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 チクタクッチクタクッチクタクッ

 壁に掛けられた時計が唯一の音だった。
 普段は人間の生活にかき消されて目立たない時計の駆動音は、ここぞとばかりに誇らしげな音を出している。歯車とぜんまいの織りなす旧式の機械音はそこはかとない柔らかみを持っていた。
 抜けるように白い壁紙がその音を実際以上に大きくさせている。天井が高く開放感のある室内には、観葉植物と木調で統一されたシンプルな家具がおかれていた。大きめに設計された窓を開ければ過ぎゆく秋の香りが部屋の中に入ってくることだろう。レースのカーテンの向こう側には、すっかり装いを変えた銀杏の並木を見下ろすことができた。

 パタッ

 キッチンの方から聞こえてきた本をたたむ音は不思議な存在感を持っていた。それまで逼塞するようにリビングのソファで枕を抱えて寝転んでいた若い女は、つややかな紅茶色の髪を振るわせて隣接するキッチンの方に視線を向けた。
 だが蒼い宝石のような瞳はまもなく落胆の色に染まる。
 しばらくキッチンを凝視していた女性は、あきらめと不満を多量に秘めた溜息をつくと、身体を丸めて大きなクッションを抱え込んだ。彼女の視線の先には、食卓で本を抱え込んだまま瞑想しているかのように目を閉じてる男がいた。
 フカフカとしたクッションに陶磁器のような白い肌が食い込む。クッションもソファも暖かみのある白なのだが、女の肌は同系色の家具に負けない輝きを持っていた。人工の白ではない生気に満ちあふれた白だ。
 芸術品のような肌を持った若い女は不満げな顔をソファに沈めた。彼女が寝転がった白いシーツの上には、ラベンダーの香りをほのかに匂わせながら柔らかい髪が広がり、紅茶色の川ができた。
 アールグレイの紅茶をうまい具合にいれた時だけにこういう色になる。お湯の温度が高すぎても低すぎても駄目。砂糖はスプーン一杯が限度。それ以上は色を曇らせる。勿論マーマレードやジャムを入れるような暴挙にでてはいけない。


 ピンポーーン


 美しい女性に溜息をつかせる愚に気づいた神の配慮であろうか?閉塞していた部屋の空気を打ち破るようなチャイムが鳴った。

 「いいわ、シンジ。アタシが出るから」

 匂い立つような仕草でソファから跳ね起きた女性は、そう言ってキッチンで自分の世界に没頭していた男に声を掛けると、なるべく音が出ないような足取りで玄関に行った。


 ピンポーーン


 もう一度催促するようなチャイムが鳴る。優雅な足取りで玄関に歩いてきた女性は、防犯カメラで来客を確認すると顔をなごやかにほころばせながら勢いよくドアを開けた。

 「あ、ヒカリいらっしゃい。良く来てくれたわね!」

 「あ、アスカ。本当に久しぶりだね」

 玄関先で顔を合わせたアスカとヒカリは再会を祝福して軽く抱き合った。久しぶりというほどに会ってなかったわけではないのだが、就職して忙しい時間を過ごしているヒカリには毎日が濃密な日々なのであろう。

 「あのーー。誰か忘れているんとちゃうか?」

 ヒカリの後ろに付き従うように立っていた鈴原トウジは、はしゃぎまわるアスカとヒカリに完全に無視されていた。

 「あれアンタ?そこにいたの?」

 「そないな言い方はないじゃろ?せっかく祝いに来てやったっちゅうに」

 トウジの不満げな言葉を聞いたヒカリは思い出したような顔をした。

 「この度はおめでとうございいます」

 あらたまったというより少しおどけたヒカリの言葉に、アスカは抗議めいた言葉を返した。

 「ちょっと、結婚式のようなことを言わないでよ」

 「でもおめでたなんでしょう?」

 「ま、そうだけど」

 「今何ヶ月?」

 「まだ6週間よ。まだ何ともないわね」

 アスカはそう言うと大事そうにお腹をさすってみせた。アスカのお腹の中にはシンジとアスカの愛の結晶である小さな命が宿っている。妊娠していることを知っているせいか、ヒカリの目にはアスカが少しふっくらしているように見えた。まだ6週間であるアスカのウエストはヒカリよりも3cm程細かったけれども。

 「アスカ、お客さん?」

 少し騒がしかったせいか、この家の主人であるシンジは玄関先まで出てきた。明るい煉瓦色のニットにベージュのパンツ、いかにも秋っぽい格好で出てきたシンジは学生の頃と何ら変わらない繊細な顔を見せた。

 「あ、トウジ、洞木さん。よく来てくれたね」

 「あ、スマン。ワイまで押し掛けて来てしもうた。ヒカリが惣流のおめでたの祝いに行こうってしつこうて」

 トウジはそう言うと長身をすくめて見せた。陸上で鍛えたトウジの肉体は、身長こそシンジと同じくらいだが肩幅や胸板の厚さでは完全にシンジを凌駕している。下手ないいわけをしながら頭をかくその仕草は少し滑稽に見えた。
 シンジがトウジの言葉を聞いて微笑んで見せたのはトウジの仕草がおかしかったからではない。洞木ヒカリのことをまだ「イインチョ」と呼んでいた時と変わらないトウジの姿に懐かしさを覚えただけだ。

 「そんなとこにいないで上がってよ。二人を遮る壁はうちにはないから」

 「何だか芝居のセリフのような言い方じゃのう。やっぱり俳優やっとる人間は言葉まで違うわ」

 トウジはそう言うと不器用な笑顔を見せた。ヒカリもにこやかに笑っていたが、アスカだけは少し眉をひそめた。

 「あ、アスカ。僕は少し出てくるから。トウジと洞木さんはゆっくりしていってよ。小一時間で戻るから」

 トウジの俳優という言葉に反応したシンジは、バーガンディ色をしたローファーを履くとそそくさとエレベーターの方に歩き出した。

 「なんや、せっかく来てやったというのに失礼なやっちゃな。おい、惣流。シンジはどうしたんや?」

 自分とヒカリを避けるかのように出ていったシンジに、トウジの口調は少し荒い。ただ心の中ではシンジのことを心配しているのがアスカには分かった。言い方が荒くなるのは飾った言葉を知らないだけだ。

 「まあ、いいからあがりなさいよ」

 アスカはとりあえずなだめるように言って、二人をリビングまで連れてきた後、少し不満げに口を開いた。

 「鈴原はトリップ中のシンジを見るのは初めて?」

 「トリップ?」

 「そ、今映画の台本を渡されたところでね。そうなるとシンジはああいう風になっちゃうのよ。人と話すのは勿論、食事をとる、お風呂に入るといった日常的なことさえ煩わしくなるようね。寝てても起きてても役の人物を思い浮かべて彷徨っているの」

 「でもシンジは役者なんじゃから、もしかして一年中あんな感じかい?」

 「台本が渡されてからと実際の撮影が始まってからの二,三日よ。それが過ぎればいつものシンジに戻るわ」

 「ふーーーん」

 説明を聞いたトウジは感心したような声を出した。シンジが本格的に俳優の道を進むと聞いた時には、「なんや芸能界なんて。チャラチャラしおって」と怒り気味に話していたトウジだが、初めて垣間見る俳優としてのシンジの姿に何か感じるものがあったようだ。
 ヒカリは同様の説明を以前シンジ本人から聞かされている。大学では同じ学部だったシンジとヒカリは頻繁に会う機会があった。その時シンジがもらった役はなんと同性愛者であり、妙にはまっていたおかま言葉にヒカリは仰天した記憶がある。

 「あ、アスカ。台所借りてもいいかな?お祝いに何をもっていこうか考えたんだけど栄養のあるものを食べてもらうのが一番だと思って材料を買ってきたの。時間がかかるものもあるけど今から作ればお夕飯には間に合うし」

 ヒカリはそう言うとトウジが持っていたデパートのビニール袋に視線を移した。その後少し照れたような視線でアスカの方を見る。ありきたりのものを買ってきて、それで終わりにしないところにヒカリの優しさと細やかさが現れていた。アスカははそんな親友の心配りがとても嬉しかった。

 「ええ、いいわよ。存分に使って」

 「アスカは座ってて。大事な身体なんだから」

 ヒカリはそう言ってアスカをソファに座らせるとトウジを伴って広々としたシステムキッチンに向かった。トウジは料理ができるわけでもないが、アスカの相手をさせるには似つかわしくないと思ったので台所に引っ張ってきた。
 アスカは再び手持ちぶさたになった。妊娠していることが分かって以来、シンジはアスカに軽い荷物すら持たせようとはしない。ここ二,三日は役作りに入ったので少しは減ったが、壊れ物を扱うようなシンジの応対にアスカは少し辟易していた。

 パサッ

 アスカは取り残されるようにテーブルの上に置かれていたシンジの台本を開いた。他にすることもないので何となく読み始めただけだ。シンジが今度出ることになった映画は去年ヨーロッパの映画祭でグランプリを取った監督の手になるもので、結構注目を集めている作品だった。最近では若手の実力派として脚光を浴び始めているシンジにとっても大きな仕事である。

