TOP 】 / 【 めぞん 】 / [フラン研]の部屋/ NEXT


 
レイはそれこそシンジが何か意味不明の外国語を喋ったかのように感じた。
意味が良く分からなかった。
今、碇君は何て言ったの。好きって言った? 碇君が? 私を? 冗談を言っているの?

顔の皮膚に熱が集まる。レイは大体において自分の肌の色をポジティブに捉える事は絶えて無いのだが、嫌な事の一つは自分の感情がこういう時すぐ表に出る事だった。

良く誤解される事だが、レイはもちろん感情を持っている。そしてそれはごく普通の人間の感情だ。だから羞恥心もあるし、怒りも感じるし、喜びも感じるし、冗談や悪口だって心の中でなら言える。もちろんそれぞれの感情がどれほど豊かなのかは簡単には言えないだろうが。

ただその表現法を忘れているだけだった。

自分が表現法を忘れているという事も分かっている。が、忘れている事が分かったところで思い出す助けにはならない。ある日、何時だったかはっきり覚えてないが、多分小学3年生の1学期。自分は「うさぎ女」という妖怪だとクラスメイトに言われた。そして自分の笑う顔がとても怖くて気持ち悪いと皆から逃げられた。それ以来、自分は無意識に笑う事を、表情を表に出す事を押さえるようになった。

そして彼女は笑う事を忘れた。

比喩表現だ。彼女も耐え切れずにクスリと笑う事はあるし、シンジと会うようになってからは楽しそうな表情をする事も増えている事は、自分で自覚している。ただ、全体としては今でもレイは常にムスッとしていて、たまに話し掛けて来るような「勇気ある」人間にも愛想を全く見せない。内心その相手に「冷たい態度で御免なさい」と謝っているのだが、外面の演技力がその気持ちを完全に覆い隠して相手に悟らせなかった。

だから、彼女に感情はあるし、同時にそれはレイにとって「他人に見せてはいけない」物であった。いや、そんな観念は自分でくだらないトラウマだと分かっている。でも、例えば…何か子供の時のきっかけで肉が嫌いになって、それ以来食わず嫌いで肉が食べられないとする。理由がくだらない事だと分かっていても、簡単に食べられるようにはなかなかならない。まあ、それと似たような物だ。

だから彼女は簡単に赤くなる自分の肌を嫌悪した。
 

シンジは、自分が答えを要求するタイプの疑問文を発した事も忘れてレイに見惚れていた。いつもガラスのように…いや、スケルトンテトラ、のように透き通って、どこまでも冷たく美しいレイの顔に、赤い明かりが灯っていた。酷く失礼な言い方だが、「レイも生きているんだ」という事をシンジは再確認したような気がした。

レイは口を少し開き、目をさまよわせ、一瞬だけシンジを見て、シンジが自分に目を向けている事を知りすぐに目をそらした。シンジも少し羞恥心が生まれつつあったが、息を飲む程可愛く感じられる彼女をもっと「見たい」という気持ち、いや、もっとはっきり言ってしまえば肉体的な衝動が、それを遥かに上回ってレイから目をそらす事が出来なかった。

 
シンジは繰り返した。
「僕は、君が好きだ。」

 
レイは自分が返事を要求されている事に気がついた。

本当は自分がたくさん質問をしたかった。まず何よりも、彼が本気でそんな事を言うとは信じられなかった。こんな真っ白な気持ち悪い顔で、性格もウジウジ暗くて、いじめられっ子で学校から逃げた、今だって彼に冗談の一つも言わない無愛想な私が、好き? この人は、一体何を言ってるんだろう。

 
しかし、碇君が人をからかうような性格だとは考えにくい。レイは、まずは彼にきちんと返事を返すのが礼儀だと思った。
だからレイはシンジに答えた。

「御免なさい…」



 
 海辺の生活
 
第五話 乱視
  


 
とても白い空と海だった。

シンジはレイが背景に溶けてしまうのではないかと思った。彼女の服装はスニーカーにベージュのパンツ、白のTシャツと一切色気の無い、色彩も乏しいもので、ここで自分が涙を目に滲ませたら本当に海と空に溶けてレイは見えなくなってしまうのではないかとシンジは想像した。

レイは、シンジから見て申し訳無さそうに答えた。

「好きな人がいるから…御免なさい。」

シンジは、何故かほっとしている自分に気付いた。
「そ、そうなんだ…あは、そうだよね。へえ、好きな人が、いるんだ。綾波の好きな人は、幸せだね。」

「そんな事、ない…」

シンジは何故だかムッとした。
「何で。綾波は、そう…駄目だよ、自分をすぐ卑下するのは。綾波は心も顔も綺麗だよ。」

「そんな事」レイはふとシンジの顔がまた歪んだ事に気付いた。
「ああ、…ありが、とう。」

シンジは微笑んだ。
「どういたしまして。」

シンジは自分の変な根性がちょっと間違っているような気がした。こういう時は、僕はもっと泣き叫んだり、綾波に辛く当たったりしてもいいんじゃないだろうか? 変に物分かりが良いのって何だか損な感じがする。

シンジは立ち上がった。
「…じゃあ、行こうか。」
「ええ。」

シンジは歩道に止めてあった自転車に再びまたがった。レイも荷台に当然のように座る。

シンジは少し、違和感を感じた。ここから綾波の家までの距離を考えたら、自転車に乗るのは当然ではあるのだが。シンジは、自分のレイへの興味のような熱意のような物が急速に薄れているような気がして自分にとても嫌気がさした。

「どうしたの、碇君。」
レイはサドルに頭を近付けて動かないシンジに、やや心配気に声をかけた。彼女にしてみれば今日のシンジの言動は不思議な物の連続なのだろう。

「あ、ううん、何でもないよ。…ああ、もう急がないと暗くなっちゃうね。」
「そうね。」

シンジは自転車を漕ぎだした。
ペダルは重かった。


翌日学校が終わって、シンジは下校の道をノロノロと漕いでいた。
ここの所毎日、学校からレイのマンションに直行して、水族館に向かっていた。

彼は父親と2人暮らしだ。彼の父親は大学の研究者で、あまり家に帰って来ない。父と息子の間に会話は滅多に無かった。
シンジはそんな父親を否定するつもりは無かった。父と一緒に居ても、何を話して良いのか分からない。多分向こうもそう思っているのではないだろうか。シンジが話しベタなのは、明らかに父の遺伝があると思われた。
だからシンジは別にすぐに家に帰らなければならないという事はなかった。

シンジの漕ぐ自転車は自分の家への道とレイのマンションのへの道の分岐点で止まった。

シンジは、ここ数日通りレイのマンションの前まで行こうか、迷っている自分に気付いた。
つまり、そういう事なのだ。弱い立場の、かわいそうな女の子がいて、モノに出来るかもしれないと思ってアタックをかけていただけなのだ。
 

ヤりたかっただけなんだ。
 

シンジは顔をサドルにのっけるように沈めた。通りがかりの主婦が怪訝な目でシンジを見ている。
 

まあ、でも、仕方無いかな。僕も思春期の男だからね。
 

シンジはもちろん、レイのマンションへの道に自転車を漕ぎだした。

綾波レイは、やはり今日は、今日からはシンジは来ないかもしれないと考えていた。だとしたら残念だが、仕方が無い。
これも誤解される事だが、レイは他人の気持ちが全く分からなかったりする訳ではない。人付き合いの経験が少ない関係上、人の気持ちを推し量る経験値が足りないだけである。極端な話、レイにも性欲はある。だから告白された以上、シンジが自分にある程度そういう希望があって今まで送りに来ていたのかもしれない、位の想像は付いた。

カントの本を読んでいるが、あまり集中できない。レイの一番好きなタイプの本は数学定理の解説書なのだが、今はそれを読みたい気分ではなかったのでもっと人間臭い本を読んでいる。しかしレイは、気がつくと目の前の活字とは無関係の事を考えているのだった。

