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26からのストーリー


二十七話:激震(前編)





脱ぎっぱなしのジーンズとトレーナーが床に放り出されている部屋に、思い出したような朝日が遮光カーテンのわずかな隙間から射し込んでいる。
何も置かれていない机に空の引き出しが多いタンス、本のない本棚だけの殺風景な部屋において、無造作に脱ぎ捨てられた衣類が唯一『生活』の存在を感じさせた。
そんな部屋の主は未だベットの上で布団にくるまったまま目覚める気配を見せない。
放っておけば何時までも寝ていそうな雰囲気だが、目覚まし時計は忠実にその職務を果たし、けたたましいアラーム音を響かせた。

聞き慣れない電子音に叩き起こされた彼女は、重すぎる瞼を擦りながらベットの上に身を起こした。
わずかに覗く紅い瞳にはいつもと変わらぬ殺風景な部屋が映し出され、今が昨日の続きであることを思い知らされせる。
そう……今日は昨日の続きなのだ、何も変わらなくても何かが変わっても継続した時間の中の出来事だ。
例えば昨日脱ぎ散らかした洋服がそのままなのも、いつも朝起こしに来る少女が顔を出さずに目覚まし時計がレイを叩き起こしたのも。

強引に眠気を払いカーテンを開け、冬の朝日を部屋に取り込む。
上は水色、下は黄色の寝間着はタンスから適当に取り出して着た物で、本来なら上下同じ色でそろうはずだった。
だが誰もレイに注意しなかったので、いつも注意してくれる少女が何も言わなかったのでそのまま着ている。
全ては繋がり続ける時間の中の出来事だ。
床に散らばった衣類に寝間着が加わり、タンスから制服一着が出されレイの身体を包む。
別に学校に行きたいと思ったもイヤだと思ったこともないレイだったが、今朝は憂鬱な思いを拭いきれずにいる。

モタモタと鞄の中に教科書を詰め込み、寝癖の付いた蒼銀の髪を手で不器用そうになでつけつつ、重い足取りで一階の食堂へ降りるとTVの音と共に妙に明るい声が耳に入ってきた。

「あ、おはよう。早く朝御飯食べちゃおうよ」

片手に茶碗を持った少年の挨拶は、彼に相応しからざる明るさに聞こえる。
レイは何となく挨拶を返しそびれたまま、それでも突っ立っている訳にもいかずいつもの席に腰を下ろした。
同じ屋根の下で暮らす少年にここ数日奇妙な変化が起きている、少なくとも少女の紅い瞳にはそう映った。
どこが、と問われれば返答に窮する程度の変化でしかない、が、原因はと問われれば即答できるだろう。

「……碇君、アスカはどうしたの?」
「さぁ?朝起きたらいなかったよ。それよりご飯取りに行くとき一緒に醤油持ってきてよ」

質問の答えを得られないまま再び席を立つ。
あの日以降だ、シンジが変わったのは。

全てを語ればまた元通りに戻れると思っていた、綾波レイはそう信じていた。
いつも通り三人で朝を迎え、三人で登校し……だが彼女の手に残ったのは歪んだピースのパズルだった。
あれ以来アスカは二人と顔を合わせようとすらせず、夕食時も時間をずらしてリビングに入ってくる。
学校では席が隣りなので顔を合わせないわけにはいかないが、話しかけようとはしなかった。
二人を無視する、アスカの態度はまさにそれだった。
それが全てを聞いて彼女が出した答えなのだろうか、何れにせよ彼女の態度はとりつく島のないものだ。
だが奇妙なことにレイは、そのこと自体にさして違和感も不安も感じない。
アスカはある意味感情の起伏が激しく、この態度もその内の一つとして捉えることが出来た。
むしろそれを受けてのシンジの方が遙かに違和感を感じさせる。

「はい、ご飯とおみそ汁。早く食べないと遅刻するわよ、起きてくるの遅いから」

明後日の方向に向いていた意識の隙間にユイの声が滑り込む。
炊飯器に付いているデジタル時計を見れば、確かに何時までも考え込んでいられる時刻ではない。
両手にご飯と味噌汁を乗せ再び自分の席に着く。
いつもなら三人並んで食べるはずの朝食だった。

「綾波、醤油は持ってきてくれた?……あ、じゃあいいよ。無くても食べられるし」

両手で茶碗とお椀を持っていては確かに無理だろう、シンジは別に醤油に拘る様子もみせず目玉焼きを口に運ぶ。
おかずとご飯を交互に頬張り、飲み込むとレイに話しかける。
夕べ見たTVのこと、これから迎える冬休みの予定、リビングで付けっぱなしのTVが流すニュースのこと、訓練のこと……
どれもたわいのない会話だが、そこに不自然さはない。
いつもより明るく話す様子はごく自然で……顔すら会わせようとはしないアスカのことなど念頭にないほど自然で、この場にアスカがいないことが当たり前のように……

だから不自然だった。








「まあ不自然て言えばそうだけど……喧嘩してる時って普通はああじゃないか?」
「普通ならな、せやけどあの二人は普通やないしなぁ。今までやったら喧嘩しとる時の方がひっ付いとったやろ」

いつもなら喧嘩していてもそこには例え悪口の言い合いでも意志の疎通が見られたし、言葉を交わさなければ不機嫌さを漂わせ睨み合うのが常だ。
だが喧嘩中と思われる二人と幼稚園児時代からの幼なじみである鈴原トウジには、それがいつもの喧嘩には見えなかった。
アスカに関してはその表情の暗さが気になるし、シンジに関しては逆に普段以上の明るさが彼らしくなく不自然だ。
シンジは怒るにしろ落ち込むにしろ、喧嘩している最中に明るく振る舞うような性格の持ち主ではない。
ましてや明るい振る舞いを装うなど逆立ちしても彼には無理だろう。

「にしちゃ朝から妙にテンション高いんだよなぁ……」

陰湿な性格とは言わないが社交性豊かとも言えない、引っ込み思案で大人しい性格と言えばいいのか……とにかくはしゃいだり騒いだりすることもなく、自ら話しかけることも殆どなかった少年がこのところ誰構わず話しかけていた。
その様子は足枷を外された囚人が何年ぶりかの自由を楽しんでいるように映ったのは、トウジの気のせいだけなのか。
そんな違和感が綾波レイの抱いているものと同一である事など知る由もなく、笑顔で近づいてくるシンジに手を振った。

「……どうする?冬休みになるしうちに来れば?家の人はみんなおばあちゃん家行くから気を使わなくて良いし」
「アリガト、でも良いわよ。別に喧嘩してるわけじゃないし……あたし普通よ」

細く開けた窓から氷のように冷たい空気が二人の少女を撫でながら通り抜けていった。
暖房の淀んだ暖かさに晒されていた身には、冬の冷たい手が心地よい。
終業式を明後日に控えているためか今日一日授業は殆ど行われず、掃除と片づけに費やされている。
その為か校内全体が浮ついた雰囲気に支配されているようだ。
生徒同士交わす会話も冬休みの過ごし方にほぼ限定され、スキーだの旅行だのと言った単語が多く聞かれる。
中には先の巨大生命体迎撃戦の際に破壊されたビルの中に契約した旅行会社が有った、と言う不幸な生徒もいたが、大半の者は冬の休暇を心待ちにしていた。

その少女の蒼い瞳はどこか淀んだように沈んだ色合いを見せ、冬休みを心待ちにしている様子は伺えない。
落ち込んでいるでもなく、かといって苛立っているでもなく、むしろ感情を消したかのように淡々とした表情だ。
それはかつてアスカが友人に見せてきた顔の何れとも違う。
それ故にヒカリは気掛かりだった。

「ねえ、あたしは冬休みこっちに残るから泊まりに来てよ。またビデオ借りて徹夜して見ようね」
「うん、でも……ほら、うちもどっか行くかも知れないし……だからヒカリは家のみんなと行って来なよ」

恐らくヒカリは最初から家族旅行に同行する予定だったろう、それを急遽変更したのは自分を気遣ってのことだ……鉛の中で固まったような心境のアスカにも気付く事が出来た。
そんなヒカリを心底有り難いと思う、しかしその反面自分があまりにも惨めに思えて仕方ない。
それはあの時と似た気持ちかもしれない。

……余計な口出しするな!!大体アスカには関係ないんだ、無関係なんだよ!!……

辛いよりも悔しいよりも……心配したのに、本当に心配したのに無関係な立場と言われた自分が惨めだった。
十年も一緒に暮らしてきた、十年の間繋がり続けてきた時間が途切れ、その端に惨めったらしくしがみついている自分が見えたような気がした。

「……本当に大丈夫?」
「……え?あ、うん、大丈夫よ。ほら別に喧嘩してるわけじゃないし……それよりヒカリ、旅行からいつ帰ってくるの?」
「えっと……来年の五日かな、お父さんの仕事もあるし。帰ってきたら映画行こうか、今面白いのやってるから」

他人の同情は今受け取るには重すぎる。
どんな優しさも思いやりも今の彼女には受け取る余裕などなかった。
だから始業のチャイムはヒカリの元から逃げ出すのには格好の理由となった。








「綾波、どうする先に本部に寄っていく?それとも一旦帰る?」
「……そうね、着替えたいから……一回帰る」

レイは鞄を手にすると周囲を見回し、もう一人一緒に帰るべき相手を探した。
その人物は意外なほど側にいた、レイのすぐとなりにいたのだ。
もちろんアスカも真っ直ぐ帰宅するつもりだったし、シンジやレイと同じ家に帰る筈だ。
だが恐らくはシンジとの会話が聞こえただろうに、アスカは振り向くでもなく淡々と帰り支度をしていた。
鞄に教科書を詰め込み椅子を元に戻す。
ほんのわずかな時間アスカの動きが止まったのは、何かを期待してのことか。

「……アスカはすぐ帰るの?」

質問でもなければ確認でもないレイの言葉がアスカの耳に忍び寄ってきた。
何気ない会話なのに少しだけ緊張している自分に違和感を覚える。
どう答えればいいのか、どんな顔をすればいいのか……今まで通り何も話さずこの場から去ればいいのか。
彼女にこれと言った用事はなく普段通り帰宅して食事をすればいいだけだ、それなのにどうすればいいのか判らず、ただ机の表面を見つめるだけだ。

「……あたし達は家に帰るの……だからアスカも……」

栗色の長い髪が微かに揺れた。
改めて『あたし達』の中に自分が含まれていないことを実感し、胸の奥の方が傷む。
今まであたし達と言う言葉には三人のうち誰が口にしても、必ず三人が含まれていた。
だがあの日目撃した光景、あの日耳にした言葉が見えない壁となってアスカを包んでいる。

一緒に暮らしているシンジとレイが見てきた光景、自分にも同じ物が見えると思っていた。
自分も彼等と同じ光景を見ているものと思っていた。
同じ時間を共有していた、それは根拠のない自分の思いこみが見せ続けた淡い蜃気楼だ。
椅子に置いた象牙細工を連想させる手に力がこもり、背もたれを握りつぶそうとしているかのようだった。
アスカの耳に聞こえていた教室内のざわめきはボリュームを絞る様に消えていく。
幾度か扉の閉まる音が彼女だけを避けるように教室内に響くと、暖房の消えた冷たい静けさだけが残った。

「……アスカ、帰りましょう……」

怖ず怖ずとした様子でレイが語りかけ、その声は耳に届いたがやはり答えるべき言葉は、淡い朱を湛えた唇から生まれてこなかった。
無視して立ち去ることも出来ず、話しかけることも出来ず、止まった時間の中で喘ぐしかなかった。
もはや誰も用のない教室の扉が開くと、堰き止められた時間は一気に流れ出していく。

