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第十話

私と若葉ユウとの付き合いは、2人がコウナン…正しくは、第二東京市立高宮南中学校、に入ってからだから、もう3年以上になる。…別に中学校の場所が南高宮にあるからって、学生達は特に遊び慣れたり、不良だったりする訳じゃない。もちろんクラスの中にはいかにも遊び慣れてそうな奴もいるけど、そういうのは、生徒によると思う。特にユウなんか、本とチェロ以外に興味のある物なんて無いんじゃないかしら。本も、たまに覗くと訳分かんないような難しいタイトルの読んでるし…そういう意味では、頭の悪い私と彼女は意外と接点が無いかもしれない。あの日も、そんな事を言ったら、彼女はくすくす笑った。

「じゃ、本読む人は、頭良いんだ。」
「違うの? ユウちゃんなんか読んでる量凄いじゃん。」
図書室の机に座っている私に呆れたのか、ユウは溜め息をついてしおりを挟み、読んでいた分厚い本を閉じる。

その本は表紙が読みにくい筆記体のローマ字になっている。
「最近読んでるのは何? あーっと、ばたいる?」
「バタイユ。フランスの人。」
「また小難しいの読んでるわねえ。」
「はは。」ユウはまあ、穏やかな奴だから、こういう時の笑い方が偉く上品なのよね。ムカつくわ。
彼女は立ち上がった。
「別に小難しくなんてないよ。…結構、下世話っていうか…エッチかもね。」
「ほぇー。」
「別に本なんて、幾ら読めたってそれだけじゃ頭良くはないわ。読書なんて、根気の問題だもの。」
「…かもねえ。いっくら知識詰め込んだって、男の一人もいないようじゃねえ。」
「マコトちゃん?」
ユウは氷の笑いを張り付かせたまま私についと近付いた。
「あなたも人の事言えて?」
「…悪かったわよ。でもユウちゃんよりは、私の方が良い男に出会うチャンスには恵まれてるかもね。もう決めたもん。ここ参高に於ける花形、水泳部!」
高校に入学したばかりの私達はその頃、どの部活に入るかについてそれぞれ頭を悩ませていた。

「決めたも何も、あなた昔からそこしか選択肢ないじゃない。」
「うっさいなあもう。でもなあ。男子はたまーに一緒になる機会があるらしいけど、やっぱり頭まで筋肉って奴が多いのかもなあ。」
「その発言、自分自身の事を顧みて言ってる?」
「何よ、ユウちゃんの、いじわる。…で、ユウちゃんは? やっぱりブラスバンドとか?」
「うん…この「部活動・クラブのしおり」ってよく見たら、この高校ちゃんと管弦楽部って有るのよ。」
「え。凄いじゃん。」
「そう。だからそこに仮入部してる。多分、そこになるかな。」
「ふうん。誰かいないの、良い男!」
「全く…そうそういる訳無いでしょ。」
「よねえ…」

鞄に手を突っ込んでいたユウは、小声で「あれ」と呟いた。慌てて開いて中を調べる。
「どうしたの?」
「…ああ、楽譜のコピー忘れたみたい。取りに行かなきゃ。」

その時、図書室の戸が開いた。
「若葉さん!」

その男の人の印象を一言で表わすと、「純」って感じだった。…まあ、ユウだったらこういう時いろんな歯の浮くような美辞麗句を並べ立てられるのかもしれないけど…本当に簡単に言ってしまうと、「一目ぼれ」って奴だった。

一目ぼれって言ったって、本当に一目見ただけでズキュンと心臓を打ち抜かれたようになる訳じゃ無い。最初見て、可愛い感じの人だな、って思った。背も特別高くはないし、線も細いし。でも、同時にとても大人びた雰囲気もあった。だから、全体としては不思議な感じの人だった。…だから気になりだしたのかもしれない。