 「ふぅーーーん」

 いつの間にかアスカは台本に没頭していた。シンジの相手役が霧島マナというのが気にくわないところであるが、脚本自体はよくできている。シンジにこの役がやれるのかという一抹の不安はあったが、あまり心配はしていない。

 パサパサッ

 台本をめくるアスカの手が速くなる。
 シンジは新米の捜査官の役で、マナはその恋人の精神科医で実業家の一人娘。シンジが起こしたささいな事件が二人を巻き込み、やがては国家を揺るがすようなストーリーに発展していく話はありきたりと言えないこともないが、細部へのこだわりが感じられる脚本は読み物としての魅力もあった。


 「何よこれ!!!」


 アスカの手が止まり、部屋中に大声が響きわたったのは台本で言えばシーン25の場面、ヒカリとトウジにとっては圧力鍋に入れたタンシチューの具合を見た時であった。

 「ど、どうしたのアスカ?!」

 怒号と悲鳴を足して2をかけたようなアスカの声に、ヒカリは台所を飛び出た。

 「ちょっとヒカリ!ここ見てよ!!ここ!!!」

 アスカはソファの上で手足をバタつかせながらヒカリに台本の一場面のト書きを見せた。

 「ええっと、うんうん・・・・・、でもこれって俳優にとってはよくわることじゃないの?この前放映されたドラマでだって・・・・・」

 「この前はこれっきりだっていうから許したのよ!アタシが芸能界を止めたいきさつは知っているでしょう?ヒカリ!!」

 「お、落ち着いてアスカ」

 「落ち着いてなんかられないわよ!」

 ヒカリが必死になってアスカをなだめているのをトウジが溜息と共に見守っていると、キッチンの方から焦げ臭い匂いが漂ってきた。

 「あ、しまった!!」

 台所に飛んで帰ったトウジは消し炭の一歩手前になり果てた牛タンを見て悲嘆にくれた。

 「ワ、ワイの牛タンが・・・・・」

 トウジの消えるような声をかき消すようにアスカの絶叫が部屋を支配する。その時トウジはヒカリの手料理が食べられるというのにつられて、のこのこ碇家にやってきた自分に心底後悔した。




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「口唇」



 「はあーーー」

 シンジは溜息とともに車のドアを閉めた。
 昨日の午後から吹き荒れたアスカ・タイフーンは今朝になっても全く衰える様子がなく、シンジは怒号と燃えるような視線に追い出されるように家を出た。
 今度演じることになった内務省特別捜査官の加持リョウジならこの状況をどう切り抜けるのであろうか?一昨日からクランクインして加持リョウジ役についてはあらかた掴んでいたつもりのシンジであったが、ようとして答えは出なかった。

 「おはようございますっ!」

 シンジが撮影所に足を踏み入れると、若い女性スタッフが元気の良い挨拶をしてくる。昨春高校を卒業と同時にこの世界に飛び込んできたこのスタッフは、撮影所で最も威勢のいい人間だ。
 若い人間は元気だけがとりえだというが、まさにそんな感じである。沈痛な表情を押し殺すように入ってきたシンジにとっては、カンフル剤というより耳障りなだけであったが。

 「ああ、おはよう」

 撮影所では彼女に続く若い部類に入るにも関わらず、シンジは辛気くさい声でそう返すと自分の楽屋の方に歩き出した。

 「あれ?ケンスケじゃないか」

 シンジの楽屋には先客が居た。この映画で助監督に抜擢された相田ケンスケは、シンジの声に手だけで答えるとこちらも沈痛な声で返した。

 「シンジ、今朝惣流から電話が来た」

 ケンスケが口にした言葉はそれだけであった。しかしシンジにはそれだけで十分だった。二人はお通夜のように暗い顔をして同時に溜息をつくと、楽屋のパイプ椅子に疲れは果てたように座り込んだ。

 「台本の変更をしろってさ」

 「そ、そんなの無理だろ?僕たちは監督でもないのに!」

 「当たり前だ。じゃあそれならCG合成にしろと言ってきた。だけどたかが1シーンのためにそんなことできるわけないだろ。CGは意外と金がかかるんだ。余計な予算は一円たりともないんだ」

 「で、アスカは何だって?・・・・・」

 「それなら自分が出すとまで言っていたぞ。忙しいからまた後でということでとりあえずかわしたが、あれは相当酷いな」

 シンジとケンスケは再び顔を見合わせると深い深い溜息をついた。
 台本の読み合わせがあったときから予測はしていた事態ではある。しかし前回のドラマでは不承不承納得してもらったので今回もいけると思っていた二人は気が重い。取り終わってしまえば後の祭りだから、いいわけはそれからしようと思っていたのも浅はかな考えであった。
 「これ一回きり」という前回使った説得の手段はもう効果がない。監督に意見が言える立場でもないし、荒れ狂うアスカを説得もできないシンジとケンスケ。今日の撮影の準備に入りながらも溜息が耐えることがない二人だった。

 「おっはよう!」

 不幸のどん底のようなシンジとケンスケとは対称的な陽気な声がする。ベージュのパンツスタイルにサングラスをしてシンジの楽屋に入ってきたのは、ヒロイン役赤木リツコを演じるの霧島マナだった。
 普段はもっと華やかな服装をしているマナだが、知的で冷静な精神科医の役作りに入ってから服装も落ち着いたものになっている。と言っても彼女の騒がしい普段の性格までもが落ち着くわけではなかったが。

 「あらどうしたの?二人とも。陰気な顔しちゃって」

 落ち込むと言うことを知らないマナの声は底抜けに明るく、シンジとケンスケの沈痛な心にグサグサと突き刺さってきた。ケンスケは以前マナのことを「慢性脳天気病」と評したのも頷ける。

 「シーン25のことが惣流にばれたんだ」

 苦虫を噛みつぶしたような顔で沈黙するシンジに代わって、ケンスケはそう口にした。マナはシーン25の情景を記憶ファイルから引っぱり出すと急にニンマリした。小悪魔チックな表情をしているマナは、シンジとケンスケとは対称的におもしろくてたまらないという感じだ。

 「で、アスカは何て言ってるの?」

 「俺達の顔見て分からない?・・・・・」

 「・・・・・ヘビーね」

 マナは少し間を置いた後、言葉とは関係のない満面の笑みを浮かべた。なだめる意味で口にした言葉とは裏腹に、マナの好奇心とイタズラ心は活発に動き出したようだ。

 (火に油を注がなければいいがな)

 ケンスケはルンルン気分でシンジの楽屋を出ていくマナの背中を見送りながらそう思った。


 シーン25


 大ざっぱに言えばラブシーンである。主人公のシンジとヒロインのマナが熱いKissを交わして抱き合うシーンだ。別に濃厚なベットシーンがあるわけでもないし。活字にすればありふれたラブシーンでもある。
 だがシンジを独占したいアスカにとってはたとえ簡単なKissであっても簡単に許容できるものではないらしい。何しろアスカはKissシーンを拒否して芸能界を引退した経歴の持ち主なのだから。

 5年ほど前、アスカは人気の絶頂にいた。
 CM出演とモデルから始まったアスカの芸能活動は、やがて歌手に移行し、アスカが19才の誕生日を迎えた頃にはミリオンセラーを4枚ほど出してベストアルバムが史上最高の売り上げ枚数を記録するまでになっていた。
 その後所属事務所は女優活動にシフトを移動させようと画策する。
 幸運にも女優として天性の才能を持っていたアスカは日本の映画の新人賞を総なめにした後、語学力を生かしてハリウッド進出にも成功していた。そして事務所は「大人への脱皮」と称して濃厚なラブシーンを含んだ作品にアスカを出演させようとするのだが、これがアスカの逆鱗に触れた。
 当時大学に入学すると同時に有名俳優の演劇塾に何とか合格したシンジと本格的につきあい始めたアスカにとって、「乙女の純血」というものは何者にも代え難いものであった。Kissシーンをするよう強要する事務所に腹を立てたアスカはついに「違約金なら払ってやるわ」とマスコミの前でたんかを切って芸能界を電撃引退、シンジとの同棲生活を始めるに至るのである。
 この時アスカが払った違約金が1億円余りだったことから「100万$の口唇」などと揶揄される結果となったが、アスカは当時もそして今も後悔はしていないようである。

 このような経歴の持ち主であるアスカだから、シンジのラブシーンが気にくわないのも当然と言えば当然のことであり、前回マナと競演したドラマでKissシーンを入れるのにシンジとケンスケは3日3晩拝み倒して説得に当たったものだった。
 前回のドラマはケンスケがチーフディレクターとして演出を管轄していたのでどうにかなった。しかし今回の映画は日本映画界きっての巨匠がメガホンをとる作品である。いくら若手の実力派として一目を置かれているシンジとケンスケでも、脚本に口を挟むことなどできはしない。
 よって事後承諾と言う形で土下座でもすれば許してもらえるだろうと踏んでいたのだが、アスカが偶然台本を読んでしまったことで全てのシナリオは狂ってしまった。
 メイクを終えて撮影現場に向かうシンジの歩調は、足に10tの鉛を付けたように重かった。