でも、碇君はそんな軽薄な人ではないわ。

レイは通りから鳴って来る自転車のベル音を聞いた。

「綾波。」窓越しに、右手を口に添えて、彼なりの大声で通りから呼ぶシンジが見える。

「碇君。」レイは呟くくらいの、つまり通りのシンジには絶対に聞こえない音量で返事をして、パタンと本を閉じた。

「ほら。」レイは彼女なりに微笑んで、自分に言い聞かせた。
 

シンジはレイがいつも通りいそいそと2階建てのマンションの階段を降りて来るのを見ながら、やっぱり少し落ち込んでいた。ここ数日でシンジにとってレイの顔は妖怪変化ではなくなっていた。見慣れれば見慣れる程、彼女が美人に見えて来ていたのがシンジにとっては辛かった。

「碇君。」
レイはちらっと微笑むと、いつものように自転車の後ろに横向きに乗る。

シンジはレイが普段より機嫌が良さそうなのがかなり意外だった。
 

2人を乗せた自転車はいつもの道を走りだした。
 

シンジは畑の中の道を走る間も、危ない事にずっと考えていた。頭の中に数人のシンジがいて、彼等が会議をしている。

「何で今日も面倒臭い事をしてるんだよ、降ろしちゃいなよ。」と言うシンジ。
「結局あれだよね、今こうやって自転車漕いでるのもさ、まだ、下心があるからなんだよね。もしかして、これからチャンスが、とか、あわよくば押し倒そう、位の事は考えてるんじゃないの? 未練たらたらだよね。」と言うシンジ。
「何を言うのさ。僕は、女の子とも友情を育めるさ! 折角仲良くなったんじゃないか。それは確かにそういう気持ちもあったけどさ、じゃあ何、僕は綾波の体だけが目的だったのかい? 彼女の心とかさ、そういう部分はどうでも良かったのかい?」と言うシンジ。
「まあ、それもあるけど、やっぱり彼女が可愛い女の子だったからこそわざわざ自転車に乗せてるんだよ。もし綾波が男だったら、多分こんな事はしてないよ。結局僕も男だからね。」と諦観するシンジ。

何人かのシンジが喧喧囂囂の議論をしている。

シンジは、「一体どの僕が悪魔で、どの僕が天使なんだろう。」と馬鹿な事を考えていた。


ミサトはその大きな胸を痛めていた。

2人の雰囲気がおかしいのだ。と言っても、彼女にはレイの状態は良く分からないのでもっぱら分かるのはシンジの様子なのだが、どうもよそよそしい。

当然シンジ君に面と向かって聞くのはためらわれる、でも、レイちゃんにはもっと聞きづらい。

「で、聞いてる? 飼育担当の葛城さん。」
とげとげしい言葉にぱっと振り返るミサト。

「あ、ああ、うん、2人の不仲の問題でしょ?」

「2人?」眉を上げるリツコ。

「ああ、いや、2匹、2匹。」
「…それで?」
「え?」

「どう思う、と聞いていたんですけど。」微笑むリツコ。

「ああ、うん…なるようにしか、ならないんじゃない?」

リツコは溜め息をついた。
「飼育担当さん。もう少し他に意見、無いかしら? …言葉を交わすようになってから、どうも彼等の間がぎくしゃくしだして、最近互いを軽く威嚇すらするのよ。基本的には私達との会話実験での2匹の競争意識が原因らしいのだけど…自分の物の考え方、自我を形成して行く内に、互いが違う考え方を持つ、異なる自意識の存在である事に気付きだしたようなのね。両方とも、譲るという事を知らないから。ピンギはピンギで<ポコティファの話しているのは「言葉」ではない>といつも言うし、ポコティファはポコティファで<ピンギは友人・同種ではない>と言うし。全く…」

「だから、なるようにしかならないわよ。」
リツコはミサトの顔を見た。
「心配したってしょうがないじゃないそんな事。「仲良し」するのも「でない」「仲良し」するのも彼等が決める事よ。人間が口を挟む事じゃないわ。」
リツコはメルキオールのウインドウを一つ閉じた。
「…まあ、あなたがそう言うのなら静観しましょう。でも研究に明らかな支障が出るようでは困るの。時間は余りにも足りないわ。」
ミサトは軽くリツコを睨んだ。
「一応念を押させてもらうけど、彼等は実験材料であるより前にペンギンよ。しかも高度な自意識を持った。」
「ペンギンに人権は無いわ。」
「リツコ。」
リツコは立ち上がった。
「別にここで動物愛護派対マッドサイエンティストのステレオタイプな議論をするつもりも無いの。温泉ペンギンは、そもそもが人工的な存在、本来生態系が許す存在ではないわ。あなたがどう思うか知りませんけど、常に私達が研究しないと種そのものが存続できない存在なの。彼等2匹はこの15年間で唯一の成功例なのよ、知らないとは言わせないわ。」

「…知ってるわよ。」
「彼等にとっての自由は、すなわち絶滅の危機よ。それは人間と他種のコミュニケーションという」
「もう良いわよ! …もう良い。分かったわよ、私が負けたわよ。……その、偉大な研究を進めてよ。」

「あなたの父が始めた研究をね。」
「…そうよ。」ミサトはリツコの研究室を出て行った。

「…それから、人間が口を挟む事じゃないって言ってたけど、あなたはペンギンよ。」
リツコは呟いた。彼女はいつも通りのミサトに満足しているようだった。
 

ミサトは2人に声をかけた。
「シンジ君、レイちゃん。」
 

「へえー、まるでSFみたいですねー。」シンジは感心しながらガラスにへばりついている。
「凄いでしょー。世界の、最先端を行く研究よ。」レイには、シンジの感心もミサトの自慢もどこかいつもと雰囲気が違うように思われた。声がやや上ずっていて、何だか少し大袈裟だ。

2人はミサトに連れられて、「これは最高機密だから、絶対に他の場所で言っちゃ駄目よん。」という約束のもと、ペンギン達を見ていた。

「どう、レイちゃん。」

レイはミサトから話し掛けられて、やや戸惑っているようだった。

「…背中に、背負ってる。」レイはやっとの事で一つ思い付いた感想を述べた。

「シンクロナイザーね。人工的な種だから、今の所あれがないと生きて行けないのよ、つまり、一種の生命維持装置ね。将来、ナノマシン…とても小さい機械の事ね、が発達すれば、あれを背負わせなくても良いようになると思うんだけど…」

「でも、どうやって喋るんですか?」

ミサトはまってました、と言わんばかりに微笑んだ。
「やってみる?」

ミサトはシンジとレイをペンギン室の中へ入れた。
寄って来て愛敬を振りまくギンギン。ペンギン山の上でつーんとしたまま寝そべっているペンペン。

「ギンギン、お客様よ。こちらがレイちゃん、それからシンジ君。」口で言うミサト。
「ぐあぁ、くあ。」

「え、それで分かっちゃうんですか!」

「残念ながらそういう訳にはいかないのよ。この端末を使うわ。」ミサトはバルタザールとカスパーの電源を入れた。立体画面が立ち上がる。


(<始める><終わる><人間><小さい><終わる>)」さっそく吟味するように打つギンギン。

「初めまして、若い人、って言ってるわ。」ミサトが解読する。
「…私には、一度も言わなかったわね、そんな事。」自分の言葉に表情が一転する。

「文字が分かるんですか!」素直に驚くシンジ。

「くあ。」
「ふふ、驚いた? 何かこの子に聞きたい事、ある?」
「え、ええと、じゃあ、初めまして。」

「<始める><終わる><ギンギン><美しい><終わる>」ニヤニヤしながら打つミサト。端末の画面には絵記号しか出ないので、シンジとレイには彼女が何を打っているのか分からない。

「ぐあ。」
「<同じ><ミサト><今><正しくない><終わる><でない><言う><ミサト><言葉><ミサト><終わる>
(今日のミサトはおかしい、ミサトらしい言葉を喋っていない。)」

「だー、もうそうじゃなくて。」
<今の言葉は、私じゃなくてこの男の子が言ったの。>
「があ、ぐわぁあ。」
<今の言葉はミサトが打ったからミサトの言葉だ。それからそれは男ではなく女だ。>
「ちーがーうー。」
「だ、大丈夫ですかミサトさん。」
「あ、うん、別に大丈夫よ、その、カルチャーギャップって、奴かな。あはは」
「はあ…」

レイはしゃがみ込んで、器用にキーを打つギンギンをみつめていた。
<この女は他と色が違う、違う人間だ。>
ミサトはレイに声をかける。
「レイちゃんの事を言ってるわ。…と、とても綺麗だ、って。」

