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まるで落雷のような音と衝撃が、その家の窓を叩き食器棚をカタカタと揺らし、続けざまにティンパニを連打したような音が、その少女の心臓に叩き込まれた。
淡い栗色の髪を揺らし水色の瞳が窓の外に向けられるが、遙か彼方で上がる黒煙を目にするとすぐに目を逸らした。
そこで何が行われているのかおおよその見当は付いているし、正確なことを知っても彼女ではどうすることもできない。
自分の持っている力、自分の知っていること、自分の持っている物全てでも何の役にも立たない……その事実はつい最近、嫌と言うほど思い知らされた。
だから膝を抱えリビングの片隅で、繰り返し緊急放送を流し続けるTVと共に、何時か全てが終わるのを待っていた。

迷子が歩き続けた足を抱え、途方に暮れたように座り込んだ……今はまだ立ち上がれない。
誰かの迎えを待つ迷子、誰が彼女の手を引くかまだ決まっていない。








26からのストーリー


第二十七話:激震(後編)





頭痛がするのは慢性的な寝不足のせいだ、胃が痛むのは一昨日飲み過ぎたせいだ、奥歯が痛むのは歯医者に行く暇がないからだ……身体の訴える不具合全てにその辺から適当に拾ってきた原因を無理矢理くっつける。
そうすることで急性的なそれらの症状を目前の出来事のせいにせずに済んだ。

「零号機前へ! 初号機一旦引いてっ……陸自のヘリに合わせて回避運動して! 」

彼女の頭に引っかけたハンドフリーのマイクを握りしめ、些か掠れ始めた声に鞭打ち指示を飛ばす。

「目標との距離50、初号機有効攻撃範囲から外れました。目標は5〜15番兵装ビルの射程に入ります……」
「射線から初号機待避終了次第即攻撃させて。タイミング判断は青葉くんに一任するわ、好きにして良いわよ」

今までの使徒迎撃戦に楽勝の二文字はなく圧勝の二文字は影を潜め、ただ苦戦の二文字が常にモニターで踊り、辛勝の二文字で締めくくられている。
惨敗の二文字がないだけでも救いなのだろう……もっとも書き込まれたとしてもその時は、読む事の出来る奴など果たしているのだろうか。
今回の使徒迎撃戦も多聞に漏れず苦戦の文字がモニターと指揮官たる葛城ミサト三佐の顔に色鮮やかに浮かび上がっていた。

「空挺隊から連絡は? 敵データが少なすぎるわよっ。せめてATフィールドの情報送らせて」

長い黒髪を疎ましげにかき上げて現れた苛立ちの明らかな横顔が、オペレータの日向二尉の目に映った。
それが怒りの顔に変わらない内に彼は情報を揃えなければならない必要性を感じ、現場上空で飛び回っている面々に連絡を付ける。
NERV空挺隊の彼等とてさぼっているわけではなく、下手に近寄れず情報収集に四苦八苦しているのだが、それを承知の上で文句を言わねばならないときもあるのだ。
そんなやり取りの傍らでは、兵装ビルの制御要員と青葉二尉の連携が上手くいかず、半ば喧嘩腰のやり取りが専用無線を通じて行われていた。
だがこの程度の問題は取るに足らないこと、本当に重大な問題は第三新東京市地下のNERV本部発令所メインモニターの中に極彩色で描かれていた。

「さてどうすっかなー……シンジ君、まだやれるわね? 」

使徒と人類の戦場で頼りなさげに右往左往する初号機のパイロットから通信が届く。
モニターに映る年端もいかない少年の姿は、大人達がせわしなく動き続ける発令所内において異質に見えるだろう。

『まだまだっ。でもエヴァが言うこと聞かないんだ! 調整終わってないじゃないか!! 』
「間に合わなかったのよ、何とか誤魔化しながら乗って。レイに前衛任せてシンジ君はバックアップに入って」
『大丈夫だよ、ちょっと動きづらいだけだ。今度こそ叩き斬ってやるんだっ』

熱病に冒されたような根拠のない自信を目にちらつかせながら、アクティブソードを構え直しコックピットの中で息巻いている。
普段の彼を知る者ならその異常さに気付くだろう、無論ミサトも気付いていたし、それこそが今回第九次使徒迎撃戦の苦戦する原因ともなっていた。
著しいシンクロ率の低下、それは前回の使徒迎撃戦の直後から起こっていた。
あの戦いで使徒に取り込まれたシンジの身に一体何があったのか、エヴァに乗ることの出来ぬ身には理解できないが、少なくとも彼の急激な変化の原因がそれだろう。
何もしなかったわけではなく、関係者の誰もが対応策を考えたのだが、考えただけという結果に終わっている。

「イイ、シンちゃん良く聞きなさいよ。叩っ斬るのはもう少し後、今レイと陸自で殴り倒すからトドメはシンジ君お願いね。トドメ差すのは零号機じゃ無理だから」

肥大化した自我と奇怪なほど膨れ上がった自信、今のシンジが『正常』でない以上命令で制御するのは難しい、なだめすかして作戦行動をとらせるのが最善だ。

……これが人類の存亡を掛けた軍隊のやることか……

口にしないだけ陰に篭もる、やり切れない苛立ちがミサトの体内で無限に増殖する。
エヴァ不調の原因となったシンクロ率の低下の責任はシンジにはない、むしろ正常でない彼をパイロットとして使わざるを得ない自分達こそ責められるべきだろう。
たった二名のパイロット、たった二機のエヴァしか用意しない上位組織たる補完委員会も責められるべきだ。
足らない人員、足らない時間に足らない情報、そして手に余る敵……
ミサトは眉間に皺を寄せたまま、改めてメインモニターに映し出される敵を眺めた。

「しかし、アレって一体なんだろうね……リツコ、まだ解析でないの?」
「……今そっちに転送するわ、現状じゃこれで手一杯よ。後は情報待ち」

今まで出現した使徒、その形状と特性は一言では言えぬ程実に様々で、逆にそれが戦術を難しくしている。
過去の戦闘データの蓄積が殆ど役に立たないのだ。
どの攻撃方法が最も有効なのか、どの兵器が最も効果的なのか、敵の耐久力や攻撃力とその手段、索敵能力に行動範囲……全てが毎回違うので毎回出たとこ勝負となる。

「にしても……あれじゃまるでエヴァじゃない……」

モニターに映し出される巨大な影、人影と言った方が正確かも知れない。
黒い模様の走った灰色の巨体、頭部には感情のまったく見えない眼球らしき突起物、四肢と身体の比率は人体にかなり近い数値を持っている。
そして身体前面に張り付いたような装甲板のような物……

「それ間違えないのね? アレがATフィールドだって言うのね? 」
「ええ、反応がそうだわ。狭い範囲に限定して展開されてる超高密度のATフィールド……破ろうと思って破れるもんじゃないわよ」
「ちっ……でも他は剥き出しなんでしょ? だったらそっから攻撃してやるわよ! 」

ATフィールドと呼ばれるあらゆる物理攻撃を中和してしまう位相空間、かつて出現した使徒はそれを本体周囲全面に展開させていたが、今度のように局所的な展開を見せた使徒は初めてだ。
胸と背中、腹部、四肢関節各所に肉眼で確認できるほど強力なATフィールドが存在している。
さながら無敵の鎧を纏っているように……いや、無敵そのものだろう、現在投入できる火器でこの鎧をうち破れる兵器は存在しないのだ。
その姿に何か意味があるのか……ミサトは考え始めたものの、すぐに放りだし零号機のレイと陸上自衛隊特別編成部隊に一斉攻撃の指示を出す。
全てが正体不明の使徒、その行動に意味を見出そうとしても無理なのだ。
TVでは巨大生命体と報道しているが、実のところ『生命体』なのかどうかすらまるで解っていない、生命体らしい特徴は備えているものの同時に否定する特徴も備えているので、リツコ辺りは未だ断言を避けている。
目の前の出来事に無理矢理意味をくくりつける愚は犯さず、最も人間の形に似た使徒への攻撃命令を下した。




*   *   *   *




第三新東京市に使徒と呼ばれる巨大な物体が出現下のは今回で九回目だ。
その度に陸上自衛隊の「活躍」により迎撃鎮圧に成功している……少なくともTVを始めとして各マスメディアではそのように報道している。
勿論全長40メートルを越す巨大ロボット二機が、市街地のすぐ側で迎撃と称し暴れるのだから、目撃者が存在しないわけではない。
ただ避難命令のお陰でその人数はごく僅かだし、その声が各マスメディアに乗ることは絶対になく、その人物のお喋りが過ぎれば「第一種避難命令対策特別措置法」の元に拘束される。
その成果があったのかどうか不明だが、今のところ巨大ロボットの存在は、善良なる一般市民の間で事実としては広まっていない。

もしかしたら彼女もその括りの中にもう一度入っていたい、何処かでそう望んでいるのかも知れなかった。

小刻みに振動する食器棚を虚ろな目で眺め続けてどれくらい経っただろう。
避難命令が出ている以上、彼女がここに居ることは許されない、が、今のところ警官の巡回も自衛隊の見回りも訪れなかった。
ただ一人だだっ広いリビングで何するでもなく、まるで置物のようにそこにいた。

「……避難命令か、逃げなきゃいけないのにね……」

何故そうしないのだろう、惣流アスカ・ラングレーは青色の瞳で時計を眺めながら、ぼんやりとした頭で逃げない理由を考えている。
……意味など無いのだ、無意味だ、何度考えてもそんな答えが自分の中から返ってくる。
自分がここにいてもあの騒ぎのど真ん中にいるシンジやレイのためには、何一つならないのだ。
ともすれば彼等の足を引っ張りかねない、どう考えても自分は避難所にいるべきなのだ。
解っているがどうしても頭を離れない願望が怪しく忍び寄ってくる。
……ミサイルがこっちに飛んで来ればいいのに……

きっと一瞬だろう。
アスカという自分が消えるのはきっと一瞬だろう、その妄想が途轍もなく甘美に思えてしまう。
価値の無い自分など消えてしまっても惜しくはない、無価値だからこそ何も教えて貰えなかったし、無価値な自分に気付きもしないまま過ごしてきたのだ。
シンジやレイ、ユイやゲンドウに対して何一つ存在理由を示せない……碇家の中でただ一人自分だけが知らされなかった事実。

まるで微震が続いてるかのように、食器棚は細かく揺れ続けている。
今頃シンジとレイはあの大きなロボットに乗って、あの大きな化け物と戦っているのだろう。
自分などが関われる世界じゃない、ずっと一緒に住んできた少年がどれほど苦しんでも何一つしてやれない世界だ。
だからシンジにとって自分など無価値なのだ。
今までどれだけの時間、どれほど多くのことで彼に関わってきたとしても、最も大切な部分では何一つ関われなかった。
それを裏付けるようなさっきの彼の態度、もうアスカには何もかもがどうでも良くなっていた。

遠くの爆撃音だけが耳の中に響いていく。
日常からかけ離れた世界が避難命令中のこの町に出現し、いつの間にか異次元にでも迷い込んだのかも知れない。
あのシンジは別世界のシンジで、本当の彼はここではない世界で自分の帰りをいつもの部屋でレイと一緒に待っているのかも知れない……あり得ない幻想を垣間見た途端、涙が溢れ出してきた。

爆発音はいよいよその間隔を狭め、あたかもドラムロールのように音のしない街に鳴り響く。
そして非日常的な音に混じって、まったく種類の違う聞き馴染んだ音がアスカの耳に飛び込んできた。
今までずっと聞いてきた足音だ。

「アスカッ、こんな所で何やってるの! 」

虚ろな蒼い瞳は今まで母親のように慕っていた人影を映し出した。

「ほら立って! すぐ避難所に向かうわよ。一体何やってるのよ」

その人がユイという女性で碇シンジの母親で、そして……自分の母親代わりの人、向けられた目はすぐにそらされた。
この事態にいたってなお外に居続けるアスカの行為に、何の正当性もないのだ。

「……あたしは大丈夫だから放って置いて。別に心配はいらないわよ」
「何が大丈夫なの、そんなところに座ってないで早く一緒に……」
「だからほっといて! 別に心配する振りなんかしなくて良いわよ。あたし独りだって気にしてないし……第一おばさまにはあたしがどうしようと関係ないわよ」

ユイは小さく溜息をつく。
この少女がそこまで言う原因は解っていたが、今その誤解を解く暇はないのだ。

「話は避難所でゆっくり聞くから今は一緒に逃げて」
「別に良いじゃない、あたしは一緒にいてってお願いしてるわけじゃないんだから放っておけば……死んだって気にすること無いわ」

普段のアスカでは口にしないだろう台詞、鬱病の初期症状が現れ始めているのだろうか。
彼女の周りにあった僅かな事実の欠片に触れた、それは硝子の欠片のように鋭くて……
今のところ鬱病と称するにはまだごく軽度だ、落ち着けば今のパニック状態を回復し正常な判断を下せるだろうが、それを待つだけの余裕はない。

「力ずくでも連れて行くわ。ほら立ちなさい! 」
「放って置いて! あんたなんかに助けられたくないっ、嘘つきの癖に! みんなあんたのせいよ! シンジがあたしを無視したのだってあんたのせいよ! 」

恐らく感情だけで発したのだろう、力ずくでも避難所に連れていこうと決めたユイの妨げになる物ではない、が、まるで凍り付いたように動けなくなった。
あんたのせい……ユイにとっての呪詛の言葉だ。

「さっさと逃げなさいよ、あんたも無視すればいいじゃない……どうせ無価値なんだから! 」

精神的なアンバランスが出ているのか、アスカの目つきが微妙におかしい。
それをある種の前兆と理解できるユイには、辛く耐え難かたい事だった。

「……いいわ、それじゃお茶でも入れましょ。アスカもいらっしゃい、今何かお茶請け出すわ」

ある種の決意に似たものを秘め、ユイはリビングへと向かう。
いつここまで迎撃戦の被害が及ぶか解らないが、彼女一人で暴れるだろうアスカを避難所まで引きずっていくのは無理だ。
巡視警官や監視警備中の自衛隊員の手を借りる事もできるだろうが、それをやればアスカは二度と心を開かないかもしれない。
それ以上に彼女の状態は、急激に特定の方向へ悪化している恐れがあった、余計な刺激は与えたくない。