 「メニューでございます」

 手入れの行き届いた口ひげを持った老ウェイターは、よどみのない動作でメニューを差し出した。リョウジは慣れた手つきでメニューを受け取ると老ウェイターに目で合図して、少し時間をくれるように語りかけた。

 「ごゆっくりどうぞ」

 ウェイターは長年の経験から、簡単な目配せでリョウジの気持ちを察すると薄暗い照明の奥に消えていった。アンティークな家具とキャンドルライトに包まれた店内は、気取りはないが客に安心感を与えてくれる。
 メニューに書いて有るのはコースが三種類だけである。Aコースは前菜二品にスープ、メインの魚料理、肉料理にデザート。Bコースはそれから前菜一品を引いたもので、Cコースはメインを魚か肉のどちらかからチョイスするものである。
 前菜、スープ、メインはそれぞれ何種類かの中から選ぶことができるし、デザートはその日用意されたものの中から好きなだけ食べることができる。値段はそれなりに張るが、価格以上の味とグレードを提供してくれるこの店は、舌にうるさい大人達の隠れた穴場であった。リョウジとリツコは学生の頃からこの店を時々利用している。

 「お決まりになりましたか?」

 いつの間にか老ウェイターはリョウジとリツコのテーブルに戻ってきていた。何度か応対を受けているが決して客をせかすようなまぬけなウェイターではない。リョウジは自分がしばらくの間、ボウッとしていたことに初めて気が付いた。
 仕事で疲れが溜まっているせいだろう。リョウジはそう思うことにした。

 「ええと、リツコはどうする?」

 リョウジはメニューに視線を戻しながらレディーファーストを装うことにした。まだろくすっぽメニューを見ていないリョウジに注文が決められるわけがなかった。

 「そうね。私はBコースにするわ。前菜はカマスとヒラメのムース・肝ソース、それからアスパラガスのスープと、魚は蟹のスパイス焼き、肉はフォアグラとトリュフのパイケースをお願い」

 リョウジはリツコが頼んでいるメニューを聞いただけでお腹が一杯になったような気がした。昼御飯をとる暇がなかったからすでに10時間くらい水物以外口にしていないのだが、胃酸の過剰分泌は食欲を減退させていた。しかもリツコが頼んだメニューは味の濃いものばかり。言葉を聞くだけで腹が満たされたようになる。

 「お客様は?」

 老ウェイターはメモをとることもなくリョウジの方を向いた。

 「僕はそうだな、Cコースでいい。前菜はホタテと赤貝の地中海風サラダ、スープはガスパチョ、メインは魚でスズキのパイ包み焼きにするよ」

 「あら随分小食ね。リョウらしくもない」

 リツコは頬杖をつくとのぞき込むようにリョウジを見つめた。リツコはいつもこんな風な格好で患者と対面しているのであろうか?リョウジは唐突にそう思った。

 「別に。ちょっと忙しかったものでね。あまり食欲がないんだ」

 別に、ちょっと、あまり。就職してから覚えた逃げの言葉。
 二人の心の距離は以前と変わってはいなかったが、国家の機密に関わる仕事をしているリョウジには恋人にすら話せないことが多すぎた。自分自身にしかわからない後ろめたさを隠すための言葉。でもリツコは気づいているかもしれない。そしてリョウジも気づいて欲しかったのかもしれない。

 「アペリティフな何になさいますか?」

 「僕はスプリッアー、リツコは?」

 「そうね。ブラッディーメアリにするわ。トマトを四分の一、ウォッカはスミノフで、ペッパーを一振り、ライムを添えて頂戴」

 「ワインはいかがいたしましょう」

 リョウジは軽くミサトに視線を走らせた。リツコは頬杖をしたまま細い顎を縦に動かす。リョウジは軽く息を吐き出すとウェイターに言った。

 「ソムリエをお願いします」


 「カット!カット!!」


 「全然駄目だ!シンジ!!」

 場面がそこまで進んだとき、監督はボサボサの長髪をかきながら歩み寄ってきた。カメラのすぐ横で撮影を見守っていたケンスケは、カメラを止めるように首を振ると大きな溜息を吐いた。

 「いいかい、シンジ?加持リョウジの本質は矛盾を包容した男なんだ。内面を見せないしたたかさを持っていながら、特定の人間には内面を見て欲しい。でも彼は矛盾した人間だから見せ方は屈折している。自分の中にある弱さをさらけ出さないだけのタフさを持ちながら、リツコにはその弱さを少しだけ感じて欲しい。俺が欲しいのは微妙な微妙すぎる波なんだ。分からないかなぁ?」

 大げさな身振り手振りを交えながら熱っぽく語る監督の姿は、映画監督というより学生の活動家のようだ。監督は嘆息するように呟くと髪をかき上げた。

 「仕事で疲れて帰ってきた時だとする。君は今玄関のドアノブに手を掛けようとしているところだ。重い溜息をともに気づく自分の疲れ果てた顔。昨日今日と撮影はぶっ通しで続けられてきた。君はほとんど寝てないし、メイクを落とした今は落ち込んだ目をしている。君にはかわいい奥さんがいるだろう?彼女にあまり疲れた顔を見せたくはない。だが彼女に疲弊した身体をいやして欲しい。明日の朝、また元気な足取りで玄関を出れるだけの力を与えて欲しい。でも君は男だ。あまりみっともないまねはしたくない。そんな時のことを思い浮かべてみるんだ」

 監督が力を入れた言葉を全身で話し続けている間、シンジは帰宅した時のことを思い浮かべた。飛んで来るであろうアスカの怒号。シンジは何もできずにただ謝るであろう自分を想像して情けないようなやりきれないような顔になった。

 「そうだ!シンジ!!今の疲れ果てた顔!それが加持リョウジの内面だ。あとは仮面を付ければいい。奥さんが笑った顔を思い浮かべて見ろ。一番綺麗な笑顔を浮かべたのはいつだ?プロポーズの時か?結婚式の時か?それともおめでたが分かった時か?」

 シンジは監督の熱い言葉に為すがままであった。アスカが最近最も綺麗な笑顔を見せたのは前回のドラマの収録の後。そうだ。子供ができたと告げられたあの岬だった。

 「ストップ!思考と顔をそこで止めろ!」

 シンジの顔がほころび始めた時、監督は掌を同時にシンジの眼前に突き出した。

 「今何を考えていた?」

 「えっと、妻が一番素敵な笑顔を浮かべた瞬間を」

 「いつだ?」

 「10日ほど前です。子供ができたって言ってきた時です」

 「君は子供ができたと知った時何を考えた?」

 「えっと・・・・、最初は嬉しくて嬉しくて、それ以外何も考えられなくて。その後父親になったんだからもっとしっかりしなくちゃって・・・・」

 「そうだ!その顔だ!!もっとしっかりしなくちゃ!!それが加持リョウジの仮面だ。あとはさっき思い浮かべた情けない内面を少しづつ垂れ流してやればいい。どうだ、簡単なことだろ?」

 監督は片目をいたずらっ子のようにつぶるとシンジの肩に手を置いた。節くれ立ったその手からは熱い何かがシンジにそそぎ込まれていた。監督とシンジのやり取りを興奮気味に見ていたケンスケはカメラスタッフに合図を送った。監督の熱意に乗せられて役者がいい顔をしている。こんな時はきっといいシーンが撮れる。

 「それにしてもシンジの奴、一瞬だが本当に疲れた顔をしていたな。おい、相田。シンジは奥さんと何かあったのか?」

 衣装スタッフに細かい指示を飛ばしてカメラの前に戻ってきた監督は妙に鋭いことを言った。監督の独り言のような呟きを一人だけ聞かされたケンスケは、少しだけ憂鬱な気持ちになった。




 「ケンスケ、今晩予定はあるかい?」

 その日の撮影が終わった後、シンジはネクタイをしめながら話しかけてきた。ふと見れば撮影所でネクタイをしているのはシンジだけである。撮影当初のシンジは普段着も役柄 に会わせてしまうのはいつものことである。
 シンジは黒の3Bストライプスーツにブルーシャツにブルータイ、ガラスコーティングされた光沢のあるローファーを履いている。スーツはドロップ8の細身でズボンの裾の折り返しは4・5cm。趣味のいいカフスボタンはアスカが選んだものであろうか?