「綾波!何やってるんだよ、早く帰ろうよ」

アスカに声も掛けず級友達といつの間にか廊下に出て話し込んでいたシンジは、レイを待ちくたびれたのか些か機嫌悪そうに彼女の名を呼んだ。
名を呼ばれた者と呼ばれなかった者、その表情は同様に堅い物だった。
レイは俯いたままのアスカに再度声を掛けようとして……彼女が無言のままそれを拒んでいるのを察知し、自分の鞄を手にする。

「……先に帰る……」

聞こえたかどうか判らないほどのか細い声を残し、蒼銀の髪を揺らしてこの場から立ち去った。
遙か彼方で誰かの話し声が聞こえたような気がしたが、扉の閉まる音と共に再び静寂が訪れる。
教室という空間はアスカ一人の専有物となった。
誰も見ていない、誰も聞いていないただ一人の閉鎖された静寂の空間。
一体自分はどうしたいのだろう、あの日以来何となく考え続けた疑問がアスカの頭の中を覆い尽くす。
千切れたネックレスから転がった真珠のように、戻りたくとも戻れず行き場を失った少女はただそこに立ちすくんだ。
正午を知らせるサイレンが鳴り響くとやっと鞄を手にする。

……自分は一体何なんだろう……

ずっと過ごしてきた時間が嘘だったのか、見てきたもの、聞いてきた言葉全てが嘘だったのか。
そんな中で生きてきた自分は一体何なのか。

「……バカシンジ……」

かつてよく使った呼び名はもう使えないのか、真実を知った自分にはもう使うことの出来ない呼び名なのか。

息が苦しくなる。
幾ら力を入れて堪えようとも涙は後から後から溢れだして、幾ら拭っても拭いきれなくて……

たった一人だけの空間で小さな肩は寂しく揺れた……










ジーンズに白のセーター、その上からうす茶色のコートを羽織った少女が、手元のメモと周囲の景色を幾度となく見比べ、エビ茶色の外観を持つマンションに訪れたのはこれが初めてだった。
少し躊躇したようにマンション入り口に佇み、そして決断したように足を踏み入れたのは到着してから約5分ほど経過してからだった。

「めっずらしいわねー、何、レイ一人なの?……何か訳あり?まー立ち話も何だし入ったら?」

最上階の一室の玄関から出てきたのは、室内着姿ですっかりくつろいでいる担任教師だった。
ここは葛城ミサト先生の自宅であり、特務機関NERV所属の葛城ミサト三佐が住む官舎でもある。

「ほらほら、何してんのよ。寒いからさっさと入ってよ……と、コーヒーで良いわね」

レイが他人の家、他人の生活空間に足を踏み入れたのはこれで二度目だ。
かつて宿泊した級友の部屋は綺麗に片づいていたが、今日訪れた家はそれとは対照的に足の踏み場がない。
その割に台所が綺麗なのは足元に転がっているインスタント食品のお陰か。
取り敢えずリビングまで入るとコタツを中心にビールの空き缶と酒の肴類の空き袋が、この部屋の持ち主の行動範囲を示すかの如く局所的に散らばっている。
蒼銀の髪を持つ少女は担任教師の生活態度の調査に来た訳ではなく、あるいは自分も人のことは言えないと思っているのか、もしくは興味がないのかその惨状については言及せずジーンズに包まれた足をコタツに入れる。

「んで、何の用なの?あっち絡みだったら本部で言ってくれりゃーいいのに」

紙コップに入れたコーヒーを渡され、一口だけ啜ると俯いたまま唇を動かした。

「……碇君の様子がおかしい……この前の使徒迎撃戦以来……」

あの日以来シンジに感じていた違和感、そして今日確信した。
シンジはどこかおかしい、以前のシンジではないと。
無視し続けるアスカに対してシンジが見せた態度は、あまりにも自然すぎたのだ。
彼女の態度に何の興味も示さず平然とし、その有様がまるで当然のように受け入れているようでもあった。
シンジとてアスカが無視する理由は良く知っているだろうに、構うことなく普段と同じ、いや、普段より妙に明るい様子で級友達とふざけ合い雑談に没頭する姿は、見つめる紅い瞳に異様とさえ映った。
レイの知る限り陰性にしろ陽性にしろシンジの機嫌はアスカのそれと同調していた。
喧嘩しているときは不機嫌に落ち込み、アスカの機嫌がいいときはつられるようにシンジもどことなく陽気になる。

「おかしいって彼お腹でも壊したの?あたしが見た限りそう変でもなかったけどねえ」

ミサトの気楽な言い様が気に障ったのか、不機嫌な雰囲気が少女を包む。

「どうおかしいの?夜中に油舐めるとか首が伸びるとか……」
「……あなたは気付かなかったの?」
「鈍感なモンでねえ……ヘヘヘヘヘッ」

レイ自身が感じとった違和感を他人に伝えるには、彼女に会話の能力が足りない上に余りにも漠然としすぎていて『おかしい』としか表現できないのだ。
煙は見えているのに火事と伝えられないもどかしさ。

「今のところ別に異常はないわよ、今日のシンクロテストでも数値は誤差範囲で下がってるくらいだし」

聞きたいのはそんな事じゃない、もっと大事なことだ……そう叫びたいのに声の行き場が見つけられない。
感情を出して叫んだことなどレイには経験のないことだった。
自分で何とかしなきゃいけない、焦りが苛立ちに変わりもどかしさが腹立たしさに取って代わる。
白い手は無意識のうちにコタツ布団の端を握りしめていた。

「シンジ君はどーせアスカと喧嘩してるんでしょ?そう気を揉むことはないって」
「……喧嘩じゃないわ、判らないの?」

違う、喧嘩なんかじゃない。
あの時シンジはアスカを無関係だと突き放した、そして今彼はその言葉通りに過ごしている。
無関係、そんなはずはないのに。
歯車の一つが抜け落ちても動き続ける機械のように不自然で、いつ壊れるか判らない危険性……
ミサトの無神経とも取れる応対は、だがそのお陰で違和感の形が徐々に整っていく。

今見ているのは変形したピースを無理矢理填め込んだパズルだろうか。
他のピースを傷付けながら……自分自身も傷付けながら填め込まれた歪んだピース。
何れはちょっとした衝撃でバラバラに散ってしまう不完全なパズル……

「……碇君のメディカルデータを見せて。あの後検査したはず……結果は出ているのでしょう?」

この部屋に入ってきた時は病人と見間違う程静かで生気のないまるで人形のような少女が、今は明確な意志を宿した瞳を向けていた。
たかだか十四歳の少女に睨まれた程度で臆する事など無いミサトだが、まるで抜き身のナイフを突き付けられたように感じている。

「んー、アレってパイロットのあんたに見せる義務はないのよね。一応極秘データだしぃ」
「……検査結果を知りたいの」

目の前にいるのはミサトの知っている綾波レイではなかった。
命令には必ず従う綾波レイではなく、必要なら殺意を抱きそれを実行するだけの意志を持ったレイだった。
強固な意志を塗布した紅い瞳が徐々に険しくなっていく。

「ったく、ほら、それの四枚目から八枚目がそうよ。ンなモン見てもしょうがないでしょうに」

ファイルされたコピー用紙を空き缶で埋もれたコタツの上に放り出す。
実のところ本来なら持ち出し禁止であるべきデータがこうして彼女の自宅にあるのも、レイの言わんとしていることにミサトも既に気付いていたからだ。
シンジの身に起きた見えない変化、それは担任であるミサトの目にも明らかだったし、その為に三佐などと言う肩書きを持ちながら担任をやっているのだ。
シンジの一連の変化が成長に伴う物なら別に心配もしなければ気にもしないだろう、だが変化のきっかけと思われる出来事があった以上、軽んじることは出来ない。
エヴァ、使徒……この単語と関わる限り些細な変化でも見逃すわけには行かない、それだけ危険な存在であった。
エヴァも使徒もそれを操る者も。

「先に言って置くけど精神汚染や心理障害ってのは無いわよ。まあ一応日常生活を送ってるんだし」
「……でもおかしい……まるで……」

まるで別人、そう言えるほど変わったわけでもない。
少しだけ、ほんの少しだけの異変だがレイにはそれが恐ろしかった。

「まあそんな検査で全部判る訳じゃないけどさぁ、あんたの考え過ぎじゃない?あんた達の年頃だとコロコロ変わるモンよ」
「いい加減な事言わないで……何も判っていない癖に」

本当に軽く考えてるわけでもないだろう、データを持って帰って思案する程度には深刻に考えているらしい。
だが理解できるわけはないのだ、エヴァに関われない人間には。
自分とシンジだけしか理解できない事なのだ、それが例えアスカでも……だからこそ彼女は傷つくしかなかったのだ。
どうにかしたい、その為の手掛かりが欲しい、レイはそう思って何も見逃さないようにファイルを見つめる。
しかし落ち着いて考えてみれば、文字に現れる変化なら当然ミサトなり検査した赤木リツコ博士なりが気付き、とうに処置を施しているだろう。

「気持ちは判らないじゃないけどさぁ、もう暫く様子を見た方が良いんじゃない?取り敢えずこれと言った実害はないんだし」

確かにその通りでシンジの行動に実害はない、アスカのことを除けばごく普通なのだ。
それはミサトやリツコ等の第三者にとってであって、レイ自身にはその事こそが大きな問題だった。

「……もういい……失礼します……」

ファイルを空き缶だらけのコタツに置くと、うす茶色のコートを羽織った。
別にミサトを責めるのも筋違いだろうが、彼女に対して苛立ちを隠しきれない口調に発言した当人が一番驚いたかも知れない。
怒り、悲しみ、焦り、苛立ち、恐怖……シンジとアスカに出会ってから知ることの出来た感情。
望むモノ、望むことがあって知ることの出来た感情。
少しずつそれが無意識のまま表面に現れ始めたレイ、ここに訪れたのもそのうちのひとつかも知れなかった。

背を向けた教え子に掛けたミサトの言葉は思いの外冷ややかだった。

「言っとくけどあたしゃあんた達二人がエヴァに乗れるンなら別に口出すつもりはないわよ。それがあたしの立場だし管理者としての限界だしね」

無言のまま扉を閉めコート姿の少女が消えると、ミサトは忙しそうに携帯型のコンピュータを起動し、彼女の側に転がっていた電話を手にする。

「さーてと続き続き……あ、日向君?悪いけど今からMAGIにアクセスするから回線開いて……そう、心理分析……うん、サードの……それと明日シンクロテストやるから急で悪いんだけどリツコに話し付けといて」








第三新東京市中心街の一部は厳重に閉鎖され、誰も立ち入ることが出来ない状態だ。
先だって行われた使徒迎撃戦の際に破壊された地区だった。
一帯にロープが張られ警備の人間が立って警戒している辺りは、単に危険だからと言う理由だけでもないのだろう。
さながら爆撃でも受けたような有様だが、実際ここで何が行われたのか知っている者は行き交う人々の中にはいない。
街の一角は無人と化したが、メインストリートを始めとして賑わう地区は無事なので遊ぶには不自由せずに済んだ。
駅前ロータリーの中央の陣取っている大型の時計台が夜の九時を回っても、人の数はそれほど減ってはいなかった。
むしろ若者達の数は昼より増えているかも知れない。

「のうシンジ、帰らんでもええのか?そろそろ帰らんとまたウルサイんやないか?」
「大丈夫だよ、家に電話してあるから」
「ほか?またカミサンに叱られるやろ、ヒヒヒヒヒッ」