「何してるの? アスカもお茶飲むでしょ。もうすぐお湯が沸くからこっちにいらっしゃい」

努めて日常的な声で誘う。
普段からこの時間はアスカやレイがいれば夕飯前のお茶にする時間だ、何となく思い出したように蒼い瞳の少女はいつもの自分の席に座る。
不思議な気分だ、こうしていつものようにテーブルに付くと、心の中が元のようにゆっくりとした流れを取り戻していく。

「紅茶で良いわね、お菓子が煎餅しかないからその内買いに行かなきゃ」

ユイのノンビリとした様子は普段と何ら変わらなく、ティーカップに注がれた紅茶もいつもと同じ香りがした。
一口、二口……琥珀色の茶を飲み込む度に、静かな日常が染み込んで来るようだ。
無論現実は何一つ変わらず、爆撃音が響く度に食器棚は小刻みに揺れていた。
秒針が進む度にそれは酷くなっていく、下手をすればこの辺まで被害が及ぶかも知れない。
いつまでもそうそう一般市民が無傷で居られる訳でもないだろう。

「さっさと逃げればいいのに……」
「じゃあ一緒に逃げる? それならわたしも今すぐ一緒に逃げるけど」
「何で一人で逃げないのよ……今更気を使う必要なんか無いじゃない、もう心配する振りは止めてよね。鬱陶しいのよ、本当は何とも思ってない癖に」

落ち着いたように見えてもまだ心理的な揺れがある……いや、常に動き続け本来の軌道から確実にずれ始めていた。
口にする言葉には、今までここで過ごしてきた十年間の生活が裏返って凝縮されている。

「エヴァ、ネルフ、使徒、シンクロ率、迎撃戦……フフフッバッカみたい、フフフフッ……アハッハハハハハ」

テーブルに伏せて笑い転げる少女の姿がユイの目に冷たく映り、彼女の背中を汗の一滴が伝わった。
鬱病初期、そんな精神医学誌に載る病名などではないのだ。

「ねえ……フフフッおばさま知ってる? シンジったらあたしのこと無視するのよ……あんな物に乗れるからって……偉そうなの、フフフッ……レイと一緒にあたしのこと役立たずってバカにしてるのよ……ふざけないでよ! おばさまもあたしなんかいらないって思ってるのよ!! 」

薄いティーカップはアスカの手で投げつけられるとテーブルで簡単に砕け、更に薄くなったカップの破片はユイの頬に赤い筋を作った。
飛び散った紅茶は二人の服を汚した。
ユイはただ黙ってその様を見つめている。
今のアスカに鬱病の処方箋など何の意味もない、医師に見せたところで解決策など持ち合わせていない。
普通の人間が掛かる病ではない……病気ではないのだ。

……自己破壊が始まってるのね……










膠着状態、ミサトは三回同じ単語を忌々しく吐き捨てると、三倍増しの砂糖が入ったコーヒーを飲み干した。
使徒進攻は二機のエヴァと十機を越すヘリ部隊、林立する兵装ビルによって辛うじて都市部進入を阻止している。
迎撃戦が始まってからかれこれ一時間、リツコは感心したように呟いた。

「過去最長時間ね、そろそろレイの方が限界よ。エヴァだってそろそろ電源のプールが効かなくなるわ」
「で? 限界ならそれを伸ばす方法教えてよ。電源は周辺の発電所から最優先で回させて、町の一つや二つは停電させて構わないわ」

兵装ビルとヘリ部隊の援護射撃、そして零号機の突入……そして反撃。
さっきからそれを繰り返しているだけの戦い、負けていないのではなく勝てない状況が続いている。
どれもこれも初号機をまともに動かせないせいであり、その腹いせをパイロットに押しつけるわけにも行かず、ミサトの苛立ちは今のところ出口のない袋小路で悶々としていた。

「取り敢えず打開策考えないと……」

いつもならATフィールドを中和して剥き出し状態になった使徒を集中砲火するという、大雑把ではあるにしろ基本方針があった。
だが今回はそのATフィールドが局所的に展開され、それが極めて強固で、尚かつ初号機の出力不足もあって排除できない。
それ以外の剥き出しの部分への攻撃は、命中こそしている物の効果は薄く、使徒の動きにダメージは感じられない。

使徒……本当にそうなのか、ミサトの胸に黒々とした雲が覆い被さる。
ヒトと同じ姿、エヴァと同じ姿を持ち、おまけにATフィールドで装甲のように身体を覆っている使徒。
使徒、エヴァ、ヒト……その間に一体どんな繋がりがあるのだろう。
馬鹿げた妄想がミサトの脳裏を過ぎるが、忘れた振りをしても数分後にまた過ぎる。
エヴァはヒトの作った物だ、だが使徒は違う、なのに何故似るのか。

「……この間取り込んだときに情報を抜いた? 使徒の間である種の意志疎通があるっていうの? 」

そう思った瞬間無視し得ない一つの疑問が浮かび上がる。
何故使徒は一体ずつしか出現しないのか、何故複数で現れないのか。
もし人類が敵というのならわざわざ一体ずつ手加減するように出現する必要は無いはずだ、三体も出てくれば勝ち目はないのだ。
もし自分の妄想通り使徒の間での連絡手段が存在するなら、きっとそうするだろう。
何故ここ第三新東京市にだけ訪れるのか、来て何をしようとするのか、それと何か関係あるのか。
使徒迎撃戦に携わる身でありながら、肝心な部分の情報がぽっかりと抜け落ちている。
解らないのか、それとも知らされていないのか……ふと視界の端に映したNERV司令と同僚の顔を見比べた。

……単体出現は手加減されているから? 人為的な物って受け取った方が自然か……

取り敢えず今はその事を追い払い、現状を何とかしなければ本末転倒だ。

「装甲って守りたい部分に付ける訳よね。ってー事はアレを引っ剥がせば弱点丸出しって訳か」
「どうやって剥がすの。今のままじゃ剥がすどころか近づく事さえ困難なのよ? 」
「そこをどうにかするのが人類の知恵と勇気よ。取り敢えず使徒の詳細な外観図だして」

サブモニターに3D化された使徒のCGが映された。
目視確認出来るほど強力なATフィールド、それは使徒本体に張り付いているわけではなく、僅かな隙間を開けて宙に浮くように存在しているようだ。

「日向くん、この隙間に何とか攻撃できないかしらね」
「ヘリじゃ無理ですね。ミサイルではとてもじゃありませんけど狙える物じゃないし」
「エヴァではどうかしら? 接近出来るかが鍵なんだけど」
「……零号機のみでの接近は不可能でしょう、今も跳ね返されてますから」

軽く舌打ちすると、改めて現在の戦力不足を痛感した。
試作機の零号機、プロトタイプの初号機、だが未だ完成機は配備されずパイロットもたった二名だ。
現にシンジ一人が不調なだけでこの有様では、防衛組織としてはあまりにお粗末だろう。

「後二機ぐらい欲しいわね……って愚痴ってもしゃーないか。初号機の方が耐久性あるから正面から組ませ、零号機はその間に接近して隙間から攻撃……頭痛いわね、まったく」

自分でも嫌になるようなデタラメさだが、装備、人員、情報共に限定されている以上、これ以外の作戦は思いつかない。
対処すべき事の大きさに対して不足する物が多すぎる、ミサトのような立場にある者誰しも一度は感じる不満だろう。
攻撃プランを立て直しながら全部投げ出して傍観者を気取っていたい、そんな気分に何度陥ったことか。

「シンジ君、レイ、良く聞いて。そろそろカタ付けるわよ……シンジ君は正面から使徒と組み合って。レイは本体とATフィールドの隙間をパレットガンで攻撃。多分そこにコアがあると思うわ」
『ちょっと待ってよ、何だよその大雑把な作戦! もっと他に……』
「ないのよ、第一不調の初号機と出力不足の零号機じゃATフィールド破れないし。今使徒のデータ転送するから」

中学生の部下に呆れられるようでは……自分自身で本当に嫌になる、だが、じゃあお前が考えろと言える立場でないことは充分わきまえている。
誰も居なければ発令所内を叩き壊したいぐらいなのだが、怒鳴りもせず黙々とこなしているのだ。

「マヤ、聞いたわね? すぐにデータ転送して。日向くんはプランを司令に転送して承認貰って、青葉くんは兵装ビルとヘリを連動させて、ファイル51番のフォーメションで良いわ。あたしゃあの子達にもう少し説明してるから」

ようやく指示系統が倒すために動き出した、と言うよりこれ以上時間が掛かれば事態は更に悪化する。
まだ体力のあるうちに勝負を仕掛けたいというのが本音だ、決め手もないうちにそこまで追いつめられたというのも本音だ。

「各隊にプラン転送終了。いつでも動けます」
「どのみち使徒からは動いてくれないわ。こっちから仕掛けないと……先手打つわよ! 」

発令所内を始めシンジやレイ、ヘリ部隊の間に緊張が走る。
この攻撃で終わらせてやる、そう誰もが思い、軽い高揚感に似た興奮を覚えていた。




*   *   *   *




避難命令発動中の第三新東京市は全ての機能が停止している。
市街に繋がる道路は国道県道問わず全て閉鎖され、勿論鉄道各線も運行を停止していた。
駅にいた乗客達は全て駅に設置されている避難所に逃げ込み、避難命令の解除を待っている。
中には旅行に行く寸前でこの騒ぎで足止めを喰らった家族もいた。

「あーあ、コダマ姉ちゃんは車で先に行ってるんだよね……一緒に乗っていけば良かったなぁ」
「ノゾミすぐ車酔いするじゃない。この間だって十分ごとに車止めたんだから」

その姉妹は頭上で行われている非常識な戦いを心配するよりも、おばあちゃんの家に行くべき交通手段の選択を少し後悔していた。
後十分あの化け物が待ってくれれば、電車は何の問題もなく市内を抜けていただろう。

「ごめんねヒカリちゃん、付き合わせちゃって」
「良いよ別に。あたしも渋滞に巻き込まれるの嫌だったから」

普段は生意気とさえ思う妹も流石にこんな状況だとしおらしくなるようで、一人では道中寂しいだろうからと付き合ったヒカリに心から感謝している。
もし一人だけでこの場にいたら、とてもじゃないが無駄口を叩く心理的余裕はない。

「そろそろ繋がると思うからお父さん達の所に電話してるね」

ヒカリは兎に角最優先で両親との連絡をすることにした。
恐らく避難命令でさぞ心配しているだろう、流石に直後は回線が混雑したのか連絡を取ることは叶わなかったが、そろそろ回復した頃だ。
携帯電話のボタンを押すと、すぐにコールが始まり、姉の車に乗車している心配そうな両親の声が聞こえた。

「……うん、こっちは避難所にいるから大丈夫よ、ノゾミも一緒。そっちは……うん、じゃあ向こうの家で落ち合うね、復旧したらすぐに行くから」
「ヒカリちゃん、あたしも出るから代わって! 」

妹が気の済むまで話をした数分後、携帯電話がノゾミの手の中ですぐに鳴りだした。

「はい……ヒカリちゃん?今代わります」

何となく意味ありげにそれを訝しげな顔のヒカリに手渡す。

「何よ、もう……ハイ、あ、鈴原……くん?ヤダ、どうしたの?」
『どうしたもないんやけど……ほれ、避難命令出たやろ? どないしたか思って……もうばーちゃんち着いたんか?』
「ううん、まだ第三新東京市にいるの。電車が出る間際に避難命令が出ちゃって……それで足止めよ、やになっちゃうわ」
『ほうか、そら災難やなぁ。せやけどしゃーないか……ワイ等も缶詰や、おまけに妹とその友達もおってな、やかましゅうてかなわんわ』

そのせいか、背後から子供の声が聞こえるのは。
冷やかすようなノゾミを手で払いながら、単なる同級生ではない相手との会話を楽しんだ。
彼女でもいくら避難所とは言え、妹一人連れて家族と離れているのはやはり心細い。

『何や、無事なら兎に角ええわ。ほな電話切るよって……何ぞあればすぐ言いや、そっちに行くから』

今の状況下での『何か』ならトウジが来たところで何の役にも達はしないだろうが、そう言ってくれたことが嬉しかった。








新しいカップに新しく注いだ紅茶が揺れた。
現在の所外の戦闘は小康状態なのだろう、気味の悪い静けさが先程から続いていた。
それに応呼するようにアスカの状態も落ち着きを見せ始めている。
少なくともその表情は落ち着いている。

「そのお煎餅、この間お隣が旅行行ったときのお土産なのよ」

たわいのない会話を先程からゆっくりと続けていた。

「ねえ……あたし一体どうなってるの? さっきから頭の中グチャグチャになってる……」
「ちょっと混乱しているだけよ、ゆっくり物事を考えれば少しずつ元に戻るわ」

思考の暴走、どんなつまらないことでも考えすぎて抑制が効かず、最後には理性が押さえられなくなっているのだろう。
自分を見失うような意志喪失はなく、ただ思考があちこちに飛び回るのを止められないのだ。
今までは何事もないごく普通の生活があったから、それを機軸に自分の精神構築が出来ていた。

「……不安で、あたし確かな物が何もないんだもの……もう何でここに居るのか解らないのよ……」

事実という波はその土台を流し去り、砂上の楼閣は脆くも崩れ去った。
残された瓦礫の中にただ一人呆然と立ちすくんでいる自分が、濁った水面に克明に映し出された。

事実に対応できるだけの精神的強度がない、だからユイは何も彼女に告げなかったのだ。
それはアスカ自身の責任では決してない、砂の土台しか用意できなかった自分の責任、怯えたようにテーブルに伏せている彼女を見ると、心底自分を責め立ててしまう。

「ねえアスカ、あなたは何も不安に思う必要なんて無いの。ここの子だしこれからも一緒に……」
「だったらどうして何も教えてくれないの! あたしだけ除け者じゃない……今更都合のいいこと言わないで……」

