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遮光カーテンの隙間から差し込んだ微かな光は、ぼんやりと部屋の中を浮かび上がらせる。

ワインの空き瓶がテーブルの上に透明な緑色の影を落としていた。

床に転がったビールの空き缶、チーズの空箱達が無秩序に散乱している中、転々と脱ぎ捨てられた衣類が寝床に向かって転がっている。
リビングに放り出されたハンドバックから始まってレットブラウンのジャケット、イヤリング。
寝室の前にはタイトスカートが、布団のすぐ脇に白のブラウスが丸められたまま脱ぎ捨てられていた。

その側の鏡台にはネクタイとダンガリーシャツが引っかけられている。

微かにタバコの残り香の漂う部屋も朝日の浸食が始まった。
白い光の筋がベージュの毛布にくるまれた彼女の顔に差し掛かると、うっすらと赤みの差した唇が無意識に上下する。

夢から抜け出すか、あるいはこのまま微睡みの中に住み続けるか迷っているようでもあったが、日差しが目元を照らし始めると微かに残った夜を求めすぐ側の『壁』に顔を埋めた。

鼓動が聞こえ微かにタバコの残り香のする壁。

・・・・・ちっ、まだ早いわよ・・・・

願望に近い言い訳は、スズメの囀りより大きく母親より容赦のない目覚まし時計の電子音によって抹消された。

「・・・・・・・・・・・・・」

この世で最も不機嫌な顔は飲んだ翌朝の寝起きの顔だ。
二日酔いの彼女の眉間に幾本もの皺が寄る。
全身に漂う倦怠感、血が流れ込んでいないとさえ思える筋肉、頭の中には鉛が詰められているようだ。

そんな彼女の徐々に広がっていく視界に映し出されたのはいつもの自分の部屋だった。

同じ家具がいつもと同じに配置されている。
何が置いてあるのか持ち主にもよく判らない机の上。
いつもと変わらない部屋なのに漂う空気は違っていた。

布団から身を起こした彼女の身体から毛布がずれ落ちると白い素肌が朝日に曝される。
ファンデーションも口紅もすっかり落ちた素顔に気怠さが現れていた。

「・・・・・・朝か・・・・・」

夕べは太陽など二度と昇らないと思ったのに。
ふと枕元に目を向けると昨日まで無かったジャケットが落ちていた。

彼女が袖を通すには大きすぎる。

たった数時間前の事が五年も前の事のように思えた。
過去と重なった時間、重ねた時間。
解かされ、流れ出した想い。

乱れた黒髪を手で梳きながらそのジャケットの中からやはり昨日まで無かったタバコを取り出し、ゆっくりと紫煙を吐き出した。

喉の奥に苦みが絡みつく。
その不快感に耐えきれず二口ほど吸ったタバコはビールの空き缶の中に放り込まれた。
飲み口から消え損なった煙が立ち上る。

その煙の向こう側に転がっている塊に声をかけた。

「ねえ・・・・悪いけど起きてくれない?・・・・・今日は忙しいのよ・・・・」

今まで感じ取っていた静かな寝息が止む。

「・・・・もう朝か、俺はまだ寝ているよ・・・・アタッ!」
「自分一人寝ているなんてずるいわよ・・・・・ちょっと、あまり見ないでくんない、化粧落ちちゃってるんだから・・・・」

ミサトは慌てて身体に毛布を巻き付けながら鏡台に座ると化粧道具を取り出した。
何種類あるのか、そんな様子を眺めている彼には判らないが彼女は器用に使い分けていく。

「いや・・・・久しぶりだと思ってな・・・・ミサトのそんな様子見るのも」
「ふん、それより帰るんなら鍵締めてってよ、それと部屋片づけておいてね。加持君掃除得意でしょ」
鏡に映っている布団の上でタバコを吸っている彼に向かって伝えた。
加持の背中には夕べの記憶が赤い筋となって残っている。
素顔を曝していたミサトだったが時計の秒針が進むごとに乱れた髪は整えられ、唇はより赤く染まっていく。

「今日は何かあるのか?やけにめかし込んでいるじゃないか」

ミサトが衣服を身に着けていく度に夕べの名残は消えていた。

「学校、今日は授業参観よ・・・・・」









26からのストーリー


第二十一話:二色





第三新東京市上空の西の方角には暗澹とした雲が広がり、東の方角は抜けるような青空が遠慮なく広がっている。
彼のぼんやりとした眼差しには、見事に分かれた空が今日一日の天気をどうするか決め兼ねているように見えた。

もっとも今日に限って言えば、天気などどうでも良かった。
晴れていようが曇っていようが憂鬱さは変わらない。
どうなるわけでもないがつい毛布を頭から被ってしまう。
心の底から今日一日寝ていたいと思う。

「・・・・何で授業参観なんか今時やるんだよ・・・・」

生憎と熱もなく腹も痛くないので休む理由が見あたらなかった。
静まり返ったシンジの部屋に時計の音だけが変わらぬ間隔で刻まれる。

一日が始まるほんの一時の静けさ。
それは明るくはじけるほど元気のいい声でうち破られた。

「ちょっと!いつまで寝てるつもりよ!!さっさと起きろ!!」

頭の下にあった枕は引き抜かれ何故かシンジの顔に打ち付けられていた。

「・・・・・起きてたよ・・・・アスカの乱暴さってどうにかならないの?」
枕を抱きしめながら見上げると、腰に手を当て自分を見下ろす少女がいた。
綺麗に整えられた腰まである長い栗色の髪が自慢げに揺れる。
制服を着込んだ彼女に一分の隙も見て取れない。

美しさと愛らしさが仲良く同居する顔立ち、均整の取れたシルエット。

十年間見続けた姿だ。

これで大人しければどれほど・・・・などと口には絶対に出来ない思いがシンジの頭の中を行進する。

「あたしの何処が乱暴だって言うのよ!こうやって起こしてやるんだから充分優しいじゃない!」

そのおかげで幾度遅刻の憂き目から逃れたことか。
本来なら感謝すべきことではないか。
そんな感謝の心を無くしたシンジに枕の制裁が再び加えられた。

「ほら、さっさと支度してよ。もう朝御飯出来てるんだから」

アスカの手から制服一式がシンジの頭上に落とされた。
同じ屋根の下で一緒に暮らして十年、シンジの洋服が何処にしまってあるかなど目を瞑っていても判る。

「今日授業参観だろ・・・・・僕休む・・・・」
「バーーカ、そんなこと出来るわけ無いじゃない。第一おじさまもおばさまも許してくれないわよ。まっ、あんたの出来が悪い事なんか二人とも良く知ってるから驚かないんじゃない?」
「悪かったね・・・・今日どっち来るって言ってた?また母さんかな?」
「おばさまでしょ?今までもそうだったし」

アスカはどちらが来ようと構わない。
何の授業でもどんな問題を出されてもいつ指名されても答える自信があるのだ。
小学校時代の授業参観は見学に来たユイに恥を掻かせたことなど一度も無い。

さすがに楽しみとは言わないがシンジのように憂鬱にもならなかった。

「今日は進路で三者面談もあるんだから。ねぇシンジ・・・・あんた何か考えてる?」

中学二年ともなれば望まなくても高校受験の話は出てくる。
この部屋の二人とて勿論例外ではないのだが、シンジの顔には明らかに「そんなことは何も考えていません」と言う表情が浮かぶ。
それは何処か彼女を失望させた。

「そろそろ考えてよね・・・・・・」
「五月蠅いなぁ、さっさと下に行けよ、着替えるんだから」
「ハン!あんたのトリガラみたいな身体なんか見たくないわよ!!三分!それだけ待って降りてこなかったら水ぶっかけるから!!」

めいいっぱい機嫌を損ねたアスカが足音も勇ましく階段を下りていく。
派手な足音の原因が何であるかシンジには判らない、まさか自分の裸が見たかったわけでもあるまい。

再び時計の音だけが支配する部屋で赤いカードを眺めた。

「進路かぁ・・・・簡単に決まる訳ない・・・・生きてるかどうか判らないじゃないか」

まだ淡く残っているアスカの残像に語りかけた。

生きていない自分が高校の学生服を着た自分と同じくらい明瞭に想像できる。
このカードを手にしたときから変わった彼の視野に描かれる冷たい幻。
巨大すぎる『今』が遮って見えなくなった近未来。