自動販売機の前に缶コーヒーとファーストフードで買ったハンバーガーを頬張る二人の中学生の姿があった。
本部での用事を終えたシンジは友人の鈴原トウジを呼び出し、さしたる目的もなくゲームセンターや本屋、ミュージックショップ等を徘徊していた。
いつの間にか日は遙か彼方に沈んだが、冬休み前の開放感からか彼等の姿は未だ街から消えてはいない。
「カミサン?何だよそれ、綾波はそう言うんじゃないよ。変な事言うなよな」

トウジは思わずシンジの顔を覗き込んでしまった。
無論級友のシンジは自分と同じ歳であり結婚など問題外なのはよく解っているが、そう揶揄される存在がいるのは周知の事実だ。
シンジの『カミサン』と今までからかわれてきたのは綾波レイという名ではなかった。

「なあ、別に根ほり葉ほり聞くつもりはないんやが……何ぞあったんか?」
「え、別に何もないよ?それより何処行こうか。ゲーセンも飽きたしね」

何故アスカの名が出てこなかったのか、トウジはそれを尋ねたのだが何ら意味のある返答は得られなかった。
質問をはぐらかしたと言うのならまだ判るが、誤魔化そうとする様子はまるでなくごく自然な様子だった。
まるでアスカなどという少女は初めから知らないような……
それがここ数日シンジと言う友人に起きた微妙な、だが明かな変化と繋がるものかどうかトウジには計りかねる。

「北口に新しいアミューズメントパーク出来たの知ってる?そこ行ってみない?」

そんな友人の心配とも好奇心とも取れない思いを余所に、未だ遊び足りずと言った様子で遊びに誘う。
実際シンジはアスカという少女のことなどどうでも良かった。
いや、意識の端にすら引っかかっていなかった。
あの日からまるで心から重石が取れたように軽く感じられ、今まで経験したことのない身軽さを楽しんでいた。
記憶という大層な物を持ってから初めて感じる、自由な空気を満喫するのに何の躊躇いもない。

「あそこ新規のアトラクション入ってるらしいから行ってみたいんだよ、行こうよ」

何でも出来る、何でもしたい、初めて感じる全身の躍動感に抗う術をシンジは知らない。
自分の望むままに言葉を紡ぎ、自分の望むままに足を向ける……誰に遠慮することなく。
街の灯りはそんなシンジを歓迎するかのように瞬き、数多くの遊びを提供していた。

「まあ、行きたいんなら付き合ってもええけどな……今日はそこ最後にしようや」

飲み干した空き缶をクズカゴに投げ込むと腰を上げる。
本当のところは家に帰りたいのだが、今のシンジを見ていると何をしでかすか判らない危うさが見え隠れしていた。

「のうシンジ、ついでに惣流電話で呼び出したらどうや?どうせ暇やろしオノレがおるんなら来るやろ?綾波も一緒に……なあ」
「え?何で?第一綾波今日はどっか出掛けてるんだよ。それより早く行こうよ」

やはりアスカの名前は出てこない、それも意識してではなく意識の片隅にすらその名前は無いかのようだった。
かつてはシンジと同じ場所に必ずと言っていいほど存在した少女は、今彼の中の何処にいるのか……名も呼べないほど遠くに行っているのか。
だからシンジはこれほどまでに明るいのか。
気にする立場にないトウジだったが、今の友人は着地することを忘れた飛行機に思えて仕方なかった。
幼稚園の頃から同じ教室で過ごしてきたトウジに映る普段と変わらず、いつもとは全く違った友人の様子。
何故そんなに楽しげなのか、声にはしない、しても意味がない言葉が頭の隅を過ぎる。

……のうシンジ、お前惣流がそれほど重荷やったんか?……








夜ともなれば第三新東京市は一層冷え込み、コートを着ていても身を窄めるようだった。
また雪が降るのか星の姿は暗幕のような夜空の向こう側に隠れ、地上を照らすのは人間が作った貧弱な街灯の灯りだけだ。
入り組んだ住宅地から大通りまでのさほど長くない距離を二人の影が街灯から街灯へと移っていく。

「……こんな時間に悪かったわね、今じゃなくても良かったんだけど……」
「良いよ別に、どうせ暇だったし。俺の撮影した奴はそれで全部だよ、他には……そうだな、父さんの調べた資料があるけど持ち出せないんだよなぁ」
「ううん、これで十分よ。それほど熱心に調べるつもりもなかったし……映像が見たかっただけだから。相田って変なときに役に立つのね」

街灯に照らされた長い栗色の髪が揺れる。
半分ほどを影で覆われた顔には、半歩ほど先を歩く少年の心臓を軽く跳ね上がらせるに十分な笑みが浮かんでいた。
そんな彼女の手には紙袋が、その中には5枚ほどのディスクが入っている。
もし警察がこの中身を見れば多少面倒なことになる代物だった。
理由もなく第三新東京市に現れる巨大な化け物とそれを迎え撃つ陸上自衛隊、そして深紫の鎧を纏った巨人の戦いを収めたディスクだ。
ケンスケが自分の命と説教と反省文と罰掃除を賭け、好奇心のために必死に撮影したのだ。

「しかし惣流が興味あるとはね。そういえばこの前も外に出ていたもんな、委員長と二人で」
「興味って言うんじゃないけど……ちょっとね……」

惣流アスカ・ラングレーはそんな影像に興味など無かった、今までは。
飛び交う空対地ミサイルにビルから顔を覗かせる重砲、宙を舞う戦闘ヘリなど彼女には何の関係もない世界だったはずだ。
今でもそうだ、自分には関係ないのだ……シンジが明言したように。

「ちょっとなんだよ?そのロボットについて何か知ってるのかよ?」

知っている、それはエヴァンゲリオンという名を持つロボットで操っているのは共に暮らしているシンジとレイだ。
この前初めて告げられた事実だった。

「あたしが知る訳無いじゃない……単に見たいだけだから……それだけよ」

納得してないケンスケに構うことなくわずかに歩みを早めた。
告げられた事実は余りにも重くて、どう受け止めて良いか未だ判らずにいる。
ディスクに収められているのは、今まで同じ場所で同じ物を共に見続けてきた少年が存在している自分の存在しない異世界の光景だ。
巨大な化け物もそれに向かって火を吐く戦闘ヘリも尾を引いて突進するミサイルも、一緒の暮らしているシンジとレイの身近にあった。
その事を知らないまま。知らされないまま今まで過ごしてきたのだ……

いつの間にか横に並んで歩いているケンスケの口元から白い息と、寒さで少し震えた声が零れる。

「まっ、別に理由なんてどうでも良いけどな。でも他人に見せたり貸したりするなよ、やばいんだから……結構迫力あるから喧嘩の気晴らしにはなるぜ」
「喧嘩って何よ?あたし別にシンジと喧嘩なんかしてないわよ!」
「そうか?そう見えたけどなぁ……惣流ここんとこスゲー機嫌悪かったじゃんか」

シンジと喧嘩?……自分は喧嘩しているのか?ヒカリもそんな事を言っていたが……

「喧嘩なんかしてないわよ……喧嘩じゃないもの」

自分の言葉に寂寥感を感じながら淡い朱色の唇から吐息が零れ、その向こうに漸く大通り
が見えてきた。
相田ケンスケ宅から約十分ほど掛かった。

「送らせて悪かったわね、ここで良いわ。あとは一人で大丈夫よ、大通り真っ直ぐだし」
「ん、そう……じゃあな。あっと、それダビングした奴だから返さなくていいからな、惣流にやるよ」

ケンスケは自分の命と説教と反省文と罰掃除を賭け撮影したディスクを気前よくアスカに譲渡した。
プレゼントなどという気取った物でもないが、もしかしたら彼の思うところが多少なりともデジタルデータ以外の形で入っているかも知れない。
軍用ジャンパーのポケットに突っ込んでいた手を振った。

「じゃあ気を付けてな」
「ン、じゃあお休み」

蒼い瞳に映っていた少年が薄ら寒そうに背を向け自宅へ向けて歩き出すと、彼女もまた自宅へと歩き出す。
大通りだけあって開いている店も多く、夜道とは思えないほど明るい。
中心部の繁華街から離れているが、24時間営業のコンビニエンスストアや本屋、ファミリーレストランが派手な灯りでアピールしていた。
国道も車の交通量は少なくなく、ヘッドライトの過ぎ去っていく様は魚の群のようだ。
天空に輝く星の替わりに存在しているかのような無数の灯りの中をわずかに白い息を零しながら帰路を急ぐ。
もしシンジやレイが一緒ならその辺のコーヒースタンドで身体を暖めていくことだろう。

……喧嘩か、喧嘩にもならないわよ……

あの日以来シンジのアスカに対する態度は急変していた。
いつもの喧嘩なら弱気であれ強気であれ兎に角シンジの反応があったが、今の彼はまるでアスカの存在など忘れてしまったかのように振る舞っている。
その原因が何であるのかアスカには判らない。

……余計な口出ししちゃったのかな……

夜の冷気が彼女を責め立てるようにコートを突き破ってくるが、思わず身を窄めたのは寒さだけではない。
アスカは自問していた。
喧嘩だとしたら自分は一体何に対して怒っているのだろう。
シンジとレイがエヴァに乗っていることを怒っているのだろうか、その事を教えて貰えなかったことを怒っているのだろうか、二人が危険な目にあっていることを怒っているのだろうか、自答は全てYESだった。
そして自分だけが関係ない立場にいること、関われないことにも。
だが自分の何処に二人に対して怒る権利など有るというのか、シンジの言うようにアスカには何の関係もない話なのだ。
彼女に話さなかった事にしたって恐らくは口止めされていたのだろうし、聞いたところで何か手伝える訳じゃない。
ましてやあの二人は危険な目に遭いながら自分達を守っているのではないか、文句を言われたり怒られたりする筋合いはないのだ。
全ては自分の一方的な我が儘に過ぎない、自分で我が儘を言って勝手に腹を立てている。
アスカ自身で出したその結論は、外気の冷たさなど比べ物にならないくらい心の奥まで凍り付かせ、凍り付いた心が砕けるほどに苦痛だった。

自分の存在の軽さを浮き彫りにしたような結論だが、他に答えを見つけようもない。
よく解らない世界に身を置く良く知っている二人、手に持っているディスクを全て見れば少しは理解できるのだろうか。
そうすれば許容できるのだろうか……自分の出した結論を。
そうすれば三人は元に戻るのか……

クリスマスソングを流すミュージックショップを通り過ぎた頃には、彼女はコートを揺らし駆け出していた。










顔を厳めしそうに歪ませる女が二人、これ以上はないほど恨めしそうな目でグラフを示すモニターを睨んでいた。
何度繰り返しても期待するグラフが描かれなかったからだ。

「シンジ君、あと一回やったら終わりだからもうちょっと付き合って」

モニターはクリアされ再び出力される情報を元にグラフを描くが、やはり先程の物と変わらないグラフが出来上がった。
落胆よりも不可解さを浮かべた表情がシンジを出迎える。

「乗った感じどうだった?」
「うーん、何かいつもよりハッキリしないって言うか……手足の感覚がよく解らないんだ、動かしているのかどうか」

不満そうにエントリープラグから顔を出した少年は、手足を動かしながら不調を訴えた。

「何か上手く繋がらないんだよなぁ、こう伝わるのがワンテンポ遅れる感じがして……設定変えたの?」
「ン、まーちょっとリツコがいじくったみたいだけどね。今日はこれで終わりにしましょ、コーヒー奢るわよ」