アスカに告げられなかった理由、シンジなら単に口止めされた、機密事項だった……合理的な理由付けが出来る。
自分を無視したと訴えていたが、葛城三佐の連絡から察するに戦闘時の影響だろうから、これもゆっくり説明すれば納得出来るだろう。
だがユイ自身がアスカに事の真相を告げられなかったのはどう説明すればいいのか。
アスカの精神的強度が足りない……それは単なる憶測ではなくユイは知っていた。
心の基準となるべき物がスッポリ抜け落ちていること、それゆえ彼女が常に不安定な状態でちょっとしたことで崩壊しかねないことを。

……アスカはそのように造られ、その原因が自分にあることを。

「今は何を言っても言い訳になるし……嘘になると思う。あなたにはちゃんと説明するけど……もっと時間を掛けて……」
「止めてよ、思わせぶりな事するの……あたしに家族なんか居ないのよ、その事はよく解ったわ。もう放って置いて……あんたはシンジとレイの心配だけしていればいいじゃない、アイツ……今頃戦ってるんでしょ……」

再び波が訪れた。
僅かな接点を残して心の独楽は再び軌道を外れて狂い回る。
鼓動が早くなり、自分でも押さえきれない方向へと思考が駆け巡っていき、必要のない解答を次々と引っ張り出していく。

「そうよ、あんたなんかシンジの心配だけしてればいいじゃない……アイツはあんたの子供だものね、あたしと違うんだからさ。本当はあたしを代わりにエヴァに乗せればいいと思ってるんでしょ? 死んでも惜しくないものね」

焦点の合わない蒼い瞳が、青ざめたユイを見つめる。
それは十年間アスカが隠し続けていた、心の底に無理矢理押し込んでいた鬱憤なのだろう。
一度空いた穴は塞がらず、そこから吹き出した奔流は指向性を与えられ、ユイに叩き付けられる。
アスカ自身はそんなこと望んでいない、それを自覚しているのにどうにもならないのだ。
正常な自分はもう一人の自分自身が吐き出す言葉を必死に止めようとして、足掻き藻掻くがどうすることもできない。

「どうせ役に立てないものね、でも弾除けぐらいにはなるんじゃない?……フフフフッあたしなんか……ウフフフフッ……どうせ……」

流れがアスカ自身に向き始めたのを察知した。
まだ自分に向かって責め立てるなら良い、幾らでも耐えてみせる、だが怨念のような溶岩が彼女自身に向かったのなら本当に自己崩壊してしまう。

……自分に向けさせなければ駄目だ!……

溢れ出す感情が激流となって『アスカ』を流し去る、その前に逃げ道を作ってやらねばならなかった。
今彼女に必要なのは、その流れに抗うためにしがみつく岩場であり、流されないための杭だ。

「アッハハハハハハッ、誤魔化しても駄目よ、あたし解るんだから。シンジもあたしが死ねばいいと思ってるんだもの、解ってるんだから! 」

心の機軸、その役を果たしていたのはシンジだったのだろう。
無論本人にもシンジにもその意識は無かったろうが、少なくともアスカは拠り所にシンジを選んでいたのだ。
時に比較し、時に同じ事をして、優越感と連帯感を感じながらも、シンジという少年を中心として自分を形成していった。
そして誰の意志となく彼が機軸たる役から抜けたとき、中心を無くした独楽は急速に安定を欠き今大きくぶれ始めているのだ。
今シンジをここに連れてきてもう一度その役をさせるのは、物理的にも時間的にも不可能だ。

「あたしなんか死んじゃえば良いのよね、そうすればあんただって……」

それ以上言えなかったのは心理的な物ではなく、物理的な力によってだった。
焼けるように熱くなった右頬、口の中に少しずつ広がる鉄の味が狂気から生み出された言葉を押しとどめた。

「あたしだって何、言ってみなさいよ……もう一度言ってみなさい!」

再びアスカの頬が鳴る。

「いい加減にしなさいよ、あたしは死んでも良い子供育てた覚えないわよ! 」

もう一度アスカの矛先を自分に向けなければならない、そのつもりで彼女の頬を叩き言葉を荒げた。
だが吐き出されたのは紛れもなくユイの本音だ。

「替わりにあんたがエヴァに乗る? わたしが安心するとでも思ってるの? 巫山戯ないでよ、そんなことが思いつくぐらいなら十年も一緒に暮らしたりしないわよ!」

正気を失いかけていた蒼い瞳は驚いたように見開かれた。
今まで、ユイと一緒に暮らして今の今まで怒鳴られたこともなければ叩かれたこともない。
真っ赤な顔をして怒るユイをこれまで見たことがなく、欠片を撒き散らしながら無軌道に回り続ける中心を無くしたアスカの心は、ようやく大きな壁にぶつかり止まったようだ。

「何を言ってもいい! 何をしてもいい……だけど自分を責めること無いのよ、責められるのはアスカやシンジじゃないのよ……」

その壁は柔らかくて、どれだけ強く当たっても痛みを感じないで済む。
無軌道に心を回し続けた感情の奔流は、ようやく行き先を見つけ濁流ながらも指向性を持った。
受け止めてくれる者、独楽が他にぶつかって壊れないように受け止めてくれる者。

「離しなさいよっ離してよ!! 偉そうな事言わないでっ。もうどうでもいいんだから……」

行き先を見つけた感情はゆっくりと、だが確実に秩序を取り戻していく。
荒かった呼吸は少しずつなだらかに、大きく楕円を描きながらも、思考は元の軌道に戻っていく。
全てはユイの鼓動のリズムに合わせ、彼女の両腕の中で自分自身を取り戻していった。
手を引いてくれる誰かを捜し続けた迷子は、今の安堵をただ泣き叫ぶことでしか表せなかった。




*   *   *   *




全長40メートル程の巨人が、藍色の空の下にそびえ立つ。
目も鼻も口もない無表情な顔らしき部分に、地面と空中からサーチライトが浴びせられた。
僅かな凹凸は微妙な影を作り、時折その巨人が微笑んでいるような幻を垣間見せる。
全ての砲撃が止んで約五分、この迎撃戦にケリを付けるべく準備は進められていた。
エヴァ両機ならびにヘリ部隊の武装補充、兵装ビルの狙点固定、第三新東京市南開発区各所に設置された監視機器は使徒の動きを逐次伝え、気象衛星は遙か上空から地上の巨人を見つめ地下のメインスクリーンに投影する。
全ての情報は発令所内に集められ、分析され、作戦プランとして地上のエヴァに伝えられた。

「綾波、聞こえる?」

サブモニターに出された作戦内容を眺めながら初号機パイロットは不満そうな声で、僚機を呼び出した。

「これって僕が使徒を押さえつけるんだよね……エヴァさえまともならあんなの一撃で倒せるのに」

今や活動限界まで下がったシンクロ率、だがそれに反してシンジの自我肥大化は進んでいく。
まるでタガが外れたように自分という物が主張されていく。

「ミサトさんの作戦も迂遠なんだよな。こいつ一機だって何とか出来るのに」

増長とも違うのだろう、むしろ自己顕示に近いのかもしれない、言っていることに少し整合性が欠けていた……少なくともレイにはそう見える。
アスカという名の少女を記憶、そして意識からすら消し去ったシンジの見せる姿こそが本来の彼の姿なのか。
今まで押さえつけられていた事の反動が現れているとしても。

「……兎に角作戦通りにしましょう。どのみち零号機だけではどうにもできないのだから」
「そうだね、綾波はあんまり突出しないでよ。こっちの攻撃が上手くいかなくなるし危ないからね」

案じてくれるのは有り難いが、本音は自分が主体になっていたいのだろう。
エヴァに乗った自分の力を誇示したい、今の彼の動機はそれ以外にないように思え、そしてシンジにとって『アスカ』が重荷であったことの現れかも知れない。
背中に何か冷たい物を感じてレイが再び口を開こうとしたとき、通信機から流れ出す指揮官の声がそれを遮った。

『良いわね二人とも、兎に角プラン通り動いてね。カウントダウン開始するわよ』

仮初めの白々しい静けさは、激しい爆発音によってうち砕かれた。
セカンドインパクト以降何一つ手の付けられていない南部開発区、剥き出しの地面を朱で照らす。
補給を受けた戦闘ヘリは満腹の腹から数え切れない対地ミサイルを一斉に放ち、後方の兵装ビルは榴弾を惜しげもなく吐き出し、零号機のポジトロンライフルは眩むような閃光を出し続けた。
ヒト型の使徒は閃光と黒煙を纏いながら、降り注ぐ砲弾を避けようともせず中心部に向かって歩き出す。

『シンジ君、合図したら突撃かけて。一気にカタ付けるわよ! 』

初号機の巨大な腕はアクティブソードを一振りして、腰の脇に構え直す。
長大な刃は人の耳に聞こえない唸り声を挙げながら、日の沈んだ街でぼんやりと赤く輝いた。
深紫の鎧で覆われた巨人が腰を屈め、一呼吸の後に荒れた大地を蹴り一直線に使徒に飛び込んでいく。
撒き上がる土煙は無数のサーチライトに照らされ、まるでミサイルの吐き出す白煙のように浮かび上がる。
初号機の腰に構えられた長剣は誰にも聞こえる唸りを上げ、使徒の首めがけ雷光のように襲いかかった、が、その一撃は使徒の左腕に阻まれ頭部まで到達できない。
元々シンジの攻撃にはさして期待していない、不調の彼は単なる足止要員、その期待には応えたらしく近接戦闘へと移行した。
もぎ取られたアクティブソードが宙を舞い、地面に墓標のように突き刺さる。
そもそも組み合うのが目的なのに、長剣を振り回す辺りがシンジの精神的変調を表していたのかも知れない。

「この野郎! ふざけるなよ! 」

巨大なヒト型同士の殴り合いが轟音の中で繰り広げられた。
初号機の右拳が使徒の頭部に命中し、使徒の左拳が初号機の腹部へと命中する、左足を振り上げ使徒を蹴りあげると巨大な右拳が反撃に襲いかかる。
人類の保有する最高技術を余すところ無く注ぎ込んで作り上げられた最終決戦兵器の戦いとしては、あまりにも原始的な取っ組み合い。
互いに避けることなく殴り殴られと言った光景を言いようのない馬鹿馬鹿しさを感じながら眺めているNERV職員、だがミサトだけは真剣な目を向けていた。

「レイ、そろそろ良いわよ。狙いは解ってるわね、ATフィールドの隙間に銃口突っ込んで撃つのよ」

モニターの中で銀髪の少女が首を縦に振る。
単眼の巨人は近接戦闘用の命中率は悪いが銃身の短い大口径機銃を手にすると、巨大な足を勢い良く動かした。
組み合って殴り合いを続ける二体の巨人に、もう一体の巨人が近寄っていく。

「ったく、これで始末出来なけりゃ……もうアイデア浮かばないわね」

酷くなる一方の頭痛を何とか我慢しながら巨人達の喧嘩を注意深く見守る。
三体のヒト型……ヒトに似たモノ。
意味のない単なる偶然でそうなったのか、それとも何かの関連性を持っての事なのか、答えの出ない疑問が山ほどある状況が腹立たしい。
ミサトの視界の端に映り続けている赤木リツコ、何処まで関わって何を知っているのか、碇司令に冬月副司令の二人は、一体何のために全てを隠しているのか。
目の前のシンジやレイが置かれた立場を考えると、何も知らない自分が危険でならない。
いざというとき、二人をどうやって守ればいいのか……そう思いを抱いたとき、使徒の危険性より人間のそれにより危険なものを感じている自分に気付いた。




*   *   *   *




零号機の手にした機銃の銃口が予定通りATフィールドの隙間に密着した途端火を噴いた。
初号機との格闘戦に掛かりっきりの使徒に接近し0距離からの攻撃、それはミサトが脳裏に描いた通りに成功した。
使徒に零号機の攻撃を避ける手段はなく、機銃から吐き出される劣化ウラン弾をまともに受け止めている。
物騒なドラムロールは続き、使徒の肉片が無数に飛び散っていく。

「碇君、離れて。このまま仕留める」
「大丈夫だよ! 手を借りなくても……このっ」

初号機の左右の拳が使徒の頭部に次々に命中するが、どれほど効果があるのかは疑問だ。
今までコアの破壊によって勝利を得てきた、それ以外に勝てる方法が見いだせなかったのだ。
恐らく唯一の弱点であろうコア、だからこそこの使徒はATフィールドを集中させ防御している。
それ以外の部分を打撃で攻撃したところで何の役にも立たないのだ。
普段のシンジならここまで我を張らずレイの言うことに従っただろうが、今の彼にはできそうもない。
暴れ回る初号機のお陰でかなり攻撃しにくいが、振り落とされずに辛うじて使徒に取り付くと脇腹の辺りに銃身を押しつけ再度引き金を引いた。
零号機の攻撃にどの程度効果があるか知れないが、それでも先程まで開発区境界線ギリギリの位置だった使徒が半歩、また半歩と徐々に後退していく。

「レイ、一旦下がって武器交換して」
『了解……碇君、少しお願い、すぐ来るから』

ほぼ全弾を本体に命中させたにもかかわらず、殲滅しきれないのだからこの攻撃方法は効率的ではないのかも知れない。
かといってレイやシンジに他の方法が思い浮かぶはずもなく、もう少し効果が出るまで続けるしかない。
大きく飛び退きざま零号機は機銃の弾倉を投げ捨て、腰のフックに括り付けられた予備弾倉を装着すると再び使徒の背後に廻る。
これだけの近接戦闘だ、下手をすれば流れ弾が初号機に命中する恐れもあるのだが、この状況下でレイは細心の注意を払いながら巧妙に立ち位置を変え、射線がシンジに重ならないようにしていた。
常に冷静で状況を見極められる彼女だ、現在の状況にうっすらと不安の絵の具が流し込まれる。