「若葉さん、これ、プリント。」
その人はちょっと荒い息で、微笑してユウにプリントを渡す。

「すいません、碇先輩。私も今気付いて、取りに行こうと思った所だったんですけど…」
ユウにしてはえらくあたふたしてる。

「あ、本当に? でも、今日中に渡せて良かった。じゃ、また来週。」
「どうも、有難うございました。」
「どう致しまして…」
御辞儀をするユウに、男の人は苦笑しながら手を振って帰って行った。

「…何よ、彼。」
ユウはようやく御辞儀を止めて、プリントを鞄に入れている。
「ああ、部の先輩よ。」ユウは顔を上げた。
私は腰に手を当てて、ユウに近付いた。
「良い男、いないって言ってなかったっけ?」
ユウはノってくれなかった。
「え?」きょとんと私の顔を見る。そしてすっと目を細めた。
「…ふうん。」
「ふうん?」
「マコトの好みはああいうんなんだ。」
「うーん…ま、悪くはないかな。彼、付き合ってる人とか、いるのかな?」
「…知らないわよ。可愛くない反応ねえ。相変わらず即決即断と言うか、猪突猛進と言うか…」
 
 
 
私は思わず微笑んだ。
「だって、それが私だもん。」

あ…

私、思わず声に出しちゃった。思わず周りを見回す。

誰も見てないか。ふう。

…今日も、暑い日差しだな…夏の午後3時だから当然だけど。うん、やっぱりLofftを待ち合わせ場所にしたのは正解だったね。
 

藤川マコトは、冷房の効いたデパート内の噴水広場のベンチで、足を体操のように動かしながら、シンジを待っていた。
 


シンジの足は重かった。

はあ…やっぱり断わるべきだったかな…今になると、昔、僕がアスカに無理矢理デートさせて貰った時のアスカの気持ちが分かるよ。

バッグが重い。靴が熱い。家で寝てたい。

シンジは疲れ気味の顔で足を引きずりながら、第二東京で最も有名な若者向け雑貨デパートに入った。

Lofftなんて、来たの何ヵ月ぶりだろう。昔はよく行ったような記憶があるけど、最近忙しかったしな。
「今度の日曜日、高宮で買い物しましょう! 付き合ってくれますよね、友達ですから!」…って、あの子の口調も有無を言わせない物があるよな。

…アスカに、似てるかもな。

でも僕、若い人が多い所って苦手なんだよなあ。僕も若いけど…一体何買うんだろう。

シンジは噴水広場にたたずむ、白いワンピースの女性を見付けた。

彼女はシンジに気付くと、ぱっと表情を明るくさせ手を上げて大声で呼んだ。
「碇先輩!」
こっちが近付く前に走って来る。
「碇先輩、おはようございます。」
「お、おはよう。…待ったかな?」
「いえ、全然! …あ」シンジに20cm位まで近付いたマコトは、シンジの額に光るものに気付いた。
「えっと…はい、これ使って下さい。」鞄から高級そうなハンカチをにっこり手渡す。

「ああ、有難う。」シンジはややどもりながら、ハンカチで汗を拭いた。

今、藤川さんがハンカチを探して下を向いた時、思わず胸に目が行ってしまった…何だか藤川さん、見た目も仕草も、普段より輪をかけてきれいだ。

…やっぱり僕が断わりきれないのは、どこかで下心が有るからなんだろうか。

マコトが不思議そうにシンジの顔を覗き込む。
「どうか、しました?」
「ああ、ううん。何でも無いんだ。…で、今日は何を買うの。」
「あ、ええ…」
マコトは待ってましたとばかりに意気込んで話す。


Lofft1階のアイスクリームショップで、2人は休んでいた。

少しほっとした表情のシンジは、ナッツミックスを食べながらマコトに話し掛けた。
「でも、これで良いの? 僕ばかり良い思いしちゃって。」
「良いんですよ。私は、先輩さえ喜んでくれたら。」
「そ、そう…」
「でも先輩も凄いですよね。楽器店のフロアに入って、楽譜のコーナーの前に来た途端、目付きが変わってましたよ。まさかそんな大量に買うとは…」
既にバニラ&チョコを平らげたマコトは、シンジの横にある大きな買い物袋に入った紙の束を見やる。
シンジは嬉しそうに答えた。
「うん。若葉さん達の練習用にも使えるかな、って思って。」
「…」