二学期終業式を終えたミサト先生とその教え子の碇シンジは、昼食を取った後地下に潜り葛城三佐とサードチルドレンに変貌していた。
昨日急遽予定を入れたシンクロテストだったが、結果はミサトの表情以上に惨憺たる物だった。
辛うじてエヴァを起動させるのが精一杯で、動かすとなると問題が生じるのは目に見えている。
いつもなら戦闘後のシンクロ率低下現象は回復しているはずなのだが、今回は未だその兆しすら見せようとはしない。
それでも特に触れることなく休憩に入ったのは、その方が効率的だと判断したのだろう。
ミサトの理解を超えるエヴァという代物を扱う以上、すぐに解答が見つかるはずはないのだ。

ケイジの渡り廊下から二人の足音が消えた頃、その頭上に備え付けられていた窓に二つの影が映った。

「……ミサトの巣に行ったらしいからこっちにも来ると思っていたけど……取り敢えず座りなさい」

実験場管制室の扉を開け、入室してきたのはもう一人のエヴァンゲリオンパイロットだった。
普段と同じようにその存在を感じさせないほど静かな佇まいで、パイプ椅子に腰を下ろしたままファイルを眺めている女を見つめている。
彼女から机を一つ挟んだ向かい側に空いている椅子を見つけ、腰を下ろすと早速話題を切り出した。
それはリツコの想像したとおりの内容だった。

「それが原因でシンクロ率が低下しているって言うの?」
「……因果関係は解らない、でも碇君の中で何かが起きてると思う……多分あの日から」

レイのすぐ脇のコンソロールパネルに緑色のランプがいくつも点滅する。
シンクロテストで使用した機器が原点復帰したのだろう、さながらクリスマスツリーの如く賑やかだ。

「ミサトからも聞いたと思うけどデータ上は何ら異常所見が見られないのよ、今回のシンクロ率低下も単に疲れが溜まってるだけじゃないかしら?今までだって迎撃戦後は下がっていたでしょう。特筆すべき事じゃないわ」

冷淡と言って良い突き放した口調がレイの訴えをはねつけた。
今日何杯目か数えられなくなったコーヒーを一気に流し込むと、やはり何本目かの煙草に火を付ける。
結局レイの訴えに何一つ具体的なことはないのだ。
シンジの変化を感じ取った同じエヴァに乗る彼女しか持てない確信、リツコにしろミサトにしろ数字や文字で表現できる物でなければ彼女達は理解できなかった。

「……あの時の迎撃戦できっと心理圧迫を受けたのだと思う……だから碇君の精神的に最も脆い部分が歪んで……今までと違う行動に出て……」

今までと違う行動に出てアスカの存在を忘れたのだろうか。
あるいはもっと別の理由なのか、何故アスカの存在だけを自分の中から消さなければならないのか。
記憶障害が出るなら他にも影響が出ても良いはずだろう。
数々の粗を抱えながらもレイなりに色々考えて出した結論だった。
確信を持ったとしても対策すべき手段がなければどうにもならない、カウンセリングが必要ならそれを薬物治療が必要ならそれを行う。

そうすれば元通りに……かつて過ごした短い時間を……

だがリツコの反応は冷淡と言うより、レイを突き放す言い方だった。
煙草をテーブルの上の紙コップに押しつけ火を揉み消すと、そのままゴミ箱に放り込む。

「そろそろ次の仕事があるから帰って頂戴。あなた達三人の喧嘩に関わるつもりはないわよ、そんなことを一々エヴァに絡めないで。あなたも余計なことせずにエヴァに乗ればいいのよ」
「……そうね、わたしは命令ならそうするわ……でも碇君は……わたしとは違う」

何の感情も浮かんでいない深紅のガラス玉を埋め込んだ顔、それが失望の現れなのか怒りの現れなのかリツコには判断できなかった。
消え損なった煙と煙草の香りがわずかに揺らぐ。
気を見計らったようにコンソロールパネルはグリーンのランプで埋め尽くされ、全ての機器が停止出来る状態になったことを知らせる。
無言の状態が用の無くなったレイを追い出そうと圧力を掛け、彼女はやはり無言のままそれに従った。

扉が閉まりリツコ一人の空間となった部屋に、男の声が響いたのは少女が消えた30秒後だった。

「赤木博士はご機嫌斜めか、今日は寄らない方が良かったかな」








今日一杯目のコーヒーを加持リョウジは口にした。
朝から何かと忙しく……少なくとも当人の主観では忙しかったらしく、コーヒー一杯飲む暇もなかったらしい。
恐らくは自販機のそれよりマシな味のレギュラーコーヒーを飲み、漸く一息付いた風に腰を下ろす。

「千客万来ね、ここは喫茶店じゃないと思ったけど」
「ついでに青少年相談所でもない、あの子は放って置いても良いのか?」

先程擦れ違った蒼銀の髪の少女のことだろう、本来なら加持が口を挟む必要はないがリツコはそれを咎めず、むしろ必要以上に語っていた。

「所詮はOSプロトタイプの戯言よ、MAGIのおまけに過ぎない……なまじ人間らしくするから腹が立つのよ」
「そういう台詞はもう少し悪役が身に付いたらするもんだぜ、まだ似合わないな」

もう何杯目かなどどうでも良いコーヒーを再び紙コップに注ぎリツコに手渡す。

「……サードのシンクロ率低下は深刻だわ、まともに動かせるかどうかの起動限界ギリギリよ……」
「彼の精神状態はどうなんだ?」
「まともよ、少なくともやや興奮気味ながら普段より安定してるわ。原因はやっぱり前回ね……恐らくこれが……」

彼女の着ている白衣のポケットに収まっていた小さな金属製の箱を取り出す。
エヴァのエントリープラグ内に装着されていたブラックボックスだ。
エヴァ操縦路のパイロットの会話、心拍数、血圧、心理状態など身体状態は直接本部にリアルタイムで送られてくるが、万が一それが不可能になった場合のバックアップだ。
活動中の全ての状態がここに記録されている。

「あの時使徒に包まれていたでしょう?その時の奴なんだけど……今再生するから」

サブモニターで心拍数や呼吸数、血圧のグラフが再生されその数値が激しく上下し、通信途絶中のパイロットがいかに負荷を受けているかが読みとれた。
リツコは画面上の『音声』と記された文字に触れ、同時に記録されたパイロットの全ての発言が再生される。
ミサトやレイとの会話、取るに足りない独り言が流れ出したが時が進むに連れリツコの表情が険しくなった。

「ここからは使徒に取り込まれた状態になるの、ちょっと録音状態が良くないけど……ここよ」

ノイズだらけの音がスピーカーから流れ出す中、漸く聞こえた意味ありげな言葉は何処か陰惨とした響きを持っていた。
殺してやる、死ね、アスカ……聞き取れた単語はそれだけだったが、それだけで十分だった。

「アスカって言うと碇司令宅にいる?」
「そう、少なくとも彼の知人にその名を持つのは一人だけだわ」
「それが何で物騒な台詞と一緒に?これがシンクロ率低下と関わりがあるのか?」

わずかに眉をひそめた加持はリツコの右手を口元まで引き寄せると、指に挟まっている口紅の付いた煙草をくわえる。

「取り込まれた時点で使徒からの接触があったのよ……正確にはエヴァを介しての精神接触、使徒に何を吹き込まれたのかは不明だけどその時の圧迫は相当な物だと思うわ」
「……それがこの台詞か……圧力を受けて抑圧していた部分が吹き出した……」
「そして彼自身が最も排除したい物を意識の中から排除した、接触した使徒の力を借りて、あるいは使徒が彼の要求に応えて……実はレイの言ったとおりなのよ、対処法はないわね。
内面の問題だからどうこうしようがないわ」

納得したように加持は再びコーヒーに口を付ける。
納得……そう、納得したのだ、何故アスカと言う少女を意識から排除したらシンクロ率が低下したのかは説明されなくても。

「……司令はこういう事態を想定して彼女を呼んだのか?」
「さあね、あの人の考えてることなんて……単なるバックアップのつもりかも知れないし、オリジナルを手元に置きたかっただけかも知れないし」

二人の男女の顔を緑のランプが浮かび上がらせる。

「ゼーレに渡したくない、そう言った方が当たりだな。マルドゥック機関に入れてしまえば当面は国連の介入を押さえられる」
「加持君は知ってるわね?量産機計画……司令はそれを押さえたいみたいよ。ハードよりもOSの開発でストップしてるみたいだけど……その辺も絡んでるわね」
「オリジナルは渡さない、か……計画が遂行されればNERV自体の優位が消える、国連が勝手に動き出す……量産機を使ってな、ゼーレもそれを解っているからマルドゥック解体に動かない」
「司令の隠れ蓑よ、マルドゥックはね……」

ブラックボックスの再生が終了しモニターがリツコの指示を待つ。
彼女の指は何の躊躇いもなく『消去』の文字に重なり、コンピュータは小さな箱に記録された全てのデータを抹消した。

「……ミサトが知る必要はないのよ、あの子はシンジ君に肩入れしすぎるわ。エヴァとそれを操る者を預かる身としては相応しくない……」

彼女の緑がかった顔色はコンソロールの電源を落としたことで元に戻った。
消去したのは果たして合理的な理由があってのことか、むしろ優越感に近い感情を加持は感じざるを得ない。
秘密という宝箱を抱えた子供のように……それはシンジという少年がエヴァに抱く物とさして違わないのではないだろうか。

嫉妬の裏返しの優越感、それを責める気に加持はなれなかった。










明日はクリスマスイヴというらしいが、街の灯りはそんな日付など気にしないほど賑やかだった。
終業式が終わるなり『本部』とやらに直行した二人に取り残された風の一人は、ただ当てもなくクリスマスソングが洪水のように流れる繁華街を歩いていた。
店々に乱立するツリーで輝く電飾が嫌味に見えるのは、恐らく自分の精神状態のせいだろう。
溜息混じりに吐き出す息は白く漂い、街の賑やかさとは裏腹に寒さだけが彼女を包んでいるようだ。

去年の今頃はどうしていただろう、明日のイヴを待ちきれず一足お先にとばかりに賑わう街明かりに捕らわれ、門限を一時間過ぎても帰宅できなかった。
そしてイヴ前夜ユイに散々叱られた……シンジと一緒に。
当日は発熱しパーティーどころではなくなったのだから踏んだり蹴ったりだ。
それでもユイにはネックレスをゲンドウにはネクタイを二人の小遣いで贈ったが、シンジには小遣いが足らず何も渡せなかった。
無論そのアスカに借金を抱えた身のシンジが、一人前にプレゼントなど用意できるはずもなく、申し訳なさそうな情けない表情で彼女の前に立っていた。
……思い出し笑いが今日初めての笑顔だった。
今年はまだプレゼントは何も買っていない、選んですらいない、ただ街をブラブラと歩くだけだ。
先の使徒迎撃戦は一区画に刻み込まれているものの、行き交う人々の表情にはそんな出来事など微塵も残っていなかった。
確かに死者は出なかったし、大多数の市民生活に関わってくるような被害もないのだから今ひとつ切実感に欠けるのだろう。

「何よ、守って貰ってる癖に……」

楽しげに通り過ぎるカップルに親子連れを眺めながら、思わずそんな言葉が零れた。
ガードレールに腰を下ろし、ゆっくりと辺りを見回す。
空の星と同じ数だけある様な灯りの洪水とそれに飲み込まれていく人々、どこかに帰るべき家と迎える家族を持つのだろう。
巨大生命体と言う現実を目の当たりにしても、それから助かったという事実を知っていても何一つ変わらぬ日々を過ごす者達。