背中を冷たい汗が一筋流れ落ちる。

「高校・・・・行かなきゃ・・・・とにかくみんなで・・・・」

窓に映った自分に呟く。
自分ですら見たことのない険しい表情が浮かんでいた。

無意識に映し出していた最悪の映像を頭を振って追い払う。

今は見えない先より数時間先の事の方がせっぱ詰まった問題だった。

・・・・・指されないといいんだけどなぁ・・・・

授業参観と言う有り難くない単語がシンジを打ちのめす。
そもそも小学校時代から見学に来ていたユイに何度顔を覆わせたことか。

二色に別れた空を眺めながら寝間着を脱ぎ、どうにか昨日から引きずっている眠気を追い払う。
アスカが「トリガラ」と評した身体がアルミサッシに映った。

成長過程で殊更スポーツなどしていないシンジの身体は一見貧弱に見える。
身長は平均値で体重は平均値以下なのでやせてはいる。

だが成長はまだ始まったばかりだ。

「筋肉だってついてきてるじゃないか・・・・・」

二の腕に力を込めると子供が作った砂山のような盛り上がりが出来る。
力瘤と言うには余りにもお粗末でアスカに言わせれば「蚊にでも刺された」程度だ。

薄い胸板に華奢な肩、これらが自慢できるようになるにはまだ日数が必要だろう。

幾ら窓に向かってポーズを取ってもあまり見栄えがしないのは自分でも判るのだが、これでもNERVの訓練をそれなりに受けている。
パイロットなので実際に体を使う訳ではいが運動神経はいいに越したことはない。
多分エヴァに乗る以前よりは体力が付いたのではないか・・・・と自分では思っている。

アスカの閉め忘れた扉が背後で揺れた。









「どうだった?」

いつまで経っても降りてこないシンジの様子を見に上がった少女は、蒼銀の髪を揺らしながら戻ってくるとそそくさと自分の席に着いた。

「碇君・・・・・着替えていたからすぐ降りてくると思う・・・・」

一足先に湯気の立つ緑茶を口に含む。
目の前には、タケノコの煮物、キュウリの浅漬けが行儀良くレイの箸を待っている。
そしてアスカの運んできた大根下ろしと油揚げのみそ汁がその列に加わった。
軽い文句も添えて。

「運ぶの手伝ってよ。まだ漬け物とおみそ汁残ってるんだから、ご飯もまだよそっていないし」
「・・・・そう・・・・」
碇家の朝食は大抵五人分だ、アスカの手にしているお盆で全部は乗せきれないのだ。
レイもお盆を手にアスカの後を着いていく。
そうこうしている間にも新たなるオカズが名乗りを上げた。

「アスカ、レイ、サンマが焼けたから持っていって頂戴ね」

そして再び食堂に戻ってきたときは朝食の運び手が三人になっていた。
着替えが終わって降りてきた途端アスカに捕まったシンジは大人しくご飯を運んでいる。
何も彼が手伝わなくていい理由はこの家の何処を探しても出てこない。

「シンジ、箸忘れないでよ。あと海苔の佃煮も持ってきて、蓋の開いてる方」

ただ朝食の準備をしているだけなのだが何かと賑やかになる。

そんな騒々しさを新聞紙で遮り、椅子から一度も腰を上げないで朝食を待っているのはこの家の主だった。
さっきから時折新聞紙を顔からずらし朝食の準備具合を眺めている。

この男の場合、滅多な事では食事の準備など手伝わない。
そんな彼が新聞紙をずらす度に朝食が並んでいき、三回目にテーブルを眺めたときには目の前に三人の子供達が席に着いていた。

早速新聞紙を足下に放り込むのと同時にユイもようやく席に着いた。
何一つ手伝わない男だが、この家の主婦が席に着く迄は大人しく待っているらしい。

平均的な一戸建てより遥かに広くスペースを取っているダイニングキッチン。
茶箪笥に万能ボックス、滅多に使うことのないワイン専用収納棚が置かれているがそれでもまだ充分余裕があり、シンジ達三人が食事の準備で動き回っても互い邪魔になることはない。

白いレースのカーテンで飾られている出窓には秋桜が彩りを振りまき、光量以外の明るさを演出している。

季節毎に飾られる花以外にはこれと言った装飾品はない。
だがそんな物が無くても充分賑やかだった。

「シンジ、大根下ろし取って。醤油も」
「母さん、みそ汁しょっぱくない?」
「そんなことはないな、シンジの舌がいかれているだけだ・・・・・味音痴め」
「しょっぱかったら薄めなさい。アスカ、レモンがあるからサンマにかけたら?」

言葉と共にオカズも飛び交う。

好みもそれぞれでゲンドウはサンマに塩を振りかけているし、ユイは大根下ろしのみ、シンジは両方、アスカはレモンと醤油が調味料だ。

そしてレイの場合はそれ以前の問題らしい。

「ちょっとレイ、またこぼしてるわよ」

アスカのお皿には綺麗に半分食べ終えたサンマが、シンジの手元には全部食べ終え骨だけになったサンマがある。
しかしレイの皿には原形を留めないまでに突っつき回された「焼き魚らしきモノ」が寝そべっていた。
さしずめ鳥にでも啄まれたような状態だ。

「もう少し綺麗に食べなさいよ・・・・・ホントーに箸の使い方下手ね・・・・」

ティッシュを数枚手渡しながら初めてレイがこのテーブルで食事をした時を思い出していた。

あの時に比べれば数段上手になったとは思う。
それでも魚類を食べるときにはボロが出るらしく、お世辞にも綺麗な食べ方とは言い難い。
その度にアスカが色々「指導」するのだが上達の程はと言うと疑問符が付いてしまう。

そんな二人を眺めながらユイは箸を置いた。

「三人とも、今日進路相談あるけどどうするのか決めてる?」

今日の授業参観はこのためにあると言っても過言ではなく、保護者にとっても子供の進路というのは大切な事項だ。
ユイはまったく返答のない三人に静かに話しかけた。
それぞれがそれぞれの表情を浮かべ互いを眺めている。

何かを促すようにユイの視線はアスカを包むが彼女は手元の箸と見つめ合ったまま動かない。
何か考えているのは判るが口にするのを躊躇っているようでもあった。

その隣ではシンジがタケノコの煮物を無造作に口に放り込んでいる。
眉が少し不機嫌そうに歪んでいる。

そんな二人に目を向けていたレイは彼等が何も口にしないのを見て取ると、それに習うように自らも口をつぐんだ。
言うべき事は何もないらしい。

「好きにすればいいと思うけど少しは考えなさいよ」

結局ユイは彼等から何の考えも引き出せず、無言のまま茶碗を片づけ始めた三人の後ろ姿を眺めるだけだった。










窓から表の通りの眺めると街路樹の銀杏はうっすらと季節の色を纏い始めていた。
半袖でも暑かった日々はいつの間にか長袖のYシャツでも薄ら寒く感じるようになった。
このクラスの半数ほどはカーディガンかベストを着込んでいる。
持ち込んで飲んでいる缶コーヒーもいつの間にかホットが主流だ。

だが雑談の賑やかさだけは季節を通じて変わらないらしい。

特に今日は授業参観と三者面談だ、幾ら話しても尽きることがない。

主に愚痴に近い内容ではあったが。

「ねえ、里美んち今日誰来るの?」
「二人で来るって・・・・もう勘弁してって感じ・・・・ふけちゃおうかな」
「うわぁ・・・・あたしんちはお母さんしか来ないからいいけど里美は悲惨だね・・・・・」

普段の行いに問題のない生徒でも親が学校に来るのはあまり喜ばしくないらしい。
親の元を離れたこの場所は、彼等の空間なのだろう。
なるべく『自分達の空間』に入り込まないで貰いたい。

とは言うものの徒党を組んで反対するほど深刻なモノでもなく、さしあたり行儀良く綻びを見せないようにするだけだ。

その辺りは理科準備室にたむろする二人の教師も同じなのかも知れない。

「・・・・毎日顔見てんだから今更学校に来て自分の子供の顔見てどうなるって言うのよねぇ」

サンシェードオレンジのジャケットに白のブラウス、いつもよりほんの少し鮮やかな化粧。
葛城先生にとっても授業参観などというモノは有り難くない。
少なくともいつもより身綺麗にする程度の気は使う。

「普段の子供達を見てやって下さい・・・・・か・・・・バカね、猫被ってるに決まってるじゃない。あなたと一緒ねミサト、化粧濃いわよ」

入れ立てのコーヒーの香りを楽しむように、立ち上る湯気を細い顎に当てる。

「うっさいわね、リツコは担任じゃないからお気楽なのよ。あたしなんか気を使って気を使って・・・・朝から肩こっちゃう」

二時間目の国語が二年A組の「見せ物」だ。
授業など別に見られて困るモノじゃないが、見せたいとも思わないし面倒くさいとさえ思う。
進路相談ならそれだけをやればいいのにわざわざ授業参観など何の意味があるのか実に疑問だ。

ミサトの不平不満がさっきから理科準備室を埋め尽くしていた。

そんな彼女をリツコは涼しい顔で眺めている。
授業参観など彼女には関係ない話だし、一応副担任だがこれと言ってやることもない。
気楽なモノだ。

「まあ、生徒に恥を掻かせないようにしなさいよ。親御さん悲しむから」
「余計なお世話。さーーーて、一丁片づけてくっかぁ!」









「二人とも、テキトーな事しておばさまに恥掻かせないでよ。いいわね」

気合いの入った蒼い瞳が呆気にとられている二人を見下ろしていた。
校内の人口が一時間目が終わった辺りから急激に増加を始めている。
それに比例してアスカの表情にも緊張の色が浮かび始めていた。