シンジはぶすっと黙っているマコトを不審気に見た。
「藤川さん?」

マコトはシンジの食べているアイスをスプーンで突き刺し、無理矢理自分の口に運んだ。
「あ、これおいしいですね。ナッツが結構大きいんだ。」

しばし呆然とした後、シンジはマコトがやっぱり昔自分の同居していた人に似ているように感じた。

「それで…この後、どうするの。」
「そうですね。…碇先輩が良い思いをされたんですから、今度は私にわがままを言わさせて下さい。」
「はあ…」
「ふふん。」
マコトはアイスの付いた口でほくそ笑んだ。


マコトはどこに行くかには答えず、シンジを連れ、高宮の街区を2、3ブロック程歩いていた。
なかなかシンジとの共通の話題が見つからないマコトは、「やむを得ぬ場合の非常手段」を発動しながら移動していた。シンジに限りなく接近していたのだ。

「…あの、藤川さん、もうちょっと離れてくれるかな。」
「駄目です。先輩おっとりしてるから、ちょっとでも離れるとはぐれちゃいます。」
「そんな事無いと、思うけど…」
「それは、まだはぐれていないからそういう事が言えるんです。」
「…」

まだ今の所手を繋いだり腕を組んでいる訳ではないのだが、ぶつかりかねないほどにひっつくマコト。シンジは恥かしいというよりは、とにかく暑いと思った。

2人はドイツ銀行ビルに入った。ここは第二東京でも有数の高層建築で、若者向けのテナントも数ヵ所ある。

マコトは入り口まで来て、喜びを隠しきれない様子で振り返った。
「先輩、ここが私の来たかった所です。」

「…ここ、か…」シンジは入り口の表示を見ながら呟いた。

「ここ、一辺来てみたかったんですよ。」マコトの上機嫌は、シンジには作為的に見えた。
「「アクアパティオ松本」。今度、新しくアトラクションも出来たっていうじゃないですか。」

マコトはぐいっとシンジの手を引いて、水族館の中へと入った。


午後7時。

「くー、ロマンチックでしたね、先輩。」
感動冷めやらぬ、と言った感じでマコトは首を振った。

「う、うん。」
あの時からいる魚って、今どの位いるんだろう、とシンジは考えていた。
今日見た水族館では、新しいヴァーチャルリアリティー風のアトラクションに人が集中し、元の水槽は人が少なくなっているように見えた。

彼女はアトラクションと水槽とどっちを、ロマンチックだと言っているのだろう。

「…ねえ、藤川さん。」

シンジが急に立ち止まったので危うくマコトは転びかけた。

「先輩?」
「あ、あの、…やっぱりこういうのは、止めようよ。買い物位なら良いけど、その、くっついたりとかはさ、やっぱり…ね。」
水族館を出てから、マコトはそれが当然のようにシンジの腕をがっちり引き寄せて歩いていた。
「何でですか?」不思議そうに尋ねるマコト。
「だって、僕達はまだ、友達だろ? 僕は今は、それ以上の気持ちは…」
「良いじゃないですか。」シンジに目を合わさず、彼女は答えた。
「友達同士でも、幾らでもくっつくもんでしょ? そんな、先輩大袈裟ですよ。」
「いや…」
「考え過ぎです。」
「…はあ…」
「もう、先輩さっきから溜め息ばっかりですよ。これから食事も兼ねて、楽しいトコロ行きましょ!」

マコトはシンジをぐいぐい引っ張って行った。



 
「楽しいですね、先輩!」
マコトは結構な大声でシンジに言った。

「え?」

「だ、か、ら。」声を上げても聞こえないと察したマコトは、にっこり笑ってVサインを出した。

2人は第二東京でも有名なフロア、「11001001」に来ていた。間接照明の暗がりの中、バリやランダムといった最新の高揚系ダンスミュージックの重低音が鳴り響く。

マコトはポンドからシンジを連れて、バンクのソファに腰を降ろした。ここまで来れば普通に会話が出来る。

シンジは圧倒されながら聞いた。
「いつも来てるの? こういう所。」
「そうですね。ストレスが溜まった時とか、ぱーっと発散に。」
炭酸水を飲みながら健康的に笑うマコト。