レイはしばらく答え方を考えているようだった。

「ありがとう、葛城さん。」
レイはにこりともしなかった。

ミサトはキーを打つ手を止め、ギンギンを睨んだ。ふと奥にあるバケツが目に入る。

「あ、ねえ、レイちゃん。そこの青いバケツあるでしょ? そこからイカ一匹取って来て貰えるかしら。服を汚さないよう注意してね。」
ミサトを不思議そうに見るシンジとレイ。レイは助けを求めるかのようにシンジを見る。

「あ、あの…」
「お願い! 今ちょっと手が離せないのよ。」シンジの声を遮るミサト。
「分かりました。」レイは作業員用の廊下に置いてあるバケツから、30センチ弱のイカを取り上げて戻って来る。
「このまま渡して良いですか?」
「ええ。手噛まれないようにね。」
慎重に両手でイカを差し出すレイ。ギンギンは勢い良くかじり付く。
「ぐあ。」<言い直す。彼女は良い人間だ。>

ミサトは「カルチャーギャップ、ねえ…」と呟きながら溜め息を付いた。


数日後

ミサトは困っていた。
「そうねえ、ここで話すのも雰囲気が何だし…控室は野郎もいるし、あ、河畔公園は…駄目ね、時田さんが一日中釣りをしているわ。全く、魚を殺して食べるなんて、水族館員として問題が…ああ、それはともかく。」
「ここで、構いません。」
「そう? じゃあ、そうしよっか。で、どうしたの、レイに悩みがあるなんて、ちょっち意外な気がするけど。あ、ごめんね、変な意味じゃないのよ。ただ、レイって何事にも動じないような感じがしてたから。」
「そうですか。」
「う、うん。で? 悩みって?」

レイはここ数日今までの淡水魚漕からペンギン室へ居場所を移していた。リツコは当然当初は機密を平気で漏らすミサトに激怒したのだが、レイが「ペンギン語」を素晴らしいスピードでマスターしつつあるのを見てからは事実上諦め、自分が忙しい時はレイを助手として簡単な単語定着等の実験すら頼むようになっていた。
今日もレイはペンペンを相手にずっと端末を打っていた。もう閉館時間、ペンギン室に居る人間はもちろんレイとミサトだけだ。2人はペンギン室前の廊下に寄りかかって、寝静まっているペンギン達を見ながら話をしていた。

「碇君が、おかしいんです。」
「碇君ね…い、いかり!?」声を上げるミサト。
「ええ。何か?」
「碇君って、シンジ君の事?」

「はい。」きょとんとするレイ。

「この辺に多い名字なのかしら?」
「珍しい名字だと思います。」

ミサトは顔を引き吊らせ、小声で呟いた。
「…まさか、理事長の息子?」

「今まで、名字知らなかったんですか?」
「あ、うん、あ、レイって、何て名字だったっけ?」
「綾波です。」
「綾波ね、覚えておくわ。…あ、それから、私は別に葛城じゃなくて、ミサト、で良いわよ。」

レイはやや口をつぐんで、答える。
「…はい。」

「碇君…何か変な響きね…ええと、シンジ君は、確かに最近態度が変よね。喧嘩でもしたの?」
「いえ。」
「何か、変な事、有った?」
「変な事?」
「そうねえ、例えば…レイの他に、好きな女の子が出来たらしいとか。」

シンジが自分を好きである事を何故ミサトが知っているのか、レイはとても不思議に思った。
「…いえ、それは無いと思います。」

「言うわね。そう、か…でも、態度が変よね。」

「はい。…私も、変かもしれません。」急に思い付いたように、レイは付け足した。

「レイが、変?」
「ええ。集中力が、落ちているのが分かります。…医者に相談すべきでしょうか?」

ミサトは「解けた」と言わんばかりに笑みを浮かべた。
「レイ。その、「集中力が落ちている」って、好きな人の事を考えてしまうからじゃないの?」

レイは目を見開き、「言い当てた」ミサトを驚きの目で見つめた。

「ふふ…図星みたいね。」
「では、碇君、も、そうなのでしょうか。」
「そうねえ…そうかもしれないわね。ちょっと分からないけど。そうだとするなら、別に集中力が無くなるのも異常ではないわよ。レイ。心配する事じゃないわ。」

「はい…」しかしレイの顔は明らかに曇っている。

「そうだ! 今度の日曜日にでも、2人でデートしたら? あなた達、水族館以外で会った事少ないじゃない?」
「デート? でも、デートって…」
「良いから良いから。一回2人でゆっくり話し合うのよ。そうすれば、少しは分かり会えるでしょう。仙台にでも行って映画でも見て、ね? 何なら、プランを練ってあげましょうか?」
「あ、の、結構です。」
「遠慮する事ないじゃない。私に任せなさい! ばっちりとプランを練ってあげるわ!」
「はい…」
レイはもう状況がさっぱり分からなかった。


2人は映画館から出ていた。

「…中々、面白い映画だったね、綾波。」
レイからの突然のデートの誘い。シンジは喜んで良いのか、未だ半信半疑ながら、レイに話しかけていた。

もう真夏に近付きつつあった。この前期末テストも終わり、中学生は夏休みだ。その日曜日、仙台市の青葉通りは人込みに包まれている。

「良く、分からない。」レイはいつもの調子で答えた。
「そう…」

「感動的」と評判の恋愛映画だったが、レイから見て映画はどうも嘘臭かった。ありがちと言うか、展開が想像のつきそうな話で、一言で言うと面白くなかった。

「碇君は、面白いと思った?」
「…うん。」
「碇君がそう言うなら、そうかもしれない。」

面白くなかったんだな。

さすがにこれ位の分かりやすい言い方は、シンジにも解読できた。

「…ねえ、綾波。」
「何。」
「あの、どうして、急に僕とデートする気になったの。その…」

レイはちゃんと目で「何?」と問い掛ける表情をしている。シンジは最初会った時、レイがこんなに表情豊かでなかった事に気付いた。

「別に、そういう事じゃ、ないんだよね。あの、レイは僕じゃない人が好きなんだよね。」愛想笑いを止められないシンジ。
レイは微笑んだ。
「私は碇君が好きよ。」

「そう、じゃなくてさ。その、恋愛って意味で。」
「ああ。」
シンジはレイと話す位なら、ペンギンに意思疎通させるほうがよっぽど簡単なような気がして来た。

「ええ、そうね。」レイはやや言いづらそうに答えた。
「…じゃあ、何で…」
「葛城さんが、こうしてみなさいって。」
シンジは立ち止まった。歩道の脇による。

「ああ、そうか、なるほど。そう言う事か。」
大体分かったぞ。
シンジはミサトへ半分微笑ましい謝意、半分真剣な殺意を抱いた。

「碇君が、最近おかしい、って相談したわ。そうしたら、こういう風に歩いたら、お互いが分かるのじゃないか、って。」
自分が迷惑をかけていないか、不安気に言うレイ。
 

シンジはにこやかに答えた。
「うん…難しいと、思うよ。僕は僕の事しか、分からないな。綾波の事、分かりたい、とは思うけど、本当に分かる事は多分出来ないんじゃないかな。それでも分かろうとする事に意義がある! なんて言い方も出来るだろうけどね。」

何言ってんだか。いつからそんな悟った奴になったんだ、僕は。今だって現在進行型で苦しんでるじゃないか。14歳だ、子供なんだぞ。まるでかわい気が無いよな…。

レイは強要するかのようにシンジに近付いた。
「碇君は、分かる事が出来るわ。」
「あ…ありがと。そうかな。そうだったら、嬉しいね。」

シンジは自分の言っている事がちゃんと意味が通っているかどうか全く分からなくなっていた。

「…でも…逆にすると、良く分かるけど…自分は、人の気持ちを分かったつもりになったりする事がよくあるけど、自分が、人に分かられたと実感する事って意外と少ないからね。それを考えるとやっぱり自分も他人の事は全然分かってないんだろうなあって思うよ。少なくともそれなら良く分かるんだ。その、なかなか、伝わらない物だよ、自分の気持ちって、人にはね。そういうのを簡単に分かってくれる人がいたら、その人は教祖になれるよ。…だから、何か、心の中にあったら、全部吐き出しちゃった方が良いよ。」
シンジは半ば自分に言い聞かせていた。