 「飲みに行くのかい?」

 「いや、真っ直ぐ帰るけど・・・・・」

 ケンスケはシンジが家に直行することを分かっていながら希望的観測の方を先に口にした。シンジの愚痴につきあうならまだしも、アスカの説得に当たるというのはかなりの難事業だ。

 (はぁーー。仕方ないか、仕事と割り切っていくか・・・・・)

 ケンスケは心の中でそう漏らした瞬間自分が情けなくなってきた。自分がシンジを助けに行くのは仕事だからか?そうじゃないだろう?シンジが自分の大事な友人であるから助けに行くのだろう?
 ケンスケは半ば自虐的な気持ちになりながらそう思い返すと頬を2,3度叩いた。

 「分かったよ。今晩お邪魔させてもらうよ」

 「・・・・ごめんな、ケンスケ」

 「そう言うことはいいっこなしだよ。俺達は親友だろ?」

 ケンスケは必要以上に明るい顔を作るとシンジの肩に腕を回した。




 「だからそんな仕事断っちゃいなさいよ!!」

 「今更そんなことできるわけないだろ?!もう撮影は始まっているんだよ」」

 「じゃあ、骨を2,3ヶ所折って入院しなさいよ!それなら監督も代役を立てざるを得ないだろうから」

 「無茶言うなよ!」

 「じゃあ、仮病でもいいわ。シンジは明日から急性の胃ガンよ」

 「そ、そんな病気あるわけないだろ?そんなことしたらもう仕事がこなくなっちゃうよ!」

 「別にお金のために仕事をしているわけじゃないでしょ!一生食べていくだけのお金ならもう十分にあるじゃない!仕事がなくなったて大丈夫よ!!」

 「そ、そんな仕事もしない自堕落な生活、僕は嫌だよ!」

 「何ですって?!それじゃまるで仕事をしていないアタシが毎日自堕落な生活を送っているみたいじゃないのよ!取り消してよ!!」

 最初はひたすら謝っていたシンジだが、ヒートアップしていくアスカに吊られて売り言葉に買い言葉となり、白熱した夫婦喧嘩に発展していた。

 「この二人いつもこんな感じなの?」

 「いや、俺は撮影現場で一緒になることは多いけど、私生活にはタッチしていないからよく分からない」

 「しかし盛大な喧嘩やなぁ。近所迷惑とちゃうか?」

 「このマンションの防音加工は完璧らしいよ。隣の部屋で爆弾が爆発しても大したことないらしい」

 「でもお腹の子にわるいわ。アスカも母親になるんだからもう少し静まってくれればいいのに・・・・」

 「いや、ため込んでおく方が逆にストレスになるんじゃないかな?口に出してハッキリ言い合った方が健全だよ。大声を出すのはストレス発散になるし」

 ケンスケ、ヒカリ、トウジの三人は、食卓でお茶をすすりながらリビングで繰り広げられる夫婦喧嘩を観戦していた。ヒカリとトウジは今週末は連休であったのでアスカをなだめるために碇家に泊まり込んでいる。シンジが帰宅してからすぐに勃発した夫婦喧嘩は夜半になってもまだ続けられていた。
 ヒカリなどは最初は必死になって止めに入っていたのだが、全く功を為さなかった。やがて疲れ果てたヒカリは自力で止めることをあきらめ、初めから止める気がないトウジとともに観戦に移っていた。
 ケンスケは何度か仲裁に入ったことがあるので慣れた視線で喧嘩を見つめている。やりたいだけやらせておいて最後に仲裁に入るのが最も効果的であることを知っているケンスケは、喧嘩を止めようともしなかった。二人の喧嘩に暴力が使われることがなかったのでその点は安心して見守っている。

 「それにしてもよくもあれだけ喋る内容があるもんじゃ」

 「トウジと委員長の喧嘩じゃ、ああはいかないだろうね」

 ケンスケはヒカリが入れた日本茶をすすると皮肉たっぷりに言った。ヒカリとトウジは同時に抗議をしようとしていたが機先を制したのはケンスケであった。

 「ところで、式はいつになったらあげるんだい?」

 その言葉を聞いた瞬間、トウジは照れで、ヒカリは気恥ずかしさで顔を真っ赤にした。リトマス試験紙も真っ青なくらいのスピードで赤くなった二人をおもしろそうに見たケンスケは、リビングの方に視線を戻した。

 「本っ当に強情な男ね!」

 「強情なのはどっちだよ」

 「シンジよ!」

 「アスカだよ!」

 「シンジよ!!」

 「アスカだよ!!」

 「ったく!なんでこう聞き分けがないのかしら!」

 シンジとアスカは聞き分けのない子供のように睨み合うと見合わせたようにそっぽを向いた。食卓で退屈そうに見守っていたケンスケがそろそろ仲裁の時期かなと思った頃、アスカは本心では思ってもないことをポツリとを口にした。

 「シンジ、本当はマナとKissしたいんでしょう?」

 「えっ?」

 「ほら顔色が変わった」

 「ち、違うよ!」

 「違わないわ。どうせアタシは仕事もしない自堕落な女ですからね。シンジが愛想尽かしてバリバリ仕事しているマナに乗り換えてもしかたないわね」

 ほとんどヤケになったように言い放ったアスカは顔をそっぽに向けた。自分でもそこまで考えていたわけではないが、一度口にしてしまった言葉は取り戻せない。一旦堰を切った言葉はアスカの心とは裏腹に勝手に流れ出す。

 「マナはかわいいものね。アタシみたいに我が儘も言わないだろうし、さぞかしシンジにお似合いでしょうね。結婚してからもう数年も経ってるからシンジもアタシに飽きてきた頃でしょう?」

 「ア、アスカ!そんなこと言ったら碇君がかわいそうじゃない!」

 「そうや惣流!言い過ぎや。シンジに謝れ」

 ヒカリとトウジは血相を変えて立ち上がると、とうとう二人の間に強引に割って入った。ケンスケだけは止めにはいることなく、ただ頭を抱えていた。ただしアスカの一言に劇的な変化を見せたのはその誰でもなかった。

 「・・・・そうだよ」

 シンジはアスカのショッキングな言葉を呆然として聞いていたが、うつむいて言葉を紡ぎ始めた。そして顔を上げると強い光を茶色の瞳に浮かべて言い放った。

 「アスカの言う通りだよ。僕はマナにKissがしたいさ。少なくともカメラが回っている間は本気でそう思ってる。でなければ観客には何も伝わらないよ。僕は真剣にこの役をやろうとしているんだ。だからアスカが何を言おうと譲る気はないよ」

 シンジの吐露するような言葉は静かな調子だったが、葬儀の教会に流れる鎮魂歌のように広い部屋を支配した。あっけにとられる一同をよそにシンジは、きびすを返すと自分専用の書斎の方に歩き出した。今日は書斎にある長椅子で夜を過ごすのであろうか?それとも眠れない夜を過ごすのか?

 「僕は役者だ。アスカが納得するようなKissシーンを演じてみせるよ。でなければ役者を止める。金輪際映画にもドラマにも出ない」

 最後にシンジはそう宣言した。




 第二新東京市は四方を山に囲まれた盆地にある。夏は暑いし、冬は底冷えする最悪の気候のこの地がどうして首都移転地などに選ばれたのだろう?枯れた草木が漂わせる初秋の香りに身を委ねながら、加持リョウジはふとそんなことを思った。
 街の中心部にある内務省からでも車を15分ほど飛ばせば寂れた山の中に入る。リョウジは昼休みに官舎を抜け出すと街を一望できる展望台行きのロープウェイに乗り込んだ。いつだったかリツコが夜に来ようと言ったことがある。ここから見える夜景は絶品だということだ。
 だがここ一月ほどリツコには会っていない。いや、会えない。いつになったら会いに行けるのだろうか?リョウジは旧式のロープウェイに揺られながら人事のように考えた。

 「会社は全てダミーよ。これがその詳細」

 リツコのシャープな声とはまるで正反対の声がする。内務省監察部に所属しているのが不思議なくらい庶民化した中年女性は、そう言うと一枚のファイルをそっと席に置いた。
 休日でもない午後にロープウェイに乗るような物好きは彼ら二人だけだ。週末でも利用客が少ないというのにこのロープウェイはどうやって採算を取っているのであろうか?予想通りで期待はずれの解答を聞かされたリョウジは、半ばヤケ気味に思いを馳せた。それほど状況は悪い。

 始まりは偶然の記憶の一致であった。
 交通事故で死んだリツコの父親は名の知れた実業家であった。母親はすでに病死していたため、リツコはその遺産の全てを受け継ぐことになった。
 リョウジは司法試験に合格していたので遺産相続の手続きなどの手伝いに行ったが、リツコの父親ほどの資産家になればちゃんとした顧問弁護士がついており、リョウジがすることはほとんどなかった。手持ちぶさたになりながら書斎でパソコンを除いたリョウジの目に飛び込んできたものがある。

 「(株)人類補完計画」

 聞いたことも見たこともない会社であたが、その文字はズームアップでもするかのようにリョウジの瞼に焼き付いた。ただしその時は焼き付いただけであった。名前が知られていない会社など腐るほどある。税金対策の幽霊会社かもしれないが、法のグレーゾーンにいちいち目くじらを立てるほどリョウジは子供ではなかった。
 人類補完計画という奇妙な文字をリョウジが次に目にしたのは、航空機事故で死んだ国連安全保障理事会高等参事官・冬月コウゾウのデスクにおいてである。冬月は国連留学時の恩師である。
 国連の重鎮である冬月の葬儀は盛大に行われた。リョウジは結婚式や葬儀というものがあまり好きではない。無原則に新郎新婦や故人を褒め称えるのはどうしても偽善と虚飾の色が見え隠れするからだ。形だけの焼香を済ましたリョウジは何となく冬月のオフィスに足を運んだ。
 主の突然の死に放置されたままになっている部屋で、しばらく冬月の空気を吸いに行こうと思っていたリョウジは、そこで人類補完計画という単語に再び出会うことになる。