「誰のお陰だと思ってるのよ、何も知らないで……」

もし誰かの耳に入れば、ガードレールに座り独り言を呟く少女の姿はさぞ奇妙に映っただろう。
だが幸いにも恋人との会話、街から流れる音楽と雑音のお陰で誰にも聞こえないようだ。
空色の瞳に映る第三新東京市はさも白々しく、何処か押さえきれない腹立たしさを感じていた。
ケンスケから借りたディスクの映像を夜中何度も見たがためだろうか。
そこに映っていた巨大なロボット、アスカはそれを操縦するシンジやレイの表情を見たような気がしていた。
どんな思いで飛び交うミサイルの中に立っているのだろう、どんな思いであの巨大な化け物と対峙しているのだろうか。
シンジのことは良く知っている、あのロボットで戦うなど耐えられない事の筈だしレイにしたって喜んで乗っているとは思わない……
少しは感謝しなさいよ!そう大声を出して叫びたい気分だ。
誰にも知られぬまま死闘を幾度も繰り返す二人、何も知らぬままただ守られていた他の大勢と一緒の自分。
あの二人の一番近い位置にいた筈なのに。
手伝うことも、力になることも出来ない、そんな自分に何か言う資格などありはしないのだ。
全てを叫ぶことも、ましてやあの二人に対して怒ることなど……
同じ場所に立つことの出来ない自分には理解することなど出来ないだろう。
……教えて貰える存在じゃなかったんだな……

多分、自分にとってシンジは小さくない存在だ、だが彼にとっての自分はさして価値のある存在じゃなかったのかもしれない。
だから何も教えて貰えず……レイから、ユイからゲンドウからも教えて貰えなかった。

自分は一体何なのだろう、誰にとって価値のある人間なのだろう、そう考える度に心が冷水で薄まっていくように感じるのは気のせいか。

街中に流れるクリスマスソングが耳障りに、ツリーの飾りが目障りに、通行人が疎ましく感じる。
渦巻く思考は何の答えも生み出さず、考えれば考えるほど渦は強くなり彼女自身をより深い海の底に引きずり込んでいく。

背後を駆け抜ける車のヘッドライトがアスカの影を煽る。
そろそろ夜の十二時を回ろうかという時間だ、道端の飾り物としては異国風の少女は些か目立ちすぎた。
千鳥足の男達の幾人かが好奇の目を向けるのを察すると、吐き気にも似た嫌悪感に襲われる。
何もかも嫌だった、もう考えることも誰かと話をすることも。
収まるべき場所を見失った少女は、ガードレールから腰を上げるとコートのポケットに手を突っ込んで人の流れに飲み込まれていった。








まるで山奥のような静けさがその住宅地を包んでいた。
街中のような明るさはなく、夜は自分の支配下であることを認識させるような月光が降り注ぐ。
その少女は月明かりが結晶化して生まれたのではないか、その場に誰か居たらそう思ったかも知れない。
彼女がこの世の存在である証のようにアスファルトの路面に漆黒の影が描かれていた。
深紅の瞳はつい三十分前と同じ光景を映しだし、レイに軽い寂寥感を与える。
未練が残るようにもう一度道路を見渡すが少女の望む影は映らず、無言のまま玄関を開けた。

「レイ、そろそろ寝なさい……そんな格好で外出たら風邪ひくわよ」

包み込むような暖房の効いた空気が寝間着にジャンバーを羽織っただけのレイを出迎えた。
「後はわたしが起きているから心配しないで部屋に戻りなさい」

彼女が何故外をウロウロしているか、ユイにはよく解っている。
まだ帰宅せぬアスカを待ってのことだろうが、レイが起きていたところで早く帰ってくるわけでもない。
それにもう夜中の一時だ、幾ら休みになるとは言えそう夜更かしさせるわけにも行かないのだろう。
何か言いたそうな様子ではあったがユイの言葉に従い、大人しく二階に上がっていく。

「……一時か……こんな時間まで何してるの……」

まだ帰らぬ少女が今まで何の連絡も寄越さず、こんな時間まで帰ってこなかったことは一度もなかった。
ユイはリビングのソファに腰を下ろし、長期戦に備えて入れたお茶を啜ると開いていたアルバムに目を落とす。
幼い頃の二人の写真を眺めていたのは、アスカが帰ってこない理由を知っているからだろう。
他に方法はなかったか……写真の中で無邪気に笑う女の子を眺めながら幾度も自分に問いかける。
NERVのこと、エヴァのこと、それに関わるシンジのこと……何も告げないのが一番良い選択だったか、それとも最初から全てを告げたほうが良かったのか。
全てを告げる……その選択が出来るくらいなら、自分にそうできるだけの勇気があったならどれほど楽だったろう。
かつて同僚だった女は自分にこう告げた、あなたは逃げ出しただけだ……と。

……その通りよ、だから何も言えなかったのよ……

アスカという女の子を引き取ってからの十年間に嘘はないつもりだ、だが引き取った理由は何一つ話していない。
いつの日かは話すにしても今はまだその時じゃない、そう自分に言い続けてきた十年間だ。
自らの罪を隠し続けた十年だったのか、罪を購うための十年だったのか、新たな罪を生み出すための十年だったのか……その問いかけにユイは未だ答えを見つけられないでいる。

疲れたようにソファへ身体を沈め、タヌキを模した置き時計に目を向けると約三十分ほど時間が経っていた。
その間開く気配を見せなかった玄関からノブを回す音が、静まり返った室内に響いた。
そっと歩く足音はリビングに通じる扉の前で止まり、足音の主がノブを回すのに約一分の時を要した。

「お帰り……何処へ行っていたの?」

電話一本することなく夜中の一時半まで外出していたのだから、その質問は当然だろう。
質問された側も当然承知していたが、だからといって納得できるような答えを用意できていた訳でもない。

「黙っていちゃ解らないでしょ、今何時だと思ってるの?電話も寄越さないで……何処で何をしていたの」

久しぶりにみる保護者の厳しい顔だ、その見慣れぬ表情に少女は怯んだのか蒼い目を向けようとはせず、脱いだコートをハンガーに掛けていた。
何をしていたかと言われても、実のところただ街中をウロウロと歩いていただけだったのだ。
この寒空の中時折休んではまた歩いて、元々どこかに行く当てもなかった。
身体は芯まで冷え切っており、また小遣いも殆ど持たないまま出歩いていたので店にも寄れず夕食も食べられず……寒さと空腹に耐えきれず帰ってきたのだ。

「ちゃんとこっち向きなさい、こんな時間まで一体何してたのよ」
「……別に……街にいただけよ」

声はどことなく淀んでいたがこれ以上はない正直な答えだ、誠実さには欠けているが。
態度でそれを示すように顔も向けず、ハンガーに掛けたコートを何度も何度も直していた。
一方ユイの方はそれ以上質問を重ねず、彼女の答えを待つようにソファーに腰を下ろす。
今まで決して厳しい躾と言えるようなことはしていないが、今日ばかりはなあなあで済ませるわけには行かない。
そんな彼女からは逃げ出せないと悟ったのか、それとも開き直ったのかテーブルを挟んだ向かい側に座る。
そして重い口を開いた。

「本当に街中にいただけよ、その辺歩いて……することもなかったし……いいじゃない別に」
「別にじゃないでしょ、こんな時間まで出歩いて。なんで電話一本でも寄越さないの、門限はちゃんと知ってるでしょ」
「理由なんて無いわよ、電話するの面倒くさかっただけよ。もう良いじゃない、帰ったんだから」

自分の台詞に妙な違和感を感じる。
今までこんなにぶっきらぼうな言い方はしたことがなかった、少なくともユイにしたことはなかった。

「夜中まで帰ってこなければみんな心配するでしょ、面倒だとかそういう問題じゃない事ぐらい解るでしょ?」
「心配?……誰がそんなモノしてくれたの!?」

怒られることに馴れていないと言ってしまえばそうかも知れない。
シンジなら怒られたら落ち込むか適当に受け流すか、どちらにしろ怒られたときの対応パターンと言う物を持っている。
だがずっと『良い子』できたアスカの場合、馴れるほど怒られたことはないのだ。

「別にあたしがどうしようと関係ないじゃない!みんな関係ないと思ってたから何も話してくれなかった癖に今更心配面しないでよ!」

馴れていないから根っ子をあっさりと露呈した。
帰ってこなかった理由、電話もしなかった理由は全てそこに集約されている、それだけにユイは何も言えなくなった。
確かに誰もアスカに真実は告げていなかったのだ、理由はどうあれ。

「もう良いでしょ、あたし眠いし……もうほっといて。別に迷惑掛けないから」

取り返しの付かないことを口にした思いが拭えない。
今すぐにでもベットに潜り込んで今の言葉を夢の中に押し込んでしまいたかった。
言うべき言葉を見つけられないユイと言った言葉に後悔するアスカ、どちらがより沈痛な表情かは解らない。
結局少女は逃げ出すことしかできなかったし、女は引き留める手に力を込められなかった。

足音はリビングから階段へ駆け抜け、扉の激しく閉まる音によって遮断された。










果たして彼等がどうやってその場所で夜明けを知ったのか、時計を見たのかも知れないし外部モニターを見たのかも知れない。
何れにせよ卓上の時計はAM7:00と表示され、その前に見たときより四時間ほど進んでいた。
ゆったりとした椅子の背もたれに体重を預け軽く伸びをする。
まるでそれを見計らった様に司令室の扉が開き、新聞とお茶道具を手にした初老の男が入室し話しかけた。

「流石に徹夜は堪える歳だろうな、普段から仕事を溜めるからそういう目に遭う。碇、お前の自業自得だよ」

責めるわけでもなく物静かな口調だが内容に容赦はない。
徹夜明けの朝に聞くにはあまり嬉しい物でもないだろう、言われた方は不機嫌そうに顔を向けると卓上にある湯飲みを手にした。

「……ぬるいぞ冬月」

辛うじて言い返したが余りにもお粗末なので、言った本人が一番不満を持ったかも知れない。

「大体徹夜仕事で能率など上がるはずも無かろうに」

至極ごもっともだが朝の七時にそういわれてもどうしようもないのも当然だった。
ゲンドウは無言で以後気を付けると胸の奥で呟くと、温いと評価した茶を啜る。

セカンドインパクトと呼ばれる大災害の後、地下に出来たドーム状の地下空間に建設された国連直属特務機関NERV。
A級からD級職員まで含め述べ千人を越す人員、現在人類が持ちうる最先端の機器類、最優先で回される予算、数々の特権……およそ組織としてはこれ以上はないほど優遇され、そして重要視されている。
その長たる碇ゲンドウの仕事量たるや、一般職員の比ではなく少し目を離しただけで机の上に書類が山積みになるような有様だ。
徹夜仕事でそれがどれほど片づいたか不明だが、取り敢えずは一息付いた。

「今日はクリスマスイヴだ、帰った方がいいぞ。待たれている内はな」

朝刊を開き日付を確認してから冬月はそう口にしたが、彼自身そんなイベントの存在は、新聞を見るまですっかり頭の中から消えていた。
どうやらそれはゲンドウも同じらしく不意を付かれた様な表情を見せていた。
例年ならプレゼントやらパーティーだのを五月蠅くせっつかれる処だが、今年はそんな余裕はない。
冬月副司令の持参した新聞を開き、TV欄に目を通す。
社会欄にせよ国際情勢にせよ新聞より詳しい情報を得られる立場なので、今更そんな物を見る必要もなかった。
暫しの休憩か、お茶を啜りながら窓の外に広がるジオフロントを眺める。
頭上にはまるでそれを覆い隠すように第三新東京市が存在するが此処からは、モニターを通してでなければそれは解らない。
窓際に立つNERV司令官に背後から声が掛かった。