「注意して碇君、これだけで終わりじゃないと思う……脆すぎるもの」
「何を注意するって言うんだよ、大丈夫だよこんな奴。このまま倒すんだっ」

この使徒が行った攻撃と言えば初号機を殴りつけたことだけ、その後はほぼ一方的にやられている。
単に攻撃手段が殴るだけというのがレイには考えづらく、それだけに無謀なまでに組み合うシンジの身が案じられた。
今のところシンクロ率の低下のお陰で、殴り返されても殆ど苦痛は感じられず、それだけに正面で殴り合えるのだろう。
早く殲滅したい、言い様のない焦りを感じながらレイは機銃を休ませない。
ATフィールドの最も強力な内側にこそ、唯一の弱点たるコアが存在する……何ら証拠のない不確実な情報ではあるが、今のところそれ以外に状況を動かす手だてがないのだ。
本体とATフィールドの隙間を劣化ウラン弾が縦横無尽に切り裂き、無数の肉片を飛び散らせた。
このまま押し切れれば……レイがそう期待を込めたとき変化は訪れた。
巨大な初号機の身体が宙に浮いていた、まるでゴム人形のように伸びた使徒の腕が初号機をつまみ上げたのだ。

「何だコイツ!? 」

シンジの身から重力の束縛が消え、40メートルの巨体は星の光り始めた夜空を舞い、第三新東京市の中央で重力の見えざる腕に抱きかかえられ、そのまま地面へと吸い込まれていった。
内臓を吐きだしそうなほどの衝撃がシンジの全身を襲う。
だがそれだけでは終わらない、片手で投げ飛ばした初号機の後を追うように、使徒も取り押さえようとしていた零号機を背負ったままジャンプした。。

『何てバカ力……シンジ君応答して! 』

通信機から激しく咳き込んだ返事が返ってきた。
かなり苦しそうだが死んではいないようだ、これでシンクロ率が今までのような数値を示していたら咳き込む程度では済まないだろう。
それでも意識は朦朧としているらしく、言葉で返事もできなければ上空から落ちてくる零号機をぶら下げたままの使徒に気づけない。
初号機は狙い澄ましたように落下した二体の巨人を受け止めた。
衝撃は地震の如く第三新東京市を駆け巡り、すぐ側の駅と民間ビルを崩壊させ初号機を埋没させた。










突然襲った衝撃に大きくハンドルを取られたその車はバウンドすると、ドアを誰かの家の塀に激しく擦り、タイヤに悲鳴を上げさせながらも何とか体勢を立て直した。
普段で在れば対向車と正面衝突しかねないが、現在の避難命令下で他に走っている自動車はいなかった。

「……おばさま、ごめんなさい……でも……」
「いいのよ、気持ちは解らないでもないから。でもそんなに近寄れないわよ、何かあったら無事じゃ済まないし」

長い栗色の髪が静かに揺れた。
こんな事を望むのは間違っている、エヴァに乗っているシンジの側に行きたいと言う願望が、どれほど無茶かアスカはよく解っている、解っているがこのまま全てが終わるまでただ待つのが耐えられなかった。
自分の我が儘のためにユイを危険な場所に連れ出す、その事もよく解っているがどうしようもない。
初めてユイに向けた我が儘は、あまりにも危険な物だった。

「アスカ、気分はどう? もう大丈夫なの? 」
「うん……今は何ともない……」

ついさっきまで自分が何を言ったのか、アスカ自身にも朧気ながら記憶が残っている。
いっそのこときれいに忘れてしまえれば良かったのに、だが彼女の記憶力はそれほど都合良く出来ていなかった。

……どれだけ酷い事言ったんだろう……

思い出したくないのに全て蘇ってくる。
いっそ自分を殺してしまいたくなる。
何よりあの時自分は一体どうなってしまったのか、自分の意識はあるのに感情の抑えが効かなくなった。
無秩序に飛び回る感情の塊が、自分を壊していくような……自分の中で何か大切な軸を失ったような不安。
今までになかった変化がとても恐く、怯えている……もしかしたらまだ治っていないのかも知れない、今でもシンジに会いたいという我が儘を押さえきれず、ユイを危険にさらしているのだ。
逢ってもまた無視されるのだろうか……その時自分は……兎に角早く逢いたい。

「アスカ、少し揺れるからしっかり捕まりなさい」

避難命令の際に乗り捨てたのだろうか、目の前を無人の二台の車が塞いでいた。
僅かな隙間があるがとても自分達の乗っている車が抜けられるほどの幅はない。
アスカがシートベルトをしっかり握りしめたのを確認すると、ギアを一速に落としアクセルをゆっくり踏み込む。
二台の自動車が不満げなきしみ音を上げ左右に押しやられ、金属を引っ掻く気味の悪い音を立てながらどうにか通り抜けた。

「ふぅ、トラックだったらとてもじゃないけど無理ね。さ、急ぐわよ」

碇家では自家用車を保有していないので、今乗っている車は見知らぬ誰かの自動車だ。
本当なら徒歩だったのだが、通りすがら乗り捨ててあった大型の四輪駆動車のサイドウィンドウを叩き割り、ハンドル脇のキーボックスを車載工具で分解し始動させ勝手に使っている。
車泥棒以外の何ものでもないのだ、何だかの形で責任は取るつもりだが、ユイは一時的に倫理と法律を投げ捨てたらしい。
再び流れ出した景色を横目にアスカが口を開いた。

「おばさま……やっぱりシンジが心配なのね」
「当たり前でしょ、息子だもの。でもあの子はエヴァに乗っているから多分大丈夫よ」
「じゃあ……何で無理して見に行くのよ……」
「アスカが望んだから……結局同じなのよ。アスカがエヴァに乗ってもシンジがエヴァに乗っても……わたしは誰かを心配しなきゃいけないしね」

そして誰かのためにどんな無茶をしてでも、今と同じように外に出ていっただろう。
柔らかい手の平が泣きじゃくる少女の栗色の髪をそっと撫でる。
ユイの視線がふと割れたウィンドウガラスの向こう側に向けられると、街の中心辺りで立ち上る黒煙が目に飛び込んできた。








『シンジ君! 返事しなさい! 』

五度目のミサトの呼びかけでようやく呻き声に近い返事が返ってきた。
彼女のほぼ頭上、街の中央にある第三新東京市駅に投げ飛ばされ、さらにジャンプした使徒に踏みつぶされたのだ、意識が戻っただけでも良しとすべきか。
シンクロ率の低下のお陰で死ななくて済んだ、皮肉な話だとミサトは思う。
エヴァとのシンクロが低下したお陰でシンジの命が助かりそのせい現在苦戦中、シンクロ率が上がれば上がるほどシンジ自身の身は危険になり、戦闘自体は勝利に近づいていく。

……これ作った奴は相当性格に問題あるわね……

吐き捨てたい言葉を胸の中に隠し、再び通信を飛ばした。

『気が付いたのなら立ちなさい! 早く! 』

だが初号機はピクリとも動かない、エヴァに問題が生じたのではなくパイロットに重大な問題が生じたのだ。

『あ……ああ……やだよ、もうやだよ!! 助けてよミサトさん! 』

先程まで無尽蔵の自信を漲らせていたパイロットは、干上がった泉を抱目の前にして青ざめていた。
目前にそびえる巨大な化け物、それは死の具象画でありそこに描かれるのが自分だ。
裏付けのない自信と根拠のない勇猛さ、脆すぎた飾りが取れ剥き出しにされた自分自身は、現実の苦痛の前にあまりにも脆弱だった。

『助けるからとにかく立って! そのままじゃどうしようもないでしょっ』

どれほどミサトが叫んでも通じないだろう、彼が欲しているのは励ましでもなければ指示でもなく、この恐怖から助け出してくれる腕だった。

「回路切断! 初号機活動停止します……シンクロ率0%」
「……パニック起こして状況維持出来なくなったのよ……再起動する間はないわね」

伊吹二尉が絶望的な声と赤木博士の冷徹な声がミサトの耳にこだまする。
最悪の状況と言って良く、しかもそれは現在進行中だった。
現状がどうあれ出来ることはやるしかない、結果を待っていられるような余裕ある身ではないのだ。
一度深く深呼吸すると考えをまとめ、マイクを握りしめると早速指示を飛ばす。

『レイ、まだ動けるわね、攻撃続行して。今パレットガンあんたの背中のビルに上げたから受け取って! 』

兵装ビルは何も砲台としてだけではない、武装やエヴァの搬出口ともなっている。
そして通信通り背後のビルから飛び出した大型のパレットガンを受け取ると、初号機に馬乗りになった使徒に向け引き金を引く。
レイは使徒の頭部らしき部分を狙い、携帯型機銃より強力なパレットガンでまず頭部を吹き飛ばした。
そして初号機を押さえつけていた左手、そして右手を連射して吹き飛ばすと、空になったパレットガンを投げ捨てプログナイフを手にする。
そして頭部のあった部分に突き立てると、零号機の右腕をそこから突っ込んだ。

「……碇君、後少しだから我慢して……必ず助けるから」

パニックに陥ったシンジを責めるでもなければ馬鹿にするでもなく、綾波レイという少女は己に課せられた……あるいは己が望んだ役目を淡々とこなす。
使徒の身体を切り裂き、ATフィールドの内側に守られたコアを直接引きずり出すつもりなのだろう。
胸の悪くなるような音を響かせながら手首、肘、そして肩までを使徒の体内にめり込ませる。
反撃すべき使徒の両腕は彼女によって粉々に吹き飛ばされており、為されるがままと言った様子だ。
誰もが後少し、もう少し……誰もが同様の思いでモニターを見つめる。
その異変に気付いたのは初号機のモニタリングを行っていた伊吹二尉だけだった。

「……まさか……あ、赤木博士っ……これ、エヴァが回路再接続しようとしてます……」
「どう言うこと? エヴァが回路をって……なにこれ……マヤ、すぐに全回路切断! 電源切ってっ」

グラフィックメータに描かれる図面は、エヴァからパイロットに向けて神経回路を表すグラフが伸びている。

「駄目です、コマンド全て拒否されました……何も受け付けません!! 」
「どう言うことなの、こんな事って……エヴァから接続してくるなんて……」

虹色に光るグラフィックメータを凝視しながら、リツコの顔から少しずつ血の気が引いていく。

「浸食……ミサト、初号機エントリープラグ排出してっ、早く! 」
「何よいきなり、説明を……」
「してる間無いわ! このままだとシンジ君エヴァに取り込まれるわよ」

彼女の蒼白な顔を見て事が重大かつ緊急を要する事態であることを悟ると、無意味な会話はせずすぐさまイジェクトボタンを押した。
この状況下でのそれはパイロットの生命を著しく危険にさらすことなのだが、グラフィックメータを見る限り、今のシンジにはそれ以上の危機が迫っているようだ。
一回、二回、叩くようにして三回緊急用のイジェクトボタンを押すが初号機に変化はない。

「マヤ、ダイレクト回線に繋ぎ替えて! ……そっちも繋がらないの!? どうなってるのよっ」
「恐らくエヴァのほうでロックが掛かって……でもそんな事出来ない筈なんです、そんなコマンド存在しないんです……エヴァ自身でロックしてるんです! 」

伊吹二尉の悲鳴に近い報告は、ミサトの心臓に杭を打ちこんだ。
そんなことはあり得ない、呪文のように繰り返される呟きが、事態は自分達の想像の範囲外に飛び出したことを悟った。
恐らくこの状況に対処する手だてはないのだろう、リツコに目を向けると半分口を空いたまま半ば放心状態で、パネルと向き合ったまま微動だにしない。

「リツコ! 答えなさいっ。何故エヴァが勝手に動くの!? エヴァのほうからの接続ってどう言うことよっ」
「……エヴァが独自に動いている……人格移植OSが……勝手に動いてるのよ」
「あり得ないわ、アレにはリンクしたMAGIが20のチェック掛けてるんでしょ?……MAGIは異常が無いって言ってるのよ!」

殺意をはらんだ目が女科学者に突き刺さる。
ミサトに気圧されたのか、それとも想像外の事態に怯えたのか、リツコは手元のディスプレイを見つめながら操作用のキーボードを必死に叩く。
そしてMAGIシステムから特定の単語を引っ張り出したとき、彼女の顔から血の気が引いた。

「……暴走じゃない……バックアップ……エヴァがシステム修復してるのよ……」

モニターの中では巨人達の争いが未だ続いていた。

レイの右手に肉を掻き分ける感触が伝わるが、臆することなく使徒の体内を探り続けていた。
頭部と両腕を吹き飛ばしたので当面は反撃恐れはないだろう。
とにかく急いでとどめを刺したい、下敷きになっている初号機から早くシンジを出してやりたい、その一心でプログナイフを振るい使徒体内にあるはずのコアを探す。
果たして苦痛という感覚が使徒にあるかどうか、時折身体を激しく振るわす以外はこれと言った抵抗もない。

「……碇君、大丈夫?」

どれだけ心配していても淡い朱色の唇が紡ぎ出す言葉は、いつも本人にとって物足りない。
だから、と言うわけではないだろうがシンジからの返答はなく、悲鳴に近い叫び声だけが伝わってくる。
アスカという少女の存在が彼の中から消え、代わりに自信過剰という土台のない城が建ち、今は脆く崩れ去り瓦礫の山が心細そうに取り残されていた。
今シンジがパニックを起こしているのはさっきまでの反動なのだろう、仮にも八回エヴァに乗り使徒迎撃戦の前面に立ち続けたシンジだ、多少の差こそあれ普段ならここまで怯えたりはしない。
それだけにレイは懸命になっていた。

「……もう少し、もう少しだから……」

幾度もプログナイフを突き立てている最中、辛うじて繋がっていた初号機との通信がぷっつりと途絶えてしまった。

「碇君? ……返事して、碇君、返事して」

今自分がどういう状況にあるのか、シンジにはそれが解っていたが、解っていながらもこみ上げる恐怖心をどうすることもできない。
逃げ出すことも立ち向かうことも投げ捨てて、頭を抱えて震えることだけが今のシンジには精一杯だった。
放り投げられた時に故障したのか、通信機は誰の声も顔も伝えようとはしない。
目の前に立ち自分を殺そうとする巨大な化け物、それを切り刻もうとナイフを振るう単眼の巨人、光景は凄惨を極めていた。
怯えの坂道を転がり始めた心はひたすら加速を続け、それを引き留める手だてはレイもミサトも持ち合わせていない。