「何か、ちょっと意外だな。藤川さんって、体育会系だと思ってたけど。」
「だれが筋肉脳味噌ですって?」
腕まくりをする。
「ち、違うんだ。…何か、こういう所来るような感じじゃないな、って…」

昔に比べれば大分はっきり喋るようにはなっているのだが、それでもこの音の洪水の中でシンジのぼそぼそした声は聞き取りにくい。

マコトは明るく手を振った。
「そんな。偏見ですよ。別にここは危なくないし。早めに帰る分には、問題無いですよ。」
「そうかな。」
「そうですよ。皆、踊りに来てるだけですから。」

シンジはここに連れて来られた瞬間の、逃げ出したくなる位の違和感はかなり収まりつつあったが、それでもまだこの場に自分がいるのは奇妙な感じがした。

フロアなんて、テレビで見たりはしても自分が来るとは思わなかった。…普通の人は、藤川さん位の年になったらこういう所に来る物なのかな。…アスカは、今こういう所に来たりするのかな? …でも、アスカ意外とダンス系の音楽とか嫌いなんだよな。日本のバラード系の歌謡曲とかAMDで持ってたもんな。
 

マコトは今日初めて、シンジの前で悲しげな表情を見せた。手を自分の膝に置き、ややうつむく。
「先輩は、こういうのはイヤですか。」

物思いに沈んでいたシンジはあわてて手を振った。
「ああ、そんな事ないよ。ただ、慣れてないから。」

「じゃ、慣れましょう! 案ずるより産むが易しです!」
「う、うん。」


シンジはふらふらになりながら、夜の街を歩いていた。南高宮から境方面に向かう。地下鉄の駅はもっと北にあるはずだが、何故か真西の方向に向かっていた。

「結構、面白いものだね。」
「はい。」
数時間前とはうって変わって、今はシンジが元気に、マコトが言葉少なになっていた。マコトは自分のバッグを両手で前に持ち、そのバッグを見つめながら複雑そうな表情をしていた。口許は微笑みながら、目は寂しそうだった。

結局フロアに初めて来て、シンジは2・3時間踊り続けた。もちろん踊るといっても適当に音楽に合わせて体を揺らしているだけだったのだが、それでもここ数年運動不足気味だったシンジには充分刺激的な体験だった。もっともシンジの足取りが覚束無いのはそれと同時にマコトに結構強いカクテルを飲まされたからでもあった。

「今、何時?」シンジは沈黙が恐くてマコトに聞いた。
「ええと、11時ちょっと過ぎです。」
「え、もうそんな時間なんだ。」
わざとらしく驚くシンジ。

最初に異変を感じたのはシンジだった。
「あれ?」
ぽつり、と彼が額に感じた感触は、すぐにマコトにも知れた。
「雨だ。」
呟くマコトの目の前の道路が、見る見る滲んで行く。シャワーのような突然の雨だ。大体において、夏場の雨はきちんと天気予報で予想してくれないらしく、2人とも傘など持っていなかった。

「うわあ、どこかで雨宿りしなきゃ! 藤川さん!」
思わずマコトの手を引っ張って行こうとするシンジ。
「藤川さん?」しかしマコトは動こうとしない。
 

「碇先輩。」
口を開きかけるが、目をアスファルトから上げられない。

「どうしたの?」

マコトは恐る恐る、視線をシンジの持つ紙バッグへと移す。心拍数が上がる。

「ねえ、雨宿りしようよ。藤川さん?」

先輩の手。先輩のシャツ。先輩の胸。先輩の…目。
濡れた髪。

「あの、」また照れ隠しに笑う。何故か自分の息継ぎが意識できる。「あの、楽譜持ちますね。」

マコトはシンジの持っていた紙バッグを奪うように持ち、抱きしめて雨から守る。

「あ、ありがとう…」
シンジは目を逸らした。何故か、彼も一歩も動けなくなっていた。
 
さっきから2人とも、周囲の景色・建物の変化を知っていた。知っていてここまで来てしまったようだった。判断力が無くなるほどアルコールを飲んだわけではないのに、2人とも何も考える事が出来なくなっていた。ただお互いの歩調や息遣い、体温、匂いを意識していた。