「……例の件、ゼーレは何も言ってこなかったのか?」
「ああ、恐らくはキールが委員会を押さえて居るんだろうな。ふん、奴にしても委員会に必要以上の介入をさせたくないらしい」
「それに加持が上手く言いくるめたんだろうな。まあ上手くいったのならそれで良いだろう」

ガラスに映った表情は差して明るい物でもない、気にしなければならないことは他に幾らでもあるのだ。
政府の動向しかり防衛庁しかり他政治団体しかり、国内も決して味方だけというわけではない、むしろその背後の思惑は十分に警戒せねばならなかった。
表だった動きはない物の水面下ではいろいろと妙な動きが見られる。
それらを監視しつつ、上位組織たる補完委員会への対応もせねばならない……NERVがお題目通りの組織ならもう少し負担は軽くなったかも知れないが。

「来年は国連調査委員会の査察だ、表向きはともかくあちらも一枚岩ではないからな」
「それは冬月のほうで対応してくれ。ダミーを見せれば納得して帰る連中だ」
「まあ、それは引き受けるが彼の件はどうする?差し当たり一番重要な問題だろう」

サードチルドレンのシンクロ率低下、すなわちゲンドウの息子の身に起きた異常は軽んずべき問題ではなかった。

「赤木博士から話があったが初号機の起動はともかく、運用は難しいらしいぞ。対策は有るんだろうな」

無論ゲンドウの耳にも既に入っている話だ。

「現在手元にあるのはあの二機だけだ、弐号機はドイツで調整に入ったが間に合うまい……パイロットの選出も終わっていない。零号機の戦力では押さえ切れ無い以上無理でも出撃させる」
「馬鹿な、サードの命に関わるぞ。ただでさえシンクロ率の低下でノイズ逆流が起こりかねないというに」
「仕方ない、現状の戦力は限られているからな」

冷淡なのか、あるいはそれを装ったのか、窓に映った表情の乏しいゲンドウの顔からは伺い知ることは出来ない。
もっとも息子可愛さに出撃させない訳にもいかない、またそんな思考が働く男とも付き合いの長い冬月には思えなかった。

「ユイ君はなんと言っている?このことは彼女も知っているのだろう?」
「……知ったところでどうなる物でもない。シンジの内面の問題だ、外からどうこうできる物でも無かろう」
「伝えていないのかね、まあ、未だ彼女は引きずっているから無理もない……昔ナオコ博士は面白いことを言っていたぞ、一番罪が重いのは何も知らぬまま生きている連中だとな、知らされぬ存在であること自体が罪なんだそうだ」

面白くも無さそうに冬月は呟くと、二杯目のお茶を湯飲みに注いだ。
何れにせよ戦力不足の対策は練らなければならない。
どうするつもりか、そんな視線をゲンドウに向けるがそれに気付いてか気付かないでかその背中は微動だにしなかった。
湯飲みから立ち上る湯気が冬月の顎を掠め霧散していく。

「冬月、方舟は既に胎動を始めている。俺達も後には引けん……誰もが追いつめられているんだよ、自分の思惑など関係なく」

それは自分だけに向けた言葉じゃない、初老の副司令はそう感じてか何も答えなかった。








何もする気がない、やる気が起きないなどと言う感覚をアスカは初めて味わっていた。
まるで蜂蜜のようにドロッとした時間が自分の周りに流れているのかとさえ思ってしまう。
腰を上げるにも鉛でも抱えているのかと錯覚する程身体が重い。
夕べ生まれて初めて抜いた夕飯が影響しているのか、あるいは本当に鉛が詰め込まれているのか……もしそうなら胸のずっと奥に詰め込まれているのかも知れない。
誰も居ないリビングのソファに身を沈めながら、ぼんやりと夕べを思い出していた。
それは誰か自分以外の者が交わした会話だった、そう思いたくなる気分に陥るが無論紛れもなく自分の口にした言葉だった。
やるせない気持ちが寄り一層身体を重くしていく。
なんであんな口の利き方をしたのか自分でもよく解らない、あの時は頭に血が上って……それだけじゃない、最後には黙ってしまったユイに腹が立ったのだ。

……あたしって一体なんだろう……

いつもと変わらぬ室内だが漂う空気は違っている、違うように感じる。
あの事実を知ってから……自分だけ知らされなかったという事実を知ってから棘の生えた蔦がまとわりついた。
その蔦は何故お前は此処にいるのかとずっと囁き、それにどう答えたらいいか解らないのだ。
事実を知る前だったら『家族だから』と何の躊躇いもなく言えただろうに。
暗澹とした思考を振り払うように頭を揺らしソファから抜け出す。
なにしろ起きてから誰にも会っていないのだ。
会えばあったでさぞ気まずい思いをしただろうが、こうして誰にも会わないと漠然とした不安を感じる。

食堂に入りそこに鎮座する食卓上へ目を向けると、ラップにくるまれた皿が数組並んでアスカを出迎えた。
ユイが作っておいてくれたのだろう、買い物に出た旨を記したメモと共に、焼き魚に漬け物と卵焼き、コンロには味噌汁と比較的豊富な朝食が用意されている。
無論遠慮する必要など無いのだが、素直に食べる気にはならなかった。
暫く眺め何か考え込んだ様子のアスカだったが、漸くその気になったのかご飯をよそり箸を取る。
TVも付いていないこれほど静かな食卓で食事をするのは初めてだったかも知れない。
此処には常にユイがいてシンジがいた、必ず話し声は聞こえて自分を交えた会話があった。
まさかユイもシンジも顔を合わせるのが嫌でいなくなったわけでもあるまい……アスカはそう思うことにした。
別にいつもと変わりがある訳じゃないが、何処か味気ないのはやむを得ないだろう。
黙々と箸を運び、一杯目の茶碗が半分になった頃玄関の開く音がした。

「ただいまー……アレ?母さん出掛けたのかな」

聞き間違えようもないほど良く知っている声がリビングに伝わり、食事中の少女に緊張を強いた。
足音は廊下を進み真っ直ぐ食堂へと向かってくる。
様々な思いがアスカの脳裏を駆け巡り、駆け巡りすぎて何の考えも思い浮かばず口を堅く噤む事しかできない。
やがて食堂の扉が開き、やはり思った通りの少年が現れた。
彼は暫く食堂を見回し、隣のリビングに目を向けそこに母親の姿がないことを確認すると台所の冷蔵庫を開き、何か食べ物がないか物色を始めた。
同じ場所にいる少女などには目もくれない。

「ったく、何にもないな。ケーキぐらい買っておけばいいのに」

碇家の冷蔵庫は常に食材が詰まっているが、大抵は生肉生魚野菜等加工の必要なモノばかりでつまみ食いするにはあまり向いていない。
暫く思案していたシンジだったが戸棚にお菓子が入っているのを思い出すと、早速物色を始めた。
休日における碇家の子供達の起床時間は八時半から九時だ。
約束事ではないが何となくその時間に目が覚めるらしい、それに遅くまで寝ていると『勿体ないじゃない!』と言う元気な少女が居るのでおちおち寝ていられないと言う事情もある。
そして今は昼飯まで後一時間、その間彼が何処で何をしていたのか。
やはりNERVという場所に行ったのだろうか。
聞こうかどうしようか悩む内にシンジは探し出したスナック菓子を抱え、自分には一瞥もくれず一言も言葉を交わさずリビングに向かっていった。

やがてTVの音が聞こえ始めソファに寝転がりスナック菓子を摘むシンジの姿がアスカの目に映る。
まるで自分などいないかのように振る舞う彼に、ちょっとした腹立たしさと不安を感じながらどうするか考え始めた。
そして意を決したように椅子から立ち上がり、面白くも無さそうに画面を眺めるシンジの元に歩み寄った。
夕べの事もあってか朝から気分がスッキリしない、これ以上モヤモヤした思いを抱えているのも鬱陶しいのだろう。

「……シ、シンジ、何処行ってたの?」

今更とは思う質問だが、他に話しかけるきっかけがなかった。
途轍もなく早まった鼓動と共にやっとの思いで紡いだ言葉だったが、彼は顔すら向けずTVを眺めているだけだ。
もしかしたら声が小さすぎて聞こえなかった、そう思い全く同じ台詞を少し大きめの声で繰り返したが反応も全く同じものだった。
聞こえない振りをしているのか、それとも無視しているのか微妙なところだ。

「……そのままで良いから聞いて。あたしあれから色々考えたんだけどやっぱり上手く納得できないの。理解はできたわ、あんた達しか乗れないからって……でもハイそうですかって思えないのよ。だってそうでしょ?あたしシンジのこと良く知ってるし……それなのに何も教えて貰えなかったし」

大きく息を吸い込みもう一度考えをまとめる。
ともすれば頭に血が上って何を言っているのか自分でも解らなくなる事になりかねない。

「だからもう一度ゆっくり話そうと思って……あたしも無視したりして悪かったと思ってるし……解らないままでいるのってイヤなのよ」

胸に残った息をゆっくり吐き出しシンジの背中を見つめている。
あの日以来一言も口を利いていない、アスカがそんな状況に耐えきれなくなったというのが正直なところだろう。
ユイが帰ってきたら彼女とも話をする、レイが帰ってきたら彼女とも。
いつまでも今みたいな状況を続けたくない。

時計の秒針は一体どれほど進んだのだろう、未だシンジからの答えはない。
無言のままTVを眺めているだけだ。
「……シンジ怒ってるの?無視したこと謝れって言うなら謝るわよ、だからもう一度ちゃんと話して……」

アスカがこの家に来てシンジに頭を下げたことは何度あったろう、例えそうすべき責任が自分にあっても彼に対して謝罪をしたことはなかったかも知れない。
銀河系の果てまで遠回りした謝罪に似たモノはしたかもしれないが。
それだけ彼女にとって今の状態から脱したいのだろう。
TVは消されゆっくりとシンジの背中が動き振り返った。
かつてない緊張と不安がアスカの内部に沸き上がり、鼓動はより強く脈打つ。
逃げ出したいという思いを必死に押さえ込む彼女に、だが何の言葉も聞こえては来ない。

「シンジ?」

その目はアスカを見ていなかった。
耳には何の言葉も入っていかなかったかのように、その態度は余所余所しくそして冷たい。
空になったスナック菓子の袋を屑篭に放り込むと、軽く背伸びをしてアスカの脇を通り過ぎようとしていた。

「ちょっと待ってよ!話ぐらいしても良いじゃない!」

シンジの着ているセーターの裾を思いっきり引っ張った。
だが彼の手はまるで木の枝にでも引っかかったかのように、ごく普通にアスカの手を取り除いただけだ。
彼女の胸に外の冷気が忍び込んでいく。

「ねえ、お願いだから話聞いてよ。あたしこの事が腹立つならそう言いなさいよ!」

それは助けを求める悲鳴だったかも知れない。
例え罵倒でも何か言って欲しい、それほどシンジの態度は冷たいものだ。
眠いのかマンガでも読むのか二階にある自室へと足を向けた。

「ねえ聞こえてるんでしょ!?ちゃんとこっち向いてよ!」

いつの間にか輪郭がハッキリするようになった肩を掴み、無理矢理自分に向き直らせた。

「話せないことなら何も言わなくていいから……でもあたしこのままじゃ嫌なの」

蒼い瞳が少年を真正面から捕らえても、シンジの目はアスカを映していない。
いや、彼女の言葉など耳に入っていない、姿も映っていない、シンジの中にアスカは居ないのだ。
どれほど勇気を絞って話しかけようとも、どれほど不安だろうともシンジには何の興味もない、その事実を突き付けられた。