凍てついた瞳が見たくない光景をシンジに見せつける。
誰かに縋り付きたいのに、この狭いエントリープラグの中には誰も居ない、助けの手は自分の身体には伸びてこない。

「誰か……助けてよ……」

答えてくれる者はいない、その筈なのにシンジの耳には誰かの声が伝わった。
通信機は沈黙したまま、その声は空気を振動させることなく彼の中に進入していく。

……あたしを殺した癖に……

脳裏に直接響く声、ずっと昔聞いた……もっと最近に聞いたことがあるのかも知れない。




*   *   *   *




「おばさま……シンジ大丈夫なの?下にいるロボットがそうなんでしょ」

中心地まで後わずか、ユイはその位置で四輪駆動車を止めると国道沿いのビルの屋上へとアスカを連れていった。
これ以上近づけば危険極まりないしこれより離れれば視界が保てない、そんなギリギリの位置だ。

「あの程度なら耐えられるわ。それに今レイが攻撃を仕掛けているからもうすぐ終わるわよ」

それが気休めかどうかアスカには判別できない。
地面に半分埋まったロボットに乗っているのがシンジだ、そのロボットには見覚えがあった。
いつだったか、街で避難命令が出たときただ一人取り残され、あの巨大な化け物と対峙したときだ。
たった十四年の人生の終焉を覚悟したとき、死の顎から救ってくれたのは今目にしているあのロボットだ。
それに乗っているのがシンジなら……胸の奥で記憶が滲んでくる。

「……おばさま、シンジは何であたしのこと無視したの? そりゃ喧嘩したりもしたけど……」
「勘違いしないで、それはアスカのせいじゃないわ。難しいことは省くけど一種の記憶喪失……この前の戦いであなたのことを少しだけ忘れているのよ」

確かレイもそんなことを言っていたが、あの時はそれを聞ける冷静さはなかった、仮に事細かく説明を聞いたところで納得など出来なかったろう。
なら今は冷静か……多分違う、シンジに自分の存在すらを無視されたことに理由付けがしたかった。
どうしようもない、仕方のない、そう納得できる理由が欲しかった。
全てがあまりにも違いすぎて、自分の知っていることから外れすぎて、誰にも頼れなくて……

「おばさま……シンジの奴、帰ってくるわよね……」

当たり前のことが当たり前でなくなった、全てが変わり始めもう元へは戻れない。
見慣れた街のど真ん中で繰り広げられている戦い、自分達の生活も自分達自身も……きっと何もかも変わっていく。

不安に満ちた蒼い瞳は怯えるように闇夜の巨人達を見つめていた。








初号機からの通信が途絶えて約十分、レイの焦りはそろそろ限界に達そうとしていた。
早くとどめを刺すべく使徒の体内に腕を突っ込んでコアを探していたのだが、未だ目的は達していない。

「……見つからない、そっちから捕捉できないの?」
『やってるけどATフィールドで位置まで判別できないのよ、何とか手探りで探して。一旦引いてもいいから』

感情の表現をまったく出さないレイが、眉間に僅かな皺を寄せる。
誰のせいでもないのだが、苛立ってしまうのは仕方ないのかも知れない。
零号機に搭乗してから二時間近く、体力的にそろそろ限界が近いし精神的な疲労も溜まっている、シンジのことも気になる……悪条件が重なりすぎていた。
それでも文句一つ言わないのはレイだからこそだろうが、やはり限界はあるのだ。
両腕と頭部を吹き飛ばされ、零号機の腕を体内に突っ込まれた姿はもはや勝敗を決したように見えるだろうが、使徒の活動を停止させる唯一の手段であろうコアの破壊が為されなければ何も終わらない。
それにしても通信の途切れた初号機内でシンジはどうなっているのか、レイにはそれが最も気掛かりだった。

『こっちも駄目、連絡取れないのよ。取り敢えず命に別状はないみたいだから今のところ安心して』

生命監視システムは機能しているのだ、だがミサトの通信があったとて安心できるわけではない。
必死に零号機の腕を操りながら体内にあるはずのコアを探る。
指先に硬い感触を捉えたのはどれほど経ってからか、突然それが湧き出したように硬質の球体が零号機の手を通じレイ自身の感覚に伝えられた。

……見つけた、もう少しだから碇君……

右手に力を込め、探し求めた紅玉を取り逃がさぬよう握りしめる。
戦いの中でチャンスと呼べる物がどれほどあったか、恐らくこれが最後だろう。
シンジにしろレイにしろNERVという組織にしろ、この戦いでもう一度チャンスを作り出すだけの余力はない、ありったけの力と精神力で右手を体内から引きずり出す。

零号機の巨大な手の中に灰色の構成組織に包まれたコアがあった。

『よっしゃー! それ叩き壊せ!! 』

その指示に従う、レイに何の異論もない、だが実行はされなかった。
腕を吹き飛ばされもはや攻撃手段など存在しないかに思われた使徒、体組織の一部が流動化し、まるで細い蔦のように絡み付き零号機の動きを封じる。
この状態での抵抗など誰も想像していなかった。
そして発令所内の監視モニターは危険すぎる報告を表示し、ニンゲン達の考えが甘すぎた事をあざ笑った。

「拙いっすよ……使徒から熱源がコアに集中してます……陽電子の加速確認! 中心に収束してます!! 」
「何よそれ、何か攻撃するつもりなの? 」
「不明ですけど、依然上昇中……これ……マジに拙いっすよ、こんな物ぶっ放された日にはこの辺り吹っ飛びますよ」
ミサトは止まることなく上昇を続けるグラフを見つめ、その数値が意味する物とその結果を頭に描きだす。

「……リツコ、これ零号機狙ってると思う? 」
「違う……あの状態でコアから何かを撃ち出すにしても指向性が無いわ、何かを狙う訳じゃない……」

コアの中心に陽電子を収束させ、狙いを付ける手段もないのに何をするつもりなのか……ミサトは一つの結論しか描けなかった。
第三新東京市の中心で引き起こされるには、あまりにも凶悪な結論だ。

「ミサト、使徒は自爆するつもりね……」




*   *   *   *




多分自分に良く耳にする『人生』があるとするなら、それはあの二人と出会ってからの時間がそうなのだろう。
一年にすら満たない時間だが、それでも自分がそれ以前に存在してきた十四年と言う時間に比べれば遙かに重い。
もしかしたらこれから過ごす時間にも同じだけの重さがあるのかも知れない、しかしそれは条件付きだ。
アスカとシンジ、この二人の存在がなければそれだけの重さを持ち得ない、そんな時間は今の自分には必要無い。
通信機から伝わる会話を耳にしたレイは、ごく短時間でそう結論を出すと誰かの指示を待つことなく行動に移っていた。

『レイ、すぐに待避しなさい! 』

通信機は同じ台詞を何回も伝えた、しかしその行動の抑止力とはならなかった。

「……ATフィールド展開終了、これで外部への影響は押さえきれると思う……」

誰にともなく彼女は呟いた。
使徒、零号機を含め全てを絶対の壁の中に包み込む、もうすぐ起こるだろう巨大なエネルギーの嵐も……そしてこの機体ではそれに耐えきれない。
赤い瞳は通信機に手を触れ、初号機内のシンジと会話を試みたが不可能だった。
些か残念そうな顔をしたが、口からは小さな溜息一つ零れただけだ。

自分の行動がどんな結果を導き出すかレイは知っている。
密閉空間となったATフィールド内は圧倒的なエネルギーによって席巻され、零号機の機体はそれに耐えきれず消滅するだろう、同様に使徒も消滅する。
だが外部にその牙が向くことはない、初号機内のシンジにも、第三新東京市にいるアスカにもその牙が襲いかかることはない……レイにとってはそれで充分だった。
守りたい物がある、それは多分自分より大切な物だ。

「……アスカ……怒るかも知れないわね。碇君は……やはり怒るのかしら……」

この戦いが終わった後、自分が謝ることは出来ない。
輝きを増した紅玉は、十四年という時間を生きた少女の終焉をもうすぐ告げようとしていた。








あの巨大なロボットにシンジとレイが乗っている、何度繰り返し考えてもアスカにはその事が非現実的に思えてならない。
二人のために何か手伝ってやることも助けてやることもできない、そんな自分の立場がそう思わせているのだろうか。
今まで口を噤んできた二人は、どんな気持ちで自分と暮らしてきたのだろう。
何も知らぬとあざ笑ってきたのか、それとも何も出来ぬと哀れんできたのか……明かりの消えた街を眺めながら、アスカは自分の考えを否定した。
ユイが言ったように結局同じなのだ、自分があのロボットに乗る立場だったらやはりシンジには何も告げないだろう。
彼等のやっていることがどれほど危険で恐ろしいか、もし自分ならそんなことに二人を巻き込みたくないと思う。

アスカが大きく息を吐き出すと白い靄となって闇に散っていく。

もういい、何もかももう良い、とにかく早く二人が戻ってくればそれで良い。
隠した理由など、教えて貰えなかった事などどうでも良い。
事実を知った今、もう今までと同じ関係ではいられないだろうがそれでも良い、とにかく早く戻ってきて欲しい。

「ね、おばさま、レイもシンジも大丈夫よね? 」
「ええ……だから早く避難所に戻りましょ。こんな所にいるのがバレたらシンジとレイに怒られるわ」







頭に響く声の主が誰か自分は知っている。
嫌いだ、それと同時に正反対の感情も抱く。
忘れたい、それと同時に正反対の意識が働く。
全ての面で対照的な感情を抱かせる少女は自分にこう問いただした。

……このままで良いの?……

答えを返した。

……そう、ならあたしが手伝って上げる……

閉じられた視界が蘇る。
自分の置かれた状況、周囲の状況、今現在の情報が視力、聴力に頼らず頭の中になだれ込んでくる。
そして結論はすぐに出た。

「綾波!! シートにしがみつけ!! 」

沈黙をたもった初号機は上に乗った二体の巨人をはじき飛ばすと、二体が地面に到達するまでの短時間にプログナイフを鞘から引き抜く。
そして深紫の鎧を纏った巨人は第三新東京市を蹴りあげた。
零号機の張ったATフィールドを一瞬にして破り去り、機体を封じていた使徒の蔦をナイフで一閃し断ち切る。

全てはほんの一瞬の出来事だった、レイが起きたことを飲み込む暇もない。
自分と共に消滅するはずだった使徒は、ボールを奪い去るように初号機が……初号機を操るシンジが連れ去っていた。
綾波が何をしようとしたのか、何の為にしようとしたのか理解できる。
そして自分はそれに耐えられないだけなのだ。
依存している者を失いたくない、例え自分を失ったとしても……結局同じなのだ。

初号機本来の力が戻ったのか、たった一回の跳躍で使徒を抱えたまま第三新東京市中心から南部開発区へ飛び退いた。
かつては伊豆半島が存在し、セカンドインパクトと同時に出来た崖が目前現れると、初号機はより加速し、あらん限りの力で地面を蹴り少しでもこの場から離れようと再び跳躍する。
漆黒の海と漆黒の空、その合間でシンジは二人の少女にこの後怒られるだろう事を予想した。

「ATフィールド全開!! 」

夜に出現した太陽はとても眩しく、直視できないほど眩しく……だが、目にしていた者達を凍り付かせるほど冷たかった。










心が壊れる、感情が壊れる、押し寄せる絶望感は何もかも壊してしまう。
だから少女は絶叫するしかなかった。
今まで感じたことのない痛みが全身を襲い、それに抗うべき手段は絶叫することしかできなかった。

「レイ! 離れなさい!! 」

蒼銀の髪を振り乱し、ひたすら叫びながらその少女は運ばれるベットにしがみつこうとした。
理性も思考も言葉も何もかも消し飛び、ただ欲求だけが彼女を突き動かす。
失いたくない、ただそれだけの欲求だ。
自分を押さえつけようとする手を払いのけ、白い廊下を運ばれていくベットに追いすがる。
守るべき者が乗ったベット、守れなかった者を乗せたベット。
後悔も何もない、ただ自分を壊しそうな絶望だけがレイの全身に叩き付けられた。
悲鳴でもなければ嘆き声でもない、ただ理性をかなぐり捨て動物的な絶叫を放ちながらしがみつこうとする。

「レイ!! くそ、ちょっと借りるわよ! 」

その女は側にいた警備員から警棒を奪うと、半狂乱になった少女の首筋にあてがい、即座にスイッチを入れる。
電流は少女の全身を駆け巡り、マリオネットを操っている混乱した糸を断ち切った。
レイの気持ちも解らないではないが、今のままでは単にシンジの治療が遅れるだけだ。

第九次使徒迎撃戦は使徒殲滅と言う結果で終わった。
勝利と言えないのは被害が深刻な物だからだろう、今集中治療室に運ばれた少年もその深刻な被害の一つだ。

「マヤちゃん、大丈夫?」
「ええ……引っ掻き傷ですから」

伊吹二尉の顔に赤い筋が三本ほど残っていた。
同じ傷がミサトの首筋にもくっきり刻印されており、人が理性を失った時のすさまじさを表しているのかも知れない。

「しかしこの子がこんなになったのって初めてですよね……普段笑うこともないのに……」
「そうねえ……しょっちゅうこうなられても困るんだけど……とにかく病室に運んでくるわ」

意識不明の重体となったシンジを乗せたベットは、速やかに集中治療室へ運ばれていく。
スタンスティックを警備員に返し力無く横たわったレイを抱きかかえると、ミサトはリツコに向き直った。

「……どうなの、彼……シンジ君、助かるんでしょ? 」
「助かってもらわないと困るわね、これからのこともあるし。これから先は専門家の領分よ、何かあればすぐに報告行くから」

彼女の吐き出した紫煙がミサトの髪に絡みつく。
海中に落下した初号機を引き上げ、エントリープラグから救出したときにシンジの意識はなかった。
見た目で解る外傷は頭部の出血ぐらいだが無論それで済むはずはなく、恐らく他の所見はカルテ数枚に渡って書き連なるだろう。
だが計測データを見る限りそれすらも存外の幸運と言うべきで、遺体すら残らなかったとて不思議はないのだ。