「吐き出す?」

「うん。例えば、この前僕が綾波が好きだって言って…まあ、振られちゃったけど、取り敢えず自分の思いを吐き出す事で、ある程度はすっきりするものなんだ。…その結果、綾波に、迷惑かけてるかもしれないけど…」

「そんな事は無いわ。」

「…そう。まあ、例えばそう言う風に、好きな人がいたらとにかく告白してみる、とかさ。あ、あの、僕がこういうの言うのは、全然おかしい事なんだけどさ。でも、綾波は、多分自分の思いを結構押さえ付けてるんじゃないかな、って…あ、その、間違ってたら御免ね! 何か、凄い偉そうな事言ってるね、僕。」

「吐き出す…」

「うん…」
シンジはレイがその言葉を比喩表現だと分かっているのか少し不安になった。まさかこの場で口の中に指を入れたりしないだろうな。

「碇君が最近変なのも、何か思いを押さえているからなの?」

シンジはこんな「残酷」な質問を平気で聞き流せる自分の「強さ」を少し呪った。
「うん、そうかもしれないね。」全く「普通」に微笑む。

「なら、それを吐き出して。」レイはシンジをどこまでも真摯な目で見つめた。

「と…そうだね、でも、僕は、今日、充分吐き出せた気がするよ。何だか。」
「そう?」
「うん。僕は大丈夫だよ。」

「良かった。」本当に安心したように、ほっと胸を撫で降ろすレイ。

「うん。」シンジはレイの仕草に思わず微笑みを誘われた。この子だったら、友達としてこれからもやって行けそうな気がする。自分の中の多分「天使」に属する一人が言っていた。

シンジは本心から微笑んで言った。
「だから、綾波も全部吐き出しちゃいなよ。」

「私は…」レイは自分の気持ちを点検しだしていた。


「私は、好きな人がいる。」
レイの声に思わず顔を上げる。

「そ、そう…」

レイはそれを口にしてしまったのを後悔しているように見えた。

夏の日差しはとても強くて、レイの肌には問題が起きるのではないかと思われた。光の中で彼女は背景に吸い込まれてしまいそうだ。こうやって一人で見ると、彼女は実は結構綺麗なのではないか。

「今まで、ずっと好きだったの。」レイは自分に向かって言ってきている。レイの性格を把握しているわけではないが、まさか冗談を言っているとは思えない。
「好き、なの。あなたが…」
真剣さと不安の入り交じった表情を見せながら、レイが自分に歩み寄る。彼女のこんなにはっきりとした表情、初めて見た…

でも、そんな事ありえるはずが…思わず自分の手の甲をつねってみた。…痛い。夢じゃない。

「あ、あの、でも…」

「御免なさい、やっぱり言うべきではなかったわ。」レイはこちらが戸惑っているのを見て、とても悲しそうに目を伏せる。
「これはやはり綺麗な心ではないわ。私があなたを好きになっては、いけないの。」

レイは後ろに振り向いて、自分から去って行こうとする。

何とも複雑な気分だ。はっきりと、嬉しく感じている自分がいる。と同時に、煩わしく感じている自分もいる。意外にも、と言うべきか、はっきり嫌だと感じる自分はいないように思われた。

ただ、驚きは大きい。自分がそんな事を言われるなんて思わなかった。自分は彼女の為に何をした訳でもないのに。彼女がいじめられている時だって、何も、出来なかったのに。

ただ呆然としている自分に、レイはもう一度自分に振り返った。
「でも、吐き出せ、って言ったから。自分の気持ちは伝えないといけないって、碇君が言ったから。」
レイは止められない自分の激情をコントロールする術を失っているようだった。
 
 
 
レイは、恐らく彼女にしては叫んでいるに近いであろう声で言った。
「洞木さん、私はあなたが好き! あなたと一つになりたい!」

「綾波…さん…」


Still LIfe Episode 5:skew lines

普段のヒカリなら急に家を訪れて来た客が仮にレイであっても家に招き入れ、お茶位は出す物なのだが、話題が話題なだけにそれすらもためらわれた。
「そ、そう、なの…」

「御免なさい…」

「ああ、ううん、良いのよ。何だか、ちょっと嬉しいし。私は綾波さんの事良く知らないけど、とっても可愛いと思うわ…でも、私、そういう趣味は…」

すっきり、しないのね。

碇君が嘘を言うとは思えない。しかし心理的な問題なので、人によって個人差もあるのだろうか? レイはシンジの忠告に従って、ヒカリに自分の気持ちを打ち明けたが、特にそれで心が晴れたようには感じられなかった。

「あ、あの…綾波…さん?」ヒカリは彼女にしてはかなり低めの声で聞く。

「…」彼女はほんの一瞬だけ、ヒカリに爆弾をぶつけようかと考えた。「私はレズビアンだから、いつも差別されていて辛いの」というニュアンスの言葉を投げかければ、大抵の「そういう趣味の無い」人は申し訳なく感じるものなのだ。それはレイにとっては相手に対して優越感を得る、恐らく最後の手段の一つだった。
彼女が一瞬ヒカリにそれを言おうと思ったのは、ヒカリの「問題の無い」返事や口調に、彼女がなにがしかの嫌悪感を感じ取ったからだった。しかしヒカリの答えは「問題の無い」答えだった為、レイは一瞬で彼女に爆弾をぶつける考えは捨てた。

「そう、御免なさい。」レイはヒカリの目を見る事も無く、さっき瞬間に見せた激情が嘘のようにいつもの無表情でヒカリの家の門からテクテクと歩いて行った。

ヒカリでも、さすがに声をかけて止めるという考えは起きなかった。
ヒカリは始めて見る彼女の私服姿を、ボーッとしながら見とれていた。
「可愛いわ…まるでお人形みたい…」彼女は悪意の全く無い目で呟く。

「ねーえーちゃん。ブザー鳴ってるよ、洗濯機。」

「あ、う、うん、すぐ行くわ。」ヒカリは玄関のドアを閉め、急いで洗面室に向かった。



 
レイはしばらく南仙台の小さな市街地を横断し、自分のマンションに戻っていた。2人程レイを見て、ひそひそ指を差し噂話をする中学生がいたのだが、レイは気付かなかった。

彼女の自室は、彼女同様愛想に欠ける物だった。

ワンルームで、パイプベッドとボックスの棚のみが家具だった。決して広い部屋ではないのだが、これだけ何もないと広々として見える。腕を振り回して深呼吸が出来そうだ。

冬服が2着、夏服が2着、制服は売ったので既に無い。スカートはこの前奮発して買ったので、3着に増えた。それから白いソックスとパンツとブラが少々。
以上一式が床に山になって積み上げられていた。
最初に住み始めた時は、特に下着はきちんとボックスにしまわれていたのだが、しまい、また出すという作業が面倒であるという非常に実務的な理由により今では使用前(洗濯後)、使用後(洗濯前)という2つの山を服は行き来するようになった。

もう少し服を買えば、5分向こうのコインランドリーへ行く作業を2週間に一度に押さえられるかもしれない。

レイは壁際の2つの山を見ながら考えた。
 

そもそも、何故私達は服を着る必要があるのだろう。人間は、皮膚表面の空気が摂氏30度以上に保たれていれば健康でいられる。つまり、セカンドインパクト以降の日本では、別に夏場は服は着なくても何の問題もないのだ。敢えて言えば、東北地方や北陸では冬の夜間は薄着が必要になる程度であろう。もちろん北海道はやや話が別だ。

レイはそれを大真面目に考えながら、無表情、というより感情の無さを示す表情で、ワンピースとパンツとブラを脱ぎ捨てた。

…私は皮膚が弱いので、その意味では服を着た方が良いかもしれないわ。

レイは自分の裸を見下ろす。少し汗臭い。
そして左手で自分の胸を乱暴につかみ、右手で毛の生えていない下腹部をつかむように押さえた。
右手の親指で、女性器上部の突起を刺激する。

「ふぅん。」レイは鼻から軽く息を漏らす。

レイは10秒もしないで目を開き、ふと自分の右手を鼻に持って行く。

…私の臭い。
 
レイは自分の汗や愛液や血や、もっと言えば排泄物も、いとおしかった。自分の細胞が活動して、しっかりこの世界で生きている証しに思えるのだ。透明で細い、感情の表現に乏しい、この世界での存在を否定しようとしているような自分の傾向がレイは基本的に嫌いだった。