 「奴らは人類補完計画にどこまで感づいていたのか?」

 「わからん。しかし今となってはどうでもいいことだ」

 「死人に口なしということか」

 「ああ、だが冬月の死体は発見できなかった」

 「だがあの爆発だ。生き残ってはいまい」

 「そうであることを望む」

 ドアノブに手を掛けようとした瞬間、聞こえてきた会話はリョウジの心を大きく揺さぶった。咄嗟に聞き耳を立てたリョウジは密談が一段落するとその場を離れ、謎の言葉について考え込んだ。
 リョウジがリツコの父親の遺産資料を元に(株)人類補完計画について調べ始めたのはそれから程なくしてである。最初は好奇心と不安が入り交じっていたような気持ちだったが、遺産資料から(株)人類補完計画という会社が抹消されていたことでリョウジの好奇心は確固たる疑念に、不安は恐怖にかわった。
 顧問弁護士に聞いてみようと思ったがとり止めた。こうも見事に記録が抹消されているところを見ると顧問弁護士も関与していると思った方がいい。そう考えたリョウジは国税庁にいる大学時代の友人を訪ね、リツコの父親の遺産相続の詳細を調べてくれるように頼んだ。
 将来リツコとは結婚するかもしれないのだが、遺産相続に問題がある聞いた。後で脱税などで面倒なことになるとまずいから早めに手を打っておきたい。調査を依頼した理由はそんなことを言っておいた。
 まもなく調査結果は判明した。結果は白。脱税などの証拠はない。ただし、遺産相続に伴っていくつかの会社が消滅している。

 「税金対策の会社らしいが、いらなくなったから潰したんだろう、でも違法ではないよ。グレーゾーンにかかっていると言えないこともないが、大した問題にはならないよ」

 国税庁の友人はそう言うと煙草に火を付けた。
 リョウジは作り笑いで丁重に礼を述べると資料の検索を始めた。(株)人類補完計画も抹消された会社の中にあった。ご丁寧にも登記簿まで消去されており、正規ルートでも捜索は完全に行き詰まった。リョウジは内務省監察部で信頼のおける知り合いに極秘調査を依頼した。
 ロープウェイで受け取ったファイルを検索したリョウジは(株)人類補完計画の下にはマルドゥック機関と言われる組織があること、マルドゥック機関を構成する会社は全てダミーであること、そしてそれらの会社が国連軍につながっていることを知る。
 ダミー会社の全てのスタッフは国連軍特別治安維持部隊・通称ゲルヒンの家族、又は親戚などで構成されている。そして証拠は全くないが、彼らには常に黒い噂がつきまとっていた。その最たるものは過剰防衛である。
 ゲルヒンは治安維持のための活動としてアジア、アフリカ地域のゲリラの殲滅を主な任務としている欧米先進国の精鋭部隊である。しかし彼らはゲリラが潜伏している可能性があるという理由だけで一つの村の住人を皆殺しにしただとか、拷問を行っているといった黒い噂が絶えない部隊でもある。
 極秘ファイルに記されていたのはゲルヒンが臓器売買に関わっている可能性が高いということであった。彼らは反政府ゲリラの破壊活動を未然に防ぐためと称して、僻地の村を襲っては村人を脳死状態にしたあげく臓器を取り出し、売りさばいている可能性があるというのだ。しかも老人から赤ん坊まで無差別に惨殺し、あとは焼き払ってゲリラの仕業と見せかけるという隠蔽工作まで行っているという。
 そして最終的に浮かび上がってきたのは、リツコの父親がゲルヒンのマネーロンダリングをしていたという事実であった。

 「どうなっているんだ?!」

 リョウジはロープウェイが下りになって一人きりになると座席に拳を打ち付けた。
 赤くにじんだ拳は人道的にも法律的にも絶対に許されないことをやっているゲルヒンに、高潔な人格者で知られていたリツコの父親に、そしていたずらな運命の歯車に向けられた拳であった。
 昨日から何も入れていない胃はキリキリと痛み、口の中はアドレナリンの味がした。




 「ようシンジ。今日はいい演技だったよ」

 撮影が終わった後、ロケバスの奥で惚けたようになっているシンジにケンスケは声を掛けた。アスカとの一件以来、シンジの熱の入れ用は鬼気迫るものがある。周りの人間全てを燃え上がらせるような監督の熱意と、凍えつかせるようなシンジの鬼気はスタッフに異常な緊張感をと張りを与えていた。

 (あんなに飛ばして最後まで持つのか?どんな些細なことにも全力投球じゃないか。あれじゃあ、撮影が終わる前にどうにかなっちまうぞ)

 今日のシンジを見ながらケンスケはそう思っていた。

 「シンジ?おいシンジ!大丈夫なのか?!」

 ケンスケは土色の顔をしたシンジを揺り動かす。今日は加持リョウジが徹夜明けという設定であったからそれなりのメイクが施されているはずであったが、シンジの顔色は撮影時よりはるかに悪いように見えた。

 「ああ、大丈夫だよ。なんともないよ」

 シンジはこともなげに立ち上がると気持ちだけで立っているような足取りで帰っていった。シンジが立ち去った後にはメイクを落とした後のティッシュペーパーが何枚か落ちていた。突いていた色は明るい肌色。
 今日のシンジのメイクは顔色を悪く見せるためではなく、設定通りに徹夜してしかも食事を抜いてきたシンジが、悪くなりすぎた顔色を隠すために施したものであった。ケンスケはシンジに声を掛けようとしてあきらめた。
 歩き去るシンジの背中は何者をも寄せ付けない絶壁のようであった。ケンスケにできることといったら、心の中で応援することと最高の仕事でシンジの意気に答えることだけだった。




 「ふぅーー」

 リツコは眼鏡をはずすと深い息を吐いた。吐き出された溜息は薄暗い室内を彷徨うと冷たい床に落ちて、やがて夜の闇に溶けていく。まるで息を出した人間の心を映し出すかのように。
 日が沈んでから何時間かが経過した大学構内。鬱蒼と生い茂る木々に囲まれた精神医学研究棟に、明かりがついている部屋は一つしかなかった。
 リツコはフレームなしの眼鏡にうっすらと反射した自分の顔を見てうんざりした。疲れ切った女の顔だ。しかも実際の年齢よりかなり老けて見えるであろう。デスクの隅にある鏡を覗き込んだリツコは、研究室に一人きりであることに少しだけホッとした。

 「今頃どうしているのかしら?」

 リツコの口唇と心はそういう風に動いたが、音は出なかった。
 最近研究に没頭していて他人とほとんど会話してないせいだろうか?それとも口にするのが怖いだけなのであろうか?
 リツコは精神科医でありながら自分の心の中すら見通せない自分に少し失望し、そして安心した。相手の心の全てが見通せることなど、異常者以外の人間にとって恐怖でしかない。
 先月父親が死んでから全てが悪い方向に動き出しているような気がする。
 莫大な遺産目当てに近づいてきた親戚と自称父親の知人で親切な人々、少し疎遠になった友人と妙に馴れ馴れしくなった友人、そして最近めっきり会わなくなった恋人。リツコは運命の歯車に愚痴をこぼしたくなった。運命などというものを全く信じていないにも関わらず。


 ガチャリッ


 不気味な音がして研究室の扉が開く。こんな夜に来客の予定はない。しかも研究棟の玄関は電磁キーでロックされているはずだ。専用のカードと暗証番号がなければ開くことはない。

 「リツコ、電気を消せ」

 聞き慣れた男の声だった。しばらく聞くことがなかった声ではあるけれど。電話で聞く「今は忙しい」以外の恋人の声をリツコは一ヶ月ぶりに聞いた。

 「リョウ?そこにいるの?」

 扉は3cmほど開いただけだ。ドアのそばに人の気配はするが何だか様子がおかしい。リツコは声だけで姿を現さないリョウジに不気味な予感がした。


 プチンッ


 リツコの不安は全く予想しなかったことから現実になった。リツコの怪訝な表情を打ち消すかのように部屋中の電気が消える。デスクの上のパソコンも、天井の蛍光灯も、半開きになった扉からうっすらと漏れていた廊下の非常灯も。およそ電力を使う器具の全ては沈黙した。

 「一体どうしたのよ?」

 次の瞬間三つの音が重なった。
 リツコが椅子を引いて立ち上がる音と、加持リョウジが飛び込みながら叫んだ声と、窓ガラスが割れる騒音とが。


 シュンシュンシュン


 微かに空気が引き裂かれる音がする。ドアを開けて低い姿勢で飛び込んできたリョウジは、リツコをかばうように押し倒した。割れたガラスが降り注いでくる。粉々になったガラスの破片は硬質ラバーの床に当たって妙な方向に跳ねた。


 ヒュゥーーー


 漆黒の風が吹き込んでくる。風は深夜の冷たさを吸い込んで冷たく重かった。だが肌を斬るようなこの質感は夜の闇だけを含んでいたからではない。壊れたブラインドをカタカタいわせながら吹き込んできた風はどす黒い殺気をも含んでいた。


 ガッシャンッ


 風が殺気を伝えると同時に二つの影が部屋に飛び込んできた。守るようにリツコを脇に抱えたままのリョウジは、ガラスを飛び散らせながら飛び込んでくる影を見た瞬間、迷うことなく右腰に収めていた拳銃を抜いた。


 シュンシュン


 先程空気を引き裂いたのと同じ音がする。轟音を立てることなく発射された弾丸は片方の男を確実に撃ち殺した。だがもう片方の影は右手に鋭い刃物をギラ突かせてリョウジに襲いかかってきた。

 (間に合わないっ!)