一時間目の数学の時から頻りに窓に目を向けては誰かを捜していた。
色とりどりの服装で身を包んだ一団の中にアスカの探している姿は今のところ無い。

「そんなにムキになることないよ・・・・・」
「ムキになんかなってないわよ!ちゃんとやっているところ見せようと思ってるだけじゃない!」

見せようと思うからムキになる。
その辺の矛盾がシンジの目には見て取れたが口にはしない。
それこそムキになって反論されるだけだ。

「レイ、あんたボウッとしてるけど予習はしてるんでしょうね」
「別に・・・・あたしはいつもと同じ・・・・」

レイの様子は何処か蛇に睨まれた蛙のようだった。
アスカのように特別な思い入れもないし、ましてやいいところを見せようなどとは露ほども思っていない。

彼女にとってはいつもと同じ一日がいつもと同じように過ぎて行くだけだ。
そんなレイに対して言い様のないもどかしさが沸き上がる。

少なくとも自分とレイにしてみれば「いいところ」を見せなければならない相手ではないか。
張り切っているのとも違う、ただシンジとは同じでない焦りに似たものが頭をもたげている。

「・・・・あんたは時々変なこと言うから・・・・まあ、とにかく一時間だけなんだからしっかりやってよ!」

さて壁に掛けられている時計の分針が進むたびに教室の中に緊張感が漂い始めた。
誰もが廊下で2時間目が始まるのを待っている両親達が気になって仕方がない。
幾ら普段見ている顔でもやはり学校の中では「異物」なのだ。

そんな中にあってこの二人はまるで無関係のような顔でそんな周囲を眺めていた。

「・・・・・せやけどあの二人よう喧嘩するなぁ・・・・いい加減飽きても良さそうなモンやけど」
「日課なんだろ、しっかしまあ・・・どいつもこいつもオタオタしてるよなぁ。トウジ、お前んち誰か来る?」
「いんや、お父は出張やさかい誰も来いへん。有り難いこっちゃ」

そしてケンスケの父親も忙しいらしく此処数日顔を見ていない。
と言うことでこの二人は気楽なモノだった。

そして共に母親が来られないことは知っていたので口にしなかった。

「せや、進路相談なんやけどケンスケ公立行くんか?」
「私立に行く訳ないだろ、受験勉強なんかなんもしてないし」
「せやろうなぁ、聞かんでも判っとるわ。わいもそうやし・・・・シンジはどないするつもりやろう」

二人の視線の先には今だアスカに説教されているシンジが居る。

「まあ・・・・シンジだって色々あるんだろ?俺達と違って惣流とか綾波もいることだし」
「惣流かぁ・・・昔っから頭は切れよったからなぁ・・・・せやさかい余計なことまで考えおるんやろ・・・アホやな」

アスカとシンジの幼稚園からの幼なじみでもあるトウジ。
だからこそシンジとは違う角度から彼女が見れる。
小さい頃からいつも強気でなんでも完璧にこなそうとしていた。

そのおかげでシンジが巻き添えを食っていたような気がするが何しろ小さい頃の思い出、そこまで鮮明に覚えてはいない。

ただ異国の瞳を持った少女がいつも必死に走り回っていたのだ。

・・・・そない気ぃ張っとったら疲れてまうやないか・・・・

アスカの「母親」も「父親」も今日此処には来ない。
トウジの目にはあの頃と変わらない必死なアスカがだぶって見えた。

やがてチャイムが鳴り響くと誰もがいつもより早く席に着く。
そしていつもとは比べモノにならないほどの静けさで教師の到着を待つ。
建て付けが少し悪くなった引き戸が開けられるといつもより遥かに化粧の濃い両親達が厳かに入室してきた。

途端にどの生徒も背中に視線を感じ始め、教室内は化粧品の入り交じった異様な匂いが立ちこめる。

正直あまり気持ちのいい物でもない。

保護者達が並び終わったのを見計らったようにキッチリ三十秒後、教壇の脇の引き戸が開けられ担任教師が入室してきた。
二年A組の生徒達が目にしたのは、いつもとは別人のようなミサト先生だった。
口を半分ほど空けたままの可愛い生徒達に満面の笑みを振りまき授業を開始させる。

キッチリしたスーツの上下、穏やかで真面目な口調、物静かなたち振る舞い・・・・

いつもとは正反対の彼女が居た。

「皆さんおはようございます、では授業を始めましょう。日直、号令お願いしますね」

爽やかでにこやかな顔でミサト先生は、今週の日直で今学期の学級委員長である洞木ヒカリに目を向ける。

「は、はい・・・・起立!礼、着席」

椅子を引く音が一斉に響き二時間目国語の時間が始まった。
目の前には生徒達だけでなくその後ろに並ぶ父兄達にも目を向ける。

・・・・・まぁ、ごてごて着込んでるわねえ・・・・

ミサトの脳裏に率直すぎる感想が沸き上がるが勿論口にしなくてもいいことだ。
そんな中少々遅れてきた父兄の幾人かがポツポツと入室してくる。

・・・・・子供じゃないんだからさぁ時間ぐらい守んなさいよ・・・・・

表面上は笑顔は絶やさずに顔の向きだけを彼等に向け会釈をし、久しぶりに開いた教科書に目を落とす。
普段教科書など使った授業をしないモノだから前回何処までやったかすっかり忘れている。
それでも適当に当たりをつけると生徒達を眺めた。

行儀良くしている生徒達は面白いようにミサトから目をそらす。
中には教科書で顔を遮る者もいる。

・・・・・さーーーーーーーてぇ、誰に不幸になって貰おうかしらぁ・・・・・

列ごとに標準を定めながら「イケニエ」になるべき生徒を選び出していた。

これだから授業は面白い。
あくまでもミサトにとってだが。

短い時間、彼女はその視界の端にとんでもない者を映し出すまで存分に教職の面白みを味わった。

「さて、今日は「山椒魚と私」の第五章を・・・・を・・・・・うを・・・・」

彼女の視界の一部に映されたそれは良く見知った顔だった。
だがこの場にいるのは余りにも不自然な人物だった。

雪山のライオン、海の中の金魚、山羊の群の中の羊、天国にいる悪魔・・・・・

いずれにせよこの場にいることが奇妙なほどちぐはぐなのだ。

確かにこの教室内にいる生徒の父兄には違いないとはいえ・・・・・・・

「し、失礼しました・・・・えっと・・・・その第五章を・・・・相田くん・・・読んで下さい・・・」

さっきまで生徒達がしていたようにその人物から目をそらし、代わりに恨みがましいような視線をシンジに向けた。

見間違うはずもない、今彼女の授業を眺めているのはNERV総司令であり碇シンジの父親、碇ゲンドウ。

さっきまで空の半分程まで広がっていた青空は黒々とした禍々しい雷雲によって覆われ始めていた。









「・・・・・なんてさぁ、やってらんないわよったく。リツコビール頂戴!」
「ある訳無いでしょ、其処の棚にメチルアルコールがあるから好きなだけ飲んでいいわよ。止めないから」

ミサト先生は痒くなった背中をポリポリ引っ掻きながら数分前までの自分を思いだしていた。
これ以上はない息苦しい雰囲気の中、これ以上はない堅苦しい授業を繰り広げたのだ。

これ以上はない重苦しい男の前で。

「大体碇司令がなんでこんなトコにくんのよ!本部はどうしたの本部は!?」
「あたしに噛みつかないで頂戴。日頃の行いが悪いからこういうときに祟るのね」
「あたしゃぁ一点の曇りもない生き方してるわよ!ったく・・・・・」

本当にそうなのかリツコは良く知っているがあえて口にしない。
どのみちもう授業参観は終わったし、担任でもないリツコには関係のない話だ。

とはいえNERV総司令、碇ゲンドウがこんな所にいるのだからリツコだって興味がある。
その彼の前でNERV作戦本部長葛城ミサト三佐がどんな授業を繰り広げたのか更に興味がある。

「でもめずらしいわね、こういう場所に出向くような人とは思えなかったけど」
「気まぐれでしょ、アレでも一応人の親って事じゃない?そーでなきゃあたしに対する嫌がらせよ」
「だから今までそう言う事なんて無かったでしょ。司令の気まぐれとか親らしい所なんて一度だって見たこと無いわ」