レイは自分の身体の臭いを感じて微笑み、右手に付いたその粘着性のある液体を美味しそうになめた。


「ねえちゃん、何ぼぉーっとしてんの。さてはさっきの女の子から、愛の告白でも有った。」
ヒカリは居間から聞こえて来る妹の声に答える。
「馬鹿な事言ってないで。あれ、ミチル今日ちゃんと掃除した?」
「してます。今良い所なんだから話し掛けないで。」
「はいはい。…姉さんは幸せよ、テレビを一日中見ていてろくに仕事をしない妹に恵まれて。」
居間に聞こえない大きさの声でぶつぶつ言いながら、ヒカリは洗濯機の置いてある洗面所に向かう。

今日も曇り空だった。ヒカリは恨めしそうに空を眺めながら、仕方がないので脱水し終わった自分と妹2人分の衣類を洗濯機の上に乗っている乾燥機に入れる。スイッチを押し、ゴワーという音と共に服が回転を始める。

完全自動型のクローズマネージャ、欲しいな。
ヒカリはいつもの所帯じみた溜め息をついた。

ヒカリは向き直って、緑のプラスチックのかごを見つめた。

ここに男物の服が溢れる日が、来るのかしら…
 
 

[そらもう数日で退院出来るはずや、委員長。]
トウジは笑顔で答えた。

ヒカリの中では、今でもトウジの言葉は間違いなく関西弁である。トウジ自身も当然そのつもりだろう。

[鈴原はいつもそう言ってるじゃない。]
[はあ、そら厳しいな。]
ヒカリはニコリともせずに、トウジの浅黒い顔を見た。そのまましばらく動きを止める。

[何や。]トウジが指を揺らす。

「何でもないわ。」
ヒカリがぼそっ、と口にした。

[何やつれないな。人が身振り手振りで会話しようとしとる時に。]
「…」[ごめんなさい。]
[何や? そんな、謝られるのも気色悪いわ。どないしてん?]
「…」
[黙らんと、何か言いや。]

ヒカリは[あなたこそ無言じゃない。]と一々手話で言うのも面倒なので、[何でもないわよ。]と手を振る。

[何でもない事ないやろ。何や言うてみいや。可愛い弟が聞く言うてんねんで。]
トウジは姉のつれない態度に少し業を煮やしていた。

ヒカリは苦笑して、白状した。
[何だか病人の顔じゃないな、と思って。]

トウジはきょとんとして、手を叩く。
[そらそうや。2年前に怪我しただけで、後は全くの健康体やからなあ。…そら、まあ、今はまだ、ここのベッドから動かれへんけども、これからバリバリ、リハビリしたるで。]
トウジそこまで手話で言うと、屈託無く笑った。

[退院、早く出来ると良いわね。]
[せやな。]
 
 

ヒカリは昨日の自分の弟の笑顔を思い出しながら、洗濯機の前で立ち尽くしていた。彼女はふと我に返り、台所へ夕食の準備に向かう。居間で寝転がるミチルをまたいだ。

「ねえ、姉貴ことイインチョ。」ミチルがテレビ雑誌と画面とを睨みながら呟く。

「何。」隣のダイニングキッチンの椅子にかけてあるエプロンを首からかけるヒカリ。

「やっぱ、止める…よねえ。」ミチルは言い淀んだ。

「…そうね。言葉は…通じるらしいんだけどね。誤解、されるかもしれないしね。」
ヒカリの声は来客・電話用の甲高い声で答える。

「そうよね、誤解、されるよね。」

ヒカリは大根を刻みながら思った。何が誤解だろう。鈴原のお母さんじゃないか。フィリピンだって何だって良いじゃないか。鈴原だってフィリピン人の血が流れているじゃないか。誤解も何も…

ヒカリは理性の自分が歌う言葉とは対照的にどんどん沸き上がる自分の中のどす黒い感情を断ち切るかのようにヘタを捨てた。
 



 
レイは多分に変人であった。(そもそも何も変でない人間がこの世にいるのかという議論はここでは省略する。)しかし、同時に節度・理性も持ちえていたので、仮にシャワーを浴びてタオルで体を拭き、そのまま全裸で寝てしまったとしても、朝起きて外出する時は最低限、靴とワンピースだけは着ていた。レイはヒカリに告白してしまった事で、シンジの言った通り、確かにどこかふっきれた感覚が有る事に、今朝起きてから気付いた。そして、ふっきれたからこそ、彼女は理性と欲求の乖離に不快感を感じていた。

レイは昨日すごすごと帰った道を又歩いていた。

変な事を言ってしまって申し訳ないと思う気持ちを遥かに上回り、未練たらしい自分が好ましく思われた。

碇君、私、私じゃなくなってる。

以前のレイは、防御が効きすぎていたが、それが徐々に解放されつつあるようで、それがつまりふっきれるという事だ。今のレイにはそれはとても良い事のように思われた。
しかし、自分は今まで過度の防御でコントロールされていた。つまりその自分の感情がコントロールが解放される事で暴発しないという保証は無い。もしそうなったら他人に迷惑がかかるのだ。この自覚、不安感がレイの顔を、分かる人から見れば、厳しい物にしていた。

レイはヒカリの家の前まで来た。小さいが2階建ての一軒家だ。レイはインターホンの前でしばらく俊巡していたが、やがてボタンを押した。

「はい?」インターホンからヒカリの声が響く。
「…」レイはインターホンを見つめ、口をつぐむ。何か言うべきなのか、困っているらしい。
「どなたですか?」
「…」
「ふう。」ヒカリの溜め息を伝えてインターホンは切れた。

レイは口が半開きのまましばらく動けなくなっていたが、このままじっとしているのはヒカリ達にとって問題が有りうるという事に、奇跡的にも思い立った。

もう1度インターホンを押す。

5秒後、ドアが乱暴に開いた。
「もう! 良いかげ…綾波、さん。」ヒカリは目の前の少女に気がついた。

レイを見回す。何がおかしい、とはっきりは言えないが、髪も服装も乱れている。どうしたの…その格好? ヒカリは内心呟いた。

「あ、…こんにちは。」綾波レイはいたずらをして見つかった子供のような視線で言った。
「あ…ど、どうぞ上がって。」ヒカリは持ち前のホスピタリティで微笑んだ。

このまま門の前に居たら、洞木さんに変な噂が立つわ。それでは駄目。

まことに手前勝手な論理で自分を納得させたレイは、ヒカリの目をちら、とだけ見て玄関の壁を見た。
「御邪魔します。」
「いらっしゃい。」ヒカリはようやくどもらずに答え、「問題無く」微笑んだ。
 
 

ヒカリはレイを2階の自分の部屋に上げた。
「今、飲み物持って来るから、ちょっと待っててね。」
「…ありがとう。」
ヒカリは、レイはしばらく間を置かないと自分が言葉を発すべき状況にいるのに気付かないのではないか、と考えた。
「うん。」

ヒカリは1階に早足で降りて行った。

レイは彼女の部屋を見回した。そこそこ大きなベッドに、勉強机、テレビ。ぬいぐるみ。机の上には、3、4冊の本と開いたままのノートが乱雑に転がっている。何かの資格を取る勉強中のようだ。
良いバランスで理性と欲望のコントロールが出来ている、常識がある、普通である、いじめられない。白くない。

レイは部屋は持ち主を表わす鏡である、と思いながら見回して、ふとテレビの下の不思議な機械に気がついた。ビデオのようだが、形状が大きいし、小さなキーボードのような物が付いている。

「ゲーム機よ。10年前のビンテージ物。やってみる?」レイはヒカリの明かるい声に振り向いた。

「あの。」
「何?」
「…御免なさい。」
ヒカリは言葉少ななレイの文意を理解するため推理力をフルで働かせなければならなかった。

「ん、良いのよ、別に。休みだし、別にどこへ行くって予定もある訳じゃ、ないから。…あ、でも、一個用事があるから、やっぱり来る時は出来たら電話かメールで知らせてくれると嬉しいかな。…あの、私ね、弟が居るんだけど、ちょっと怪我しちゃってて入院中なの。で、一応姉として時々見舞いにいってやんなきゃいけなくてね。」
ヒカリはお皿にあけたポテトチップスとコーラ2缶をトレイで持って来ていた。
「…御免なさい。」
「…何が?」忍耐力の切れたヒカリはそれでも微笑みを崩さずに聞いた。