「早くその子も治療室運んでやって。警備部のスタンガンは電圧高いんだから」

リツコに急かされ疲れ切った顔で抱きかかえた少女を通常の治療室に連れていく。
特に手当を必要とする怪我はない、ベットに寝かせておけばその内気が付くだろう。
一時的に賑わった通路は、火種を残したままの二人の女を残し、再び静けさを取り戻した。

「先輩……エヴァって何ですか……今日エヴァのほうから再接続したんです! こんなのあり得ませんよ」
「じゃあマヤは夢でも見たの? あり得ないことでも起きればそれが事実よ。貴女の言うような事が起きたのならそれがエヴァという物の特性ね」
「……エヴァに自我があるとでも言うつもりですか……自分から動こうとするだけの自我があるんですか? 」

少し甘さの残るマヤの顔に、それを打ち消すだけの険しさが浮かぶ。

「先ぱ……赤木博士は恐くないですか、エヴァが勝手に動き出したんです。こっちの制御を断ち切って……」
「マヤ、全てが思い通りに動いてくれる訳じゃないし誰もが全てを理解してる訳じゃない、全てを納得いくように知っておきたいなんて思い上がりよ」
「じゃあ先輩は納得出来ないままあんな物使ってるんですか!? 」

堰き止められた時間を煙草の煙で飾り付けた。
彼女の言い分は恐らく正当な物だろうし、無理からぬ事ではあるのだがリツコは何一つ答えようとはせず、冷ややかな目を後輩に向ける。

「納得しなきゃ出来ないと言うなら退職して貰って結構。ここはね、理由が無くても納得出来なくてもやれる人だけが必要な場所なのよ。子供みたいな我が儘はいい加減にして頂戴」




*   *   *   *




第三新東京市から避難命令が解除されたのは夜の十時を回った頃だ。
まだクリスマスイブのパーティーを開くには何とか間に合う時間だが、それをやろうとする者は恐らくいないだろう。
完全に崩壊した第三新東京市駅とその周辺のビル群、クレーターのように大きく空いた穴の周辺には無数の赤色灯が忙しなく回転し、人々の不安をかき立てる。
十台以上の救急車がそこに終結し、怪我人を乗せると次々と走り出していった。

「こっちの瓦礫をどけろと言ってるんだ! クレーンでも何でもいいからこっちに回せ! 」
「そこのパトカーを寄せろ、救急車が入れないんだよ」
「こっちを優先さる、出血が酷すぎる! 」

救急隊員、警察官、自衛隊隊員、レスキュー隊、第三新東京市のみならず近隣市町村から救助要員を掻き集め、被害者の救出に全力を挙げている。
使徒迎撃戦において初めての民間人被害者、十時現在消防庁ならびに警視庁に伝わっている報告は死者七名、重軽傷者五十八名、だがその数は更に増加すると思われる。
全て第三新東京市駅に設置された避難所での被害者だ。
今まで被害らしい被害がなかったせいで非常識な出来事に深刻さに欠けていたが、決して遊園地のアトラクションなどではない事を思い知らせるには充分だった。
血みどろで運び出される被害者は後を絶たず、救急車だけでなく動かせる車両は全て動員され、駅北部の総合病院に搬送された。
病院は暫くの間駆けつけた家族でごった返すことだろう。

その二人も被害者の家族と言って良いのかも知れないが、彼女等の向かった先は病院ではなく第三新東京市の地下だった。
自分達の住んでいる街の地下にある巨大な施設、その少女がもう少し冷静なら驚くことも呆気に取られることもできただろうが、彼女は今それどころではない。
この巨大な地下施設の一角にシンジが収容されている、怪我をしたらしいが一般の病院ではなく得体の知れないこんな場所に収容されたのだ。

「機密保持の問題もあるんだけれど、一般病院じゃどうにもならないのよ。普通に怪我しただけじゃないから」

幾つ目かのエレベータに乗り込んだ際、ユイは疲れ切ったように納得いかない顔のアスカにそう説明した。
彼女の携帯電話に伝わった説明では息子の様態は決して芳しくなく、集中治療室で未だ治療が続けられているが、はっきりした事はまだ判らない。
ただ至急来るようゲンドウから言われたとき、半分は覚悟を決めた。

「おばさま、ここ右に曲がるんでしょ……シンジ大丈夫よ、アイツ変なところで運がいいから」

壁に掛けられた案内図を見ながらアスカがユイの手を引っ張る。
広大で入り組んだ施設だ、本当なら案内の一人でも欲しいところだが、事後処理に忙しいらしくそこまで気は回らないらしい。
その後幾つかの角を曲がり、最後のエレベータに乗り込み暫し時を待つ。
十三階、そう表示されるとエレベータは下降を止め、音もなく扉を開いた。
白い直線の通路、左右の壁にはいくつもの扉が填め込まれロビーの向こう側、真正面に最も大きな両開きの扉が填め込まれていた。
自分達が動く度に天井の監視カメラが無機質な目を向ける。
その向こうにシンジが寝ている、その見慣れない物々しさに居心地の悪さを感じ、アスカの足取りが少しずつ重くなる。
口を開くのも嫌になるぐらいの喉の渇きを自覚し、胸の奥が一歩進む度に重くなったが、それを断ち切るように歩みを早めた。

一つ目、二つ目、三つの扉を通りすぎ、長椅子と灰皿の置かれたロビーにたどり着いた彼女の前に集中治療室の扉が待っていた。

「おばさま、開けていいんでしょ?」

武骨な扉の開閉ボタンにアスカの手が触れると、無機質な冷たさが指先に伝わる。
ロックの外れる音が鈍く響き、その扉は左右の壁に姿を消す。
その薄暗い部屋には無数の機器が置かれ、パイロットランプが蛍の群の如くベットを取り囲んでいた。
薄い膜のような物で覆われたそこには一人の少年が、俯せになって横たわっているのが見て取れた。
まるでマリオネットのように幾本もの管が背中と首筋に差し込まれ、両脇の機械に繋がっている。
定期的に聞こえる電子音は一体何を意味しているのか、波の模様を描く画面は何を意味しているのか、アスカに解るはずもない。
彼女の蒼い瞳に映ったのは中央のベット、そこに横たわってピクリとも動かないシンジだけ。

「アスカ、出なさい……」

まるで頭の中に心臓が入ったように自分の鼓動が響きわたる。
全身の力が抜け、ともすればその場に座り込みそうなほどの虚脱感が彼女に染みていく。
ユイに腕を引っ張られ入り口から離れると、了解したように扉が閉まる。

「……シンジ、どうなっちゃったの? 何で……あれ何なの? 何であんなにいっぱい管が付いてるの」

自分の知っているシンジにそんな物必要無いはずだ、変なところで運の良いシンジはきっとかすり傷程度で済んでいるとそう信じていた。
立っていることが不可能なほどの目眩を覚えた。

「もう少し待って、説明してくれる人が来るから……」

どうなったの、それはユイも聞きたいぐらいだ。
もう一度扉を開けて息子の状況を確認する気にはなれず、置かれた長椅子に力無く座り込む。
ただ一つ解っているのはシンジがまだ死亡していない、その事だけだが安心材料にはほど遠い。
結局アスカは口を閉じ『説明してくれる人』の到来を待つことにした。
何か言う気にもならないし何を言ったらいいのかも解らない、真っ白になった頭をそのままに沈黙の海に沈んで時を待つ。
アスカもまた扉を開け、シンジの側に立つ気力がなかった……少なくとも状況を確認するまではそれが恐くて出来ないのだ。

壁に取り付けられた時計、その長針が五目盛り進んだ頃に彼女達の乗ってきたエレベータが動き始め、更に数分後その扉を開き乗り込んだ一人を降ろす。
その人物は真っ直ぐ歩き自分達の元に訪れると、小さく頭を下げた。

「遅れて申し訳ありません、葛城ミサト三佐です……この度は御子息を危険な目に遭わせ……」

三佐と名乗った彼女は自分の学校の担任だ、そうアスカは理解できたが別に驚くには至らない。
冷え切った蒼い瞳を向けただけで彼女の言葉を待つ。

「ご苦労様です、取り敢えず状態を説明していただきたいのですが……」
「はい、サードチ……シンジ君はエヴァ搭乗時に過度の物理的衝撃を受け、現在神経パニックを起こして自力での生命維持が困難な状態です。何れ神経が落ち着くとは思いますがそれまでの間は人工心臓を用いて特級精製したLCLを循環させています」
「脳のほうへの障害は残っていないの? 良ければカルテを見せて欲しいのだけど」
「検査結果は全てここに……碇司令から許可は頂いておりますのでご覧下さい」

専門用語の羅列をユイは難なく読みとり、一つの結論を出すとそれをアスカに告げた。
先程から向けていた迷子のような不安げな目は、昔彼女がまだ幼かった頃見たことのある物だ。

「取り敢えず命に別状は無いみたいよ。今すぐは無理だけどその内意識も戻るし……治るわよ」
「その内って何時よ……」
「今シンジの神経は強いショックを受け、脳の一部が上手く働かなくなってるの。そのせいで身体が動かなくなっているんだけれど、それは少し休ませれば元に戻るわよ……明日には意識が戻ると思うわ」

アスカが混乱するだけなので詳しい原理を説明しなかったが、明日という具体的な日時が解ったことで『治る』と言う単語に彼女の中で信憑性を持たせることが出来た。
何よりユイの安堵した表情はそれを裏付けした。
その少女は力尽きたように長椅子に座り込むと、母親代わりだった女性の足にしがみつく。

「……ねえ、レイはどうしたの? 無事だって聞いたけど……まだ会ってない」
「あの子はちょっとあって仮眠室に寝かせてるわ、疲れが出たみたいで熟睡中よ」

正確ではないが怪我もなく別段問題になるような事もないので、ミサトは最も納得しやすい形で報告した。

「……入って良いんでしょ……もう一度シンジに会ってくる」

何とか立ち上がるとふらつく足を叱咤しながら扉のボタンを再度押す。
先程と変わらぬ音でロックが外れ、再び薄暗い部屋が彼女の前に現れた。
蒼い目は少づつその暗さに馴れていき、部屋の様子を克明に映し出しす。
十台に上る複雑な機械に取り囲まれ透明な膜に包まれたベット、その上に仰向けに寝かされたシンジには後頭部、首筋、脊髄にそって二十本、いや、三十本以上の管が差し込まれその中を薄黄色の液体が流れている。
それぞれに何の役目があるのかは解らない、ただその光景は治療と言うより機械として壊れたシンジを動かす為、そう見えてならない。

「……ンジ、シンジ……」

静まり返った部屋の中で微かにアスカの声が伝わるが、名を呼ばれた少年は指先一つ動かそうとはしない。
聞こえてないのか、聞こえていても返事が出来ないのか、あるいは返事をしたくないのか。
理由はどうあれ定期的に聞こえる電子音は間違いなく彼の生命が無事である事を示している、聞こえないのなら時が経てば届くだろう、時が経てば声も出るだろう……時が経てばせめて言い訳ぐらい出来る。
側に置かれたパイプ椅子に腰を下ろし、表情すら浮かばないシンジの顔を見つめた。
やっと、ゆっくりとした時間を感じ取れる。

「……あんたってホントにバカなのよね、くだらないことに気使って……ボロボロになっちゃって」

横たわる少年は反論もしなければ肯定もせず、眠りか昏睡か定かでない場所に漂ったままだ。
何でこんな目に遭わなきゃならない、何故シンジがこんな目に遭わなきゃいけない。
こんな装置を括り付けられ、管を何本も差し込まれ、返事も返せないほど追い込まれ……

「何も悪い事してないのにね……あんたもレイも別に悪い事してないのにこんな事ばかり押しつけられて……」

その姿からシンジの悲鳴が聞こえるようだ。
何一つ特別なことなど無い、勉強だって運動だって何一つ優れているわけじゃないのにこんな辛い思いをさせた。

「……あたしシンジのこと許すから……あんたもあたしのこと許してよね……」

涙が出ない、悲しい、無力感、罪悪感……多分そんな感情じゃないのだろう。
形容しがたい思いが幾重にも折り重なって積み上がっていく。

「アスカ、そろそろ出なさい、時間よ」

昏睡状態の患者の脇にいつまでも居て良い物ではないのだろうし、見えない、聞こえない状態とはいえ刺激は避けたい。
その辺は理解できたのかアスカは椅子から立ち上がり、ユイの言葉に従う。

「失礼してわたしも様子見ます。今後のこともありますし……」

ずっと控えていたミサトがアスカと入れ替わるように足を部屋に踏み入れ、それは叶わなかった。
真正面に蒼い目の少女が仁王立ちし、彼女の入室を拒んでいる。

「入ってこないで。あんたは入ってこないで」

怒鳴る訳じゃない、だが静かな声の中にこれ以上はないほどの硬質な意志が秘められていた。

「来て何するつもりよ、これ以上シンジに近寄るな。あたしあんたのこと殺してでも近づけさせないわよ」

言葉と同時にミサトの額に、この部屋に置かれた唯一の椅子が投げつけられた。
ユイに見せたような感情の暴走ではなく、全てアスカが意識して行った行為だ。
乾いた音を立て安っぽい椅子が白い廊下に転がり落ちる、それと同時に白い廊下に赤い点が描かれた。
避けようと思えば避けられた、だが後悔の念がミサトの反射神経を邪魔した。
額を押さえた右手の隙間から一本の赤い筋が顔に描かれる。

「アスカ! アナタ何してるの! 」

ユイが慌てて取り押さえようと動いたが、その少女は別段暴れるでもなく、ただ頑として入り口から退こうとしない。
シンジの変わり果てた姿を見てから、彼女の中で何かが固まって形を作り上げる。
それはとても強固で、大人二人掛かりでも崩せそうになかった。