ミサトの記憶には確かにそう言った司令の一面はない。
ましてや嫌がらせされるような覚えも今のところ心当たりは一応無い。

家族が居る、生活がある、感情がある、その事すらも感じさせないような男だった。

自分がただの中学教師なら何の疑問も持つ必要はないのだろうが、生憎そんな立場ではない。
此処では父兄と教師だが地下に潜れば上司と部下になってしまうのだ。

やりづらい事この上ない。

「まあ、何でもいいじゃない、そもそも此処の仕事を命じたのは碇司令なんだから文句言われることもないでしょう?」

今日で五杯目のコーヒーを口にしたリツコは何か考え込んでいるようなミサトに、そう投げかけた。

・・・・サードチルドレンの監視と護衛、信頼関係の構築・・・・・

執務室に呼ばれたあの時、サードチルドレンの実の父親は自分達にそう命じたのだ。

冷たく乾いた視線で。

全ては実の息子をエヴァに乗せ、闘わせるために。

そして誰もが今日まで生き残った。

「とにかく授業参観はこれで終わり。ミサト、今日一緒に飲まない?あなた暇でしょ?」
「ちょっとぅ何で人を暇って決めつけんの、今日は用事あるの」

何処か自慢げな顔を浮かべリツコに目を向けた。
普段なら彼女の言う通りこのまま本部に直行するか帰ってビール飲んで寝るだけだろう。

だが今日は違う。

「珍しいわね、どんな用事?」
「これでも色々あんのよ。今度付き合うわ」

砂糖四杯放り込んだコーヒーを笑みの張り付いた口に流し込む。
甘ったるい味が流れ込んでいるのを想像するとリツコはつい顔をしかめてしまうが、飲んでいる本人はまだ足りないらしくもう一さじ砂糖を足した。

「・・・・・本当に舌がどうかしてるんじゃない?これで甘党かと思えば辛いモノも平気で食べるし・・・・」

辛党どころの話じゃない、リツコだったら匂いだけで食べられなくなるような辛味の料理でもミサトなら平気で、しかも更に調味料を足して食べるのだ。

味覚など手料理さえ作らなければ誰にも迷惑などかけないので別に構わないが、少々気にはなる。

「そのうち病院にでも行きなさいよ。大体それだけ味の濃い物食べてれば体が参るわ」
「暇になったら検査受けるわよ・・・・・」

本当にそのつもりがあるのかどうかは怪しいがNERVの健康診断もある。
放っておいてもどうにかなる、リツコはそれ以上勧めることはなかった。
代わりに今日六杯めのブラックコーヒーを啜りながら、何やら取り出しにたにた笑っているミサトを訝しげに眺める。

「気持ち悪いわね・・・・・何笑ってるのよ?」
「べっつにぃ・・・・あんたさぁ、さっきもう終わりって言ってたけどまだ終わりじゃないわよーーーん」
「何があるって言うの?・・・・・ああ、進路相談ね、それもあなたの仕事。もう一度・・・後三回碇司令とゆっくりお話ししてきなさい」

我関せずを決め込んだ顔を見せるリツコ。
その表情が崩れたのはミサトの見せた一枚にプリントだった。

「甘ーーーいわよリツコちゃーん。此処良く読んでみなさい、ほら、副担任も同席って書いてあるでしょう・・・・・一緒に不幸になるのよ、ウヘヘヘヘヘッ」









「んで、ケンスケは何て答えたんや?」
「取り敢えずこのまま公立高校に進むって。わざわざ私立行かなくても英語は習えるしな」

トウジは既に進路相談を終えたケンスケを捕まえ、その時の様子を聞き出していた。
五十音順の場合常に彼が先頭になるのだ。

どんな話だったのか順番を待たされている身の彼にしてみれば気になるだろう。

「何で英語なんや?そないなモン得意や無かったろ?」
「だからさ、俺さ、将来カメラマンか報道関係の仕事に就きたいんだ。そん時に英語が出来ないとさ」
「もうそないな事まで考えとるんかいな・・・・わいなんぞ何にも考えとらんわ」

ケンスケの口にした「将来」など何も浮かばない。
まだその必要などないように思えたし、今ひとつ現実味がなかった。

多分ケンスケには自分にはまだ感じ取れない必要性を知っているのかも知れない。

「シンジ、お前何か考えとるんか?」

三番目に面談を受けるシンジに話題を振るが不機嫌そうに眉をしかめた。

「まだ何も考えてないよ。そんなことどうでもいいだろう・・・・」
「何怒っとんのや?わいなんか変なこと聞いたか?」
「いや・・・・・いい・・・・何でもない。まだ何にも考えてない・・・・」

普段の彼の様子ではなかった。
何も考えていない顔ではなく考えたくなさそうな顔だ。
普段良くも悪くも平然としているだけに今日の様子は何処かおかしかった。

「まぁ、色々あるわな。わいなんぞ何も考えとらんから気楽なモンやでぇ」
「考えたくないんだよ・・・・気が滅入るから・・・・」
「ホンマ、暗いやっちゃ。物事はもっと明るう楽天的に考えにゃいかん・・・・そうかぁ、おのれまた何ぞ悪さしおってミサト先生に叱られるんやろ?今日は親父さんも来とるしな」

トウジの当て推量は沈黙を持って受け止められた。

彼に判るはずがない。

エヴァなどという非日常の象徴がシンジの小さな肩に重くのし掛かっていることなど判るはずがない。
日常という枠の中で暮らす者とは違う時間を知っているだけに、今という時間の危うさが胸の中でちょっとしたきっかけによって鎌首をもたげるのだ。
明日が来ないかも知れない、明後日が来ないかも知れない、その可能性を身近に感じ取っているだけに焦りと不安の入り交じった混沌とした気分になる。

「しかし何やな・・・・・今日はミサト先生も妙な調子やったしみんな何ぞズレとるんやないか?」

トウジはこれ以上進学の話をしてもシンジが答えそうにないので話題を変えた。

「そうそう、さっきの進路相談でも赤木先生居たけど何か変な様子なんだよなぁ。緊張してるっていうか殺気立ってるって言うか・・・・・何かあるんだよ、きっと」

最初に進路相談を受けたケンスケがその時の様子を話し始める。
険しい目つきに張りつめた雰囲気、入室したときには思わず後ずさりしそうになった、ケンスケはそう語った。

この件に関してもシンジは知りたくもないことを知っている。

・・・・・父さん何しに来たんだろう、大体母さん何で来ないんだよ・・・・

ミサト、リツコ、ゲンドウ、地下で関わるややこしい上司と部下。
そして自分。
父親が授業参観に来た、そう素直には関係者の誰もが思っていない。

「きっとろくでもないことだよ・・・・絶対に」

視界を三人がたむろしていた廊下から教室に向けると何やら話し込んでいる父親が居た。









「さーーーて!一丁行くか!リツコ、気合い入れなさいよ!」
「準備はいいわよ・・・・・三回・・・・まずは一回目!」
「碇君、お入りなさい」

教室の引き戸が開かれ名を呼ばれた生徒とその父親が入室してきた。
互い気合いを入れたにもかかわらず一瞬たじろいでしまう。

背筋も凍るような視線が長身の父親から一同に降り注ぐ。

「さ、さあ、お二人ともお座り下さい・・・・・・」

机を挟んで教師と生徒、その父兄が顔を合わせる。
教師は無言のままシンジの成績表、出席簿等を机の上に並べた。

ミサト先生はそのまま無言で・・・・と言うわけにもいかないらしくすぐ隣りに座っている赤木先生に足をけ飛ばされた。

「・・・っう・・・え、えーと、シンジ君の成績ですがまずまずと言ったところで・・・・教科毎にムラが少しありますが全体としては特に問題もなく・・・・えっと・・・・」

まるで新任教師のように緊張した雰囲気がミサトから漂う。

・・・・やりづらいだろうなぁ・・・・

シンジは半ば同情するような、何処か冷めた目で二人の教師を眺めていた。
そんな状態ながらも高校のパンフレットを開きながら頻りに何かを説明していたが、当事者であるシンジの耳には入ってこない。

無意識に爪で椅子を引っ掻きながらそんな様子だけを見ていた。

此処にいるのは父兄と担任、だが同時にNERVの人間でもあるのだ。
特務機関という日常の中に溶け込まない組織の人間が、平然と普通の人間を振る舞ってこうしている様が何処か道化じみて見える。
そして生徒指導室というこの部屋の名前と同じくらい白々しかった。

「・・・・と、公立はともかく私立でも今から準備すれば充分間に合いますよ」
シンジの成績は思っていたほど悪くない。
同居人二人には遠く及ばないまでも中ぐらい程度で頑張っている。

「ですよねえ、赤木先生」

同意を求められたリツコは思わず全身に鳥肌が立ち、背中に虫酸が走る。
赤木先生などという呼ばれ方は生徒達からならともかくミサトにそう口にされるとこういった状態に陥るようだ。

「え、ええ、頑張ればまだまだ充分です。い、碇君、後はあなたの希望次第ですよ」

うわずった声、引きつった顔で発言権をシンジに向ける。
しかし無言のまま俯いている彼の代わりに口を開いたのは父親だ。

「意外だな、お前でも行ける高校があるらしい。葛城三・・・葛城先生と赤木先生に感謝するんだな。アスカとレイ、二人にも教わっているのだからそれぐらいにはなる」

ゲンドウにしてみれば殊更嫌がらせのつもりはなかったのかも知れない。
だがミサトとリツコは全身に鳥肌を立て全身に寒気が走り髪の毛が総立ちになる。

葛城先生、赤木先生、こんな単純な呼び方だが、口にする人間によってこれほどの破壊力があるとは思いもしなかった。

引きつった唇の端が微かに痙攣しているのが判る。

「いい一応私立と公立両方を念頭に置いた進学と言うことで・・・・・・・ははは・・・・・いいですか?シンジ君」

うわずって引きつった担任教師の声が俯いたシンジの耳に届けられた。

この部屋に入ってから進路などシンジ自身何も相談はしていない。
実際そんなことは今どうでも良かった。
そんなことどころではない、もっと重大な事があるではないか。
焦れったい思いが溢れかえってくる。