雨は本降りになりつつあった。 
 

「じゃあここで、休みましょうか。」
マコトは最大限普通の明るい口調で、目の前のファッションホテルの入り口に入って行った。

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

マコトは既に自動ドアの向こうに進んでしまった。
「速く、先輩!」
ドアの向こうで傘を持つジェスチャーをして、にっこりするマコト。

雨は一段と激しさを増している。

「分かったよ、もううるさいなあ。」
シンジはそれがあくまで自分の意志ではない事を強調したいのか、独り言のように呟いた。

「碇先輩、速く!」

「分かったから。」
シンジも追いかけるようにその派手な電飾のビルに入った。


無人フロントの機械からカードキーを受け取った後は、シンジが先に歩いて部屋に着いた。

シンジとマコトは目を合わせず、何の会話もせず、部屋まで来て、ドアを開けた。

ドアが閉まった瞬間、跳びはねるようにマコトは後ろからシンジの背中に抱き付いた。
「先輩。」
マコトの声とは思えない、弱々しい声だった。

それから10秒以上もマコトが黙るので、シンジは彼女が特に何かを言おうとしているとは思わなかった。シンジはマコトの手に自分の手を優しく重ねた。

「先輩…好き、です。」
自分らしくない声がおかしくなったのか、言い終わってマコトはクスリと笑った。

ゆっくりと離れていつもの元気な表情に戻った。
「シャワー、浴びて来ますね。」

マコトは更衣室のドアを閉めた。
 
 

シンジは部屋のベッドで一人座った。

部屋には冷蔵庫、テレビ、ラジオ、端末、DVDプレーヤー等が置いてある。

部屋を見回した後、シンジは自分の買った楽譜の入った袋を見つめた。

それでも時間が余って、シンジは自分が物を考える余裕が出来た事に気付いた。
 
 

僕は藤川さんが好きなのだろうか?

―分からない。

藤川さんが僕の事を好きだって言ってくれたから、良い気になってるだけなんじゃないのか。

―そうかもしれない。

アスカとの約束を、僕は破るのか?

―僕はアスカと約束なんか、何もしてない。僕はいつかアスカの彼になれるような立派な男になるとは言ったけど、それは約束じゃないし、こういう事をするとかしないとかは一言も触れていない。

僕はアスカが好きだったんじゃないのか。

―好きだよ。でも彼女は振り返ってくれなかったんだ。彼女は僕を選ばなかったんだ。僕を捨てて、違う男を選んだんだ。

だから悔しいんだ。

―悔しいよ。アスカは僕を見てくれないんだ。そうさ、分かっているんだ。僕がどんなに頑張ったって、どんなに良い演奏をチェロでしたって、彼女は聞いてくれないんだ。聞こうとしてくれないんだ。
今この瞬間だって、森さんに抱かれてるに違いないんだ。

だから僕も女を抱くんだ。

―違う、それとこれとは別だ。僕は抱きたいから抱くだけだ。

藤川さんの心を良いように利用して、体をむさぼるんだ。

―違う。僕は藤川さんだから一緒になるんだ。

僕は藤川さんが好きなのか。

―好きさ!

流されているだけじゃないのか?

―そんなんじゃない! 藤川さんが好きなんだ! 藤川さんじゃなきゃ駄目なんだ!

君は藤川さんの事を見ていたか?

―え?

君は藤川さんの気持ちを考えていたか?