「来てしまって…」

「何故?」
「…」
「私は綾波さんの事、良い友達だと思ってるわ。綾波さんが家に遊びに来てくれるのは、とても嬉しい事よ。」
ヒカリの言葉をレイは不思議そうな顔で聞いた。
「でも、私…私があなたと居る所を知られたら、あなたがいじめられるわ。」
レイにとってこれは攻撃ではなかった。相手も問題に含まれるからだ。

「そんな! …綾波さんが家に来る分には、大丈夫よ、問題無いわ。」ヒカリはぎこちなく微笑んだ。
「ねえ、ゲームやりましょ?」
 
「…良いわ。」レイはベッドの脇に体育座りになって、じいっとヒカリを見ていた。

「そ、そう…」ヒカリはむっとする、というよりもはや呆れて、レイとポテトチップスを挟んで隣に座った。

「…」レイは何を言う事も無く、右を向いてヒカリを見ている。
 

ヒカリは内心泣きたい物が有った。何も悪い事をした覚えはないが、これでは針のむしろだ。愛想が無くても態度が悪くてもレズでも何でも良いから、間を開けられるのだけは自分は苦手だ。でも…綾波さんと盛り上がりそうな共通の話題なんてあるのかしら? そもそも綾波さんって…こんな言い方したら可哀相だけど、何を考えているのか傍目からはまるで分からないし…

違うわヒカリ、何事も挑戦よ。

勇敢な冒険者、洞木ヒカリはかくも困難な「レイとの会話」という山を登る事を決心した。
「あの…綾波さんって、普段何やってるの?」
レイはヒカリが顔を向けると自分は顔をそむけ、正面の、何も映っていないテレビ画面の方を見た。
「分からない。」
「…何か、勉強しているの? ほら、綾波さんって、良く本を読んでいるようなイメージがあるんだけど。」

ヒカリは「いじめ」「妖怪うさぎ女」以外の自分のレイに関するデータをフル稼働させて山を登る。

「…いえ。何もしていないわ。…」レイは目を落とした。ふと思い付いて、ヒカリに目を向ける。
「最近、集中力が低下しているの。あなたの言う通り、私は本が好きなのだけど、内容が頭に入らなくて、気付くといつもあなたの事を考えているわ。」

やぶへびだわ…

ヒカリは困りながらも、同時に少し安心もした。少なくともこの子はコミュニケーションを取る意志が無い訳ではないらしい。喋るうちにレイの顔はどんどん柔らかくなり、少し微笑んですらいる。
ヒカリは2つの事を考えていた。1つは、レイが無口なのはそれだけ自分が言う内容を吟味しているのではないかという事。彼女は社交辞令の必要性を認めていないらしい。もう1つは、それ故彼女が「敢えて」口に出す事は彼女の心をダイレクトに伝える物なのだという事。「吟味」という言い方で考えるとあるいは矛盾する話なのだが、つまり彼女の言葉は彼女の心が動いた時にのみ発せられるのではないだろうか。心が動いてなくても上辺だけで表面的に答えるような類いの会話が「省略」されているので無口、無愛想に感じられるが、心が動いた時にそれを人と共有する意志位はあるらしい。…やや希望的観測だが。

だから間が苦手な私と文化は違うけど、分かり合えない訳ではないはずよ。

「ありがとう。」ヒカリは微笑んだ。

レイはヒカリの言葉に驚き、何か言おうとしたが、その言葉を飲み込み微笑み返した。

「綾波さんは、静かなのが好きなのね。…あんまり私みたいに、いつも口うるさくしているのは好きじゃないんでしょ。」
冗談っぽく言うヒカリにレイが真面目に答える。
「私は洞木さんが好きだわ。」
「あ、ありがとう。でもそうじゃなくて。…静かなのと、うるさいのでは、どっちが好きかしら?」
「洞木さんなら、どちらでも良いわ。」
ヒカリは氷が溶けて薄くなったコーラをぐいっと飲んだ。
「綾波さん。その答えは嬉しいけど、私はあなたの好みを聞いているのよ。」
「…」
ヒカリは微笑んだ。
「御免なさいね。別に」「…わ…」
自分と同時に話しだして止めたレイをヒカリは促した。
「…あ、どうぞ。何?」
「…でも、私は洞木さんの事、もっと知りたい。洞木さんの毎日、洞木さんの好きな物、洞木さんの思い出、洞木さんを全部知りたい。…何故かしら?」早口で言ったレイは自分に首を傾げた。
 

ヒカリは自分の言葉の危険性も省みず、思わず口に出してしまった。つまり彼女にとっての、本当の彼女の心の動きを示した言葉だ。
「綾波さんって、可愛いわね。」
ヒカリの微笑みはここ数ヵ月彼女に見られなかった程の、暖かさに満ちた物で、見ようによっては、それは恋人というよりは保護者が子供に向けるような優しい表情だった。
 

「私が…可愛い?」レイはヒカリを不思議そうに見つめた。
「この前、碇君には私が綺麗だと言われたわ。綺麗というのは、人の美の感覚が最終的に主観的な物である以上まだ理解できるけれど、「可愛い」というのは更に意外な評価ね。」

ヒカリはレイの奇妙な感想にますます表情を崩した。

「「可愛い」というのも主観的な基準よ、綾波さん。」
「…ええ、そのようね。本で読んだわ。」
「…碇君と、良く会うの?」
「ええ。とても心の綺麗な人よ。毎日、一緒に水族館へ行くわ。」レイは思い出したかのように部屋の時計を見上げる。顔はやはり微笑んでいる。
ヒカリは思った。この子、肌はすべすべしてそうだし、笑えば結構綺麗じゃない。松本なら、こういう子は結構人気が出るものなのかもしれないわ。

「毎日? え、水族館ってどこにあるの?」
「新閖上よ。」
「海か。…行って、どうするの?」
「魚を見るわ。」
「毎日?」
「…ええ。」
ヒカリは腕組みをした。そうか、碇君ってこういう子が好みなんだ。どうなんだろう、告白とかは、したのかしら。
「綾波さんは、碇君は好き?」
「ええ。」
躊躇無いレイの答えにヒカリはやや驚いた。
「…私は?」

…私、もしかして嫉妬してるの?

「洞木さんも好き。」レイは宇宙的な謎を前にした実際的な疑問の表情で続ける。
「だけどその好きは異質なの。洞木さんとは、一つになりたいと思う。碇君とは、肉体的接触をしたいとは思わないわ。」
「そうなの…」

やれやれ…でも私、嬉しいのね。…やだな、そんなつもり無いのに。

「水族館、面白そうね。私も行きたいな。」
「構わないわ。」
「…何時に行くの、いつも?」
「15時30分よ。」
ヒカリは眉を潜めた。
「…結構遅いのね。それで、何時まで見てるの?」
「本来は閉館時間の17時までよ。だけど最近は特別に好意で、18時位まで見させて貰っているわ。」
ヒカリは苦笑した。
「あら、そう…そうなんだ。それはちょっときついな…私ね、家の掃除とか、夕飯の支度とかがあるから、夕方は出られないのよ。御免なさいね。」
ヒカリは何とかシンジと早急に話をつけて、レイを何とかしてもらう必要性を感じたが、今日いきなり会うのは何故か負担に感じられた。

「…そう。」レイの顔はいつの間にか、無機的な物に戻っていた。

…もう、綾波さん、笑ってるほうが可愛いのに。…何かずるいよ。

「…ああ、そうだ。じゃあ今度、2人で遊びに行かない? 夏休みだから、午前中は構わない訳だし。」ヒカリはいつの間にか、懸命になってレイの気を引こうとしていた。もちろんあくまで友人として、という大前提は揺るいでいないはずなのだが。