だから目の前の光景が白々しいものに思えて仕方がなかった。

「・・・・・いつ終わるの・・・・」
「?」
「いつ使徒は来なくなるんだよ・・・・いつエヴァに乗らなくて済むようになるんだよ・・・」

呆気にとられたミサトとリツコ、無言のまま見つめるゲンドウを後目に言葉を続けた。

「この先どうなるか判らないのに・・・・・リツコさんもミサトさんも父さんもそれを知っているのに何で平気な顔してるんだよ」

焦りの矛先は目の前の大人達に向けられる。
事情を知った大人達と何の事情も知らない自分。

「この先の事なんて何にも考えられないよ・・・・・・明日死ぬかも知れないのに」
「シンジ君・・・・その話は後にしましょう。此処は学校でしょ、今話しているのはあなたの進路よ」
「判ってる!だけど・・・・だけどエヴァだって現実にあるじゃないか。学校も現実だけどあの戦いだって現実じゃないか!使徒だって現実に来てるじゃないか!!」

共にある日常とその裏側。

目を覚ましても引きずる悪夢の欠片。

それがシンジに棘のように刺さったままいつまでも疼く。

「大声出すとばれるわよ・・・・」
「!!・・・・・・・・判ってる・・・・・」

誰かに思いを叩き付ければ自分に刺さった棘が相手に突き刺さる。
だからアスカに事実を告げられなかった。

彼女だけではない、関わらない人間には何も伝えられないのだ。
トウジにもケンスケにも他のクラスメイトにも。
だからこそ一人で抱え込まなければならない。

打ち明けられず、理解されずに。

「シンジ、今焦ってもどうにもならんぞ」
「なんだよ・・・・・訳知り顔でそうやって・・・・肝心なことは何も教えてくれない癖に」

矛先が父親に向くとシンジの中である種攻撃的な感情が生まれた。
何も教えてくれない、何も知らせてくれない父親への不満が形になった。

「大体何で僕じゃなきゃいけないんだよ、その理由すら判んない、いつ終わるのかも・・・・闘っている相手が何なのかも!何で教えてくれないんだよ!」
「シンジ君!何度も言うけど此処は学校よ・・・・・場所をわきまえなさい」

リツコがさっきと同じ台詞を吐くがやり場のない思いは止まらない。

「いつも・・・・いつもがんばれとか自分のためにとか・・・ちゃんとした理由を教えてよ!」

父親に向かって声を荒げたのは初めてだったかも知れない。
だがそんなことは血の上った頭では気付くはずもない。

「父さんは・・・・僕を良いように使ってるだけじゃないか!」
「シンジ、いい加減にしろ」

静かな口調とは裏腹にシンジの頬が鳴った。

「・・・・・自分がやらなければいけないことは判っているはずだ、やらなければどうなるかもな。今の貴様にはそれで十分だ」

ミサトの目には目の前にいるのがNERVの総司令ではなくただの父親に思える。
少なくとも彼女の知る限りゲンドウという男がここまで感情を出したのは初めて見たのだ。

今の彼の目は自分達に命令を出すときの無感情な視線とは全く違う。

「これで終わりだ。葛城三佐、後は任せる」

背中に息子の憎しみを纏った視線を浴びながらそんなモノは何とも感じないかのように、平然とした様子で教室を後にした。

多分騒ぎは表には届かなかったろう。
この生徒指導室は防音も一応されているし生徒達の待っている教室からは少々距離がある。

「シンジ君、大丈夫?」

ミサトの差し伸べた手が彼の頭をそっと撫でた。
言葉が何も思い浮かばない、だが何かしてやりたい。

シンジの口にした言葉はミサト自身胸の中にため込んだ疑問なのだ。
立場上直接口に出来ないだけで抱え込んでいるものは十四歳の少年と同じだった。

そんな思いを知ってか知らずか床に座り込んだまま閉じた扉を見つめている。

「もう・・・いい・・・・・教室、戻ります」









進路相談は順調に進み、男子の方は早々に終わった。
然したる問題を抱えた生徒がいないおかげで希望を聞くだけで済んだからだ。

1990年代から表面化した少子化現象はこれと言った対策をしなかった為、2015年にもなるとセカンドインパクトの影響もあって相当に深刻化した問題となっていた。

特に高校、大学は2010年になると何処でも定員割れし、それぞれの経営に深刻以上の影響を及ぼしていた。

文部省は公立高校の授業費を値上げし、その反面受験制度の廃止を早々に実施。
私立も大半は経営不振から学校を閉鎖したが、一部名門と呼ばれる大学付属高校は何とかその看板によって生き残った。
そう言った一流と言われる所に行きさえしなければ、受験勉強をせずそのまま進学できる。
大半の生徒はそのまま公立高校に通うことになるが、少数の勉強に自信のある生徒達が数人私立高校を受験するのだ。

そんな生徒達は当然のことながらより真剣に進路相談に望むので時間が掛かる。
そうでない生徒達はシンジのように親子喧嘩するでもなく淡々と終わらせていった。
たった今も何の問題もない最後の男子生徒とその親がお辞儀をして部屋を立ち去ったところだ。

結局男子生徒の中で騒ぎを起こしたのはシンジだけだった。
勿論彼が特殊な立場にいるためだろうが、あそこまで感情をむき出しにしたのも珍しい。
そしてゲンドウの様子もミサトとリツコにとっては驚きだった。

「疲れたわ・・・・副担任が此処にいたところでどうなる物でもないでしょうに・・・・」

手元の資料をまとめながら何となくリツコは呟く。

「すーぐ愚痴る、さっきだってシンジ君がひっぱたかれる前に止めて上げればいいのにぃ」
「世の中殴られなければ判らない事って意外と多いのよ。あなただってそう思ったから司令を止めなかったんでしょ?」

理科準備室から持ち出した水筒からコーヒーを紙コップに注ぐと、誰に遠慮することもなく飲み干す。
リツコはまず自分で一杯飲んでから二杯目とミサトの分を注いで手渡した。

此処まで休みなしに進路相談を続けてきたのだ。
一息入れてから残った女子の相談を受けたい。

「アレは親子の会話よ、エヴァパイロットとその司令の会話じゃないわ。あたしらが口出す事じゃないと思ったんだもーん」
「親子ねえ・・・・随分ねじ曲がった親子関係だこと。ミサトの根性みたいね」
「何よ、あたしの何処がねじ曲がってるのよ?」
「ねじ曲がってるわ、シンジ君が聞いた事ってあなたが聞きたがったことじゃない。だからあなたは彼を本気で止めなかったのよ」

砂糖の入っていないコーヒーの苦みがミサトの口に広がっていく。
一度だってそんな物は美味いと思ったことがない。
そしてリツコの嫌みを単なる嫌みだと思ったことも一度もない。

「司令が何か答えるなんて思ってなかったわよ。でもさ、あの子だって言いたいことがあるじゃない」
「そうやって理解する振りして・・・・あの子をいいように使ってるのは司令じゃなくてミサト、あなたじゃない?」

もしノックの音がしなければミサトもリツコもまだ言いたいことがあっただろう。
此処では二人とも葛城先生と赤木先生なのだ。

「綾波・・・・・入ります・・・」









「それでレイ、何て言ってきたの?」
「別に・・・・・・・あたし何処でもいいから・・・・」
「何それ?おじさまも何も言わなかったの?」

透き通った水色の瞳がむさ苦しい中年男を睨み付ける。
「あ、ああ・・・・・まぁ、後でゆっくり考えればいいと言うことになって・・・・・」

どことなく言い訳がましい物言いだがゲンドウとしても当人に希望がなければ何とも言いようがない。
それにレイの成績なら私立の何処を受けてもまず問題はないだろう。
むしろ成績より面接の方が遥かに問題が多い。

もっともゲンドウにしてみればレイの通う高校など何処でも良い。
希望があれば叶えるが無ければそれでも構わないと思っている。

「まったく、シンジもあんたもハッキリしないのよね。いいわ、家に帰ったら一緒に考えましょ、あたしもまだ決めてないし」
「あなたも決めてない・・・・・あたしと同じね・・・・」
「違うわよ!何言ってんのよ、あたしはまだ決めてないだけ!あんたは決めようとすらして無いじゃない」