*   *   *   *




ユイは息子の様態を間近で確認すると、治療室を去った。
検診に来た医師に騒がなければと言う条件付きで、アスカはその場に残ることを許された。
彼女がその場を梃子でも動こうとしなかったと言うのもあるが、ユイにしても常時監視中とはいえ誰かが側にいてくれたほうが安心できる。
無論アスカに専門的な知識がある訳ではないが、気は心と言う奴だろう。
そして自分はやらなければならないことが山ほど在るのだ。
このまま入院するのだからシンジの着替えの準備をしなければならないし、家だって何時までも開けて置くわけには行かない。
車の盗難の件に関しても、ほったらかしにするわけには行かないだろう。
緊急時と言うこともあって、持ち主に弁償すれば裁判沙汰にならず済むだろうが、対応は早いほうが良い。
この件に自分の夫を絡めると、途轍もなくおかしな話になりそうなので正攻法で決着することにしたようだ。

雑用で暫く忙しい、その事はむしろ今のユイにとってはありがたいのかも知れない。
治療室のある階から地上へ出るエレベータはなく、一旦途中のロビーで乗り換えなければならない。
彼女の降り立ったロビーは休憩所と兼用らしく三台ほどの自動販売機とテーブルが置かれ、そこにいる人影が動いたのは次のエレベータが到着した頃だ。

「……碇ユイ博士ですね? わたし赤木リツコと申します、覚えてらっしゃいますか? 」

誰かに声を掛けられるなど想定していなかったらしく、呼び止められた女性は目を丸くして背後を振り返った。
自分の記憶の中にあるリツコという名と照合するのに些か手間取ったが、名乗る名前と覚えている顔が一致すると、もう一度驚いたような顔を見せる。

「赤木……リツコさん? ええ、覚えてますわ。お久しぶりと言うのも変だけれど……お元気そうね。わたしが会ったのは貴女がまだ小学生か中学生の頃だったかしら」
「覚えていて下さって光栄ですわ。もうお忘れかと思いましたけど……」

リツコとユイ、実のところ面識はお互い一度しかない。
まだ赤木ナオコと言う女性がいた頃、一時間ほど同じ車の中で顔を合わせただけだ。
それでも名前を忘れずにいたのは、お互い思うところがあるからだろう。

「貴女のお母さん……ナオコ博士のことはお聞きしたけれど……お亡くなりになったんですってね」
「ええ。でもお気になさらず、母は好きで死んだのですから」

お互い再会を祝う気にはならないらしく、微妙な空気が二人の間を漂う。
主にリツコの方から発する気配は非友好的で、刺々しい雰囲気を纏っている。

「シン……サードチルドレンなら大丈夫ですよ……単に感覚器官が混乱してるだけですから。彼がどうやってエヴァを動かしているのかご存じだとは思いますけど」

何かの当てこすりなのか、微妙な角度に歪むルージュで飾られた唇から、不愉快そうなイントネーションの言葉が吐き出された。
そうされる理由に心当たりがあるのか、ユイは黙って彼女の言い分を聞いていた。

「貴女が設計なさった通り見事な働きでしたわ。わたしもこれに携わって随分詳しく調べたつもりだったんですけど……あんな設計だったとはね」
「リツコさん、非難のつもりならお門違いじゃないかしら? 」
「そうですね、貴女は途中で逃げ出したんですものね。理論上の基礎システムだけ構築して母に手を汚させた……そして自分の夫に全てを実行させて自分の子供を差し出して貴女は知らん顔……人間て変わらないのね」

誰かいれば止めたかも知れない、だがここには二人の姿しか無く、リツコが口を塞がれることはなかった。

「そうやって陰に隠れて罪の意識に苛まれてる芝居はお辛いでしょ? 堂々とここに戻っていらっしゃればいいのに。エヴァシステム、人格移植OS……全て自分が作ったんだと胸張って。立派な物ね、まさかパイロットにもOSを写し込んでるなんて思いもしなかったわ」
「……刷り込まれた人格の差違が大きければエヴァは制御が効かない、だからセカンドインパクトを引き起したのよ……あの失敗を繰り返させるわけには行かないのよ! 」
「それで影に回って指示を出していたわけね、母にさせたようにこのわたしにも……さぞ良い気分だったでしょう? 自分で作ったシステムを自分の息子で実践できるんですもの、手を汚さず高みの見物……さぞ面白い見せ物だったでしょうね」

たった二回の対面、されどその根底に横たわる淀みは濃く、多量の毒を含み沼地のように広がっている。
悪意だけで構成された会話、一方的に見えてもユイはその悪意を拒否も否定もできなかった。
彼女を傷付けるために必要な単語がリツコの頭に幾つも浮かんでいく。

「聖人面して息子の心配? 笑わせるわね、貴女は全て予見していた癖に…セカンドチルドレンのこともサードチルドレンのことも全ては解っていたことでしょう! 」

滅多に激高しないリツコの怒声には、無言の答えが返ってくる。
深刻で不毛な会話はそれ以上発展することはなく、のぼりのエレベータが到着したチャイムが響いた。
まだ言い足りないのかも知れないし、何か言い返したいのかも知れない、だが二人とも無言で悪意の底なし沼から足を引き抜くと、リツコは背を向け、ユイはそのまま到着したエレベータに乗り込んでいった。







「……以上で報告終わります。初号機損壊、パイロット負傷、都市設備破損の責任は全て……」
「責任云々はどうも良い。どのみち誰かが指揮を執らねばならぬし、誰がやったところで被害は免れない、その度に責任を取らせていては幾ら人がいても足りんよ。事を考えれば百名以下の死傷者は存外の幸運と言えるな。ご苦労だった、葛城三佐」

冬月副司令の言葉を思いやりと受け取るほどミサトは幼稚ではない。
これは単に責任追及してくる者が上部組織にいないか、いても彼等だけで対応できるか、その何れかだろう。
そして百名以下の死傷者には特別補償金が国から支払われ、駅公舎や倒壊ビルに関しては保険なり何なり用いられる。
そして市民の前には全ての事実は報道規制の名の下に隠蔽され、敷かれた被災地への立ち入り制限が解除される頃には、まるで何もなかったかの如く化粧が施されるのだ。

「それにしても初号機の被害は軽視できぬな。運用できるようになるにはどれくらいの時間が掛かるのかね? 」
「今、赤木博士のほうで付きっきりで修繕に当たっておりますが、一ヶ月近くは掛かると……」

大抵の場合、所要時間に関する報告は、現場の人間が告げた期間を素直に納得する上司はいない。
ここNERV司令室においてもそれは同様らしく、冬月の顔が不機嫌そうに曇る。
もっともそれはミサトも同じで、一ヶ月の間人類は使徒に抗う戦力を失うことになるのだ。

「困った物だな、初号機もパイロットも仲良く寝たきりか……ん、まあ良い、あとはこちらで手を打とう。碇、何かあるか? 」
「……了解した。葛城三佐、ご苦労だった」

やたらと広く何も置かれていない空間に二人の男を残し、ミサトは一礼し司令室をあとにした。

……一ヶ月か、使徒が来なければそれこそ怪しいものね。余裕見せてるけどどうするつもりだか……

言葉にはしない、どうせ答えなど出てこないし、ここで自分の出来ることは限られている。
今は少しでも多くの情報を持ち、いざというとき動く方向を見定められる状態でいたかった。
全ては閉じられた幾つもある扉の向こう側、開けるための鍵はまだミサトの手には無い。
何れそれを手に入れたとき、この扉の向こう側であの二人は一体どんな顔を見せるのか……無機質な廊下に溶け込むようにミサトの姿は消えていった。




*   *   *   *




「レイ……目覚ましたの……さっき覗いたときまだ寝ていたから起こさなかったけど」

使徒迎撃戦終了後に気を失った零号機パイロットは、そのまま疲労もあって熟睡してしまったが、それを責める者は誰も居なかったので夜中の一時まで寝ていた。
それでも疲労は抜けきっていないのか、それとも違う理由なのか、ただでさえ青白い顔は一層青ざめ表情は暗澹としたままだ。

「シンジ……無事よ、今は意識無いけど明日には戻るって……あんたは怪我してないの?」

彼女がそうであったように、レイも入り口付近で彫刻のように立ちつくしたままだ。
紅い瞳に映ったシンジの姿はあまりにも痛々しく、ただでさえ少ない言葉がどこかに抜け落ちてしまった。

「先生が騒がないようにって。レイ、こっち来て……」

思考回路が働かず自我の希薄になった彼女は、アスカの言うとおりに側まで歩み寄る。
透明な膜のテント、その向こう側に横たわっているシンジがはっきりと見て取れたが、何一つ言葉を口に出来なかった。
全ての感覚器官が死に絶えたような中、レイの指先に蛍火のような淡い温もりが伝わる。

「バカシンジの奴、大丈夫だって。明日には意識が戻るって……だから大丈夫なの」

アスカがどこか不安そうな顔で同じ事をレイに繰り返す。
それを着てあのロボットに乗ったのだろう、白いスーツに身を包んだレイに何を言ったらいいのか思いつかない。
労えばいいのか、それともシンジと一緒に戦っていた彼女の心配をすればいいのか、薄暗い病室で浮かび上がるレイの青ざめた顔を横目に蒼い瞳が頼りなく揺れる。

「……碇君、あの時……あたしが、だけど碇君が身代わりに……」

口から辛うじて這い出した呟き、レイもまた何を言えばいいのか解らないのだ。
こうして立っているだけでも色んな思いが渦巻いて、だが口を開いても会話にはならず、ブツ切れの感情だけがほとばしる。
再び口を開こうとしたとき、指先に触れていたアスカの手が強く握り返してきた。

「シンジは大丈夫なの、だからレイ、今あたし達が言う事なんて何もないのよ……」

静まり返った窓のない部屋に、定期的に響く電子音だけが白い壁で跳ね返る。
お互い頭の中で幾重にも重なる思いを言葉にすることも出来ず、だが疲れ切った身体に今の沈黙は重すぎた。
泣くことも叫くこともせずに済む程度の冷静さを取り戻している、その分重さが堪えた。

「……シンジが幼稚園の頃、鈴原とかに苛められてさ。その度にあたしの影に隠れて……その頃からかな、何かあるとすぐあたしのところに来てさ……いつの間にか変わっちゃった」

腰を上げ座る位置をずらすと抜けるように白い手を引っ張り、椅子のスペースを半分レイに明け渡す。
些か窮屈だが何とか二人で腰掛けると、アスカは横目で彼女の顔を眺めた。

「アイツ、ロボットに乗って化け物と戦えるほど度胸無いモン……やっぱりレイがいたからかな、強気になれるのって……そう言う事よね」

どういう意味に取ればいいのかレイにも口にしたアスカにも解らない、今までの事、今の事、これからの事、自分の事、シンジの事、レイの事……ほんの少し揺れた彼女の想いがそれを言わせただけなのかも知れない。
自分でも何から考えればいいのか解らない、今日一日で色々在りすぎた、何一つその場で答えの出ないことばかりだ。
何を納得して何を否定するのか、もっと時間が経たなければ整理できそうにない。

「レイ、それ着替えなくて良いの? 窮屈そうよ」

苦笑混じりで指摘する。
結局アスカは何も考えないことにした、そのうち浮かんでくる事からゆっくり考える。
もう少し、もう少しだけ日常に戻らないとまともに頭が動かない気がした。
シンジとレイは戻ってきた、もしかしたらあの時のままかも知れないがとにかく二人とも戻ってきたのだ。
今はそれで良かったし、それ以上は望まない。

「……シャワー浴びてくる……」
「そうしたら。ついでに戻ってくるとき椅子持ってきなさいよ、お尻痛くなっちゃった」

自分達が居たところで何の役にも立たないが、せめて今晩ぐらいは一緒にいたい、どうせ家に帰っても気になって落ち着かないだけだ。
レイが立ち、ふと思いついたようにアスカも席を立った。

「あたしもシャワー浴びる。お腹も空いたし……ねえ、ここ何か食べるところ無いの?」
「……食堂に行けば何かあると思う、自動販売機があるから……」
「ふーん、施設の割にそう言うとこはセコイのね。まあいいわ、早く行こ」
レイと手を繋いだままだが、その表情はさっきより多少生気が増しているかも知れない。
手を離せない、離せばまた不安になる、レイもまたそれを振り解こうとはしなかった。
紅い眼と蒼い目の二人が初めて持った共通の不安、今それを癒す相手はお互いしかいない。
何となく顔を見合わせ、口にしては何も言わずそのまま治療室をあとにした。

延々と続くかと思われるような白い廊下で、レイは口を開いた。

「……ごめんなさい、あたし碇君を守れなかった……」

消えるような声がアスカの耳を擽る。

「別に……レイのせいじゃないわよ」

今まであの少年と共有し続けてきた時間、そこに割り込んだ少女とそれを認めた自分……認めざるを得なかった自分。
だがシンジの怪我をレイのせいとは思いくない……綾波レイのために負った怪我だとは認めたくなかった。










夕べ、クリスマスイブの夜に起きた一件は、大惨事と呼ぶに相応しい被害を出していた。
最終的には死者一四名、重傷者八六名、倒壊ビル八棟、第三新東京市駅倒壊、などが主な報告事項だ。
何れも正確な数字で伝えられ、巨大生命体襲来の被害としては初めて出た民間人の死傷者に市民達は驚愕した。
だが考えてみれば巨大な化け物と戦争紛いのことをやっているのだ、今まで無傷だったことの方が奇跡なのだろう。

被害者が出たことをどこか擁護するようなTV報道の論調に気付かない振りをしながら、その少女は忙しそうにサンドイッチを頬張ると、香りもこくもない自販機のコーヒーを飲み干した。
いつもの朝はお茶にご飯なので物足りない様子だが、自宅ではないのだからそう贅沢も言えない。

「レイ、早く食べちゃいなさいよ、そりゃ不味いけどさ。あと三十分ぐらいしたらおばさまも来るんだし」
「……ここの食べ物が美味しくないのはいつもの事……」

そう言いつつも少女の食が進まないのはやはり味のせいだろう。
以前はそんな食事の味など気にも留めなかったのだが、いつの間にかそんな価値観が出来ていた。
どことなく不思議そうな顔をテーブルの真向かいにいるアスカに向けるが、彼女もまた美味くないサンドイッチを美味くないコーヒーと一緒に流し込んでいる。