「私は洞木さんと居られるなら、どこに居ても良いわ。」レイは冗談のような答えを真面目に言う。

「そ、そうねえ…じゃあね、宮戸島なんてどうかしら?」
「宮戸島?」
「奥松島にある島よ。昔、行った事があるんだけどね。あそこは自然公園やきれいな浜辺が有って、休日の散策にはもってこいだと思うな。」
「そう…」
「…あ、それとも仙台の方が良いかな? 女同士、ショッピングとか…」
「…」
「どっちが、良いかな?」
「私は、洞木さんと一つになれて、あと知識を共有出来る所が良いわ。」

やっぱり止めようかしら…

ヒカリは苦笑した。
「一つになるのはともかく…一杯話が出来るのは、やっぱり宮戸島でしょうね。そうねえ、私は明後日からなら、大体いつでも良いけど…綾波さん、何か都合有る?」
「無いわ。」
ヒカリはシンジのようにレイの表情に熟達してはいなかったので、この時の彼女の目に湛えられた喜びを読み取る事はなかった。
「そう。…じゃ、明後日で、良いかしら?」
「ええ。」
「じゃ、約束よ。」

ヒカリはにっこりと笑った。

通りをたまに走る車のモーター音と、鳥の鳴き声のみが聞こえている。

コーラを飲み干したヒカリは、座ったまま自分の背後のベッドに倒れてのびをした。
「…綾波さん、私はあなたの気持ちには、答えられないわ。私にはそういう趣味は無いもの。…別にそういう人を馬鹿にしたり、差別したりするつもりも無いけどね。」
「…」
「でも、今日話して、綾波さんがとても綺麗で、可愛い人だというのは分かったわ。だから、良い友達にはなれると思うの。」
「…そう。」
「そうよ。」

その後も約2時間に渡ってレイは何をするでもなくヒカリの部屋に粘り続けたが、食材を買う為スーパーに行くという彼女の言葉で帰宅を決意した。

「何で? 別に、一緒に来れば良いのに。」
「駄目よ。」
ヒカリと一緒に家の外に出たレイは、それまでの穏やかな表情から顔を一変させていた。

「外を一緒に歩いたら、あなたがいじめられるわ。」
レイは彼女から顔を背けた。
「…さよなら。」
レイはてくてくとヒカリの家から離れて行った。

「…それはまあ、そうかもしれないけどね…」ヒカリは悲しげに、しかし現実的に呟いた。



 
部屋の中は彼女の愛くるしい喘ぎ声と、体臭が充満していた。
「…ユリさんをいじめる時も…はぁ…こんな事…してたんですか?…ふぅ」

男は少し驚き、又不快にも感じたようだった。

「…いや。あれとは、そういう事は無かったからなあ。夫婦とはいえ、内実は冷たいものさ。」
「…嘘。くぅぅ」
下半身のみ裸で机の上に仰向けに体を寝かせる伊吹マヤは、男に自分の陰部を急に吸い上げられて体をねじらせた。

「あん…本当は…うっ…今だって…うん…彼女の事…忘れられないんでしょウン」

ぴちゃぴちゃ、ぴちゃ…

マヤは両手で胸をもみながら自分のそれを一心になめる男の顔を見ながら、内心いつもの感想を抱いた。

変な顔。

マヤは安心したように目をつむり、手で男の顔を押さえ、更に腰を高く上げた。

「あ、あぁぁっぁぁぁっ」彼の舌の感触が電流のように伝わり、気管の下辺りのどこかに放電する。電気の溜まった体は、普段は別に何でもない、あるいは痛いだけのマッサージも快感に変える。

男もひたすらにそれを味わう事に専念し、息を荒くしていく。

午後2時50分だった。



 
ヒカリは早起きなので、日曜日の朝7時から弁当を準備していても特に不自然な話ではなかった。

「ふんふんふん、ふふふんふんふん…」即興の鼻歌を歌いながら梨の皮をむく。
「これで、よしと。」プラスチック音をかちっ、と言わせて弁当箱を閉め、それをハンカチで包んだ。

「ん、良いわね。」周囲を見回し、まだやっていない事が何か無いか思い返す。

ええと、ミチルの昼は用意したし、自分の持ち物は後はこれをリュックに入れれば完璧だし、支払いとかは…特に無いはずだけど、念のためミチルに言っとくか。後は?…別に無いわよね。

まだ洗っていない手を服に付けないように注意しながら、気持ち腕を組んで頷く。

ヒカリはその体制のまま、今日の予定に思いをはせた。
たかだか県内の何も無い所に行くのに、何でこんなに胸が高鳴っているのかしら。何か、小学校の時の合唱会を思い出すな。
ヒカリは笑みを漏らした。ヒカリは特別な美人ではなかったが、この笑みはとても女性的で、いつものヒカリとは別人のようだった。
何で私、ああまでして彼女を誘ったのかしら。彼女に勘違いさせない為には、冷たい態度で接した方が良かったのに。
 

好きなの?

…まさかね。私は、女だし、そんなつもりは…不自然だし…

ごめんね。綾波さんと比べたりして。

ヒカリは心の中で彼に謝った。

綾波さん、ねえ……何で私を好きになったの?
ヒカリはレイの儚げで、しかし同時に力強い顔を思い浮かべながら、その彼女が自分に好意を向けている事について、知らず知らずの内に優越感のような変な感情が涌きだしていた。
 

90分後

ヒカリはゆっくりと鳴るチャイム音にテレビの音量を絞り、インターホンの通話ボタンを押した。
「はい。」
「…ぁ…わ…わ…し…」
声が小さく、ガー、という雑音の方がうるさくて殆ど何を言っているのかが聞こえないが、ヒカリにとってはメッセージとして充分だった。ヒカリは「すぐ行くわ。」と明るい声で答え、駆け足でダイニングの椅子の上に置いたリュックを手に取り、テーブルの上に置いたまだ寝ているミチルへの伝言をチェックした。

ヒカリは頷くと、駆けて玄関のドアを開けた。
「おはよう、綾波さん。」
ヒカリはにっこりと微笑んだ。

「おは…よう…」
レイは普段通りの黒いワンピースで、ヒカリをちらちら見ては目をそらしていた。

ヒカリは彼女が手ぶらなのに驚いた。
「綾波さん、何も持って来てないんだ。」
「…何か必要なの?」
「あ、ううん、別にそんな事ないわよ、ただ歩くっていうだけだから。う…ん、でも、例えば…カメラとかは持って来てないの?」
レイは眉を潜めた。
「カメラ? いえ、持っていないわ。」
「駄目よ、青春の1ページは記録に残さなきゃ。」ヒカリは外に出て、自分の家の玄関の鍵を閉めながら軽い調子で言う。
「…あ、でも私も持ってないわ。何言ってるんだか。」
ヒカリに機械的に合わせて、ぎこちなく微笑むレイ。

「まあ、仙台のどこか、キオスクとかコンビニで「うつるんです」買えば良いわよね。さ、行きましょう。」
ヒカリとレイは、まず仙台に向かうリニアに乗る為に南仙台駅へ向かって歩きだした。
 

既に真夏だ。朝から日差しは強く、レイのどう見ても太陽光に強いとは思えない肌を突き刺すように照っていた。眩しさで、レイはやや目を細めながら歩いている。
「何、洞木さん。」
ヒカリは急にレイが自分を直視するので、いつもながらビクッとした。

「あ、…光、辛くない? やっぱり、肌、弱いんでしょ?」
「…そうかもしれない。」
レイはヒカリから視線を戻して呟いた。
「そうだ、私の帽子、使ってよ!」ヒカリは自分の被っていた麦わら帽子をひょい、とレイの頭にのせた。

「…洞木さん?…」思わず立ち止まり、口を開けてヒカリを見つめるレイ。
「うん、中々似合ってるわよ。…あ、もう時間がない、急がないと17分発に遅れるわ。綾波さん、急ご!」
「え、ええ…」レイは戸惑いながらもヒカリの後を追う。


ゴム車輪式リニア特有のゴー、という低い音に揺られながら、レイとヒカリは吊革につかまり、高架線からの景色を眺めていた。
旧世紀からは都市の規模が縮小したが、それでもこの沿線は仙台市のすぐそばなのでかなり市街化されており、それら住宅とスプロール現象を生き抜いて来た水田とが、争うように目の前を現われたり消えたりしていた。