「シンジ!何か言いなさいよ!!何か言ってよ!!」

緊張が激情に、不安は恐怖に取って代わる。
無視されたとかそう言う類じゃない、シンジの中から自分が消えた……そう直感したアスカは、足元が砂のように流れ去っていく目眩にも似た喪失感に襲われた。
消え去った自分を思い出させるようにシンジの胸ぐらを掴み何度も揺する姿は、駄々をこねる子供のように見えたかも知れない。
そんな意味のない行為を冷ややかな目が眺めた。
怒るでもなく何か言うでもなく、しがみつくその姿をただ淡々と眺めていたがやがて鬱陶しくなったのか、埃でも払うような仕草でアスカを自分から引き離す。
拒絶ではない、自分の存在すら認めない態度に彼女の中で何かが弾けた。

「シンジ!シンジ!!何でもいいから喋ってよ、お願いだから!」

シンジの胸板を何度も叩き、どんなものでも良いから自分に向けた言葉を引きだそうと縋り付く。
もし此処で放したらもう一生会話など無い、シンジの中から自分が全て消えてしまう……根拠など無い、単なる直感だけによけい恐かった。

「シンジ!シンジ!シンジ!!謝るから、お願いだから!」

名前を連呼し、懇願し、縋り付いてまでのアスカの願い、五月蠅そうに振り払われてもなお腕を掴み必死に続けた。
必死すぎて玄関の扉が開き誰かが帰宅したなど気付く余裕もない。

「……アスカ?何しているの?」

そう問いかけることが今は無意味だ、紅い瞳の少女が悟った瞬間シンジの腕は大きく動き縋り付いた少女を床に叩き付けていた。
それはアスカに何の価値を認めていない行為に他ならなかった。








「……コーヒー入れたの……飲んで……」

マグカップになみなみと注がれたコーヒーに、抜け殻になったような少女が揺れている。
取り乱したように泣き、そして疲れ果て、床に座り込む事でやっと正気を取り戻せたのだろう。
焦点の合わない蒼い瞳が僅かに動き、傍らに立つレイを映したが言葉は何も言わなかった。
そして力無くマグカップを受け取ると言われたとおりにコーヒーを飲んだ。

「……怪我はないの?痛いところは……」

もしレイが床に叩き付けられたアスカを庇わなかったらシンジはどんな行動を取っただろう。
……恐らくは何もすまい、彼は縋り付いた『何か』が邪魔だから除去しただけなのだ、攻撃でもなければ憎しみでもない、反射的な無感情の行動だ。
アスカが憎くてとった行動でもなければ嫌いだからとった行動でもない、そんな感情とは無縁のことなのだ。
アスカの隣りに同じように床に座り込むとリモコンのスイッチを押しTVを消した。

静かな空間が生まれる。
遠くで聞こえる車の音、人の話し声、ボールの弾む音……風が吹けば庭の木が揺れる音も聞こえた。
マグカップの中のコーヒーが半分ほどアスカの体内に消えたのを見計らって、レイは静かに……本当に静かに口を開いた。

「……少しは落ち着いた?」

レイの頬とセーターから覗く首筋にほんの少し赤い筋が走っていた。
二人とも髪は乱れ着ている服はボタンが飛び裾がはだけ、酷い有様だ。
立ち去ろうとしたシンジに飛びかかろうとしたアスカとそれを止めようとしたレイ、その結果だった。
ひっくり返ったテーブルもそのままに、疲れ切った身体を休ませる。

「……碇君のことだけれど……」
「そんなのもう良いわ……もうどうでも良いのよ」

その声に力も気力もなく、ただ呟いたように聞こえた。

「……もういい……誰が何やってもいい、レイやシンジが何してたっていいわ……あたしには関係ないもの」

どれほどのショックを受けたかレイには計り知れない。
だが放っておくことなど出来よう筈もなく、再び口を開いた。

「……アスカはあれが普段の碇君だと思うの?……」
「知らないわよ、そんなの……もう関係ないもの……」

それが本心と強がりの境界線で揺れる言葉なのをレイは何となく悟った。
シンジがアスカを忘れてしまったように、彼女もまたシンジを忘れようとしているのだろうか。

「アスカ、もう一度聞くわ……碇君があなたにあそこまでの態度がとれると思う?」
「だからそんなの知らないって言ってるでしょ!どうでもいいの!!」

レイは静かに首を振った。
彼女はアスカに理解させなければならないのだ、シンジが正常な状態にないことを。
外的要因によりアスカを認識できなくなったことを伝えなければならないのだ。
それはレイにとって酷く難しく不慣れな事ではあるが、何もしなければ元に戻れない事ぐらいよく解っている。

「碇君は前の使徒迎撃戦で……その……心が歪んで……だからアスカのことを見れなくなって……」
「何が言いたいのよ、わかんないわよ」
「……だから……」

続かない会話にアスカの顔が怪訝そうに曇る。
レイにしてみれば他人に事情を説明すると言う不慣れな行為のため、思った以上に苦労していた。
言葉を選ぶだけで力尽きてしまいそうだ。
エヴァについて何も知らない彼女にシンジ異変の原因を説明するのは、容易なことではない。
今まで他人がどう思おうと一向に構わなかったし、興味すらなかった、ましてや理解させる必要性も感じなかった彼女が説明するのだ、解り辛いことこの上ない。

「……使徒と戦っているときに融合接触があって精神進入され、その時心理圧迫が生じて負荷が許容範囲を越した結果、恐らくパルスの逆流が起きて記憶の一部が欠損して……それは多分一時的で……だから……あれは碇君じゃなくて……」

必死の説明だったがアスカを苛立たせるだけだ。
苛立ち……確かに苛立っていた。
もうどうでも良いと無気力に口にしていた少女はレイの言葉を必死に理解しようとし、それが聞き慣れない単語の羅列によって叶わず苛立っていた。
それでもなおレイは懸命に説明を続ける。
神経接続が、シンクロ率の、エントリープラグ内で……一体何が何なのかアスカには理解できない単語が次々に出てくる。

「……もういいってば!!要するにシンジはあたしのことを忘れたんでしょ!?だったらそれでいいわよ!!」
「……駄目、良くないの……だから碇君は……」
「レイ五月蠅い!!放って置いて、あたしに構わないで!シンジもあんたもおばさまも大ッ嫌い!!」

二の句が継げないほどの拒絶だった。
レイは再び味あうことになったのだ、自分では説明しきれない苛立ちとその無力さを。
何とかしたい、自分で何とかしたいと思っているのに力が及ばない。
立ち上がったアスカを引き留めても彼女を納得させるだけの事を言えない、どれだけ二人を大切に思っていても何一つしてやれない。
確かに手の中にあった宝物が今ゆっくりと、だが確実に壊れようとしていた。

「……アスカ、あたしはただ……だから……ちゃんと聞いて」
「五月蠅い!放っといてって言ってるでしょ!!」

アスカは荒々しく立ち上がりその場を離れると流し台にマグカップを放り投げる。
割れない素材だが派手な音が響きわたり、それが会話の終焉を告げた。

ただ一人となったレイの周囲を硝子の欠片となった時間が流れ去っていき、その度に全身を切り裂かれ、吹き出す血を拭うこともできないままその少女は座り込んでいた。








上空に暗澹と広がる雲がいつ雪を降らすのか、空を見上げた者の大半が気になるところだろう。
今日中……今夜までに降り出せばホワイト・イヴというわけで楽しみに待つ者もいれば、自動車のタイヤチェーンの心配をする者、帰りの電車を心配する者等々人それぞれだ。
何れにせよ一旦降り出せばこの地域はかなりの降雪量になるだろう。
毎年繰り返され、律儀に今年も繰り返す。
ただクリスマスなどと再び浮かれられるようになったのは、セカンドインパクトから五年経ってからだ。
あの厄災で世界人口の何割、あるいは半分が死んだ、何とかという国は壊滅……あの時伝えられた情報は一五年経った今もって正確さを欠いている……欠いたまま人々は新たな生活を残骸の上に積み上げた。
それはまるであの惨劇を全て埋めてしまえ、そんな勢いだったかも知れない。
ガレキの上に浮かび上がる幻影都市ではあるが、生きている人間は生活をしなければならぬし、いつまでも死者を引きずっているわけにはいかないのだ。
第三新東京市の住宅街の一角にあるコンビニエンスストア、そこで買い物をする彼はそんなことを知る世代ではなかった。

「せやけど普通人を呼ぶンやったらちゃんと用意しとくんが筋ってもんやろが……」

ブツブツと文句らしきことを呟きながら手にしている籠に菓子を放り込んでいる。
彼はこの後友人の相田ケンスケ宅でクリスマスイブを過ごす予定になっていた。
如何にも楽しそうな雰囲気だが実のところその友人と二人きりで、しかも予算の都合上ケーキもなくただレンタルショップで借りたDVDを見るだけ、クリスマスだのパーティーだのという単語とは無縁だったし、彼自身そう称したくもない。
無論豪華な料理など無く、夕食時にはまたぞろコンビニで弁当を買うのだろう。
籠を手に買い物中の鈴原トウジも、出きればもう少し華やかな相手に華やかな場所にお呼ばれしたいのだが、現実は暇を持て余した友人に呼び出されるのが関の山だ。
ヤレヤレと言った様子だが彼の自宅は妹とそのお友達の由緒正しい華やかな『クリスマスパーティー』で占拠され、トウジの居場所が無くこうして菓子を買い込んで出向くのだから、そう不平不満を言えた身分でもない。

「っと、こないなもんでええか」

ごくオーソドックスな菓子類を早速レジに持っていくが、もちろん半額はケンスケの負担だ、ここは立て替えて後で徴収することとなる。
レジにはアルバイト店員、それも始めたばかりなのか不慣れな手つきの店員がもたつきながら会計を行っていると、トウジの背後には列が出来た。
その中に見慣れた顔を見つけだしたのは、紙幣を財布から取りだしたときだった。

「なんや、惣流やないか?こないなところで何しとるんや?」

蒼い瞳の少女は籠を片手に列の最後尾に並んでいた。







クリスマスイブと言うこともあってか、昼の三時を少し回った時間でも児童公園の人影はまばらだ。
植えられた木々は葉を全て落として灰色と黒の格子模様を見上げる空に描き、冬の支度は終えていた。
寒々とした光景だがベンチに腰を下ろした少年の手の中には、熱すぎるほどの肉まんが湯気を立てている。

「そうやな、お前んチこの近くやったもんな、買い物しててもおかしいことアラへんか……アチッ」
「ったく、店の中で大きな声出して呼ばないでよ。恥ずかしい奴ね」
「せやから肉まん奢ったろうが……ホンマエライ出費させられた上に文句言われたんじゃかなわんわ」

そう言われてもさして悪びれる風でもなく、その肉まんを頬張る。
確かにアスカの住む家はこの近所なので、彼女があそこのコンビニで買い物をしても何ら不自然なところはない。

「あんたこそこんな所で何やってるのよ?」
「ケンスケの家に行く途中や、あのアホ菓子買ってこいとか抜かしおって……」
「ハン、しけた話ね。せめてケーキぐらい買ったらいいのに、クリスマスなんだから」
「あいつと顔付き合わせてケーキ食うんか?勘弁せいやホンマ……そない人のことよりオノレはどうなんや?」