 リョウジはリツコを自分の背中に押し込みながらそう思った。
 狭い室内でも接近戦では銃よりナイフの方が強い。銃はデリケートな道具で暴発するかもしれないし、弾がつまるかもしれない。しかも抜く引く撃つのスリーアクションが必要な銃に比べてナイフはワンアクションで事を決せられる。
 リョウジは咄嗟に銃を離した。撃つ時間がない以上、銃を持っていても仕方がない。重い銃を持っていては相手の鋭いナイフに反応できないと思った。
 ナイフはリョウジの右手首を狙ってきた。一流のナイフ使いはまず相手の利き腕の腱を切断し、腹にナイフを突き立ててとどめをさすか、頸動脈を狙ってくる。リョウジが銃を持っていることを知っていた相手まず銃を封じる作戦に出た。
 もし銃を持ったままであったら何もできずに斬り殺されていたかもしれない。だがリョウジの咄嗟の判断と反射神経は彼を裏切らなかった。リョウジは迫り来るナイフの狙いを間一髪そらした。それでも殺気をはらんだナイフはリョウジの掌に突き刺さり、激痛が右腕に走る。
 だが突き刺さったことはリョウジに幸いした。一度肉に食い込んだ刃物は簡単に抜けることはない。リョウジは幸運にも相手の武器を封じると痛みを堪えながら左肘を相手のあごに見舞いった後、膝を相手の顔にぶち当て素早く銃を拾うと左手で引き金を引いてけりをつけた。

 「だ、大丈夫?!リョウ」

 「大丈夫だ。それよりどこかに隠れるような場所はないか?!」

 リョウジの声はせっぱ詰まっており事態がただならぬ状況になっていることを感じさせた。リツコは突然の出来事に狼狽しつつもリョウジの肌の温もりを感じて何とか混乱せずにすんだ。

 「隠れる場所?それなら患者の隔離室が隣にあるけど・・・・」

 「厳重な部屋か?」

 「ええ、窓もないし入り口は一つだけ。何しろ異常をきたした患者を隔離しておく部屋だから」

 リツコは戸惑いながら言うと首を上げてリョウジの顔を見た。こめかみから冷たい汗を流し、掌にナイフが突き刺さったままのリョウジの顔は真剣そのものだ。自分の知らないところで何かが起こっていた。リツコは驚きと不安と疎外感にさいまなれながら廊下に出ると隣の部屋に駆け込んだ。
 リョウジは部屋にはいると分厚い鉄扉を注意深く辺りの気配を探った。そしてうめき声を漏らしながらナイフを抜くとハンカチを取り出して手を縛ろうとする。だが痛みにむしばまれているリョウジの身体はうまく動かない。その時になってようやく恋人が怪我を負っていることに気付いたリツコは顔を青ざめながらハンカチを結んだ。

 「そんな手で銃が握れるの?」

 「まあなんとかなるさ。命中率は落ちるけど左手でも撃つ訓練は積んでいるしな」

 「あなたが拳銃を持っているとは知らなかったわ」

 「俺は内務省の役人だよ。軍人や警官じゃあるまいし普段は銃なんか持ち歩かないよ」

 リョウジは顔をしかめて抗議すると手を挙げておどけて見せた。だがその瞳は笑ってはいない。緊張感に満ちた鋭い眼光と張りつめたような神経は、どんなときも休まることなく働き続けているようだった。

 「これはやつらから失敬したものさ。向こうは物騒な連中だからな。さっきもあやうく撃ち殺されるところだったろ?」

 「さっき?もしかしてガラスが割れたのは?!で、でも銃声はしなかったわ」

 「無声拳銃さ」

 リョウジはハンカチにくるまれた右手を掲げてみせると不気味なほどに黒い拳銃を掲げて見せた。拳銃にこびりついた硝煙の匂いとハンカチににじんだ血の香りはリツコに吐き気を催させた。医者といっても精神科のリツコは普段血を見慣れているわけではない。見慣れていたとしても戦場で嗅ぐ血の匂いは病院のものとは全くの別物だ。

 「サイレンサーを内部に組み込んだ拳銃だよ。おまけにこれは弾丸から銃身、ネジに至るまで硬化プラスチックの優れ物さ。金属探知器にもひっかからない」

 「何者なの?あなた何をしでかしたの?!」

 「これから話すさ。君にも関係のあることだ。正確には君のお父さんにな」

 リョウジは音を立てないように部屋の隅に置かれた机を持ってきて入り口のところに置いた。そしてベットの脇に隠れるようにリツコを誘うと改まった口調で切り出した。

 「人類補完計画って会社を知ってるか?」

 リツコは細い指を顎に当ててしばらく考え込んだ後、首を左右に振った。リョウジはリツコ何もが知らない様子を見て安堵の色を疲れた顔に浮かべた。

 「まあそうだろうな。君のお父さんがやっていたダミー会社の一つだ。遺産相続の際、少し手伝っただろ?あの時ファイルの一つに偶然その名前があった。その時には気にもとめなかったが、冬月将軍の葬儀の日を境に人類補完計画って名前は俺の頭にこびりついたまま離れなくなった」

 「冬月将軍って、国連軍の?」

 「そうだ。俺の恩師でもあり、安全保障理事会高等参事官、国連軍中将でもあるあの冬月コウゾウだよ。俺は葬儀の日にたまたま彼のデスクに行った。そしたら偶然やつらが人類補完計画について話しているのを聞いてしまったのさ」

 「何なのよ、その人類補完計画って?それからやつらって誰よ」

 「最初に補完計画から話そう。簡潔に言えば臓器売買だ。やつらは国連を隠れ蓑にして裏で臓器売買をしている。仕組みはこうだ。まずアジア、アフリカなど地域紛争が絶えない地域に国連軍の特殊部隊ゲルヒンを派遣する。ゲルヒンはゲリラの襲撃だとかなんとか偽って僻地の村の住人を皆殺しにして臓器を取り出す。あとは専用の貨物便で裏の市場に運ぶ。国連軍の荷物には国家の査察が入れない規定がある。やつらは特権を利用してまさにやりたい放題さ」

 「それのどこに父が関係有るというの?父は国連と取引なんて・・・・」

 「マネーロンダリングだ。やつらが臓器の報酬として受け取るのはほとんどが汚い金だし、麻薬なんて場合もある。当然綺麗にする必要がある。お父さんは人類補完計画って会社を使ってマネーロンダリングをしていた」

 マネーロンダリングという言葉を口にするとき、リョウジの表情は少し曇った。リツコの父親の犯罪行為を暴露するのは、リョウジといえども多少の勇気を必要とした。

 「嘘よ!父がそんなことするわけないわ!!」

 「落ち着け。お父さんは極秘に頼まれただけだ。やりたくてやっていたわけじゃない」

 「頼まれた?あなたが言うやつらって連中に」

 「いや違う。お父さんにマネーロンダリングを以来したのは冬月将軍だ」

 リツコは目を点にした。そもそも冬月と自分の父親が知り合いであるという話は聞いたことがない。リツコ自身は冬月に会ったこともない。

 「どうして?」

 「冬月将軍とお父さんは大学時代の同窓らしい。他にも繋がりが有るみたいだが僕には掴めなかった。冬月将軍は国連軍の一部が裏で臓器売買をしている事実にだいぶ前から気が付いていた。しかし証拠もなければ詳細も分からない。だからお父さんをやつらの組織に送り込みマネーロンダリングをさせることによって組織の全貌を掴もうとしたんだ。詳しい金の流れが分かれば、どこでどのくらいの臓器が誰の手によって売買されているかが分かるからな。お父さんは何も知らないふりをしてやつらに近づいた。向こうもマネーロンダリングしてくれる人材を探していたところだったからな。お父さんのおかげで組織のメンバーやルートの全貌もほとんどが明らかになった」

 「じゃあ父は?」

 「事故死じゃない。感づいたやつらに殺された」

 リョウジはまた苦しげな表情をした。どのみち既に死んだリツコの父親が生き返るわけではないのだが、二度殺すようでなんだか具合が悪い。

 「・・・・冬月将軍も?」

 「いや、将軍は生きている。航空機事故にあったというのはやつらを騙すためさ。もっとも飛行機に爆弾を仕込んだのは向こうだけどね。冬月将軍はそれを逆手にとって死んだふりをしていたんだ。その方が都合がいいからね」