それほどの差があるのかどうか、少なくともアスカにしてみれば強調する必要があるのだろう。

「そう・・・・あたしはあなたと同じところでいい・・・・・」
「何よそれ、主体性がまるで無いじゃない」
「だって・・・・何処でもいいもの・・・・・」

紅い瞳が彼女を見つめる。
其処にふざけていたりいい加減なことを言っている様子は見いだせない。

そのおかげでアスカは返答に窮してしまった。

「二人とも今日明日に進学する訳じゃない、今はおおよその進路だけだ。ゆっくり考えたらいい」

一体何度同じ台詞を言っただろう、ゲンドウの目にはアスカが何かを決めたがっているように映った。

「・・・・シンジの奴、何で教室入って来ないの?」

既に三者面談を終えた生徒は部活に行ったか帰宅している。
それと共に校内も静かになっていった。
だがシンジは帰るわけには行かない、アスカが事前に待っているよう釘を差したのだ。
その為に校内に残っているのは判るが何も廊下で突っ立っていることなど無いだろうに。

「・・・・知らないわ・・・・呼んでくる・・・・」

別にレイを使い走りにするつもりはなかったがレイはすぐさま身を翻すとシンジの元へ駆け寄った。
硝子の向こう側に立っているシンジの表情はいつもとは何処か違う。
朝から何処か様子が変だったような気がするが今のシンジは絶対に何処か変だ。

「おじさま、何かあったの?葛城先生に何か言われたの?」

問いつめるような視線に感じるのはゲンドウの気のせいか。

「いや、何もない。あいつが拗ねるのはいつものことだ」
「何に拗ねてるって言うの?・・・・・おじさま、余計なこと何か言ったんじゃない?」
「いや、何も言っていない。何もな」

蒼い瞳は再び硝子の向こう側に向けられた。
シンジを呼びに行ったレイだったがそのまま隣で同じように突っ立っているだけだった。

・・・・・レイ、何か知ってるのかな・・・・・

自分だったらあれこれ問いつめるだろう。
原因を知ろうとあれこれ聞き出そうとするだろう。

だがレイは何も問いつめていない。
知る必要がないのか、それとも聞く必要がないのか。

いずれにせよその様子を見た途端、自分が仲間外れにされたような気分になった。

距離にしてたった数メートル、アスカにはそれだけの距離を進む事が出来ない。

まるで硝子で仕切られたように前に進めなかった。

ただ見つめるだけしか許されないかのように・・・・・

「・・・カ、アスカ、アスカってば!もう順番回ってきたよ」

背後から聞こえた親友の呼び声にビクッと身体をさせながら振り返った。

「あ、ヒカリ・・・・・順番?あ、うん・・・・今行く」

教室内に取り付けられた電話がさっき鳴ったのすら気が付かなかった。

「アスカ、行くぞ」
「ハーイ、おじさまちょっと待ってて・・・・・やっぱりすぐ行く!」

せめて二人に一声掛けてから、そう思ったのだが教室を出た「おじさま」を見るシンジの目がアスカをたじろかせる。

・・・・・何て目してるのよ、あんたに似合わないわよ!・・・・

アスカが幾ら彼に目を向けてもそれに気付く事無く、シンジの視線は父親の背中を追い続けていた。










「シンジ、帰るわよ。いつまでそうしてるのよ」
「いいよ先に帰ってて・・・・まだ帰りたくないから」
「何よそれ!ほら!さっさと帰るの!!」

右腕が引っ張られシンジの身体が一瞬寄りかかった校舎から離れたが、すぐさま壁の一部と化した。

一体どれほどこの薄ら寒い校舎の裏手で立っていたのだろうか。
三者面談が終わったアスカがシンジの姿を探し回ったのは十五分ほどだ。

「ちょっといい加減にして!さっきから何拗ねてんのよ・・・・・」

呆れたように、ほんの少し心配しているように大きなサファイアの中に彼の顔を映し出す。
そんなアスカを鬱陶しがるように顔を背けるが逃がさないように彼女の視線が追いかけた。

「ほーら早く帰ってご飯食べよう、ね、お昼何かなあ」

押して駄目なら引いてみろ、滅多に聞けないアスカの猫なで声に誘われたが五月蠅そうにそっぽを向いてしまった。

今までにもこうやってシンジが「いじける」ことは幾度もあった。
その度にアスカがなだめて慰めて最後には武力行使によって家に引きずっていく。
何が原因か知らないが今度もそうするつもりで握り拳を作ると力を溜める。

「いい加減にしなさいよ・・・・あたしお腹空いてるんだから・・・・」

半分は本気だ。
だがそんな様子もシンジには気にならないのか地面を見つめたまま動こうとはしない。
それは半分ほどだったアスカの本気を100%にしてしまった。

「この・・・・バカシンジ!!」

空きっ腹によって加速され振り下ろされた拳、それは何の衝撃も与えることなく翳されたシンジの手によっていとも簡単に包み込まれた。

「な!・・・・な、離しなさいよ!」
「・・・・知らない・・・・アスカは・・・・知らないから・・・・そうやって・・・」

呻くような呟きが彼女の耳に流れ込む。

「何よ・・・・知らない?・・・・あんた何言ってるの?」

シンジの目の前には進路だけを考える同じ年齢のアスカが驚いたような不思議そうな視線を向けていた。
彼女の手首を握りしめたまま十年間見続けた蒼眼を見つめる。

その目には日常だけが映っているのだろう。
昨日と同じ今日、明日という時間を信じることの出来る今日を映してきた瞳。

同じ生活をしても自分はそれとは違う物を見てしまった。

昨日と違うかも知れない今日、最後の日になるかもしれない今日。

シンジのつま先は何かの代償のように軽く土を蹴り上げる。
曇り空は多少雨を振らせたのだろう、シンジのスニーカーの先を少し汚した。

「あたしが知らないって何の事よ?あんたの成績は知ってるけどそんなに悪く無いじゃない・・・・」

アスカは知らない。
何も伝えられていないからだ。

彼女に日常を残すために知らせなかったのだが、同時にシンジは全てを抱え込まなければならなくなった。
どんなに悩んでも打ち明けられない。

アスカには伝えない、自分でも納得していたはずなのに。

今まで共有してきた全ての時間が少しずつ、だが確実に消えていく。

「シンジ、ホント何かあった?あんた今日すっごい変よ。ウジウジしないで言ってみなさいよ」

純粋に心配する蒼い瞳。
何も知らないまま、それでも自分を心配する瞳。

どんなに悩んでも、どんなに打ち明けたくても、重すぎて持ちきれなくなってもそれに甘えることが出来なかった。

自分で納得はしている、だがやるせない思いが苛立ちを生んだ。

「アスカには関係ないよ・・・・・」
「ちょっと、関係ないって・・・・あんたの事なんだから関係ないわけ無いじゃない!!」

互いの思いが少しずつズレ始めた。

「だってアスカには本当に関係ないんだ・・・・・知らなくてもいいことなんだよ!」

それが最善の方法。
自分の抱えた物は彼女には関係ない、そうすれば使徒やエヴァとは無関係でいられる。

明日が来ることを信じていられる。

少なくともシンジはそう思ったから声を荒げた。

「バカ!何怒ってんのよ!関係ないって本当にそう思って言ってるの!?何拗ねてるのか知らないけどあたしに言えばいいじゃない、何だって話聞くんだから!」
「五月蠅い!!」

何の罪もない樹木が大きく揺れた。
シンジの左手は木の幹を力任せに殴りつけていた。

どうしようもない、アスカが悪いことは何もないのだ。
自分のことを心配し、声を掛けているのだ。
だからこそ余計に辛かった。

「帰れよ・・・・・・家に帰れよ・・・・・」

拳の痛みなど無視できるくらい苦しかった。

互いの頬に泣き出した空からの雫が降り注ぎ始める。

拭うことも出来ず、言葉を口にすることも出来ずただ立ちすくむだけの二人。

「知らないのは・・・・・あんたの方じゃない・・・・」

無言の時間は地面を水浸しにし、長い栗色の髪を重くした。
もしレイが探しに来なければずっとこのままだったろう。

校内中を探し回りびしょ濡れの二人を見つけた彼女は形容しがたい視線で二人を見た。

「何・・・・しているの?・・・・」

レイのごく真っ当な質問に二人とも何も答えられなかった。









ついさっきまで騒がしかった廊下からは潮が引いたように静まり返っていた。
三者面談の為全学年が半日授業だ。
既に大半の生徒は帰宅したか昼食をとって部活動に参加するか・・・・いずれにせよ校内に人影はない。

二階の階段を上がってくる二人の教師もこのまま帰宅するつもりだ。
その内の一人は今日半日で精魂使い果たしたような様子だったが。

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!かったるーーーーーーーーーい!!」
「五月蠅いわね、お腹に余計な脂肪付けてるから怠いのよ。そぎ落としなさい」

白衣を着たもう一人の教師は冷酷な眼差しと無慈悲な言葉を彼女に向ける。

「リーツーコー・・・・寿命縮めるわよ・・・・」
「あら、あたしは長生きするわ。憎まれっ子世にはばかるのよ、知らなかった?」

平然と言ってのける辺り勝ち目がないようにミサトには思えたのでそれ以上何も言い返さなかった。

ただでさえ三者面談で気力を使い果たしているのだ、もう同僚と口喧嘩する気力など残っていない。
保護者などという物は教師にとっても気を使う存在だと言うことが改めて判った一日だ。