どんな返事が返ってくるかトウジには想像が付いた。
もし楽しいクリスマスを過ごす予定ならアスカはコンビニで弁当など買ったりしないだろう。
彼女の手にしているビニール袋の中には唐揚げ弁当が一個とお茶が一本入っている。

「……あんたってやな奴ね、普段は鈍感な癖に」
「ワイは鈍感や、この前シンジと一緒に街に出てたんやがな……あいつどっか変やないか?」
「……シンジ……何か言ってた?」
「いや、何も言っとらんかった、何もな。せやから変なんや、オノレと喧嘩しとるんなら何も言わん訳無いやろ」

不意に氷の欠片のような風が二人の足元を通りすぎていく。
上空に充満した雲はいつ雪を振らそうかタイミングを見計らっているかのようだ。

「まあ、ワイかて根ほり葉ほり聞く気はないんやけどな……」
「だったら聞かなくても良いじゃない、どっちみち鈴原には関係ないんだから」

アスカはベンチに腰掛けることなく片手をジャンバーのポケットに突っ込んだまま、トウジに奢られた肉まんを口にした。
変な時間に朝飯を食べたので腹の減り具合が妙なのだろう、弁当を買ってはみたものの手を付ける気にはならないのだ。

「シンジのことは惣流が一番よう知っとるからな、一応あいつはワイのダチンコやし……ちぃと心配やったから聞いただけや……」

シンジ、アスカとは幼稚園から今日までの結構長い付き合いだ。
二人の様子が過去に見たことがないほどおかしい状態であることは、「ちぃと心配」するには十分だった。
アスカとシンジが同じ家で暮らしていても実の姉弟じゃない、アスカとシンジの両親は血縁関係にない……トウジがその事を知ったのは小学校に入って少ししてからだ。
彼等二人と話をするのにその点に触れないよう気を使い始めたのは、初めての授業参観の時からだ。
だから二人のことに一々首を突っ込むような真似はしなかったし、聞くようなことも今までしたことがなかった。

「ところで鈴原、今夜あんた達二人だけなんでしょ?どうせならレイとシンジも誘ったら?枯れ木の山も賑わいって言うし。ヒカリは田舎に帰っちゃったしね」
「アホ、イインチョは関係あらへんやろ。それにあの二人は自分の家でパーティーやるンや……オノレと一緒にな」

恐らくアスカとシンジ、レイの間に何かあったのだろう、それも今までのようなじゃれ合いの延長ではないもっと深刻な何かが。
それを裏付けるように少女の顔が今の空のように曇る、降り出すのは雨だろう。

「……あんた達二人だけじゃ惨めったらしいからあたしが顔出してあげようか?……シンジならレイがいるからあたしなんて居なくてもいいんだし」

居場所を失った少女は普段なら間違っても口にしない事を言った。

「なあ……ワイは惣流が普段どないに暮らしとるかよう知らん。せやからよう言わんけど、自分で居場所無くすようなこと言わん方がええんとちゃうか?」
「偉そうな事言わないでよ!顔出すなんて嘘に決まってるじゃない、からかっただけよ!」
「そか、スマンなぁ余計なことやったな。ただシンジの奴何ぞ忘れモンしとるような気がして、オノレが側に居った方がええやろ思ってな……」

確信があって口にした言葉じゃない。
ただ漠然とシンジから何かが抜け落ちたような……彼のあの奇妙な明るさの分、アスカの表情が曇っているように思えた。

「ま、ええわ……死ぬほど暇やったら来いや、ワイら映画見とるだけやし。ほなケンスケが待っとるよってそろそろ行くわ。ホンマ、死にそうでどうしようもないほど暇やったら来てもええで……せやけどなるべく来るな」
自分にしてやれるのは今日一日、それも今夜だけ……碇家のパーティーが行われている間の逃げ場をアスカに提供する事だけだ。
出きればこんなものを必要としないで欲しい。
トウジの母親は妹を生んで他界した、その後父親は再婚せず今日に至る。
もし自分に新しい母親が居たら……別にアスカと自分を重ねた訳じゃない、重ねた訳じゃないが……

それ以上何も言わぬよう、余計なことを口にせぬよう手だけを振ってその場を立ち去ろうとベンチから立ち上がる。

「……鈴原、肉まんサンキュー。美味しかったわよ」

背中に掛かる声にやはり手を振って答えると彼は公園を後にした。








その少女が読み終えた本を本棚にしまい込み、部屋の時計を見ると午後四時を回っていた。
結局あれからアスカは家を飛び出し未だ帰ってこない。
一方シンジの方は何事もなかったかのように……あるいは彼にとっては本当に何もなかったのだろう、買い物から帰宅したユイの作った昼食を食べ、その後は部屋でゴロゴロしていただけだった。
正確には一度はレイを映画に誘ったのだが、行く気分にはならなかったらしくお互いこんな時間まで本を読んだり音楽を聴いたりして暇を潰していた。

シンジはオーディオにセットしたMDの演奏が終わり、新しい曲をセットする。
見慣れないディスク……と言うよりいつからあるのか記憶にないディスクがディスクケースの中に残っていた。
どんな曲が入っているのか不明だが、さして気にした様子もなくそれをセットし再生ボタンを押そうとした。

「……碇君、さっきのことなんだけれど……」

そう言いかけてレイは口を閉じた。
『さっきのこと』というのはシンジに存在しない、あるいは記憶に残らない程度のことでしかない。
だがその事でシンジを責めるわけにはいかない、その事でアスカがどれだけ傷つこうとも、自分がどれだけ辛かろうと今のシンジのその責はないのだ。
だからせめて自分が何とかしようと……例え無力であることを自覚していても。

「……惣流アスカ・ラングレーと言う名前、碇君は知っている?」
「何だよいきなり、何のこと?」
「人の名前……碇君の知っている人よ」

普段ならこれほど馬鹿馬鹿しい質問もなかっただろう、だが今のレイは真剣だった。

「僕の知っている人の名前?惣流って人……誰……」
「碇君、あなたは誰と一緒に住んでいたの?」
「訳解らないなぁ、何でそんなこと聞くんだよ。僕と母さんと父さんだよ、今は綾波も一緒に」

形の良いレイの眉が僅かに歪んだ。
やはり『認識』出来ていなかった、碇シンジの中からは彼女のこと全てがそっくり消えているのだ。
声を聞いても姿を見ても名前を耳にしても、それが一体何を意味するのか解っていない。
今まで過ごしてきた時間の中のアスカをその存在ごと消去したのだ。
何故アスカを消去したのか、何故彼女でなければならないのか……怪訝そうなシンジの顔を見つめながらふとそんな疑問が湧いた。

……何故あたしを消さなかったの?……

一瞬レイの胸の奥に痛みが走った。
アスカに嫌いと言われた時感じた痛みとも違う、今まで感じたことのない痛みだ。
何故アスカを意識から消して自分を消さなかったのか……
家のこと、学校のこと、NERVのこと、他の人々のことは全て記憶しているのに何故アスカだけを消したのか……

今自分の存在が薄まったように感じたのはどうしてだろう、そう思って胸の奥が更に痛んだ。
不思議な想いがレイの脳裏に染み込んでくる。

「もうMD掛けて良いだろ?何か変だよ、綾波どうかした?」

レイがごく普通の感覚の持ち主なら怒っても良いような台詞だが、さっきの胸の痛みを見透かされたようでそれどころではない。
複雑な顔になった少女を横目にシンジはオーディオの再生ボタンを押した。
流れてきたのは英語の歌詞で、やはり録音した覚えのない曲だ……少なくともシンジは覚えがない。

「こんなのいつダビングしたかな、聞き覚えもないし……」
不審に思いながらもさして気にすることなく曲に耳を傾け、記憶を漁ることなく手元の漫画本を開く。
だがレイにはあった、かつてこの部屋で聴いた曲だが、その事もシンジは消去してしまったのだろう。
記憶の整合性を保たせるために無意識の中、微妙に書き換えられていく。

多分自分に出来ることは何もないのだろう、アスカに対してもシンジに対しても。
彼等がどれほど窮地に立っても自分には何もしてやれない、腕を伸ばしても支える力がない、導くにしても伝える言葉もない。
この場所に来るまで、二人に出会うまで自分の価値など興味はなかったレイ、だから無力であることを悔いたとき、どうすればいいのか解らなかった。

「綾波、外見てよ……初雪だ」

硝子の向こうに広がる灰色の空から、純白の欠片が無数に舞い落ちる。
その景色が僅かに滲んだように見えたのは、見上げるシンジの背中が滲んで見えたのは……

スピーカから三曲目が流れたとき、そのわけを彼女は知った。










……碇の独断専行もはや看過し得ぬ。この度の処置仕方なし……

……度重なる背徳行為、このまま放置すれば奴め、我らの手を放れることとなろう……

……左様、場合によってはパイロットの人選すら考慮せねばならん、迂遠な事よ……

浮かび上がったホログラム、彼等が誰であるかなどさして問題ではないしそれを問う者もいない。

……これで掣肘になればそれで良し。我らとしても更に監視を強められよう……

……その為の準備は整っている。マルドゥック共に我らの手中に収める準備がな……

全ての影は消えた。
それは同時に今後の方針が決定されたことを意味しているのだろう。
ただ一人の影だけがその場に落ちた。

「……所詮脆弱なる者達、責めるに値せぬか。碇も要らぬ手間を掛けさせる」

不満でもなければ文句でもない。
キールと名乗っているその影は、それだけをただ事実認識のために呟くと闇の中に溶け込んでいった。

……第三新東京市、第一種避難命令発令。



続く


Next

ver.-1.00 2001!01/13公開

何かありましたらこちら!!お気軽にどうぞ

えっと、アケオメコトヨロ!

どうにか人類も2001年までやって来たわけでまずは目出度いと。
と言うわけで本編です。

ずいぶん更新が滞っていました、スマンこってす……と、反省した振りしてこれUPしました。
ついでに外伝も!もう作者は何考えてるんでスカね?余所様にも一本短編放り込んでるし……
さてそんな鬼畜作者ですがまだ書くつもりでいるみたいなので、もう少し付き合ってやってみて下さい。


さて内容の方ですが、まあそんなことですんでシンジと作者を責めないように(笑)
とりあえずこの後どう収拾を付けるかなんですが……さてはて……まあ、一回ぐらいシンジに彼女のことを忘れさせてみたかったと。
次回後編で一連の騒ぎはどういうカタチにせよ、収束します、しないとお話にならないです……どういうカタチにせよね。

と言うわけで次回にまた遭いましょう。

では読者の皆様方、大家さん、本年も宜しくお願いいたします。
21世紀が皆さんにとって良い時代でありますように、作者にとっても更に更に更に良い時代でありますように心からお祈り申し上げます。
では。




 ディオネアさんの『26からのストーリー』第二十七話前編、公開です。




 光沢のあるつなぎを着ている人はいないけど、
 車の形はずいぶんそんな感じになってきた21世紀。

 アシモやプーチを見るにぶんにはまだまだだけど
 携帯やカーナビからはずいぶん匂ってくる21世紀。

 寒中見舞い申し上げます。



 シンジ〜
 レイ〜〜
 アスカ〜〜〜


 掛け違いに
 悪循環に
 その他諸々に・・・

 あぁ


 ちょっとした使徒の刺激で一気にガラガラ崩れていくのは
 それだけ、元があやふやな地盤の上にあったからなのでしょうかしょうか・・


 苦しい、苦しいけれど、
 少しのすれ違いで始まったトラブル、
 少しのきっかけで、きっと、元に。なればいいけどな・・ぐく




 さあ、訪問者のみなさん。
 アケオメディオネアさんに感想メールを送りましょう!









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