 「でもなんであなたが狙われるの?」

 「狙われたのは俺だけじゃない。君だ」

 その言葉はリツコにとって青天の霹靂だった。しかし先程から驚きっぱなしのリツコはすでに驚愕の表情を浮かべることもない。少しだけ沈黙すると眉を歪めて聞き返した。

 「私?」

 「そうだ。お父さんは金の流れを記したファイルに何重にもプロテクトをかけていた。その道のプロフェッショナルが数人がかりで取りかかってもはずせないようなやつを。そしてお父さんはそのパスワードを冬月将軍に伝える前に死んだ」

 「でもそれでどうして私が?」

 「さっきプロテクトははずせないと言ったが、実は冬月将軍の専門チームがいいところまでたどり着いている。ただし最終プロテクトだけがどうにもならない。そして最終プロテクトを解くパスワードは君とお父さんの一番大事な思い出だと言うんだ。しかしプロテクト解除にあたっていたスタッフの一人が拉致された。それで君にやつらの手が伸びた。それからやつらの組織名はゼーレだ。国連の裏に巣くうウジ虫の総称だと思ってくれればいい」

 リツコは自分の置かれた状況の概算を理解した。
 おそらくリョウジはかなり話を省いているであろう。リツコの知っているリョウジは機敏な捜査官であって、優秀な戦闘員ではない。少し気弱なところがあったリョウジが銃を握っているのだ。しかもさっきはためらいもなく人を殺した。余程のことがあったに違いない。
 リツコは目の前で人が殺され、医師である自分が何もできなかったということより、恋人が自分の父親のせいで危険に巻き込まれ、にわか戦士にならなくてはいけなかったことに心を痛めた。

 「この後どうなるの?」

 「そうだなやつらはここを包囲し、電気を切った。おそらく電話線も斬られているし、妨害電波も出している。僕たちがここにいることもその内特定するだろう。一度襲って失敗したから、マニュアル通りなら次はおそらく夜明け前だな。こっちが疲労した頃を待って総攻撃を仕掛けてくる。その後死体を運び出すか火を付けるなりして証拠を隠滅を計るだろう」

 「や、止めてよ!そんな縁起でもないこと口にしないで」

 「そうだな、でもそうなるかもしれない。悪いなゴタゴタに巻き込んでしまって・・・」

 その時になって初めて、リツコが知っているリョウジが顔を除かせた。すまなそうで少し情けなくて少年のように澄んだ瞳、リツコだけが知っている加持リョウジだ。リツコはリョウジにすがりつくとなるたけ声がでないように泣いた。

 「あきらめるのはまだ早い。君が狙われることは冬月将軍も知っている。もう少しで助けが来る」

 「来なかった場合は?」

 「二人仲良く死ぬしかないね。弾丸はあと少ししかないし、戦力が違いすぎる」

 「でも、あなたと二人ならいいわ」

 リツコは涙に濡れた瞳でリョウジを見上げた。電灯も窓から差し込んでくる月明かりもないが、うるんだリツコの瞳は輝いていた。リョウジは軽く口唇をあてて、宝石を可憐に濡らした涙をすするとそのままの勢いで口唇を奪った。腕の中にいるリツコの髪からは薔薇のような香りがした。





 コンッコンッ


 「アスカいるかい?」

 シンジは撮影開始以来、足を踏み入れていない夫婦の寝室をノックした。
 あれからシンジはろくに家に帰ってきていない。海外ロケがあったりしたこともあるのだが、撮影所の近くのホテルに泊まり込んで四六時中加持リョウジであることを止めなかったのだ。家に帰らない夜はいつも電話でそのむねを伝えてはいたのだが、アスカからまともな返答が帰ってくることはなかった。
 二ヶ月ぶりくらいに夜遅く家に帰ってきたシンジは、すぐにアスカが寝て居るであろう夫婦の寝室をノックした。扉の奥でモソモソと人が動く気配がする。アスカはまだ起きているようだった。

 「明日で撮影が終わるんだ。明日は打ち上げで帰ってこられないし、その後も映画のPR活動でテレビ局をまわらなくちゃいけないからあと10日くらいは忙しいと思う。それから再来週の土曜日に映画の試写会があるんだ。実はラストシーン以外はだいぶ前に撮り終わっていて編集もだいたい済んでいるだって。だから再来週の土曜日に監督の家でスタッフだけを集めた試写会がある。本当は関係者以外だめなんだけど監督に頼んでアスカも出席できるように言っておいたから」

 シンジは娘に諭す父親のような優しい口調で扉の向こうのアスカに語りかけた。反応はしばらくなかった。もしかしたらもう寝ているのかなとシンジが思い始めた頃、アスカの弱々しい声がした。

 「うん、分かった・・・・・」

 「それじゃ、僕は撮影所に戻るね。明日も朝が早いから」

 シンジはアスカの顔が見たかった。だが映画が撮り終わるまでアスカに触れることはしないと心に決めていた。日増しに大きくなっているであろうアスカのお腹を思うと抱きすくめてやりたくなる。張り裂けそうな気持ちを抱えながらシンジは全ての精力を映画にぶつけた。

 「・・・・・シンジ、あのね・・・・・・」

 後ろ髪をひかれるような思いで寝室の前を離れようとするシンジの耳にアスカの声が入ってきた。先程よりさらに弱々しい声だ。あと10cm距離が離れていたら聞き取れなかったかもしれない。

 「なんだい、アスカ?」

 「あのね・・・・・、えっとね・・・・・、何でもない・・・・・・」

 アスカは散々躊躇した上で結局何も言わなかった。そしてシンジもそれについて追求はしなかった。

 「アスカ、ゆっくりとお休み」

 シンジはそれだけ言うと家を出た。




 太陽が西の山々にその身を埋めている。夕陽に真っ赤に染め抜かれた町並みの一部には黄輝くような宝石が灯り始めていた。夜景というものは近くで見るとただ眩しいだけの電灯だが、暗く離れたところに身を置いて見ると宝石のような輝きを放つ。
 もう30分もすれば街は真紅から宝石を宿した摩天楼に姿を変える。リョウジとリツコはロープウェイで昇った高台の公園で、もう小一時間も変わりゆく町並みを眺めていた。

 「いつまですねてるつもりなの?」

 「別にすねてなんかいない」

 しびれを切らしたようなリツコの言葉に、リョウジはそれだけ言うと黙りこくった。高台に来てからもう3度目だ。リツコは仏の顔も何とやらといったように腰に手を当ててリョウジを叱りとばした。

 「そうやっているのがすねてる以外の何だっていうの?!いつまでもショボショボしてるんじゃないわよ」

 「でもゼーレの首魁キール・ロレンツは結局のところおとがめなしだ。証拠不十分だと?疑わしきは罰せずだと?ふざけるのもいい加減にしてくれよ!子供はおろか赤ん坊さえ殺して臓器を取り出していた人間を野放しにして置いてなにが法の番人だ!」

 リョウジはそう吐き捨てると、鉄册に組んだ腕に顎を乗せるとだだをこねる子供のように背を丸めた。

 「でも私達は命が助かっただけ幸運よ。あの晩はもうこれまでだと思ったわ」

 リツコは何を言っても効果が出ないようなので、リョウジの隣で同じ格好をすると首を傾かせて頭を恋人の腕に委ねた。
 ゼーレに追いつめられ大学の病棟で死を覚悟したあの日、太陽が昇っても敵が攻めてくることはなかった。腕の出血と疲労で意識が朦朧となったリョウジと緊張感と死の恐怖に怯えていたリツコを明くる朝迎えたのは、地上のことなど気にもとめずに輝く太陽と敵特殊部隊を自ら鎮圧した冬月の静かな笑顔だった。
 その後パスワードを解き全貌を掴んだ冬月は、隠密裏に安全保障理事会の議題にこの問題を乗せる。だが国連首脳国の奥深くまで伸びたこの問題が表に出ることはなかった。ゼーレのトップ、キール・ローレンツ国連軍大将の引退と実行部隊であったゲルヒンを乗せた輸送機が事故で墜落、乗組員は全員死亡ということが全てだ。後は闇に葬り去られたまま、永久に封印されることであろう。
 全てが明るみになればリツコの父親や冬月の犯罪行為も暴露されてしまうことになるので致し方ない処置ではあるが、トカゲのしっぽ切りのようにゲルヒンだけを事故死させてしまう処分にリョウジは納得ができなかった。
 リョウジ自身にも処分があった。何しろ日本の内務省捜査官という場違いな身分でありながら事件に首を突っ込み、長らく無断欠勤していたのだからこのままで済むわけがない。リョウジは国連特殊監察部に名目上は栄転ということになり来月の頭には海を渡ってニューヨークに赴く。知的で静かな瞳を持った最愛の女性と共に。
 新天地での生活は陰惨な過去を少しは和らげてくれることであろう。口うるさく潔癖性の美人と一緒に生活することになったリョウジには、幸福な災難が降りかかるかもしれないが。