―どういう事だよ。

君の気持ちは、藤川さんの君への思いと釣り合うのかな。

君は、これから藤川さんと本当に付き合っていくつもりなのか? 彼女が傷つく事は、想像出来ないのか?

―今ここで彼女を拒んだら、彼女は傷つくだろうね。

今はそうかもしれない。でも明日は? 明後日は? 明明後日は?

君は何がしたいんだ。

君は何がしたかったんだ。君のしたかった事はこれなのか。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

いや、違う、僕は…
 
 
 
 

僕は…

「アスカとする時に、天使と悪魔が戦ったりはしなかったよな。」
シンジは苦笑した。

 
「先輩。」
シンジが振り向くと、一糸纏わぬ姿のマコトがいた。


「あ、ご、ごめん。」
驚いて顔を窓の方に向けるシンジ。

マコトは歓喜とも羞恥とも違う不安さを隠す事が出来なかった。
「…何で、謝るんですか?」
彼女はゆっくりと、弱いアクセントで聞いた。

シンジは顔を向けようとはしなかった。
「ごめん。僕は…僕は…」
何をどう切り出せば良いのかつまってしまった。

だからシンジは自分の答えになっていない答えに、マコトが返事をした事に驚いた。
「…そうですか。先輩…」語尾がよく聞き取れない。
 
 

はっとなったシンジが振り向くと、まるで表情を失い、目を見開いたマコトから涙が2筋頬を伝っていた。

なんてきれいな顔なんだろうとシンジは思った。
 
 

シンジはマコトの体をはっきりと見た。何故かいやらしい感じはしなかった。マコトの体は健康的で、ややがっちりしていた。しかし同時にその裸は何故か弱々しく見えた。

気付くとシンジは立ち上がって、マコトを抱きしめていた。
「先輩?」

道を走る車のタイヤの摩擦音が聞こえる。
 
シンジはマコトの顔を上げた。シンジは顔を近付け過ぎていて、彼女の表情は良く分からなかった。今彼に見えているのは、彼女のやや濃い眉毛と黒く大きな、わずかに揺れている澄んだ2つの瞳だけだった。
「先輩。」

マコトは目を閉じた。

シンジは鼻をぶつけないようにやや顔を傾けた。

シンジはもう既に自分が何をやっているのか分からなくなっていた。ただ目の前に何か熱い、柔らかい、守らなければならないものがあった。彼は唇を近付けた。

その時彼は彼女の横顔に既視感を覚えた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
「バカシンジ!」

えっ  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

何秒経ったかシンジには分からなかった。

ふと気付くと、マコトは無表情で、ベッドにちょこんと座っていた。シンジはただ立ち尽くしていた。

雨音は更に激しくなっている。

シンジは呆然と、落ちるように床に膝を付けた。
「…ごめん…」

「いいよ、謝んなくて。」マコトは優しく声をかけ、手をシンジの肩に乗せた。

「あの…」
「先輩の本当の気持ち位、私も分かってた。本当は楽しくない事位、分かってた。先輩優しいから。」

シンジの腕を触りながら言うマコトの声は、意外なほど穏やかだった。

「ごめん。僕は好きな人が…いるんだ。だから…出来ない。」
「知ってたわ。」
マコトはうなだれるシンジの両肩をぽん、と叩いた。

「ほら! うじうじしない! あんまりうじうじしてると、襲っちゃいますよ!」

シンジは顔を上げた。
 

マコトはいつもの曇りの無い笑顔を見せていた。
 

シンジは驚いた。しかしすぐに目を逸らした。

彼は声を絞り出して、「ありがとう」と言った。
 

シンジは部屋を後にした。
 
 

マコトはテーブルに置き手紙と、部屋代のお金がある事にずっと気付いていた。御丁寧にジュースまで置いてあった。
全て、マコトがシャワーを浴びている間に、彼が用意した物だ。

マコトは険しい表情で、裸のままテーブルまで歩いて行った。彼女は置き手紙を読んだ。
 

男性とは思えない綺麗な字だった。
 
 