結局二人はあれから治療室に長椅子を持ち込んでベット代わりにして寝ていた。
睡眠時間は三時間程度、顔にも疲れと寝不足の色が浮かび上がっている二人だが、表情はそれほど暗くない。

「そろそろ部屋戻ろ。そろそろシンジも目を覚ますんじゃない? 」

彼女らが目を覚ましたとき、シンジの状態に変化はなかった。
その後医師の診察があり自発呼吸、動向反射が確認出来たが意識はまだ戻っていない。
それでも状態が悪化している訳ではなく、快方に向かいつつあることは二人に朝食を取らせるだけの余裕をもたらした。
事態全てが好転する訳でもないのだが、張りつめていた物が少しずつ緩んでいくのを実感できる。
美味くないサンドイッチの乗っていたペーパートレイを丸め、不味いコーヒーの入っていたカップと共にゴミ箱へ投げ込んだ。

「そうだ、おばさまに連絡したからあんたそれ着替えなさいよ。その格好じゃ外出られないもの」

レイの着ている物がプラグスーツという名称だと昨日本人から聞いた。
二人とも着替えなど持ってこなかったので昨日から同じ服だ。
ここに来るとき着ていたレイの私服はロッカールームにあるらしいのだが、ロッカーの鍵を紛失したらしく、未だに白いスーツを着用している。
見慣れた少女の着ている見慣れないスーツ、妙な違和感を感じアスカとしては、そんな物をさっさと脱がしてしまいたい。

今いる場所は第三新東京市の地下に広がるドーム型の空間、そこにある特務機関NERV。
巨大な施設に途方もない設備、その中で忙しなく動き続ける制服を着た異空間の住人達、シンジとレイの関わっている世界のほんの一端が目の前に広がっている。
ここを建設するに掛かった費用、労力、極秘に進めるための政治的組織力……どれだけの力がここに集結しているか、廊下を歩いているアスカには想像も付かない。
シンジに取り憑いている得体の知れない巨大な魔物、もしかしたらそれは何時か彼を喰い殺そうと舌なめずりしているように見えた。

一人きりにされたら迷子になるのは必死だ、本部の内部構造に詳しいレイの後ろを付いていく。
幾つかの角を曲がり更に幾つかのゲートをくぐり、治療室のある階層に降りるエレベータの前に到着した。
ちょっとした休憩所になっているロビーには、自販機が数台、テーブルと椅子が置かれ29インチほどのTVが壁に掛けられている。
幸いか、職員の姿はなく見慣れない中学生に好奇と疑惑の目を向けられることはなかった。
誰かが点けっぱなしにしたのだろう、視聴者のいない事に気付かぬまま壁掛けTVはニュースを放送していた。

『ではもう一度お伝えします、昨夜第三新東京市で行われた巨大生命体迎撃戦にて多数の死傷者が』

恐らく夕べ避難命令が解除されてからずっと報道され続けただろうニュース、今までもずっと報道され続けた使徒迎撃戦の一般人向けニュース。
この場に立って今までの報道がいかに事実を隠した物であったか理解できた、が、この死傷者の数は果たして虚実なのだろうか。
死者一四名、意識不明の重体含む重傷者八六名……蒼い瞳は行き場のない感情を揺らめかせながら画面を見つめ続けた。

「……どうしたの? 早く行かないと……」

レイの声が届いたかどうか、アスカは身動きせず壁を見つめたままだ。
アナウンサーが三回ほど数を繰り返すと災害現場の中継に画面が切り替わる。
幾度となく利用した第三新東京市駅が跡形もなく崩れさり、地面には大きな窪みが幾つか出来上がって、その内の一つに駅の避難所が設置されていたのだろう。

「……TVがどうかしたの?」
「どうって……これって昨日の騒ぎで出来たのよね? 」
「ええ、そうだと思う、初号機が落下した場所だから……でも心配しないで、ここの施設機能とはあまり関わりないから」

シンジやレイが罪の意識を感じる必要はないのだろうし、責められる謂われもない、アスカ自身にも責める気は全くない。
あれだけのことをやっているのだ、これだけの被害が出ても不思議はない……アスカはそう理解したつもりだ。
だがレイの様子はあまりにも平然としていて、薄ら寒さすら感じさせる。

「……どうかしたの? 」
「別に何でもないけど……その……」

気にする必要はない、そう言ってやるつもりだったが自分ですら偽善的に思えるほどだ。
繋げる言葉もないまま、言いくるめられた子供のように憮然とした顔をアスカは見せた。
それを悟ったのかどうか、紅い瞳の少女は普段と変わらぬ様子で告げる。

「……多分あたし、碇君とあなたさえ無事なら家がどれだけ焼けようと何万人死のうと気にならないのだと思う……難しいことはまだ解らないから……」




*   *   *   *




碇ユイが四人分の着替えを持ってNERV本部を訪れたのは、朝十時を少し回ったくらいだ。
もう少し早く来るつもりだったのだが、バスのダイヤが大幅に狂ったのと地上のあちこちで渋滞が発生してなかなか目的地までたどり着かなかった。

「お疲れさま。あの子達どうしてるの? 」
「問題ない、下で朝食を取っていた。あれはまだ意識が戻っていないがな」
「そう、アスカが一時酷くなってたから心配だったけど……一時的な物みたいね」

特務機関NERV司令に着替えの入った紙袋を手渡し、ユイはエスカレータに足を乗せた。
二人だけを乗せた動く階段は音もなく、この本部の更に地下にあるシンジのいる治療室に向かう。
今朝の連絡ではシンジの様態は快方に向かいつつあるとのこと、暫くは後遺症が残るがそれも何れは消えるだろう事が告げられていた。
そのせいか、もしくは彼の性格か、父親の顔から心配の色を探すのは難しい。
いつもと変わらぬ無愛想さであった。

「夕べ赤木博士の娘さんにお会いしたわ……」

時折エスカレータで上っていく職員が一礼して擦れ違っていくが、山ほど書類を抱えているのは夕べの後始末なのだろうか。
時々奇妙な視線を浴びるのは、ゲンドウの妻という立場上やむを得ない。

「彼女なりの考えもある、あまり気にするな……動き出した以上過去を責めてもはじまらんよ」

二人がどんな会話を交わしたのか、聞かなくても彼には想像できるのだろう。
誰かを責めても誰かが責任を感じてもどうにもならない、この夫婦が今まで経験してきた数多くの出来事と同じ事だ。
選択の余地などどこにもない、エスカレータのように行き着かなければ道を選べない。

やがてフロアに降り立った二人は何故か二手に分かれた。

「シンジのところに行かないの? せめて顔ぐらい出してやっても」
「無意味だ。今更父親面する気もない……やらねばならぬ事が終わらぬ内はな」








透明な膜の中でその少年は、僅かに開いた目を外に向けた。
白い靄の掛かった視界に映った見慣れぬ部屋、そこにいる二人の少女……紅い眼と蒼い眼、その二人が誰なのか記憶に残っている、名前も知っている、今まで過ごしてきた時間も覚えている。
だが名を呼べるほど身体の機能がまだ回復していないし、海草のように揺れる意識を留めようとすると頭痛がする。
海中で彷徨う意識はそのままに、嬉しさと心配を半々に湛え覗き込む二人の顔を眺めていた。

「もう、おばさままだ来ないの? せっかくシンジの奴目覚ましたっていうのに」
「……きっと道が混んでるのだと思う……昨日の今日だから国道は、恐らく使えないわ」

外見上冷静冷淡なレイではあったが、シンジの意識が戻ったのを確認した時、アスカと二人で騒いだため報告を受けた医師に追い出されそうになった。
彼はとても完全とは言えない状態だ、口も利けなければ耳だって聞こえていないかも知れない。
アスカの受けた説明では神経接続が影響して脳が強い信号を受け、一時的に麻痺状態になっているとのことだった。
生命維持装置で何とか心臓と肺を動かしている状態で、意識が戻ったからと言っても身体が動くはずもないのだが、それでも確かに目が会ったし僅かだったが笑みを浮かべたのだ。

「何か言えばいいのに……何やっても経ってもはっきりしないんだから」
「……無理よ、まだ回復しきれていないもの……ゆっくり待ちましょ」

妙に焦ったふうのアスカだが無理もないのだろう、彼女にしてみれば薄く透明な無菌テントが、まるで鋼鉄の壁のように二人の間で邪魔をしている。

「……大丈夫よ、碇君はあなたのこと覚えているわ……だからエヴァで守ったのよ……」

その時のレイの表情はかつて無いほど複雑で、様々感情の色が白い顔に浮かんでいた、口にしたことを後悔したような、認めたくないような。
アスカも同じように……彼女もどんな顔を向けたらいいのか迷っているようだ。
二人はそれ以上言葉もなく、ただ何となく行き場を失った感情が少しずつ重さを増していくように思える。
外から持ち込んだ長椅子に腰掛けたものの、夕べと同じように電子音だけが響く部屋は如何にも重苦しい。

「おはよう、二人ともご苦労様。シンジが目を覚ましたんですって? 」
「おばさまオハヨ。ちょっと前に目覚ましたの……今は寝てるみたいだけど」

ユイの登場は何となく会話の出来なくなった二人を救ったかも知れない。

「だけどね医者も言ってたわ、脳波計に反応があるからって。回復が想像より早いみたい、顔色も何となく良いみたいだしこのまま順調ならお正月までには家に戻れるかも」

アスカが明るい材料だけを並べ立てるのは、不安の裏返しなのだろう、ユイもまたそれを否定するようなことは言わず、ただ納得したように頷いて聞いていた。
やや舞い上がり気味の少女が一通り喋り終えると紙袋を手渡した。

「取り敢えず二人とも着替えてらっしゃい、適当に持ってきたけど別に良いわね」

紙袋にはジーンズ二本にトレーナー二着、下着二人分にジャンバーが詰まっていた。

「サンキュー、じゃあ着替えてくる。レイ、行くわよ」

妙に明るいアスカだが、そうでもしていないと不安だけが迫り上がってくる。
それに昨日のこともある、実のところユイと顔を合わせるのも辛いのだが、逃げるわけにも行かず明るい振りで誤魔化しているのだろう。
全てが日常に戻るにはまだ程遠い。
レイの手を掴んでロッカールームへ向かう二人の背中を見送ると、ユイは椅子に腰を下ろし息子の顔を眺めた。

「本当に……ご苦労様」

母親として言いたいことも全て押し殺しやっと口にした言葉だった。
それ以上の事は自分に言える資格はない、リツコの言ったように手を汚さなかった自分に言える言葉は何もない。
全てを承知している自分に心配する権利すらない、全てが終わったとき恨まれ憎まれる役を果たす事だけしか自分には許されない。

「解っているのよ……でもその時までは母親でいさせて……」

窓のない部屋で零れた言葉は、誰の耳にも入らず白い壁に当たり砕けて消えた。
一方、窓のある廊下で響く賑やかな声は、通りすがりの職員の耳に入ったが、特に気にならないようだ。
「じゃあここ右でしょ? あたしちゃんと覚えてるんだから」
「違うわ、ここは真っ直ぐなの……」
「じゃあこの次を左でしょ? 今度こそ自信あるもの」
「……違う、エレベータに乗るの……ロッカーは上の階だから」

NERV本部内はお世辞にも解りやすい構造ではない。
案内図があるでもなければ標識が出てるわけでもない、一度行っただけのロッカールームにアスカがたどり着くのは難しい。

「何処の誰よ、こんなややこしい物建てたの……ひねくれてるわよ、絶対」
「……碇司令が承認したはず……」

アスカはそれ以上悪口を言うのを止めたが、やっぱりという感想は拭いきれない。

「とにかく早く着替えよう、ついでにシャワー浴びて……あーあ、長椅子なんかで寝たから首痛いのよね」

頭を振ると首の辺りがゴリゴリしている気がする。
それでも精神的には昨日に比べ格段に楽になった、それはレイも同じなのだろう。
だから明日になればもっと、明後日になればもっと、何れは元に戻れる気がする。

「流石に今年は旅行行けないわね。去年はスキーに行ったのに……ま、その分春休みにどっか行こう」
「……そうね、行けるといいわね……」

別にレイは含みを持たせたわけではない、何となく目に入った壁掛けTVのニュースに気を取られてぞんざいな返事になっただけだ。
興味を惹かれたわけではないが、何となく聞き覚えのある単語が聞こえた気がした。

「そう言えばニュースなんて今日まだ見てなかったわね。あんたとシンジの事って内緒なんでしょ? そうじゃなきゃ自慢できるのにねー」

自慢したと同時にこの一件の被災者達から何を言われるのだろう、無論自分は責める気など毛頭無いが、亡くなったり怪我を負った者、その家族知人等にすればそう言うわけにもいくまい。
秘密という言葉の効果が何となく解る気がする。
それはさておき今日一日はどうせ特番になるのだ、エレベータが来るまで眺めても良いだろう。
アスカは何となく皮肉っぽい目で、レイに寄りかかりながら画面を眺めた。
どの程度事実と違うことを言っているのか興味は湧く。

そして凍てついた。

『…それでは次に重体の方の収容先です、富士宮市立総合病院に三名、収容者のお名前ヲ読み上げます、タカハシトキオ、ニシハラヒナコ、ホラキヒカリ……』



続く


Next

ver.-1.00 2001 05/24公開

何かありましたらこちら!!お気軽にどうぞ



 ディオネアさんの『26からのストーリー』第二十七話後編、公開です。






 使徒撃破
 アスカもシンジも何となく
 レイも無事。

 とにかく良かった良かった。


 まだまだ怪しく危うい感じだけど、
 何事もなければソフトランディングできるかなと−−

 ありそうだなぁ
 というか、あったようです・・・


 ヒカリちゃんが、
 ヒカリちゃんが。

 あんないい子が重体だなんて、なんて、


 もう一つ大きな山が来て
 いったいどうなっていくんだろう。



 心臓バクバク




 さあ、訪問者のみなさん。
 ディオネアさんに感想メールを送りましょう。







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