 ヒュゥルルルルーーー


 すっかり秋の静けさと冷たさを含んだ風が二人の心を洗い流していく。少し寒気がするが清涼感のある秋風は今の二人には丁度良い風だった。

 「ねぇ、僕?少し早いけど飲みに行きましょうよ」

 リツコはいたずっらぽい瞳を作ると、綺麗にマニュキュアされた右手の人差し指でリョウジの顎を跳ね上げた。
 魔法をかけられたようにリツコの方を向かされた視線の先には、艶っぽく濡れた瞳が夕陽を受けて輝いている。リョウジは30秒ほど宝石のような瞳に見とれた後、濃いめのルージュが塗られた口唇に自分の口唇を重ねた。
 長く伸びた二人の影が重なる。
 一つになった影は高台に生い茂るアカシアの木々の影に飲み込まれても不思議と消えることがなかった。いつまでも変わらぬ二人の心を移しだしているかのように。


 

END


 パチパチパチパチッ


 映画の幕が下りてスタッフロールが出始めた頃、どこからともなく拍手が巻き起こった。誰のためというわけではない。この映画を作り上げた人全員に、そして満足のいく作品を作り上げた自分に向けられた拍手だ。
 どこからともなくわき出した拍手が頂点に達した頃には感極まって泣き出すスタッフもいた。シンジはまずケンスケと堅い握手をすると抱き合い、次にマナと抱き合った。マナと抱き合った時の感情に恋愛感情はまるっきりない。ケンスケと抱き合った時と気持ちは一緒だ。その後監督が握手を求めてきた。まるで少年がそのまま大きくなったような監督はシンジと精一杯力を込めた握手をするとオイオイと泣きだし、周りを涙の渦に巻き込んでしまっていた。

 (あれ?アスカがいない・・・・)

 歓喜の輪の中心にいたシンジは試写の時は自分の隣に座っていたアスカがいつのまにか見あたらないのに気が付いた。すでに3ヶ月を越えているアスカはかなり目立つ。それでなくても日本人離れしたアスカは目立つのだが、お腹が大きくなってからどこにいてもすぐに分かるようになった。

 「シンジ」

 辺りをキョロキョロ見回しているシンジに気が付いたケンスケは、軽く肩を叩くと親指で自分の背後を突き刺した。ケンスケの背後にはバルコニーがある。郊外の瀟洒な一軒家である監督の家は広いバルコニーとそれに続く洋風の庭を持っていた。

 「あ、ありがとうケンスケ」

 シンジは全てを察していたケンスケに礼を言うとドアから飛び出した。バルコニーから探す間もなく、庭のベンチで風に吹かれていたアスカを発見することができた。

 「あ、あのアスカ・・・・・」

 階段を駆け下り、アスカの元にたどり着いたシンジはそう言ったきり何も言えなくなった。月明かりに照らされたアスカの蒼い瞳は沈黙の魔法を秘めているのであろうか?

 「何?シンジ」

 用向きは分かっているにもかかわらずアスカは聞き返した。その口調が小悪魔っぽいいつものアスカに戻っていたのに安心したシンジだが、言葉はうまくでてこなかった。

 「ええっと、だから・・・・、その・・・・」

 アスカの隣に座り込んだシンジは身振り手振りを交えて何とか言葉を紡ぎだそうとするのだがうまくいかなかった。夜風に3分ほど旅をさせた後、シンジがやっと絞り出した繋がりのある言葉は全く平凡なものだった。

 「映画どうだった?」

 アスカは二度まだたきをした。シンジはつぶらな瞳が瞬きをする度に心臓が飛び出るのではないかと思うくらいビクビクしてしまった。

 「全体的には良かったわよ」

 「そ、それだけ?」

 わざと答えを伸ばしているようにしか思えないアスカにシンジの心は大きな波をたてた。何しろこの映画でアスカの納得するKissシーンを演じられなければ役者を止めるとまで言い切ったのだ。しかもKissシーンはあの後二ヶ所付け足されて合計三つ。その一つでも最上の演技でなかったらシンジの役者生命は終わりだった。

 「Kissシーンは最低だったわね」

 散々答えを焦らしたアスカは唐突にメガトン級の爆弾を落とした。シンジは目をパチクリさせた後、アスカの言葉を理解するとガックリ肩を落とした。あれほど精魂傾けた演技が最低だと評されたのだ。やっぱり自分は俳優には向いていないのか?シンジは絶望感にさいなまれた。

 「だってマナ相手にあんなに素敵なKissをするんだもん。ずるいわシンジ」

 シンジはアスカが何を言ったのかよく分からなかった。言葉はきちんと鼓膜を振るわせていたのだが、頭の中でうまくつながらなかった。鳩が豆鉄砲を食らったような反応をしているシンジをみてニタッと笑ったアスカは小悪魔チックな表情になった。

 「どうしてマナにあんなに素敵なKissができるの?アタシはあんかKissしてもらった覚えはないわよ。撮影の時は何を考えていたの?」

 アスカは少しすねたような照れたようなからかっているような声でシンジに迫ってきた。お腹が大きくなっているので急に抱きついたりはしないが、隣で目を丸くしているシンジの肩に肘を乗せると艶っぽい仕草で顔を寄せる。

 「どうしてって、だから、えっと・・・・、あの時は・・・・」

 「あの時は?」

 「あ、相手がアスカだと思って・・・・・」

 アスカは少し驚いたような顔になってにじり寄るのを中断した。役に没頭していれば日常生活のことなど思い浮かばないだろうと思っていたアスカにとってその言葉は多少意外なものだった。

 「ラ、ラヴシーンの時はいつもそうなんだけど、役の人物だったらアスカをどうやってくどくんだろう?役の性格だったらアスカにどんな風にKissするんだろうって思いながら演じるんだ。だから相手がマナであろうが誰であろうが余り関係ないんだ」

 シンジはアスカの顔と地面を交互に見て、しどろもどろになりながらようやくそう言った。

 「きゃはっ!もうシンジったら」

 アスカはまるで学生の時のように屈託のない笑顔を浮かべるとシンジの首に抱きついてきた。シンジの鼻孔にアスカの匂いがつく。つややかな紅茶色の髪が匂い立つようにシンジの目の前に舞い降りてきた。そして膝の上においた手には柔らかなお腹が。
 シンジは全身で柔らかくアスカを受け止めると幸せを実感した。

 「シンジ?」

 「え、な、何?」

 「次のお仕事も頑張ってね」

 「え、じゃ、じゃあ?」

 シンジが歓喜の表情を見せるとアスカはニッコリ笑って瞳を閉じた。シンジは映画の時とは違って愚直に身体を強ばらせると不器用なKissをした。
 触れ合う口唇と口唇。口唇を通じて伝わる二人の思い。
 ほほえましく重なり合う二人を見ていたのは雲の間から少しだけ姿を覗かせた月と、アスカのお腹の中で新たな胎動をを見せる子供だけであった。








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ver.-1.00 1997-10/25 公開
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 長い・・・・長い・・・・、とにかく長かった。量に関してもそうでしたが一変に二本、いやそれ以上を書いたような気分です。小説内ロードショーとでも言うのでしょうか?うまく書けたかどうかは不安ですし、内容も中途半端になってしまったかなと思うところもあるのですがいかがでしたでしょうか?
 前回の短編では大家さんにまともなコメントがもらえなかったので今回は地味な雪辱戦です(笑)。一応続編という形になっていますが、どこかに話の矛盾があるかもしれません。僕はチェックしたつもりなのですが、もし見つけたら教えて下さい。
 題名についてはGLAYに悪のりしてしまいました。だからといて、次はグロリアスだとかBELOVEDなんてことはないと思います。間違いなく、多分、おそらく、・・・・でもやっぱり自信がないです。もしかしたらまたやってしまうかもしれません。今度はレイものの短編を書くなんて言っていたのですが僕はレイを書くのが苦手でうまくいきません。アヤナミストと方々すいませんね。でも綾波レイというキャラがうまく掴めないんです。
 映画の中で加持の恋人役がリツコだったのは精神科医で細やかな性格という役柄からです。あと最近リツコが結構お気に入りなので。
 それではここまでお読みいただいてありがとうございました。


 MEGURUさんの
 【めぞんエヴァ30万HIT記念で実は「HOWEVER」の続編かもしれない謎の記念小説 】

「口唇」、公開です(^^)
 

 シンジのキスシーンにやきもちを焼くアスカちゃん。
 自分のキスシーンに徹底抵抗するアスカちゃん。

 一途な思い!

 

 

 どんなに素晴らしい作品でも、
 どんなに美しい映像でも、

 アスカちゃんの視線は一点。

 
 
 自分に出来ることを
 自分のやり方でやるシンジ。

 きちんとその”思い”と”視線”を受け止めました(^^)
 

 不器用なKiss、とっても素敵なKissでした(^^)/

 

 
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