彼女は手紙を持ったまま、ベッドの脇で崩れ落ちた。
 

「………………………バカ………」
マコトはその言葉を自分に向かって吐いた。
 

「………でも………先輩を、汚さないで…良かった………」
雨音は一向に止む気配が無かった。

シンジの置き手紙はきつく握られていた。シーツにはぽつりぽつりと水の染みが出来ていた。


僕は自宅への帰路、バスに揺られていた。

藤川さんへの申し訳なさ、ふがいない自分への怒り、藤川さんへの謝意、アスカへの反省。

色々感じつつも、少し心の重みは取れていた。
 

僕が好きなのは、アスカだ。

僕はアスカが好きだ。アスカに会いたい。他の誰かじゃ駄目なんだ。
 
 

僕は洞木さんの言葉を思いだしていた。

アスカが一番心を許している人は、碇君よ。アスカは普段そういう事は言わないでしょうけど、本当は碇君の事が大好きなのよ。
 
 

僕はさすがにそこまで自惚れてはいない。でも、僕とアスカは、あの時旧第三東京にいた唯一の生き残りだし、それ以前の戦闘も含め、一種の特別な関係であるとは言えるはずだ。アスカは僕から去って行った。でも、僕を嫌っている訳ではないとはっきり言ってくれてもいた。別に僕は、もうアスカと一緒になれない訳じゃないんだ。これから先、いくらだってチャンスはあるんだ。
何でこんな簡単な事、気付かずにいたんだろう。

「バカシンジ!」
そうだね、アスカ。僕はのぼせて、ちょっとどうかしていた。

僕はアスカの笑顔や、はにかんだ顔、驚いた顔を思いだしていた。

ふと気付くと、向いの席の塾帰りらしい子供が不思議そうに僕の顔を見ていた。僕は自分がにやけていた事に気付き、慌てて顔を引き締めた。家はあと…2つ先。雨は長引きそうだ。
 
 
 
 

シンジのポケベルは電池が切れていた。
 
つづく
 


次回に続くよあとちょっと
 
ver.-1.00 1997-08/17 公開
 
感想・質問・誤字情報などは こちらまで!


ラブホテルって後払い? 前払い? そんなの知りやしないからなあ。我が16号線沿線には、楽しい名前のラブホ(っていうかモーテル)が多いです。八王子の「ホテル野猿(やえん)」。入間近辺の「ホテルあそこ」。この付近を通ると、要所要所で「ホテルあそこ 2km」とか表示があってベリー面白マッチ。
それでは、「来週も、地味に地味に!」


 フラン研さんの『キーホルダー』第十話、公開です。
 

 フラン研さん二つの目の連載『キーホルダー』。
 この作品もついに十話に到達です(^^)

 今朝方ダウンロード用のLHAファイルを作ったのですが、
 フラン研さんはテキストメインで400KBを突破してました。
 ・・・GIFも60KBほどありますが(^^;
 

 > キーホルダー10話、明日アップされる予定です。

 はい、その通りUPしました。
 でも書き込みの日時から見たら、[今日]かも(^^;

 > そろそろヤバい展開です。熱烈なLASの人は読むのを考え直したほうが良いかも知れません。

 そんなこと言われても・・・
 わたしは絶対に読まなくてはいけない (;;)

 あらかじめ言われていた事で心構えをして読んでいるので大丈夫V

 > ちなみに、既に私はキーホルダーは最終話(12話)プラスおまけまで書き終えました。
 > 何ですぐに出さないのかって? モチ、小出しにしてカウンターを稼ぎたいからっ。(←バカ)

 1話あたり20KBを超えているので、
 分割しても問題ないと思いますよ。

 【カウンターを稼ぎ】・・・・ズバリな言葉・・・敵を作りません様に(笑)

 

 

 シンジのポケベルは電池が切れていた

 ・・・・締めまでパーぺきですね。
 

 さあ、訪問者の皆さん。
 圧縮して400KB、素で1MBの文章を書いたフラン研さんに感想メールを!


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