「そんなに疲れるなら今後永遠に授業参観はしないように司令に直訴したら?」
「へん、鼻で笑われるだけに決まってんじゃん。言うだけ無駄無駄、取り合わないときは絶対取り合わないわよ、あのタイプは。今日だって見たでしょ?」

息子の要求は完膚無きまでに叩きつぶされたのだ。
勿論答えられるような質問ではなかったのだが言い様という物が有るとミサトには思える。

あそこまでムキになり拒否するのは何故か、過剰な反応ではなかったのか。

・・・・考え過ぎか・・・・

「?」
「ん?こんな家業してるとさぁ何でも疑って掛かっちゃう様になるのよねぇ」
「いまさら、あたしはあなたのこといつでも疑ってかかるわよ。だからお金貸さないでしょ」
「そりゃ単にリツコがケチなだけ」

ミサトはヘラヘラッと笑い顔を浮かべると廊下から裏庭を眺めた。
ぽつぽつと窓硝子を濡らし始めた雨は時を追うごとに激しくなりそうな気配だ。

「結局今日は晴れなかったわね・・・・」
「まーね、いいんじゃない、秋雨なんて風流・・・・・っと惣流さんじゃん。まだ居たんだ・・・・・」

自分の教え子の一人が校舎に向かって何か喋っている。
正確には校舎に寄りかかった少年だろう。

「んまぁ、仲の良いこって・・・・・リツコ、レイその辺にいなかった?」
「さっき見かけたきりね、二人とはぐれたんでしょ」

シンジが訓練に駆り出されない限りいつも二人の側にレイはいる。

・・・・レイか・・・・・

全てを拒絶した少女。
今日の進路相談で改めてそれを感じさせられた。

何を尋ねても何を言っても帰ってくる返答は言葉と言うより単語だ。
会話ではなく機械的な反応に過ぎない。

自分が嫌われている、と言うより無視されていることは良く知っている。
ミサトだけでなく他の人間全員がレイにとって無視できる無価値な存在なのだろう。

「シンジ君だけなのよね・・・・レイにとって価値のある人間て・・・」

何の気なしにミサトの呟いた台詞はすぐ隣のリツコの耳に入った。

「誰だってそうじゃないかしら?誰をも好きになれるわけじゃないんだし・・・・レイの場合はそれが極端なのよ。それにシンジ君は・・・・・」
「エヴァのパイロットとして共有している時間があるか・・・・・ファーストにサードチルドレン・・・・イヤな呼び名ね」

再び地上に目を落とすとアスカとシンジの喧嘩が始まっていた。
時折何か言い合っているようだが三階まで聞こえない。

「まーた喧嘩してぇ・・・・・飽きないわねえ・・・・」

まるで試合観戦でもしているかのように眺めていたが奇妙な疑問がミサトの脳裏に浮かび上がった。

シンジだけ、そう限定したことに妙な違和感をミサトは覚えたのだ。

「あぁ、惣流さんとも仲がいいか・・・・・・・ってなんで?・・・・」

シンジは同じエヴァのパイロットと言うことで共感できる物があるのだろう。
自分やリツコ、ゲンドウは命令を下す立場にいるのだからレイと解り合うなどと言うのはどだい無理な話だ。

ならアスカは?

・・・・なんだかんだ言ってあの二人仲良くやってるわよねえ・・・・

共に暮らしているから?
エヴァという共通点を持たない相手にも関わらず彼女はアスカを受け入れている。

あるいはその逆か・・・・・

・・・・惣流さんがレイを受け入れたのか・・・・・

「ミサト、何ボウッとしてるのよ。帰るわよ、あなた用事あるって言ってたじゃない」

口に出して呟いていたわけではないのでリツコからは単にボウッとしているように見えたのだろう。

「処で用事って何なの?」
「デートよデート。かーいい男の子とね」

走り去っていくミサトを放っておきリツコは窓の外を覗き込む。

降り注ぐ雨の中、右頬を押さえているシンジとレイの手を掴んで走り去っていくアスカがいた。









「あ、加持君?悪いんだけどさぁ昼飯一人で食べてくんない?え?出かける?はーん、べっつにいいけど鍵締めてってよ、んじゃーねー」

ミサトはハンドバックの中に携帯電話を放り込むと窓に自分の姿を映すと授業用に縛った髪を解き手櫛で梳く。
何の気なしに伸ばしていた髪はいつの間にか背中の中心辺りまで達していた。

「さてと・・・・」

暫くは止みそうにない雨。
天気予報によると嘘か誠か今夜いっぱい降り続けるそうだ。
気温も此処数日で随分下がり、びしょ濡れのままではあっと言う間に風邪を引くかもしれない。

彼が自分の周りだけその雨が止んだのに気が付いたのは足音がしてから数十秒後だった。

「ミサトさん・・・・・・」

傘を透かして注ぐ光は青みがかっている。
それがシンジの顔をよけい陰鬱とした物に見せていた。

「風邪引いちゃうわよ、ほら、頭だけでも拭きなさい」

頭だけ拭くには大きすぎるスポーツタオルが彼の視界を奪う。

「あの子達は帰っちゃったんでしょ、良かったらあたしと付き合わない?お腹空いちゃったしお昼食べに行こう」

シンジからの返答はない。
顔すら上げず俯いて地べたを見つめたままだ。

・・・・・無理ないか・・・・・

父親にひっぱたかれ、さっきまで仲の良い相手と喧嘩して。
其処までしてもどうにもならないのだ、シンジの抱えた物は。

「よーし、オネーサンが奢って上げる。強制連行するからよろしくね」

シンジにこの場から動く気はなかったがミサトの手は彼を駐車場へと引っ張っていく。
説得しようとか慰めうよとか言うのではなく力ずくで強引に引っ張っていった。

「離せよ!何処も行きたくない!!」
「はーい、シンちゃんは行きたくないだろうけどあたしはお腹空いてるのよ。付き合ってねー」

反射神経はともかく単純な筋力はミサトの方が遥かに勝っている。
濡れた地面に引きずり跡を残しながら文字通りシンジは強制連行されていった。









ウィンドウに流れる雫は刻一刻とその量を増し、今ではさながら滝のような有様だ。
ファミリーレストランの明るい店内に流れるBGMはゆったりとした感じでお昼時の安らぎを醸し出していた。
「チキンソテーセットとベーコンサンド、カボチャのポタージュにシーサラダ、それとデザートセットにアイスコーヒー。シンジ君は何にする?」

彼の手元に置いてあるメニューはまだ開かれていない。
正面に座ってはいるが顔を横に背け、無理に見ないようにしてるようでもあった。

「拗ねちゃって・・・・・えっとこの子にお子様ランチ一つ」

ちらっとシンジに目を向けるが反応はない。
とは言うものの無視しきれるわけでもないらしく、ウィンドウに映ったミサトの様子をうかがっているようだ。

「ってのは冗談でハンバーグセット。コーヒーはホットでスープはコーンポタージュ。お腹空いてるから早くね」

シンジの好みは知らないが一番目につくメニューを口にした。
お勧めと書いてあるし最も当たり障りのないメニューだ。

「気にしなくていいわよ、あたしが勝手に誘って勝手に奢るんだから」

お冷やをあっと言う間に飲み干しシンジに目を向けるがこれと言った変化はない。
頑ななまでに窓の外から目を離さない。
それが無言の抗議であることは一目でわかる。

「言いたいことは判るんだけどさぁ・・・・・色々難しいこともあるのよ」
「・・・・・判ってないよ、ミサトさん。判るわけ無いじゃないか・・・・・・・」
「かもねぇ。人のことを察するのって限度があるもの」

ミサトの瞳はシンジと同じ景色を映し出した。
当分止みそうにない雨は強かに第三新東京市に打ち付ける。

「人の思ってることなんておいそれと理解できる訳ない、あたしが判るのは表面に現れたほんの少しと其処から推測できるほんのちょっとのことだけよ」

ミサトは自分を万能などとは思っていない。
人の心など判るはずもないし理解できるはずもない。
それでも大事に思っている人が悩んでいれば声を掛けるし何か役に立ちたいと思う。
無力なのは判っていても。

「・・・・・ミサトさんは持て余すこと無いの?NERVのこととか・・・・いろんな事考えてイヤになる事って・・・」

ボソボソッと話しかけたと言うよりただ呟いただけのような感じだ。

シンジ自身今日のことはよく判らなかったのかも知れない。
よく判らないモノの為によく判らず腹を立てた。

「しょっちゅうよ、そんなの。時々さぁ全部放り出してパーーーーーーッって消えちゃいたい時あるもん、んで全部片づいた頃また現れんの。リツコ辺りが木刀もって追っかけてきそうだけど」
「・・・・・・・今日、僕もそう思った。寝てる間に使徒を誰かが倒してくれて・・・・全部終わって・・・・・明日からもうエヴァもNERVもなくなっていつもと同じになって・・・・・・」
「お互い虫が良すぎるわよねぇ、ま、希望ってのはそう言うモンだろうけど」