消費者金融や公営競技の広告がぽつ、ぽつとぶら下がる車内は、それなりの…椅子は大体埋まっている、位の混み方だった。厳密に言うなら混雑率約60パーセント位だろうか。

レイは、ただでさえ目立つ肌の色に加え車内で大きな麦わら帽子を被っている事で、珍しく羞恥心を持っているように見えた。彼女の事なので、あるいは単純な羞恥心とはやや異質の、特にヒカリと一緒にいる事の緊張による心理が問題なのかもしれない。
「綾波さん…移動中は、帽子、取ってても大丈夫じゃない?」
「…ええ…」
ヒカリに言われ、レイは帽子を手に持った。

レイの耳は赤く染まっていた。

「何だか、電車に乗るの久しぶりだわ。2週間ぶり位かもしれない。休みになってから、家とスーパーと病院のトライアングルの往復ばっかり。」
ヒカリは今日も冗談めかして話す。
「…まあ、平日はそれに学校が付くだけなんだけどね。」

レイはヒカリに合わせてぎこちなく微笑を作る。

「綾波さんは、最近出かけてる? 水族館以外で。」
「…リニアに乗るのは、正確な記憶ではないけれど、おそらく約1年ぶり。」レイは何か不安気に周囲をちらちら見ながら答えた。
ヒカリは思わずむせた。
「そ、そう、なんだ…」
ヒカリはレイの様子に気付いた。
「…どうしたの、綾波さん。」

ヒカリはレイの反応に一瞬躊躇が有った事を認めた。
「…いえ、何でもないわ。」普通の無表情でヒカリを見るレイ。
ヒカリは顔を曇らせた。
「力になれるか分からないけど、何か困った事が有ったらいつでも私に言ってね、綾波さん。」
レイはヒカリをじっと見つめている。
「…ありがとう。同じ内容の事を、碇君にも言われたわ。」

「そう。碇君って、結構良いヤツなのね。」ヒカリは微笑んだ。
「ええ。」
微笑むレイは、ふと気付き、ゆっくりと確認するように言った。
「洞木さん。洞木さんも…何か、困難な状況の時は、私に言って欲しい。」
ヒカリはレイの言葉に息をのみ、心から嬉しそうに頷いた。
「うん! 綾波さん。」

「洞木さん…」
レイは熱に浮かされたように、空いているヒカリの右手を自分の両手で包み込んだ。
「あ、の、そ、と、友達だもんね、友達!」声を上ずらせるヒカリ。
「あ……そうね。」レイは自分達がリニアに乗っている事を思い出し、名残惜しそうに手を離して、再び吊革につかまった。

沈黙する2人を乗せたリニアは、やがて仙台駅に到着した。


セカンドインパクトは、全世界の気候を狂わせ、地軸を変化させた。そしてその爆発は南極で起こったため大陸の氷が溶け、全世界の水位は上昇した。

そして15年後。以前先進国と呼ばれていたような地域、欧米、東アジア等は一応の復興が進んでいた。一方アフリカ、南から西にかけてのアジア、南アメリカ等のいわゆる発展途上国、地球の人口から考えるならむしろ大半を占める地域は混乱から未だに抜け出せずにいた。…いや、混乱や貧困、紛争はこれらの地域にとって新世紀から始まった事ではない。前世紀から定めのように続いているが、先進国の人間、メディアが特に興味を示していないだけだった。

日本はそんな冷淡な国の一つだったが、それでも自身もそれなりに被害を被ってはいた。つまり、水位が上昇した事により、当然ながら以前の海岸沿いの集落は全滅。同時に多くの幹線道路、鉄道も水没したのだ。

その為、ヒカリとレイは、以前は鉄道で行けたであろう場所へもバスに乗って行かなくてはならない。2人にとっては、それが当然の事なのだが。仙台駅構内の大きな電子掲示板にバス路線が羅列されている。ヒカリは腕組みをして、奥松島方面行きのバスを探した。
「…35番。右から2つめ、下から2つめの所か。綾波さん。」
レイは頷き、2人は駅の外の大きな歩道橋―高架歩道と言うべきか―に向かって歩きだした。

ヒカリはふと立ち止まった。改札口の外で駅ビルの2階、つまり自分達の目の前にDPEショップがある。
「ああ、そうだわ。カメラ買わなきゃ。」
ヒカリは通路を走って横切り、「YOUR KIOSK」の看板の下にたくさんぶら下げられている使い捨てデジタルカメラの一つを指差し、店員に硬貨を支払っている。それから…人通りで良く見えない。

レイはヒカリの様子をほんの少し、不満そうに眺めていた。

ヒカリは走って戻って来た。カメラをかざし、振って笑う。「OK。これで、ばっちりね。」
「…ええ。」
その時、ヒカリはある事実に気付いた。
「あ、ねえ、綾波さん。」
「何。」
「お昼、どうするの?」
「どう?」
レイはおうむ返しに聞く。
「うん。…あの、お昼ご飯。向こう、食堂とか無いんだけど…」
レイは「何を言うのか」という顔で答えた。
「考えていなかったわ。」
「考えてよ。」笑ってレイの肩に手を置くヒカリ。レイは反応するがヒカリは気付かない。
「…ええ…でも、食べない時も多いから…」
ヒカリは顔をしかめた。
「駄目よ綾波さん! 昼食はちゃんと取らないと、体に悪いわよ!」
「ええ…」
「そうだ。私お弁当作ったの。良かったらそれ、食べてもらえる?」
「…洞木さんは?」
「じゃーん。」
ヒカリは前に持ったリュックの影から、白いビニール袋をぶら下げた左手を見せた。
「今、ついでに駅弁買って来たの。これからバスで食べようかな。」

レイは何を言うべきか戸惑った様子で、口を半開きにしたままヒカリと、弁当の入ったビニールと、自分の手に乗せられた弁当を見比べた。
「気にしないで。さ、バスに乗りましょ。」
「ええ…ありがとう。」両手でヒカリの作った弁当をぎゅっと握りしめて彼女は言った。
「どういたしまして。さあ、行くわよ。」

ヒカリとレイは歩道橋を降り、35番のバスが止まるバス停の場所に行った。2人以外に高齢の男性が2人座っている。バス停のモニタを見ると、運の良い事に35番のバスは7分後に来る予定だった。

ヒカリは遠慮がちに声をかけた。
「ねえ、綾波さん。渡しておいて言うのもおかしいけど、今はお弁当、私が持っておくわ。」
「何故、洞木さん?」
ヒカリはがっしり両手で弁当を持つレイに苦笑した。
「あ…信用して、別に取るわけじゃないから。で、もね…」
「…大丈夫よ。これは軽いので負担にはならないわ。」何故か誇らしげに言うレイ。
「う、そ、そう…」ヒカリはひきつった顔で答えた。

綾波さんの羞恥心の基準って、分かりづらいわ…

ヒカリは隣の変人に碇君はどう対処しているのか、やはり最初に聞いておくべきだったと少し反省した。
 

「35」の表示を付けた宮城交通のバスが2人の前に滑り込んだ。

ヒカリとレイは互いを見て微笑み、バスに乗り込んだ。

つづく


次回に続け
 
ver.-1.00 1997-10/26公開
 
感想・質問・誤字情報などは こちらまで!

次回予告
なお、次回の内容は無断で予告内容から変更される事があります。
 
「雨、降ってるね…」
「綾波さんって、頑固ね。」
「やられたら、やり返すのよ。」
「…呼んだだけよ…」
 
「かーわいい。」
 
第六話
「主客の一致」
来週も、素で素で!
別に全然週刊じゃないけどね。(^^;

 フラン研さんの『海辺の生活』第五話、公開です。
 

 55KBの長編!

 そのファイルサイズで無く内容の濃さに
 お腹いっぱい世は満足じゃ状態です(^^)
 

 レイはシンジと−−

 なんて浅はかな私の発想でしたのでしょうか。
 

 レイとヒカリ、
 まさかこう来るとは。

 もっとも珍しい主人公というのは
 ペンペンではなくて、レイxヒカリだったんですね!?
 

 手話トウジ。
 机の上のマヤ。

 次回からの見所もいっぱい(^^)

 

 

 さあ、訪問者の皆さん。
 沢山感想があるのではないですか? フラン研さんに送りましょう!


TOP 】 / 【 めぞん 】 / [フラン研]の部屋