・?」 「ふふ。何を司っているのか?・・・・・・っていう意味の質問なのかな?」 「え、ええ・・・・・・・・。」 「うーん。教えてもいいんだけど、簡単に教えちゃうのもつまらないから、 君が当ててみてくれないかな?」 「え・・・・・・・・・・・。」 ヒカリはいつの間にか、小人の話術に飲み込まれていた。 「ひょっとして・・・・・・・・書物の、精霊・・・・・・・とか?」 「ピンポンピンポーン!」 大袈裟な表情と身振りで、彼女の答えを肯定する小人。 くるり、とその場でとんぼ返りまでしてみせた。 「よく分かったねえ・・・・・・・・って、こんな本の中から突然出てきたら、 誰にでも分かるか。」 舌をぺろり、と出して笑う小人。 その余りの愛くるしさに、完全に警戒を解くヒカリ。 「で、でも・・・・・・・・・・。あたしは、魔法使いじゃ、ないわよ。 どうして魔力の無いあたしに、あなたが見えるの?」 「きっと、相性が良かったからじゃない?」 「そういえば・・・・・・・確かに、この本を一目見た時、妙に惹かれるものを 感じたけど・・・・・・・・・。」 「じゃあ、やっぱりそうだよ!嬉しいなあ! この本はね、中世、ヨーロッパのある魔術師が記した魔道書なんだ。 僕はこの本が書き上がった時に、この本の精霊として生を受けたんだ。 それ以来五百年間、色んな人の手にこの本は渡ったんだけど、 魔法使いじゃない人っていうのはほんと珍しいよ。 しかも僕の事を見る事が出来る普通人なんて、初めてだ。」 「五百年も?すごいのね。 ・・・・・・・ねえ、あなた、名前は、何ていうのかしら? あ、あたしは、ヒカリ、よ。洞木、ヒカリ。」 「んー。別に、名前なんて、どうでもいいと思うけどね。 でもまあ、どうしてもって言うんなら、まあ、キッド、とでも呼んでよ。」 「キッド、ね。最初見た時はちょっとびっくりしちゃったけど、あなたって、とっても 面白いのね。・・・・・・友達に、なってくれるかしら?」 「もちろんだよ!よろしくね。ヒカリ。」 「な、なんだか呼び捨てにされると、何か抵抗を感じるんだけど・・・・・・。」 「あのねえ。こんな格好してるけど、僕は一応五百歳なんだよ。 君とは比べ物にならない程長い事生きて来たんだから。」 「あ、ごめんなさい。」 「ううん。いいよ。全然、気にしなくて。ね、ヒカリ?」 「・・・・・・・や、やっぱりそんな呼び方は変な感じね・・・・・・・・。」 ヒカリは、思わず吹き出してしまった。 ”キッド”も笑う。 家族を気にしてくすくすと控えめに笑うヒカリに対して、 キッドの方は悪戯好きの少年をイメージさせる、くくく、という笑い。 笑いが納ると、キッドはおどけた調子を崩さず、再び口を開いた。 「ねえ、じゃあ、友達になってくれたお礼に、ちょっとしたプレゼントをあげるよ。」 「プレゼント?いえ、別にお礼なんて、そんな事・・・・・・・・。」 「いいからいいから。僕の気持ちだよ。 書物の精霊ってのは、他の精霊達とは違って、あまり強い力は持っていない ものなんだけど、僕は一つだけ結構強力な力を持ってるんだ。 その力を見せてあげる。」 「力って・・・・・・・・・どんな?」 「そうだなあ・・・・・・・・。鏡は、ある?」 「ええ、あるわ。」 ヒカリはベッドの傍に置いてあった手鏡を取った。 ピンク色の、特別飾り気の無いそれ。 「これを、どうするの?」 「ちょっと、待ってね。」 キッドは何やら目を瞑り、ぶつぶつと何か呟き始めた。 ただでさえ身体が小さいためにやはり小さい声が、なおさら小さくなり、 ヒカリにはさっぱり聞き取れない。 「・・・・・・・・・・・・・?」 ふっ、と、彼女の手に持っている鏡に、変化が訪れた。 ヒカリの、少女の顔を映しているだけだったその表面が、まるで水面のように ゆらゆらと揺れ始めたのだ。 やがて、ぼやけ、何が何だか分からない状態になってしまう鏡面。 ヒカリはじっとそれを見つめ、キッドはなおも呟き続ける。 その内、鏡面が再び安定して来た。 ぼやけていた映像が、次第にはっきりしたものへ変ってゆく。 そして。 「あ・・・・・・・・・・・・・・・・。」 ヒカリは思わず声をあげた。 鏡面に再び映し出されたものは、先程までのような、彼女の顔ではなかった。 一人の、ヒカリとは別の、女性の姿。 母さん? ヒカリは思わず呟く。 そう。 それは、ヒカリの母親の姿だった。 台所の流しで、洗い物を続けている母親の姿。 その全身像と、背景とが、ヒカリの手に持つ手鏡の中に、克明に 映し出されているのだ。 「・・・・・・・・・・・・・・・・。」 驚き、食い入るように見つめるヒカリ。 ・・・・・・・・・しかしそれはやがて、不意に掻き消えた。 鏡面に映し出されているのは、ヒカリ自身の驚きの顔。 思い出したように見ると、小人はにやにやと笑いながら相変わらずそこに 立っていた。 「どう?楽しんでもらえたかな? これが、僕の自慢の力・・・・・・・・・・・遠隔視だよ。」 ざわ。 僕は、自分の身体を襲った、突然の悪寒に身を震わせた。 思わず両肩を手で押さえる。 「どうしたの?シンジ?」 隣を歩く惣流が、訝しそうに聞いて来た。 僕達は近くのコンビニへ、ジュースや菓子類を買いに行く途中だった。 道の真ん中で突然顔色を変えて立ち止まった僕に、惣流は視線をむける。 何だ? 何なんだ? この感じ? 僕はほんの一瞬の、悪寒の正体を掴めずにいた。 漠然とした不安。 何か、”良くない事”が起こる様な、そんな気配。 しかし周囲は、全く平和極まり無い、静かな夜の町。 危険などどこにも見当たりそうに無い。 何よりどんな危険が迫ろうとも、その身を脅かされるような僕じゃない。 納得してしまうと、僕は不安を断ち切るように、惣流に笑いかけた。 「・・・・・・・ううん。何でもないよ。惣流。」

 


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ver.-1.00 1997-10/04公開
ご意見・感想・誤字情報などは kawai@mtf.biglobe.ne.jp まで。

 河井さんの『僕のために、泣いてくれますか』第拾弐話、公開です。
 

 ヒカリちゃんに危機が迫る?!

 洞木家二人目の、
 クラスの、
 アスカの、

 おっかさん。ヒカリちゃん(^^)
 

 責任感が強く、
 潔癖で、
 心が強い、
 ヒカリちゃん。
 

 妖しげな店で手に入れた妖しい本。

 ヒカリちゃんの身になにが起きちゃうんだろう (;;)
 心配で夜も眠れないです・・
 

 さあ、訪問者の皆さん。
 感想メールを河井さんにプレゼントしましょう!


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