二人の沈黙を補うかのように店内に流れるBGMは明るめの曲に変わる。
お昼時にもかかわらずこのレストランの中は数組の客がいるだけで意外なほど空いていた。

平日の、しかも雨降りともなればこんなものだろうか。
三名ほどいるブルーの制服を着たウェイトレスも手持ちぶさたになっているようでテーブルを拭いたりお冷やを取り替えながら数少ない客をそれとなく眺めていた。

一組は営業のサラリーマンの先輩後輩だろうか、ファイル片手に何か話し合っている。
出入り口に近い場所には大学生らしいカップルが楽しげにサンドイッチを摘んでいた。
一番奥の席では母親が幼稚園ぐらいの子供の口を拭いている。
さっきまでチョコレートパフェで女の子の口の周りが見事な茶色になっていた。

そんな中、意外に目立っていたのはウィンドウ側の席に座っている一組だ。

親子と言うには女性の年が若すぎる様だし、姉弟と言うには少々離れている。

恋人同士と言うには無理がある。

手持ちぶさたのウェイトレス達にとって、なかなか想像力をかき立てる余地のあるお客だ。
やがて彼等の注文した料理が出来ると必要以上に興味の色を浮かべたウェイトレスが運んできた。

「お待たせしました。チキンソテーセットとベーコンサンドはこちらで宜しいですか?」
「あたしあたし。ハンバーグセットは彼ね、サラダは真ん中に置いてくれる」

ミサトの注文の品は処狭しと並べられる。
セットにもかかわらずスープだのサラダだのを頼むので相当な品数になる。

ウェイトレスの経験から言えば男性でも食べるのに苦労しそうな量だ。

「ほらほら、食べないと冷めちゃうわよ」
「食べたくないよ・・・・・・大体無理矢理連れてきたんじゃないか・・・・・・」
「そ、無理矢理連れてきたんだから大人しく食べて頂戴ねぇ」

ミサトの言葉に理屈など無い。
中学二年生のささやかな抵抗など湯気を立てているハンバーグの香りが簡単に打ち砕いてしまうだろう。
お腹は鳴らなかったものの口の中に唾液がわき出てくる。

「悩むのもいいんだけどさぁ取り敢えず腹ごしらえしないと後辛いわよ。帰ってもお昼ご飯ないと思うしぃ」

ついさっきの喧嘩が彼の頭の中に蘇る。

「・・・・・八つ当たりだったんだ・・・・」
「たまにあるわねぇ、リツコはしょっちゅうだけど・・・・アチッ、まだ熱いから食べちゃいなさいよう」

チキンソテーが半分ほど無くなった頃、ようやくハンバーグにフォークが刺さる。

「・・・・いただきます・・・・・・」
「アン、遠慮しないでね」

これから六時頃の夕飯まで何も食べずに待つのは辛い。
口の中に広がる肉汁を充分味わいながら、それでも早くなりがちになるフォークの動きを自制させていた。

さっきまで食べないと言っていたのに此処でがっついては格好が悪過ぎるとでも思ったのだろう。

結局無言になったままハンバーグとライスを交互に休みなく口に運んだ。









「ごちそうさま」
「・・・・・・さま・・・・・ん・・・・」
「バーカ、無理に合わせなくってもいいわよ。ゆっくり食べれば」
「・・・・・そう」

小さな口を細かく動かしながらお皿に残った生姜焼きを再び箸に取る。
朝はさほど広くないと感じていたテーブルも二人きりだとやけに広く感じられた。

「レイ、お茶飲むでしょ・・・・・・ハイ」

透き通った緑の飲み物が差し出される。
油物を食べた後はすっきりした緑茶が良く合う。
レイは一旦緑茶を啜ると昼食を再開した。

帰って来たら作ってあった生姜焼きとサラダとみそ汁、そして小さなメモ。

『夕飯までには帰ります、温めて食べて下さい』

一応三人前用意してあったがテーブルに並べたときはアスカとレイの分だけになり、空になった一組の皿は流しの中に放り込まれていた。

「帰ってこないんだから残しておくことない!!」

そう宣言をしたアスカがシンジの分を二人で分けてしまったのだ。
普段ならちゃんと取って置くが、生憎と今日のアスカは「普段」ではない。
肉はもとよりキャベツの一欠片だって残しておくつもりはなかった。

そんなわけで二人とも少々多すぎるお昼ご飯を終わらせると、アスカは早速ソファにごろ寝を始めた。

「レイ、後で片づけるから手伝って・・・・・・少し休憩・・・」
「ええ・・・・・」

レイも同じように絨毯に寝転がり大きく息を一つつく。
二人とも暫くは消化に専念しないと動けそうになかった。

TVを付けなければ防音性に優れたこの家の中は時計の音しか聞こえない。

静かすぎる部屋はアスカの頭の中で今日一日の様々な映像を再生させていた。
授業参観の時、三者面談の時。

いずれも何の問題もなかった。
進路相談では葛城先生から「このままなら私立の何処でも推薦する」とお墨付きを貰った。
その事で特に嬉しそうな顔を見せなかったゲンドウだが、それは別に珍しい事じゃない。
ただ無愛想ながら『よく頑張ったな』と一言呟いた。

・・・・・だって頑張ってるモン・・・・・

帰ってきてその事をユイに報告できなかったのは少々残念だが、彼女が帰ってきたらすぐにその事を告げるつもりだ。

「誉められたこと」は何はさておいて、いつも真っ先に報告していた。

自分がそうやって示してきたことをユイもゲンドウも誉めてくれた。
理解して貰えたと思う。

なのに・・・・・・・・・・

『アスカは何も知らない』

シンジの口にした言葉が胸の奥で疼く。

今まで何でもシンジのことは理解していると思っていたのに。
幼いときから一緒に暮らし、いつも側にいて、誰よりも長く同じ時間を共有していたのに。

同じ家の中で共に暮らす少年をいつも解っていると思っていた。
そしてお互い解り合っていると思っていた。

・・・・・あたしが何を知らないって言うのよ・・・・・

一番多くの時間を共有してきたシンジに言われた言葉が、ソファに寝転がっているアスカに重くのし掛かる。
どんなに時間を遡って思い出してもそんなことを言われる覚えはない。

シンジの顔を見なかったことなんて十年間の中で一度もなかったではないか。

・・・・・何であたしに話してくれないのよ!・・・・

関係ない、その一言でアスカの思いは閉ざされてしまった。
まるで今までの時間を無視するかのように冷たい。

・・・・・何であたしに話せないのよ!!・・・・・

抱きしめた枕代わりのクッションがアスカの胸の代わりに押しつぶされていく。

「シンジこそ何も知らない癖に・・・・・・」

この場には居ないはずのシンジの顔が浮かぶ。

「あんたこそ何も知らない癖に!!」

抱きしめたクッションは居ないはずの彼に向かって勢いよく飛んでいく。
雨の音、時計の音だけのリビングにアスカの叫び声とクッションの叩き付けられた音が響きわたった。

再び静寂が舞い降りる。
びっくりしたように大きく見開かれた瞳と共に。

「・・・・・どうしたの?・・・・」

ついさっきまで静けさの中に埋没し、夢と昼下がりの間を行き来していたレイは突然の事に状況を把握しきれないようだ。

心臓が一度ジャンプしたためか表情が強張っている。

「あ・・・・・・・・・ご、ゴメン・・・・何でもない」

見開かれた紅い瞳はキョロキョロと部屋の中の様子を見回していた。
朝と変わらない部屋の様子に安心したように今度はアスカに目を向ける。

ばつの悪そうな彼女がソファの上で身を起こしていた。

「何・・・・怒っているの?」
「別に関係な・・・・・何でもないわ」

一応答えたが納得いかない顔で自分を見つめるレイ。

「さっきも碇君と・・・・・それにお昼ご飯も食べてしまったし・・・・・」
「それは・・・・シンジの奴どうせ外で遊んで来るんだしお昼なんか無駄になっちゃうから・・・」

言い訳に過ぎないのは自分自身良く知っている。
別にそんなにお腹が空いていた訳ではない、ただ関係ないと言い放ったシンジに対する当てこすりだ。

「・・・・・さっき喧嘩をしていたの?」
「・・・・そうよ、長く暮らしてるんだモン、そんなこと一度や二度ぐらいあるわよ」
「でもあたしは一度もないわ・・・・・誰とも喧嘩したことないもの・・・・」

アスカには彼女の紅い瞳が寂しげな色に見えた。

「あたしには何で怒っているのか解らない・・・・・・」
「別にレイのことで怒ってないから気にしなくて良いわよ。それに下らないことだし」
「・・・・・そう・・・・・」

紅い視線が暫しアスカの顔に向けられていたが、彼女が再び寝ころんでしまうと転がっているクッションを手に取った。
それをどうするでもなく、ただ手にしたまま動かない。

動かないが頭の中では感じたことのない不満が渦巻いていた。
それを言葉にするにはまだ形が見えないが、何かが心の中で蠢いたのを感じることが出来る。

・・・・・あたしには何も言わないのね・・・・

伏せ目がちに、何か言いたいような視線で静かにアスカを見つめていた。


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